「なぁ、おい、知ってるか?」
 港の酒場で、酔いの回ったいかにも船乗りといった風貌の男が、仲間と大声で話をしていた。
「自治区のほうでは、何でも……ヒック! 不老不死の、薬がれに入るってぇ、話だぜ?」
「はははは! まぁーた、そんなのデマに決まってっだろーが」
「いやいや、自治区は、世界中からありとあらゆるもんが流れ込む、夢と現のるつぼだぜ? 案外、そんなもんが普通に転がってんのかもわかんねぇ」
「しぃっかし、あるにしたって、ばか高いんだろうなぁ……」
「そら、決まってらぁ! これ見よがしに、でっかい鳥の羽のついた帽子かぶって、絹を金糸銀糸で飾り立てたご立派な服着て、おまけに両の手の指、ぜぇんぶに指輪しても、まぁだ飽きたらねぇような、ごうつく張りの商人どもが、俺達にゃ一生かけても稼げねぇような、法外な金額をふっかけてくるにちげぇねぇ」
 そして、もしもの夢の話をしながら、がっはっはっは、と彼らは陽気に笑い合う。

 ……バッカみてぇ。
 誰も彼も、永遠なんて求めちゃってさ。
 オレは……ごめんだね。生に縋るような、弱っちい生き方なんて。
 だったら死に行く星みたく、激しい熱と光を放ちながら、散ってやる……!!





STAGE 8 SHIROGANE #3 〜白銀 #3〜



 ポルタに到着した一行は、御者と、別れの挨拶を交わしていた。
「ありがとうございました」
「いんや。こっちも、あんた達に守ってもらう約束だったからな。――っと、お嬢ちゃん」
「はい?」
 リーティスは、澄んだ緑の瞳を瞬かせた。
「あんただけ、このまま往復するかもしんないって言ってたな? ……こんな時分だ。馬車を使って一刻でも早く南に避難したいって連中は、山程いるだろうよ。もし、帰りも乗ってくっていうなら、今ここで決めといてくれ。でないと、他の人間を優先させてもらうことになる」
 付け加えて、御者は、運賃は行きの2倍でいい、と言った。距離を考えると少々割高ではあるが、情勢を考えると、ぼったくりとも言えない。
「…………」
 リーティスは間を置き、それから、はっきりとこう答えた。
「いいえ。私、ここで降りることにします」
「そうか。じゃあな」
 返答を聞いた御者は、一足先に、町中へと消えていった。
 御者にしてみれば、リーティスのような子供を乗せていくより、今ならいくらでも捕まえられるであろう、南へ逃れたい連中から運賃を巻き上げたほうが、よほどに商売になる。
「……よかったのか?」
 リーティスの口から、ノーゼに行くとは、まだ一言も聞いていない。
「――だって、仕方ないじゃない」
「仕方がないって、お前……!?」
 これだけ重大なことを、嫌々決めたのか、と、ライアは怒りそうになった。
 リーティスは横目でちらとライアを見たかと思うと、町のほうに視線をずらして淡々と述べた。
「いいの。だって私は、ノーゼに渡れる機会だって、お金だってある。だけど、船で逃げられない理由を抱える人達なんて、一杯いる。そこに私が割り込んで、その分、一人でも魔族から逃げ遅れるのは、私、嫌だから」
「……そうか」
 ならば、ライアから言うことは何もなかった。リーティスの潔さには、ほとほと感心する。
「それじゃあまず、宿を取りに行こうか」
 ライアは、反射的に聞き返した。
「えっ? でもこの調子じゃあ、いま時期、港に滞在してる旅人なんて、思うよりもずっと少ないんじゃないのか? そっちは後回にしたって――」
 先に出航の手続きをしたほうがいいのでは、と言おうとして、ライアはアルドの目配せに気が付いた。
「あ……」
(……そうだった。俺とアルドはいいとしても、リーティスだって、フェリーナだって、本当はまだ、心のどこかじゃ、ノーゼに渡っていいのか、迷ってるはずだよな……)
 ライアが若干気まずそうな顔をしたことで、意味を正しく受け取ったと見て、アルドは頷いた。
「とりあえず、宿に荷物を置いて、少し休んだら、それから港の方に行ってみよう」
 それは、遠回しに、それまでに決めておいてくれ、と伝える言葉だった。
 フェリーナに関して言えば、もうほとんど覚悟はしている様子だったが、自分がいいからといって、ひとの判断を急かすような娘ではなかった。
 そんな周りの気遣いを察したリーティスが、慌てて決断を口にしかけたところに、フェリーナの柔らかな声が響いた。
「行きましょう。荷物を持って歩き回るのは、億劫ですから。ね」



