STAGE 9 Studel 〜渦中〜



 ノーゼ大陸に着いた一行は、最寄の都、シュトルーデルを目指し、西へ移動の最中であった。
「港を出て、今日で4日になりますよね」
「そうだなー。今んとこ、アルドのお陰で、魔物が出ても誰も怪我もしてないし! このまんま行けば、今日中には着くって言ってたよな? 順調、順調っ!」
「ほーら! 浮かれてると、絶対痛い目見るんだから!」
「リーティスの言う通りだ。いくら都が近いからと言って、油断は禁物だよ」
「……そーかもしんないけど。昨日まで降り続いてた雨も止んだし、順調に来てんのは確かだろ?」
「ええ。本当に、今日は、良いお天気になってくれて良かったです」
「なー」
 相槌を打つライアの後ろで、リーティスとアルドの2人が小さくため息を吐いた。このパーティーの危機感は、フェリーナを基準の0とすると、リーティスとアルドが+1、ライアが−2で、素晴らしくも奇跡的に釣り合いが取れる。
「あ……」
 フェリーナと並んで前を歩くライアが、そこで足を止めた。昨日までの雨で水嵩を増した川が横たわっている。こっちでいいんだよな、と確認するようにライアが前方を指差し、アルドが頷いた。
「大丈夫でしょうか……」
 フェリーナが不安そうに呟く。川には、巨木の丸太を縦半分に割った一本の足場と、両岸の杭から伸びた大人の胸くらいの高さのロープが一本、掛かっていた。
「ね、アルド。ここ以外に、渡れるとこってないの?」
 川幅は、3、4メートル。フェリーナのことを思い、リーティスが尋ねた。リーティス自身については、つかまる所が不安定なロープ1本でも、難なく向こうに渡れそうな気がする。
「北か、南か、どちらかにしばらく歩けば、もうちょっとちゃんとした橋も見付かるかもしれないね。――どうする?」
 橋はあるにはあるだろうが、どれだけ歩けば、どんな橋に突き当たるかまでは、アルドでも保障し兼ねるようだ。彼とて、ノーゼ大陸に来たのはこれが初めてである。
 一同はしばし、うーん、と唸った。
「じゃあ俺、渡ってみる!」
「渡ってみるって、ちょっと……!?」
 またもお馴染みお気楽発言か、とリーティスがストップをかけようとした。
「ここが近いのは、確かなんよな?」
「まあね――」
 アルドが答えると、ライアは言った。
「だったら、とりあえず俺が渡ってみて、足場とかロープがぐらつかないのを確認すればいいことだろ? ……へーきだって! 危なそうなら、すぐに引き返す」
「……まあ、誰もライアの心配なんてしてないけど」
「フェリーナ……大丈夫かい?」
「ええ……。足元が揺れなければ、大丈夫だと思います」
「……そうか。もし、不安だったら、僕もサポートするから。――そういうことだ。悪いけどライア、頼んだよ」
「っしゃ! 任せとけっ」
 ライアが、慎重に丸太に足を乗せる。こちら側では、足場がぐらつく気配はなかった。次に、手すりとなるロープを強めに引っ張ってみる。どうやら、ロープのほうも問題はなさそうだ。
 川幅の半分くらいまでは、リーティスはじっと、フェリーナははらはらと、橋を渡る様子を見守っていたが、難なく渡れそうな雰囲気に、ふぅ、と2人が肩の力を抜いた、その時だった。
「っ!?」
「ライア!」
 目を離さなかったアルドが叫び、ライアは、ずるりとスライドした足場にバランスを崩しそうになりながらも、押し流される丸太を蹴って跳躍した。
「っ……」
(こっちの岸は、随分ぬかるんでたんだな――)
 着地して掌と膝とを泥で汚しながら、ライアは冷や汗を拭った。
「ライア! 大丈夫か!?」
「ああ! へーきだ! 問題ない!! けど……」
 ライアが飛び移った方の岸は地面が弱っていたらしく、丸太の一端が水流に押されて、リーティス達のいる側を支点に、流れに対し、丸太は斜めを向いてしまっていた。
 向こう岸の3人が短い話し合いをするのが、ライアからは見えた。
「ライア!」
 相談が終わり、アルドが叫んだ。
「ひとまず、僕らは北上しながら橋を捜す! だから、そっちも、川に沿って向こう向きに歩いていってくれ! 橋があったら、そこで落ち合おう!」
「わかった! りょーかいっ!」
 叫び返すと、ライアは乾き始めた掌の泥を払いながら、北に向かって歩き始めた。

 あれから、ライアの方は岸辺が木々や高い草に覆われて歩き辛くなったので、少し迂回しながら北上を続けていた。橋があれば、当然そこには人が通る道が存在するはずなので、少しくらい川沿いを離れても、道を横切る前に気付くことだろう。
(え……何だ、この、匂い――)
 森林の芳香の中に、何か、微かな違和感が溶け込んでいる。
 気のせいかな、と思って歩くうちに、異臭は、徐々にはっきりと、濃くなっていった。
「っ――」
(気持ち、悪い……)
 生理的嫌悪を催す臭い。
(なんか、ヘンだ……早いとこ、アルド達と合流しないと――!)
 そう思って歩調を強めた矢先、ライアは地面に落ちていたそれを、遂に目にしてしまった。
「っあ……!」
 咽が引き攣って、瞳は、見たくないそれに釘付けになってしまう。
(死ん、でる――!?)
 ライアは、そこから数歩、後退りした。
 騎士の甲冑を身にまとったそれは、明らかに、少し前までは命を持っていたはずのものだ。しかも、目の前のそれだけではなく、周辺には幾つも同じようなものが見えた。
 ライアは、そこから早く去りたいのに、どちらに逃げていいのか、一瞬判らなくなった。
(ひ…と……?)
 自分の足で立つ人影が、一つだけそこにあった。それは、青年と呼べる外見の男で、彼は音も無く振り返り、ライアを見た。
 黒っぽい瞳に中てられた瞬間、ライアは、地面に足がくっついたように動けなくなった。ありとあらゆる体の機能を奪われたように、手も、足も、思考ですら、その場で完全に凍りついた。その癖、汗だけがどっと、全身の毛穴から噴き出す。
 その感情はあまりに強すぎて、ライアは、自分が恐怖していることにすら、その時は気付けなかった。
「…………」
 彼は、じっと黙っていた。片刃の剣を持つ両の手は、どちらも下がったままだが、その状態があまりに自然で、僅かだってそこに隙を見出すことはできない。
(抜かないか。……まあいい)
 剣を抜くか、或いはライアが少しでも動こうとする気配を見せていたなら、次の瞬間、その命運は尽きていたであろう。
 時の感覚すら麻痺して、ライアは相手が目を逸らした瞬間、ひどく長い時の呪縛が急速に解かれたように感じた。
 背を向けられても尚、ライアは威圧感のために動くことができなかった。
(き……消えた――!?)
 次の瞬間、その姿は幻だったようにかき消えていた。
(あ――……)
 急速に、震えが来た。呼吸が乱れて、おかしくなっている。
 ライアは、どうにか気を落ち着かせようと、血臭を極力我慢し、口で大きく息を吸ったり吐いたりした。
「ライアー!?」
 リーティスの声。この近くに、橋があったようだ。
「これは……」
 ただならぬ状況を察知して、アルドが息を飲む。
「見ちゃ、だめ、だ……」
 その後ろから来るフェリーナの姿を認め、ライアは辛うじてそう警告した。アルドが素早く動いて、フェリーナの視界から凄惨な光景を隠した。
「大丈夫?」
 若干青ざめてはいるものの、リーティスは取り乱さずに、ライアの側までやって来て尋ねた。ライアは、震える腕を押さえながら頷いた。
「行こう。――ここは危険だ」
 アルドに促され、ライアが歩き出そうとしたその時、遠くから複数の馬蹄が近づいて来た。
「我らはシュトルーデル騎士団の者也。貴公らにお尋ねする! ここで何が起こったのか知る者はおらぬか!?」
 騎士団の旗印を掲げた彼らは、ライア達に向かって、馬上から声を張った。



