06- 赤き旗のシャズ
辺境のスラムを含めたこの地域一帯は、領主シャズが治める領地である。
鼻髭を蓄えた若き黒髪の領主は、革新への情熱に溢れ、民からの評判もそう悪くない。彼をよく思わないのは、むしろ、前領主に仕えた一部の保守的な家臣だった。
シャズは気性の激しさから、時に激怒し、君主制を敷いているように見られがちだったが、手元に届いた陳情には目を通したし、身分は卑しくとも知恵のある者を招いて助言を乞う事もあった。
いささか問題なのは、下からの申し入れを、その発起人が市井の臣だろうが、老いた重鎮であろうが、検分するに値しないと判断したが最後、一緒くたにゴミ箱に投げてしまうことである。
西に隣接した領地との緊張が続く今、シャズの心理状態も、切迫した状態にあった。
老齢の家臣達が屑々と、『そろそろ妻を持たれては……』と言い寄るのに対し、
「うるさい! 後にしてくれ」
と一蹴し、渋々引き下がった老臣達は、目配せし合って日を改める、というのが慣例になりつつある。
「まったく、わたしはこうして、日々、民のために仕事をしているというのに。じいやたちときたら――」
文句を漏らしつつ、ペンを手に、机の上の書類の山と格闘する若き領主に、少なからず反感を抱く臣が居たことも、また事実である。
長衣をまとった、背の低い、ずんぐりとした白髪の老人がやって来て、領主の部屋の前で不謹慎にも主への不満を言い合っていた衆を、視線で散らせた。
彼は、ゆっくりとした動作で扉に近づくと、手をいっぱいに上に伸ばして、扉を叩いた。
入室した老人が執務室の机に近づいても、領主は、一心不乱に机に向かって何か書き付けていた。
しかし、シャズが邪険にしないところが、老人への信頼の深さを窺わせた。
「……少し、休まれては。そう一日中、机に向かわれ通しでは、お体に触りますゆえ……」
ペンを走らせながら、領主は器用に会話を続けた。
「しかしだな、ドルガ。この大変な時に、休む訳にはゆかんのだよ」
「大事だからこそ、旦那様に倒れられては、民が困りましょう」
「心配には及ばぬよ。見ての通り、わたしはまだまだ、大丈夫だ」
深くため息を吐く音がして、それから、ドルガは続けた。
「では、せめてご夕食の時間には、遅れずにおいで下され。いいですな、今日こそは、必ず、ですぞ?」
「わかっているよ」
ここ2日は、食事は全て執務室に運ばせているシャズの事だ。相当きつく言い聞かせなくては、約束は守られまい。
シャズの父にあたる前領主にも仕えた顧問魔術師ドルガは、幼少より成長を見守ったシャズの気質を、よく心得ていた。
ドルガは、部屋を出る前に、とどめの一押しにかかった。
「いいですな? 今宵は、イシス様にも同席していただきますからな! では、失礼」
部屋を出て行く老臣の背を見つめ、シャズはやれやれ、と首を振った。
体が弱って、日ごろは、自室で一人寂しく食事を取っている母の名まで出されては、今晩の晩餐に出席しない訳にもいかないだろう。
ひと踏ん張りして、時間までに済ませるか、と、若き領主は、机の書類に目を落として考えた。
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