 宿を出る前に、アルドが最後の確認をとった。
「それじゃあ、ここにいる全員で、ノーゼに渡ることになるけど、構わないね?」
 その場に揃った顔に、もはや迷いなど見当たらなかった。
「よし。それなら港に行こう」



 乗船の手配は、予想したよりも遙かにすんなりと進んだ。魔族の上陸という混乱の中にあって、わざわざノーゼに逃れようという発想は、外交の補佐も務める世情に通じたライアの師や、任務に応じて大陸中を渡り歩くアルドのように、幅広い見識を持つ人間でなければ、なかなか思いつくものではなかったらしい。寧ろ、このような時世に、敢えて余所の、しかも一部では交戦中の大陸に移ろうとする少数の人間は、奇異の目で見られる傾向にあった。
 また、手続きが順調に進んだ背景には、アルドがエスト大陸騎士同盟所属の正騎士(見習い奉公のうちは準騎士と呼ばれ、一人前になると正騎士として認められる)という明確な、かつ信頼を得られる立場にあったことが大きい。ライアなどは身分を明かせない事情がある訳だが、それでも、身分の保証された騎士の同行人ということで、他の3人は余計な詮索をされずに、あっさりと渡航を許可された。
 特に問題がない限り、船は、2日後に出ることになっている。