 アルドが簡潔かつ明瞭に立場を説明し、ライア達はシュトルーデルまで馬に乗せてもらうことができた。しかし、シュトルーデルに着くとすぐに、ライアは唯一の目撃者として、城の取調べ室に招かれた。
 騎士達を斬殺したのは、ノーゼで特に警戒されている魔族の中でも、黒の疾風と呼ばれる存在が最有力という話だった。かの魔族は、軍の一員として戦闘に参加することは稀で、単独、あるいは少人数の集団における目撃例が多数を占め、黒い服、風のように速く鋭い斬撃、目的を果たした後の迅速な撤退といった特徴が知られている。無論、幾度となく討伐を試みてはいるのだが、現在に至るまで、無念の失敗が続いている。
「うぉっほん! もう一度、聞かせてくれないだろうか。なぜ、君だけはその場にいて無事だったと思う? 何か、心当たりの1つでもあるんじゃないのか」
 かれこれ3度目となる同じ質問に、内心ではうんざりとしながら、ライアはあくまで真摯に答えた。
「いいえ。私は、ただ怖くて……その場に突っ立っていることしか出来ませんでした。そうしたら、いきなり――ふっと、目の前からその人影が消えていたんです。今思えば、本当にその人を見たのかも、正直自信がありません」
 紙とペンを前に、それはさっきも聞いた、と頭を振る聞き取り役の男に、後ろから、少し年輩の男が声をかけた。
「まあまあ、その位にしてやったらどうかね」
「しかし……」
「その子は、とても騎士には見えんよ。黒の疾風が標的とするのは、専ら、腕の立つ騎士や、魔族にとって邪魔な、優秀な戦士や魔法使いばかりと聞く。き奴めは、既に目的を果たしていた。だからそれ以上、その場に留まる理由がなかった、それだけの事とも取れる」
「…………。なら、これで最後にしよう。言いそびれていた事や、今になって思い出した事なんてのが、実はあったりするんだろう?」
 ライアが首を横に振ると、ようやく、解放が許可された。
「よろしい。君は、下がりたまえ」



「つかれた〜」
 女王以下城仕えの者達の気質を反映して非常に大らかな我が家とは違い、妙にぴりぴりした城内の雰囲気も手伝って、街に出た途端、どっと疲れが襲った。外ではフェリーナとアルドが待っていた。
「お疲れ様です」
「おかえり。今日はもう、ゆっくり休むといい。自覚はなくても、精神的にはまだ安定してないってことも考えられるから」
 妙にすかすかした感じに、ライアはその理由に気がついた。いつもなら、ここで棘のある言葉のひとつも飛んで来たはずだ。
「リーティスは? もう、例んとこ行ったのか?」
 リーティスは、上手く交渉が運べばここに滞在するつもりだと話していた。何でも、この都には、セーミズ王宮騎士団と関りの深い人間がいるのだという。リーティスは、本人の弁を信じるならば、非公式とはいえ、セーミズ王宮騎士団の一員に登録されており、名義だけでも騎士ということになるらしい。確かに、それならば、貴族の娘でありながら、そこそこに剣を扱えることにも頷ける。
「はい。先程出ていかれました。滞在許可が下りたら、お知らせしに、一度こちらの方に顔を見せてくれるそうです」
 いくらあのさっぱりしたリーティスでも、旅を共にした仲間が一人抜けている間に、それじゃあ後よろしく伝えといて、じゃあね、とはならなかったようだ。
「ああ、ほら。あそこに見えるのが、リーティスが訪ねていったお屋敷だよ」
 街を歩きながらアルドが指差したその先を見て、ライアは驚くというよりは、呆れた。
(……でけー屋敷……)
 これであと少し、外の装飾が派手だったなら、この都には城が2つあるんじゃないかと誤解してしまう。シュトレーデルは国家ではなく都市だったが、実質、シュトレーデル城を中心とした、小さな国のようなものだった。
「僕も、色々と、この街の人に話を聞いたけどね。あのお屋敷の当主は、代々、変わり者らしい。なんでも、才能のある騎士達を自分の許で育てて、独自の統制を図りながらも、騎士達の平等を徹底していて、その扱いは、家族同然だって聞いた」
「はぁ……よく分かんねぇけど――リーティスの当てって、まさか、その変わり者の当主だってんじゃないだろうな?」
「ええ。確か、当主の奥様が、セーミズの騎士団とご縁のある方だって言われてましたよ?」
 リーティスのことだから、何にせよ、あとは上手くやることだろう。それよりも今は、自分達のこれからを決めなくてはならない。



「…………」
 別れ際、アルド達には、大丈夫大丈夫、と言ってはみたものの、いざ、門から玄関までの長い道を前にすると、さしもリーティスでも、落ち着かない気持ちになった。
「あれ、どしたの?」
 そこへ、大柄な金髪の若者がやって来て声をかけた。体格に反して、きらきらと輝く瞳だけが、やけに子供っぽい。それでも、リーティスよりは少し上だろう。年齢からして、彼が当主とは考えにくかった。恐らくは、この屋敷に住まう騎士のひとりだ。
「あの、私――」
 リーティスが、ノーゼの言葉で、と言ってもセーミズでも上流階級、特に男子の間では普及している言語で言いかけた時、また別の若者が現れた。
「おーいっ! ……あれ? なんだカント、その子、知り合い?」
 彼もまた、カントと呼ばれた若者と同じく長身で、シュトルーデルではごく一般的な金髪だった。問われた側の若者がふるふると首を振り、二人の注目は、自然とリーティスに集まった。見上げるほどの身長差の二人に、リーティスは大きく息を吸い、背筋を伸ばしながら、自分がセーミズの騎士であること、そして夫人と話がしたいという用件を、手短に伝えた。
 リーティスを、てっきり何かの使いで来た街の娘と思っていた彼らは、目をぱちくりさせ、互いに顔を見合わせた。

 多忙な当主は、予約無しでいきなり会うことは難しいとの話だったが、夫人のほうは、話を聞くと、すぐにリーティスと会うことを了承した。彼女は、先代のセーミズ国王の庶子――つまり、現王、カシール=ファイ=セーミズの、腹違いの姉にあたる。若かりし頃の当主がセーミズを訪れた際、縁談が持ち上がり、本当に海を渡って遥々嫁いできてしまったという、変わり者でもあった。
「よくまあ、遠いところをおいで下さいました。――座ったままで失礼しますわね。わたくしも歳で、近頃は思ったように体が動きませんの」
 きっちり着込んだドレス姿も板についた夫人は、そう言って、暖かくリーティスを迎えた。エストが攻め込まれているこの時期に、本来、自分だけノーゼに避難するなど言語道断、騎士として恥じるべき行為であったが、リーティスの場合、仲間との合流も望めず、たった一人で立ち向かったところで、状況は変わらないという事情があった。それを心得ていた夫人は、リーティスを咎めたりしなかった。それどころか、よく命を無駄にせずにここまで来たと、労りの言葉すら投げかけた。
「わたくしは、貴女をここに置いてあげたいと思います。ですがまず、この屋敷の主たる、わたくしの夫に相談しなくては」
 かくして、リーティスは夫人の手引きで、その日のうちに、当主その人と引き合わされることになった。

 当主と対面したリーティスは、その静かな威厳と重圧にたじろいだ。白髪の率が増え始めた黒髪の主は、今なお、衰えない剣気のようなものを感じさせた。若かりし時分には、自ら剣を手に、騎士達を率いて戦場を駆けていたものと見える。
 この屋敷の騎士は特殊な位置づけにあり、シュトルーデル城の王ではなく、あくまで当主を長とし、国王からは、依頼という形で、魔族や魔物の討伐に駆り出されることがあった。
 リーティスは意を決して、正面から領主の目を見て経緯を説明した。夫人からおおよその話は通っていたようで、ほとんどの内容には、当主は重々しく頷くばかりであった。
 本当にここに置いてもらえるのだろうか、というリーティスの不安は、当主を前にして更に大きくなっていた。しかし当主は、リーティスの滞在を許可した。
「ただし」
 ほっとしかけたところへ、当主は言った。
「そなたには、選んでもらわねばならぬ。盟友として、セーミズの騎士であるそなたを客分として保護することは、一向に構わぬ。だがしかし、保護という以上は、治安上の観点から、自由を制限させてもらわねばならん。具体的には、この屋敷からの出入りの規制だ。今のシュトレーデルは、決して治安が良いとは言えぬ。わたしの屋敷から一歩も出ぬというなら、わたしと、わたしの騎士達が、そなたの安全を保障しよう。だが、それを嫌うというならば――なれば、騎士として、この屋敷の一員に加わる道が残されておる」
 リーティスにその覚悟があるのなら、騎士として一時その身を預かり、セーミズに戻れるまでは、屋敷の騎士達と対等に扱うことも可能である、と、そういう話だった。後者を選べば、門限までは街や外に出られるが、同時に、騎士としての日課も課せられる。前者を選んだとしても、敷地の外に出られないだけで、保護してもらう事が目的なら、過酷な訓練に耐えてまで、自由を得る必要は無いように思えた。
 静かな威厳を放つ当主を前に、リーティスはごくりと唾を飲んだ。



「はよーっす!」
「おはよっさん」
「おーおー、がんばってるね〜」
 早朝の自主練を終えて戻って来たラッツ、フラット、カントが、初日から水汲みの当番になっていたリーティスに声をかけた。
「あ、なんかまだ眠そ」
「大丈夫〜?」
 それは冷やかしにも聞こえたが、当主がリーティスを屋敷の騎士として仮認定した以上、彼らもけなすような真似はしなかった。
「手伝ってあげたいけど……」
「ファーザーの言いつけだしな」
 そう言って、彼らは顔を見合わせた。助け合いは必要だが、与えられた仕事やノルマを故無く放棄することは許されない。それが、当主の信条であった。
「大丈夫です。これくらい」
「あ、そう。ならおれ達、先戻ってっから」
 水の入った重たい桶を持ち上げるリーティスを遠目に、彼らはぼそぼそと囁きあった。
「……本当に大変なのは、これからだしな……」
 試験期間を設け、その間リーティスが音をあげないことが必要最低条件で、3日後に、正式に『兄弟』として認めるか否かを当主が判定することになっていた。『兄弟』達は皆、そうやってこの屋敷の騎士となったのだが、中には脱落した者もいる。
「あの子が今日の夕食までに、挫けていないことを祈るだけだな」
初日を乗り越えられるか否か、それが、この屋敷に残れる者と残れない者の分かれ目と言われていた。

 リーティスは結局、騎士として滞在する道を選んだが、それは一概に、リーティスの性格故であった。
 特殊な事情を抱えているにしろ、まさか女の子が『兄弟』の仲間入りをしようというのには、当の『兄弟』達も驚いた。中には、純粋にリーティスのことを案じて反対する者も出たが、『ファーザー』の決定は、覆されることはなかった。
 この屋敷には、騎士達の平等を徹底する為の変わった仕来りがあり、入門した者は、騎士として認められたその日から、この屋敷の子となる。現在、当主には11人の『息子』達がおり、彼らは、当主のことを『ファーザー』と呼んでいた。
 そしてまた、絶対に破ってはならない決まりがある。それは、誰もが、自分の出自や、この屋敷に来た正確な時期を明かしてはならないということだった。自分が来る以前から誰がいた、というのも禁句で、中に当主の実子がいたとしても、当人以外は知り得ない仕組みだった。不義の子も含め、全員が当主の息子だという噂も、また、夫人との間に子が出来ず、全員が養子だという噂もあったが、いずれも推量の域を出ない。
 今日のところ、その制度は上手く機能していて、多少の相性はあるものの、『兄弟』達は、それなりに上手くやっている。諍いはあっても、双方の身分が原因になることだけは絶対になかった。