 船着場で手続きを済ませ、町の方に向かって歩きながら、ライアは、気になっていたことを、この際アルドに尋ねてみることにした。
「なあ。やっぱ、海って危ない魔物とかがうじゃうじゃしてるのか?」
 一応、不自然にならないくらいに声を落としているので、喋りながら後ろを歩く二人には聞かれなかっただろう。
ライアがこんなことを言い出したのは、乗船手続き中に、『騎士様が乗ってくれるんなら心強い』という言葉を耳にしたからだった。
 ライアの質問に、アルドは落ち着いた声でこう返した。
「いや。海に棲む魔物には、中には凶暴なものもいるけど、個人で所有する漁船ならともかく、今度僕達が乗る予定の、大陸間を往復するような規模の船に、わざわざ近づいて来る魔物なんて、ほぼいないと思っていていいと思う。それよも、本当に気をつけなきゃならないのは――」
「波……とか、嵐、か?」
「それは――そうなんだけど。でもね、そういった自然の脅威以外に、あるんだ。魔物よりも、ずっと用心しなくてはならないものが」
 ライアが首を傾げると、アルドは答えを明かした。
「人間だ」
 アルドは、少しだけ哀しそうな瞳で、真剣に語った。
「海賊だよ。海で、悪天候の次に危険なもの。そして、最も性質の悪いもの。連中は、エスト近海にも、ノーゼ近海にも潜んでいるからね……」
「それで、戦える人間は、船員さん達にしてみたら歓迎、ってことなのか」
「だろうね。万が一、大砲で狙われでもしたら、流石にそこは、船体の強度や機動性、船の装備に頼むしかないけれど――でも、もし、こちらの船に取り付いて襲撃して来るようだったら、その時は、僕でも少しは役に立てると思うよ」
「アルドは謙遜しすぎだろ〜? そんだけ強いんだから、もっと自慢するくらいでいいんだって! 絶対」
「うーん……騎士の中には、僕より強い人なんて、何人もいるよ。それより――……はぁ……船か……」
「?」
「あの、みなさん、これからどうされます?」
 アルドの謎の呟きについて考察する間もなく、気付くともう商店の立ち並ぶ辺りに差し掛かっていた。このまま宿に戻るか、店のほうに寄っていくかで、方向が分かれる。
「んー……俺は特に、考えてなかったけど……」
「あ、あのっ、アルド! よかったら、前に言ってた、剣の見立てをお願いしたいんだけれど――」
 魔物との戦いのさなかに、リーティスの剣の振るい方を見て、流石というべきか、アルドはそれが使い慣れた剣ではないことをずばり言い当てた。そこで、リーティスは前の剣を素手で折られたという事実は伏せながら、今の剣は代用品であることを正直に話し、アルドは、もし剣の目利きが必要なら、選ぶ時は手伝ってあげられるよ、とその時に応じていた。
「ん、いいよ」
 畏まった口調のリーティスに対し、アルドは気さくに答えた。
 当初、リーティスのアルドに対する態度が硬いのは、気があるからではないかと考えていたライアは、近頃その考えを改め始めていた。
(ひょっとして……苦手、なのか?)
 相手がどこの出身だろうが、民衆の子だろうが、周囲の恐れる切れ者の策士だろうが、心から信頼できる相手と見なしたが最後、自分の方の心の垣根など即日撤去なライアとは違い、どちらかと言うと上下関係を気にするリーティスは、年上で、騎士の、同行するようになってまだ日も浅いアルドには、踏み込み難いところがあるらしい。
「時間はあるからね。それじゃあ、ちょっとそれらしい店を回ってみようか。ライア達はどうする?」
「いや……俺、これといって用事はないんだけど」
 無計画と言えばそれまでだったが、乗船手続きの困難を予測していた為、仕方がないとも言える。宿に戻っとく、と言いかけたそこへ、予期せぬ誘いが舞い込んだ。
「じゃあ、お買い物に付き合ってくれませんか? 足りなくなってきたものの買い足しと、あと、ここなら港にしかない珍しいものも置いているかもしれないので、そういうものも見てみたいんです」
「もっちろん! 喜んで」
 二つ返事で答えて、ライアはふと考えた。
(待てよ……これって、もしかしてデートってやつ? いや、フェリーナにそのつもりはないだろーけど、そう見えるかもしれないっていうかそうだったら嬉しいってゆーか! これは、ひょっとしてチャンス……?)
 内心ひとりで浮き足立っていたライアは、仲間達の交わす言葉もろくに耳に入っていなかった。
「それじゃあ、また後で」
「ライアじゃ頼りない気いするし、気をつけてねー! フェリーナ」
「そちらも、お気をつけて。お買い物が済んだら、宿で待っていますね」
 そこでフェリーナに声をかけられて初めて、ライアは我に返った。
「私達も行きましょうか」
「へ?」
 気がつくと、既にアルドとリーティスの姿はなかった。
「ああ、ごめん。それじゃ、行くか!」
(意識しすぎだって、俺! あの二人がいないだけのことなんだ。普段通り普段通りっ!)
 そう自分に言い聞かせながら、ライアはフェリーナを伴って歩き始めた。



 武器屋巡りの二人は、店の品揃えに、難しい顔をしていた。
「はぁ……やっぱこんな時だと、剣の値段も上がっちゃうんだね……」
 ため息を吐いたリーティスは、数えるのもうんざりするその桁と情けなく睨み合った。
 魔族が攻めてくるかもしれない、という恐怖心から、どの店でも武器の類は品薄で、下手をすると他の用途に使う金物、例えば調理器具なども飛ぶように売れていった後という有り様だった。店に残されているのは、大根すらまともに切れないなまくらか、あまりに高くて買い手の付かない、工芸品としても価値の高い一級の品ばかりだった。
「ねぇ、やっぱ、今の剣を使い続けるのって、駄目? 筋力を鍛えれば、少しは――って、それでも無理があるよね……」
 剣の重量が合っていない以前に、剣の質そのものが粗悪なことは、リーティスだって重々承知している。
「うん――実戦で使い続けるには、ちょっと厳しい……かな」
 苦笑するアルドに、リーティスは、やっぱりぃ、と肩を落とした。