 普段は息子達でも許可無く近づくことを禁じられている当主の私室に、当主と、一人の青年がいた。
「……どうだ?」
 当主の問い掛けに、青年は窓越しの真昼の光を瞳に反射させながら応えた。
「午前中のところは、周りの助けもあって、どうにか越えられたようです。ですが――午後になっても泣き出さずにいるかは、正直、保証し兼ねますね」
「……良い。引き続き、様子を見て、わたしのとこに報告に来なさい」
「御意」



「いたっ!」
 普段なら、木の根につまずくようなことは先ずないリーティスでも、疲労で、思ったように足が上がらなくなっていた。服の下で、膝にうっすらと血が滲む。
「お……お先っ!」
 助けることは、リーティスの試験を邪魔することにもなるので、手を差し伸べられず、すまなそうに、ベルンがリーティスを追い抜いていった。
 午後は、滅多に魔物は出ない近くの山で、各ポイントごとに設定されたメニューをこなしながら、時間内に全てのポイントを回るという、いわば体力作りの訓練だった。ノルマは、各個人の体力に合わせ、5周ないし4周と定められており、リーティスの場合は新人で女の子なので2周と決められたが、それでも、先程のように、3週目・4周目に入っている者に軽々と追い越されてしまうのだった。
 負けず嫌いのリーティスは、きっ、と前を睨んで立ち上がった。自分から保護の申し出を蹴った手前、諦めたくはなかった。
「……馬鹿だな」
 見ると、側の木に片手を付いて立っている若者がいた。名前は覚えていないが、確かに、屋敷で顔を見た覚えがある。
「客分として、素直に保護されていれば良いものを……」
 それだけ言い残すと、彼はふいと背を向け、あっと言う間にリーティスを追い抜かしていった。
 呆気にとられていたリーティスは、すぐに、沸きあがってきた怒りで顔を赤くして、だるい足で再び駆け出した。

 ゴールしたのはリーティスが最後で、それでも、日が暮れるまでには間に合った。各自武器の修練や用事がある者は、リーティスを待たずに、既に次の行動に移っている。
「お疲れ様です」
 最後になったペナルティの腕立てをこなし、足を投げ出してへたり込んでいたリーティスに水を差し出したのは、この屋敷では一番小柄で歳も若い少年だった。
「がんばって下さいね。――僕も、本格的に訓練に参加し始めた当初は、大変でしたから」
 苦笑する少年に流される形でリーティスが頷くと、彼は続けた。
「僕なんかですね、昔、体が弱くって。でも、今なんて、腕立て150回なんて、何でもなくなっちゃいましたよ、あはは」
「は、はぁ……」
 後から聞いた話、彼、フェルブールは、素行が控えめで品が良く、当主の実子ではないかと目されているそうだが、リーティスや、多くの『兄弟』達にとって、それは暇つぶしの話題でしかなかった。寧ろ、誰が当主の子か血眼になって探ろうとしているのは、普段人前ではそんな気配を微塵も見せず、慎ましやかに控えている、住み込みで働く侍女達だった。
 疲れきっていたリーティスは、夕食も、普段の半分くらいしか食べる気にならなかった。軽く汗だけは流し、割り振られた個室に戻ると、そのままぱったりと眠りに落ちた。
 しかし、初日はまだ平和であったと、リーティスは後に思い知る。



「どうだ? ここの生活、けっこー厳しいだろ?」
「そーそ。ファーザーの言いつけぜぇんぶ守ってるようじゃ、体もたないって」
 リーティスに声をかけたのは、ミハエルに連れられてやって来た、ラーベールとミルトンだった。
「まあ……適当に怠けるコツってのがあるからな」
 そう言った黒髪の青年が、ミハエル。自信家で少し皮肉屋っぽいリーダー格の彼は、フェルブールと並んで当主の子ではないかと侍女達に噂される筆頭だった。
「なんだったらー、俺らが助けてやってもいいけど?」
 ラッツの申し出に、リーティスはふんと一瞥しただけだった。
「結構です」
 すたすた行ってしまったリーティスに、取り巻き達は呆れてぶつくさ文句を洩らした。
「なんだよ、あれ……」
「おいおい。どこのお嬢さんだ? ありゃあ……」
「ヒュゥ♪」
 ミハエルだけが、愉しそうに口笛を鳴らした。

 ミハエルは、どこか不良のリーダーといった印象で、リーティスは彼を信用してはいなかった。
 因みにリーティスは知り得ぬ話だが、ミハエルは何度か屋敷の門限を破っており、一度は朝になっても戻らず、娼館に泊まっていたのが発覚して、当主に罰せられたという話もある。
 自由時間に騎士達が外で何をしているかまでは、当主も、そこまで厳しく言ってはいない。当主にとって、問題とは、あくまで無断で刻限を破ったところにあった。



 いかにノルマが周りの半分と言えど、その日の訓練も、リーティスにとっては厳しいものだった。だが、訓練のしんどさや、筋肉痛以上の問題が、ここに来て発生した。

 夜、リーティスが自分の部屋に戻ってみると、屋敷にいる3人の侍女のうち1人が、青ざめた表情でかたかたと震えていた。
「あ――」
 リーティスが戻ったことに気付くと、侍女は、瞳を潤ませ、その場に崩れ落ちるようにリーティスに懇願した。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
 何事かと見回して、リーティスは、ベッドの上に花瓶の水がぶちまけられていたのに気が付いた。今朝までは、そこに花瓶などなかった。
「お花を飾ろうとしただけなんです! そうしたら、つい、手が滑ってしまって――……」
 この事はどうか、奥方様や当主様には内密にして下さいませ、追い出されてしまいます、と、可哀想なほどに縮こまって言うものだから、リーティスも、今日のところは黙って侍女を帰してやることにした。
 それからすぐのこと、リーティスは荷物を探ろうとして、中から飛び出して来た蛙にのけぞった。
 まずは冷静に蛙をつまみ出し、それから慎重に持ち物をひとつひとつ取り出して、他に異常がないことを確かめてから、リーティスはほっと息をついた。
(まさか、さっきの……ううん、いきなり人を疑うのは良くないよね。私が訓練に出ている間なら、誰だって、この部屋に入れたんだし――)
 誰かは知らないが、いたずらの犯人に腹を立てながら、リーティスは、襲って来た眠気に、昼間の訓練の疲れを思い出し、それから、ベッドがまだ乾いていないことを思い出して、やむなく床に座って眠ることにした。
(さむ……)
 水害を逃れた予備の毛布だけでは眠れず、リーティスは外用の上着を引っぱり出し、それを着た上で毛布にくるまり、壁に背をもたれながら瞼を閉じた。

 ちまちまと嫌がらせが続くようになったのは、それからだった。
 嫌がらせは極力無視し、何かにつけて声をかけてくるミハエル達をスルーしながら、リーティスは3日間を乗り切り、正式に『兄弟』の仲間入りを果たした。
「おめでとう!」
「あっはは〜、正直、本当に君みたいな子が、兄弟に加わるとは思っていなかったけどね。うん。でもよくがんばったよ」
 オルトもミルトンも、そう言って口々にリーティスを褒めた。フェルブールは、この騒がしい酒宴の席にあっても、いつもと変わらず丁寧だった。
「おめでとうございます。これからも、よろしくお願いしますね」
「よっ! これで、今日から正式に俺達の妹ってことか。よろしくな〜!!」
「おいラッツ。お前、精神年齢じゃ絶対リーティスちゃんに負けてるぞ? 姉の間違いじゃないのか?」
「えー!? フラットそれ酷っ!」
「リーティス、その……お……お兄ちゃん、て呼んでくれても構わんぞ?」
「ぶわははは!! お前、もぉー酔ってんのか? ベルンッ!」
「なんにせよ、俺達の新しい兄弟を歓迎しようじゃないか!!」
 ミハエルが音頭を取り、歓声と祝福の声の中、乾杯の杯が交わされた。当主と夫人、それに侍女達は全員退出した後で、堅苦さは微塵もない。
 皆、心からリーティスを歓迎してくれている雰囲気だったので、さりげなく嫌がらせの犯人を突き止めようとしていたリーティスも、訊くのを諦めた。
 陽気な酒の席で、ひとつ気にかかった事と言えば、ずっとテーブルの端の方に座っていた青年のことくらいか。
 彼には見覚えがあった。頭ごなしに馬鹿と罵られては、リーティスに忘れられたはずがない。
 ミハエルと酒の回ったラーベールが一度声をかけに行ったが、彼は酒をすすりながら振り払うような仕草を返すのみであった。そのしけた対応に、たちまち喧嘩腰となったラーベールを制止しながら、ミハエルも断念して、元の輪に戻っていった。
 帰って来て頭を振ったミハエルと、それに対する他の兄弟達の反応を見る限り、彼は普段からそんな風なのだろうと覗えた。
 怒り冷めやらずといったラーベールを、両脇の二人が宥めている様子をちらちら気にしていたリーティスに、たまたま隣に座っていたリシアが、取り繕うように言った。
「あいつ、もう名前は知ってる? ヨーゼフっつってさ。人付き合いが悪いっつぅか――まあ、日頃からあの調子なのさ。あまり気にはしなさんな」



 寝坊して朝食に遅刻しそうになって部屋を出るなり、バケツに足を突っ込んで、誰よこんなとこ置いたの見つけたらただじゃ置かないんだから!と罵りつつ駆け出したリーティスは、その日が休養日だったことを思い出して、急速に歩調を落とした。
(そーよ、私……うっかりしすぎ。でも、朝弱いのは本気でどうにかしなきゃ。これがもし、水汲み担当の日とかだったら――)
 他人に迷惑をかけないのが、集団生活の基本である。しかし、訓練は気合いで乗り越えられても、こればかりは、気合いだけでは不十分なようだった。
(休日かぁ……何しよっかな?)
 ぼやきながらも、既に内心では計画を立て始めていた。
 今日こそ、あの陰湿ないたずらの犯人を突き止めてやろう。リーティスはそう心に誓った。

 忙しく書斎に引きこもって書類と格闘するか、さもなくば訪問者と会っている時間が大半の当主と、足腰の弱った夫人は、真っ先に候補から除外した。そもそも、リーティスを苛める理由が見当たらない。
 余談だが、どんなに仕事が忙しくとも、当主は、全員が顔を付き合わせる朝晩の食事の時間だけは、何にも優先して確保するよう心がけていた。厳しい監督者であり、騎士としての上官であると共に、彼は、父であることも忘れはしなかった。
 当主と夫人を除くと、屋敷にいるのは11人の『兄弟』と、3人の侍女達である。最悪、その全員が結託していると考えられなくはなかったが、フェルブールやカントなど、リーティスに良くしてくれる兄弟も多い。味方は必ずいると信じて、リーティスは、まず、それとなく話を聞いて回ることから始めた。
 いきなり問い質すのはあからさますぎると思い、リーティスは、誰と話す時も、新入りらしく当たり障りのない話から入るようにした。しかし実際、そのまま世間話で終わってしまうことが殆どで、相手の人柄をつかむのが限度というところだった。
 そんな会話の中で、意外にも多く出た名が、ヨーゼフだった。

 屋敷で働く侍女(22)の証言――
「ヨーゼフ様って、顔と背だけなら文句ないけど……そうね、やっぱり、玉の輿狙うなら、断然、フェルブール様か、ミハエル様よ」

 自称・『美の使者』ミルトンの証言――
「ああ、ヨーゼフねー……がたいだけなら流石に騎士っぽいけど、どういう訳か、訓練で見ない事もあって、顔は綺麗だし、おまけに趣味は読書って。女の子みたい、って、みんな言っているよ?」

 密かなマイブームは子犬のグッズ集め、小動物を愛してやまないマッスルマン、オルトの証言――
「ファーザーに呼ばれる時は、秘密厳守のために、呼ばれた奴以外、絶対に部屋に近づいちゃいけないのが鉄則だ。けど、あいつだけは例外というか、特別なんだよ。話を盗み聞きする奴がいないか、部屋の外で張ってる番人の役を仰せつかっているのさヨーゼフは」

 輝く汗と白い歯こそ若さと信じ、日々その道を探求する爽やか青年、カントの証言――
「さあね? なんでかは、俺も知らないけど……ほら、多分、騎士としてはどうしようもなかったんじゃないか? だから、ファーザーが慈悲で、秘書みたいなことやらせて、ここに置いてやってるって話だけど」

 昔酔った勢いで授かった『宴会男』の称号を返上したい、知的な騎士を自負するリシアさんの証言――
「ん? 何かな、もしかして、誰がファーザーの子かなんて、探ってたりする? フェルブールがそうだとか、ミハエルがそうだとか、ラッツとヨーゼフは違いそうなんて、色々と妙な噂が立っているみたいだけれど――……ファーザーに言わせるなら、全員が息子――ああ、もちろん、君(娘)も含めてね――正解は、それしかありえないのさ」