「あの、ちょっと寄って行っていいですか?」
 買い物をしながら、途中でフェリーナが足を止めたのは、郵便物を扱う店の前だった。
(――…………)
 ライアに否は無く、当然、快く承諾したものの、中に入ってフェリーナが手紙を書きつけるその間に、それまでひとり浮かれていた気持ちは、休息にしぼんでどこかに消えてしまった。
(バッカみてぇ……俺、自分のことしか考えてなかった……。あーもう、くそっ)
「ライアは、書かなくていいんですか」
「ああ、俺はいいよ」
 フェリーナの手紙は無論、家族への手紙だ。祖母と弟のところに1通、そして、クライス領に留学中の姉に1通。こんな時期なので、彼らの安否を心配する言葉と、これからノーゼに渡る自分の心境と決意を書き綴っているのだろう。
「お待たせしました」
 手紙を出してきたフェリーナには、どこか、やり残したことを済ませてほっとしたような雰囲気があった。
「よっしゃ! それじゃあ続き、行くか!」
 普段通りの調子で言いながら、しかし、ライアの心には微妙な変化があった。それまで、楽しそうに買い物をするフェリーナが、心から楽しめているものと勝手に解釈していたが、よくよく考えてみれば、不安じゃないはずがない。夢を追うためにノーゼに渡る、その決意は揺るぎないにしても、心優しい彼女にとって、魔族が侵攻してくるかもしれない土地に家族を残して行くのは、どれだけ辛く、また、どれだけの罪悪感を伴ったことだろう。
 ライアは今までの能天気な思考を改め、フェリーナが少しでも元気を出せるなら、何だって付き合うし、今日は何でも好きにさせてあげよう、と決めた。
(俺、こんな時くらい、少しは大人になんなきゃな……?)
 きっとアルドなら、こういう時、さりげない気遣いが出来るのだろう。とは言え、いきなり真似るのは難しいな、とライアは心の中で唸った。



「お花ー、お花はいりませんかー? 綺麗なお花ですよー」
 決して上質ではない布地の服を着た花売りの少女は、歳の頃ならまだ十かそこらといったところか。健気に花を売ろうとするその姿に、短い間、目を止める者はいたが、それでも、すっと目を逸らして通り過ぎて行ってしまう。こんな情勢の中、ただでさえ物価が上がっているというのに、人々の心にも、懐にも、花など買っていられる余裕はなかった。行き交う人々は、同情の視線を向けながらそそくさと去って行くか、少女を完全に無視するかのどちらかであった。
 それでも、少女は笑顔を絶やさずに、精一杯明るい声で呼びかけを続けた。そして偶然、前を通りかかった小柄な少年に、青い花を差し出しながらこう言った。
「お花、いかがですか?」
 少年が、ピタリと足を止める。長い前髪の間から、紫の瞳が覗いた。少女は相変わらず、にこにこと笑顔のまま、花を差し出していた。
「1本からでも、お売りしますよ? あっ――」
 少年の手が無造作に閃いたかと思うと、小さな手は弾かれ、その衝撃で、青い花弁を数枚散らせながら、花は地面に落ちた。

 ぐしゃり

 色の白い、整った顔立ちの華奢な少年は、物も言わずにその花を踏みにじった。
それを見ていた大人達は、誰もが、見て見ぬふりだった。無言で立ち去る少年を、止める者もない。
「あーあ、可哀相にねぇ……」
「誰だって気が立ってるんだから、こんなとこでしつこく商売してる方も悪いよ……」
ひそひそと囁き合う大人達は誰ひとり、少女を助けようとはしなかった。
 踏み潰された花の前で膝をついて呆然としていた少女は、ぐっと堪えながら、踏まれた茎と花びらを拾い集め、枯れた花を入れるバケツに一緒にした。
 一度だけ袖で目元を拭うと、少女は、また精一杯明るい声で客寄せを再開しようと、大きく息を吸った。
「きれいなお花ですね」
 すると、そこに午後になって初めての客が、花を一杯に乗せた小さな台車の前で足を止めた。