(…………。今んとこ、話を聞いた人の中に、悪い人はいないように見えるけど……)
 リーティスが午前中に接触したのは、まだ屋敷の人口の半分にも満たない。
 一方でリーティスは、ミハエルのことは容疑者から外した。姑息な手段を好む人間ではなさそうだと、何となく判ったからである。日頃、子分を引き連れるようなことはしても、挑む時は、寧ろリーダーとして正面から来るに違いない。
「ん。悪いな、取り込み中だ。今日は、仕事でな。残念だが、相手はしてやれない」
 言いながら、頬にキスしようと背をかがめたミハエルから身を離して、リーティスは、言動こそふざけていても、ミハエルが今まで見たことのないような真面目な顔つきをしていることに気が付いた。
 その横顔は、リーティスが思わず見とれそうになって慌てたくらい、精悍で、誠意すら感じさせた。これならば、もしミハエルが当主の実の子だと言われたなら、リーティスでも素直に納得してしまうだろう。
 屋敷では休養日と言えど、当主のところに依頼が舞い込んだからには、仕事に出なくてはならない。今回の依頼であるドラゴン系の魔物退治の加勢には、フラットとミハエルの2人が適任だと、当主が直々に抜擢した。
 ミハエルがいやに真面目ぶった顔つきでいるのは、どうやら、仕事用、ということらしい。
「それじゃ、行ってくる」
 驚くほど様になる騎士の正装を着込んだミハエルは、出掛けにひとつ、投げキッスをして、フラットと共に屋敷を出た。
 リーティスは、別人を見ていたように、しばしぼーっと立ち尽くし、それからはっと我に返って、急いで夫人の作った昼食を食べに行き、犯人捜しを再開した。

(うわ。居たっ……!)
 廊下の向こうに見えた影に、リーティスは会いたくない人物に出会ってしまった感をもろに顔に出した。
 体格はそれなりにがっしりとした、背もそれなりに高めの青年。彼は、リーティスにも読めない言語で書かれたタイトルの小さな本を片手に読みながら、廊下を向こうから歩いて来るところだった。
 リーティスが、声をかけずにただ横を通り過ぎるのをじっと待っていると、リーティス自身、意識せずつい睨んでいたらしく、彼は、すれ違う間際に足を止めた。
「――何か、用か」
 突き刺すように冷徹なもの言いに、今までのことも重なって、リーティスはカッとなった勢いに任せて言った。
「今まで散々いたずらを仕掛けてくれたのって、ひょっとして、貴方!?」
 するとヨーゼフは、少なくとも普通の人ならまず女性には向けないであろう、剥き出しのきつい視線を、リーティスにぶつけた。これには、リーティスも思わず息を飲んでたじろいだ。
「……人を、勝手に疑わないでもらおうか」
 それだけ言うと、不機嫌な顔つきのまま、ヨーゼフは再び洋書に目を落とし、来た方向とは逆側に歩き去って行った。
 唖然としていたリーティスは、一瞬相手を恐いとすら思ってしまった自分への苛立ちを含め、心の中で思い切り叫んだ。
(何よあれ!! サイッテー!!)
 そしてまた、嫌い = 犯人 の図式が成り立たないと知りつつも、リーティスの中でのヨーゼフへの不審は、ぐんと票を伸ばしたのであった。

 その夜、犯人は判らず仕舞いのまま、疲れてベッドに仰向けに倒れ込んだリーティスの顔目掛けて、梁から濡れ雑巾が降って来た。
「ぶっ!! もぉ〜……何なのよっ!! 私に文句があるなら、正々堂々出て来なさいってのこの馬鹿ぁ!!」

 その頃。
「なあ、このところさ……」
「ああ……多分、そうだろうな……」
「タチ悪ぃよな……」
「けどさぁ、僕たちじゃどうにも……」
「だよな……下手にファーザーの耳に入れて、それが知れたら、ことによっちゃ、もっと酷いことになるかも……」
「……のことは、可哀相だけど……」
 新しく入ってきた兄弟の身に降りかかった災難に、彼らは薄々勘付きながらも、なかなか良い救済策が浮かばず、ラッツは腕を組んだまま眉間に皺を寄せ、ベルンは深くため息をつき、ミルトンは肩を竦めて首を振った。

「……何だって? もっぺん言ってみろ」
 仕事明けで朝方戻って来たミハエルは、うっかり口を滑らせた取り巻きの1人を問い詰めているところだった。
「いや、ですからね、その、ははは……」
「笑って済む問題か!」
 罵倒され、ミルトンは、渋々口を割るはめになった。



 数日が経ち、その日は、当主を含め騎士達のほとんどが出払う事になった。何でも王から勅命が下るというので、彼らは揃って正装で城に出かけて行った。
 正式に兄弟に認められてはいるものの、滞在期間も不確かで、宙ぶらりんな立場のリーティスは、夫人と共に屋敷に残された。
 夫人は、たまに自ら台所に立つ時や、全員が集まる夕食の場以外では、ほとんど自室から出て来ない。そのため、部屋から離れたところで多少の騒ぎがあったとしても、なかなか気付きにくいという事情がある。
 3人の侍女は、リーティスを取り囲むように立っていた。
「ちょっとあんた、生意気なのよ。女の子だからって簡っ単に兄弟に加えられちゃってさ。いい気にならないでよね」
「別に、いい気になんて……」
 瞬間、別の方向から降ってきたモップの柄を、リーティスは紙一重でかわした。
 向こうは、どうやらやる気だ――そう確信して、リーティスも本気の体勢に切り替えた。
「いい機会だから教えてあげる。ここは、あんたみたいなコがでしゃばっていい場所じゃないのよ!」
 モップを持った1人の、やりなさい!というかけ声で、手に何も持たない2人もいっぺんにつかみかかってきた。
 勝敗は最初から見えていた。相手は3人。しかも、とてもじゃないが、魔物を相手に戦ったことなどない女性ばかりだ。下手に反撃して傷つける訳にもいかず、リーティスは最低限の抵抗を試みながらも、服をつかまれ、ひっかかれ、髪を引っ張られたりした。
「ふん! 次代の当主様に気軽に近づくからこうなるのよ」
「行きましょ」
 髪はぐしゃぐしゃに乱され、座り込んだまま、リーティスは唇を噛んでじっと床を睨みつけていた。
 と、不意に、柱の影に潜んでいたエメラルドの瞳と目が合った。気配からして今現れたというようには見えないが、退散してしまった侍女達は、その存在に気付いていない。
 無様な姿を晒しながら、リーティスはあらん限りの睨みを効かせ、ゆっくりと立ち上がって、血の滲む二の腕の爪痕を押さえながら、部屋へと引き返した。
 リーティスは、泣かなかった。何がなんでも、あの前でだけは泣くもんか、と、最後まで意地を貫いた。そして、一部始終を見ていた柱の裏の影もまた、いつの間にかそこから屋敷のどこかへ移動していた。

 そろそろ長袖の季節で、髪は整え直しておいたので、帰って来た当主と兄弟達に、留守中の事は悟られなかった。手を下した当人達も、彼らの前ではすっかり元の従順で畏まった調子である。
「何のお話でしたか?」
 夕食の席で、何も知らない夫人が尋ねると、当主は重々しく口を開いた。
「ついに、本格的に黒の疾風の討伐に乗り出すらしい。その時は我らも、結束して力を尽くすように、と」
「まあ……」
 近頃、周辺で城の騎士6人の死亡が確認されたばかりだ。息子達の無事を願って、夫人は胸の前で祈りの印を切った。
 当主はその後で、本心では、黒の疾風よりも先に仕留めたい相手がいることを洩らした。銀髪の魔女――巷ではそう呼ばれており、ここしばらくは鳴りを潜めているものの、人々の恐怖の対象のひとつだった。昔、小さな集落を丸ごと氷付けにしたという、怖ろしい噂もある。
 シュトレーデル城の王は、魔族という重圧に少々精神を病んでおり、最近では、銀髪の魔女の疑いをかけられ、多くの娘達が次々と牢屋に送り込まれている始末だった。彼女達の解放のためにも、当主はまず、本物の銀髪の魔女を討ち取りたいと考えていた。
「け、けど、噂ではすごい美人だって聞くぞ?」
「うっへぇ。お前、そーんなに氷の彫像にされたいのかぁ? ベルン」
「そうそう、ラッツの言う通り。やめときなよ。所詮、そんなの男達の幻想さ――僕より美しいなんて、あるはずがないね」
「僕、本当は銀髪じゃなくて白髪で、赤くて血走った目をした老婆だって聞きました!」
「ああ、俺もそれ、聞いたことあるな。……ほらベルン、そう気を落としなさんなって」
 ふと、ラッツ達が盛り上がっているのとは別の話題で、カントが隣のフラットに囁いた。
「そういや、ヨーゼフの奴、しっかり留守を守っててくれたんだろうな?」
 息を詰めたリーティスは、食事の手が不自然に止まったのを気付かれないよう祈った。
「ぶっちゃけ、護衛になりそにないのを護衛に置いとくって、問題有りだよなー」
「いやいや、今度から、頼りになる俺らの妹がいるから、留守も任せて安心てな!」

 今日はあまり食欲がないと断って、リーティスは、逃げ出すように早々にその場から退出した。
 部屋に帰ると、窓は全開で、秋風にさらされたシーツはしっとりと湿り気を帯びており、もはや、当主に言いつけるのも馬鹿らしくなったリーティスだった。
 その夜、夫人は珍しく蜀台を手に、自分の部屋の周りだけでも見回りを、と、ごくゆっくりとした歩調で廊下を歩いていた。そこで思いがけず、廊下の隅で膝を抱えるリーティスを見つけ、夫人は黙って手を差し伸べると、暖炉の焚かれた自分の部屋に連れて行き、この屋敷の末っ子を、そこにひと晩泊めてやった。



「ふざけんな!!」
 もし、侍女の誰かがここにいたなら、きっと真っ青になって震え出したに違いない。それだけの怒鳴り声だった。
「てめぇ……どうして、見てて助けなかった!?」
「助けてと、言わなかった」
 返答はあくまで簡潔で、冷めていた。
「こ――の……! ならお前、お願いされれば助けるのか? だったらこれは、俺からのお・願・いだ。次見たら、必ず助けろ!! ――俺が直接出られりゃいいが、今回ばかりは、俺が関るほど逆効果らしいからな――?」
「……どうかな?」
 引き受けるかどうかは分からない、そんな意味での嘲笑。
「何ィ……?」
「僕達『兄弟』は対等だ。命令する権利も、される権利もないんじゃなかったか」
「ふざけっ――もういい! 言っておきたかった事なら、他にも山程ある……お前に決闘を申し込む。次の『例の日』0時、場所は……」
「受けよう」
「逃げんなよ?」



 それからのリーティスは、いっそ開き直って、訓練では元気がないどころか、張り切っているようにすら見えた。
「……あれ? 今日のラストって――」
 ノルマを終えて休んでいたリーティスを見て、ラーベールが辺りを見回した。
「ぜぇ、はぁ……あははっ、負けちゃいましたー。今日は、僕が追加メニューですねー」
 そこに、フェルブールが追いついてきた。リーティスは2セット、フェルブールは3セットというハンデはあるが、今日は、リーティスのほうが早く終了した。
「おお、やるねぇ。フェルブールも、お疲れさん」
「はい。じゃあ僕、追加のダッシュ5本行ってきます!」
「すごいじゃん」
 カントも、ミハエルも、素直にリーティスの頑張りを認めていた。

 侍女達の嫌がらせは徹底的に無視する方針に決めたので、残る問題は朝の弱さくらいであった。
「どうしても朝が駄目というのなら、これを飲んでおくといい。体の機能を整える作用のある薬だ。これで朝、少しはすっきり起きられるだろう」
 声をかけた者の意外さに、リーティスは思い切りその真意を疑った。
 薬を渡すと彼はさっさと行ってしまったので、受け取ってしまった小瓶を突き返す機も逃し、リーティスは心中で存分に反発した。
(い……今更親切ぶったって!)
 意外と言えば、ここに来てまた、少し意外な発見があった。
 昼下がり、誰も居ない広間で、鍵盤に視線を落としながら立っていた青年は、ミハエルに違いなかった。
「……弾けるの?」
 ミハエルへの警戒心も薄れつつあったリーティスは、近づいてそっと尋ねてみた。ちらりとだけ視線を寄越したミハエルは、意外か?とニヤリとした。
「ファーザーのご趣味さ。けど、揃いもそろって、趣だの情緒だのとは無縁な野郎ばっかだからな、ここは。まともに弾けんのは、俺くらいか」
 そうして、ミハエルは楽しそうに忍び笑いを洩らした。
「ああ見えて、フェルブールの奴、実は音痴だったりするし、いいっくら繊細そうな顔してたって、ヨーゼフなんて、あいつ、全部親指なんじゃねーのって弾きかたしかできないんだぜ?」
「はぁ……」
「……聴きたいか?」
 思わせぶりな視線を振っておいて、ミハエルは言った。
「でも、今は気分じゃないから、またな。その時は、一曲貴献上致しましょう、レディ」

 また別の日、いつかすれ違った廊下で、またヨーゼフを見かけた。
「――………………♪、………………………………――」
 窓辺に片手を置き、もう一方の手で頭を支え、肘を付きながら、ヨーゼフは小声で歌詞を呟いていた。
「――…………♪、……………♪、・………………――」
 似つかわしくない、とても軽快で明るい旋律。ミハエルの話では、ピアノは全く弾けないそうだが、声の方は悪くはない。
 きょとんと立ち止まり、それからふんと気合いを入れて後ろを通り過ぎようとしたリーティスは、やっぱり気になって足を止めた。
「それ、何語?」
「…………」
 ヨーゼフは、遠くに目をやったまま、答えなかった。
(やっぱ、こいつ嫌い!!)



 その日は、晩餐での飲酒が許される、月に一度のその日だった。リーティスが兄弟に迎えられた時は例外であって、本来、定められた日以外に、酒を食卓に持ち込むことは禁じられ、酒豪と噂の当主自らも、日頃は酒を断っていた。
 剣豪には酒好きが多いというその真偽はさておき、この屋敷の者達は皆、酒を好む。だから、水面下での張り詰めた空気に気付く者はいなかった。
 混ぜ物をしてあった酒で彼らが眠りに着いた頃、二つの影が、ばらばらに屋敷を出た。そんな中、一室だけ灯りが灯り、部屋の主たる人物の影を映していた。

「――来たか」
 先に待っていた当主ゆずりの黒髪の騎士は、後から来た槍使いの騎士に向かって言った。
 深い緑と、エメラルドの瞳が、夜半の闇の中、殺気を含んで交錯する。



 真夜中近くになって、リーティスは突然目を覚ました。食事の途中で眠気に襲われ、ひと足先に部屋に引っ込んでから、そのまま眠ってしまっていたようだ。
 奇妙な静けさに誘われて、酒宴も流石にお開きだろうと思いながら、リーティスは、抜き足差し足、部屋を抜け出した。
(うそぉ……?)
 食事を取る大部屋に足を踏み入れて、リーティスは目を疑った。兄弟の中では一番控え目で素行の良いフェルブールまでもが、部屋に戻らず、その場で眠りこけていたのだ。
 起こすのも悪いと思い、リーティスは、足音を立てずに大部屋を出た。
 ふと、リーティスは、ファーザーの部屋だけは灯りが消えていない事に気がついた。ピンと来たものがあったとすれば、多分、その時だ。真夜中に急に目が覚めたことも、何かしら特別なことのように思えてくる。
 リーティスは迷った。このまま帰ろうか、それとも、少し危険な、門限破りの探検に出てみるか。
(え〜い、やっちゃえ! なんか、ここら辺がザワザワする……)



 リーティスが、真夜中の森で目にしたもの。それは、傷付いたミハエルの姿だった。
(……!)
 慌てて駆け寄ろうかとしたその先に、黒い死神が立っていた。
「ケッ! ……やっぱ強ぇな……」
 命に別状はないが、痛みに顔をしかめながら、死神と対峙するミハエルが言った。
「気は済んだか?」
「ふん……今夜のところは、な。見ていろよ。いつかお前を越えてやる」
 木陰で息を潜めたリーティスが困惑していると、黒い服を着た槍使いが、振り向かずに、しかし、その背にありったけの殺気を込めて呟いた。
「そこの奴」
 前をきっ、と睨んで、リーティスは自分から月光の下に姿を晒した。
「リっちゃん……」
「なぜ、目を覚ました!!」
 ヨーゼフの剣幕に、あばらを痛めながらもミハエルがヨーゼフを背に回すような形で二人の間に割って入った。そして、ヨーゼフは、自らの思い当たった節に驚愕した。
「まさか、あの薬が……?」
「なんだよ。リっちゃんに、ヘンなもん渡したんじゃないだろうな?」
「ただの寝ぼすけ退治薬だ。まさか、睡眠薬を打ち消す成分が含まれていたとはな……!」
 忌々しげに言って、ヨーゼフは、ミハエルを追い越してつかつかとリーティスの前まで来ると、よせ、というヨーゼフの声を聞かずに、リーティスの胸倉をつかんだ。
「ここで見たことは言うな――言えばもう、お前はあの屋敷にいられない……!!」
 要は、いられなくしてやる、という脅しだ。リーティスは、始終黙ってヨーゼフを睨み返していた。
「女は総じて口が軽い……」
 そう吐き捨て手を離すと、ヨーゼフは槍を携え、先に屋敷に戻って行った。
 強い嫌悪と少しの安堵と混乱の中で、去り行く背中を睨んでいたリーティスの横にミハエルが並び、肩を竦めながら、念の為、釘を刺した。
「……言うなよ? 今日ここで見たことは、俺と、リッちゃんと、あの馬鹿兄貴、3人だけの秘密だからな?」
 右の肋骨イッてるなぁ、と思いながら、顔には出さず、ミハエルは片目を瞑った。



 リーティスは約束を守った。
 母を除けば、女など、侍女のような性質の者ばかりと決め付けていたヨーゼフも、態度にこそ出さないが、リーティスのことは例外として認めたらしい。
 ミハエルは、肋骨のひびが治癒すると、夫人や兄弟達の前で、約束だった演奏を披露した。
 名も知らぬその曲の、力強く、流れるように繊細な旋律は、いつまでもリーティスの心に残ったことだろう。
 それが、リーティスの聴いた、最初で最後のミハエルのピアノだった。

 そう、彼女は、いつまでもこの屋敷の末の娘ではいられなかったのだ。

 銀髪の魔女と疑われ、連行されようとする無実の少女を庇ったために、自らも囚われの身となっていたフェリーナが、何者かの手引きで逃亡したという事実を、リーティスはひょんなことから知る。
 逃亡者の行き先を尋ねられたリーティスは、咄嗟の機転で嘘を吐き、追っ手のかかるまでの時間を稼ぐ。しかし、執念深い王とその配下のことを考えると、やがては、嘘の証言をしたリーティスの身も危うくなる危険があった。
 そこでリーティスは、世話になったファーザーと夫人、そして兄弟達に迷惑をかけないため、そっと屋敷を出る決意をする。……夫人に、謝罪と感謝の置き手紙を残して。

「……どこへ行く気だ」
 屋敷を抜け出す最後の段階で、リーティスは、ホールで呼び止められた。しかし、振り向いたその顔に、迷いも恐れも不安もありはしなかった。
「自分から望んで兄弟に加えてもらっておきながら、今度は黙って出て行くのか。勝手な奴だ」
「そうよ。友達を助けるためだから」
 自信に満ちたリーティスの答え。そして一瞬の間。交錯する視線に火花が散った。
 ため息を付き、譲歩したのはヨーゼフだった。
「――持っていくといい」
「これ……!?」
 とても、その場の思いつきだったとは思えない。たまたまそれを持ち合わせていたというならば、それは、かなり苦しい言い訳だ。
 リーティスは驚いて目を見返したが、そこには、どういった感情も読み取れなかった。警戒しながらも、リーティスはありがたくそれを頂戴した。
「……もらっとく。後になって、返せなんて言わないでよ?」
 そうして、最後の最後まで読めなかった兄弟を残して、リーティスは足早に屋敷を去った。
「行ってらっしゃい、……アォフゲラセネ・プランツェッシン……」
 誰もいなくなった高い天井のホールで、彼はひとり呟いた。


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