「よほど、大切に世話をしてあげているんですね。この品種なんて、ここまで育てるのはすごく難しいのに」
「へー、詳しいな。俺なんか、見たことある花だって少ないのに。名前も、よく知らないし」
 2人連れのうち、赤い目をした少年の方と、おずおずと見上げる少女は目が合った。
「あの……お花、要りませんか?」
 すると、少年は困ったように頬をかき、それからしゃがんで少女に目線を合わせながら言った。
「う〜ん、ごめんな。お兄ちゃん達、旅の途中で、これから航海もしなきゃなんないから、多分、すぐに枯らしちゃうと思うんだ」
「そうですか――」
 気落ちした声で、しかしすぐに売り子の笑顔を作ろうとした着古した服の少女に向けて、少年は言った。
「だからさ、そこの黄色い花、一本だけくれるか? 流石に、花束とか鉢植えを抱えていくのは大変だけど、切り花なら、そんなに邪魔にもならないし」
「はいっ!」
 やっと本当の笑顔を見せた少女は、オレンジに近い濃い黄色の花を手に取って、少年に渡した。
「どうぞ」
「ありがとう。じゃあ、お金な」
 少女が、受け取った銀色の硬貨をエプロンのポケットにしまい、取り出した銅貨の数を数え始める間に、少年は立ち上がっていた。
「あの、お釣り……」
 しかし少年は、いいよ、という素振りだけを返し、そのまま連れの少女と歩き出すところだった。
 戸惑う少女は、それから、言うべき言葉を思い出し、よどみのない声を通りに響かせた。
「ありがとうございました! あの、旅の途中でまた来ることがあれば、ぜひ立ち寄って下さい! 見ていってくれるだけでも構わないので――」
 そう言って、少女は、自分が大事に育てた花に興味を示してくれた、珍しい二人組を見送った。



 茎を持ってくるくると花を回しながら、どう言ってそれを渡したものかとライアが考え込んでいるそこへ、フェリーナが微笑みかけた。
「優しいんですね」
「え、いや、そんなことないって、別に! それより、フェリーナ」
 ライアは、ともかくも手に持った花を前に差し出した。
「これ――貰ってくれるか? あ、ほら! 男の俺が、花なんか持ってるのも、なんか変だしっ!?」
「いいんですか? ありがとうございます」
 フェリーナは、素直に喜んでライアからの花を受け取った。
(うん……やっぱ、花は可愛い女の子が持つもんだよな)
 貰った花を、嬉しそうに両手で胸の前に抱く少女を見たなら、誰だってそう思ったに違いない。
 少なくとも自分が持つものではない、とライアは深く納得した。
(――!!)
 それが目に入ったのは、ただ偶然としか言いようがなかった。ライアと対面して反対側を向いていたフェリーナは、それに気が付いてはいない。
 そう、それは偶然、視界の隅に、ただ1点入り込んだ、警告の色。
「そろそろ、宿に戻りましょうか」
 フェリーナの呼びかけに、ライアは、上辺だけでも平静を保って答えた。
「あ……ごめん、悪いけどさ、先、戻っててくんないか? もう少しだけ、町を回ってみようと思って。ほら、俺、港町って初めてだし。少しぶらついたら、適当に戻るから。アルド達にも、そう伝えておいてくれ」
「ええ。あの――余計かもしれませんが、日暮れまでには帰って来て下さいね? きっと、アルドが心配しますから」
 恐らくは、その通りだ。フェリーナは、アルドがライアから目を離せない事情をこそ知らないが、アルドのことを、よく解っていた。
「判ってるって! 暗くなる前には戻るから、心配しないでくれ」
「そうですか。では、お先に宿へ戻っていますね」
「ん。それじゃあ、また後で」
 フェリーナが、余計な詮索をしなかったのは幸いだった。
 フェリーナの後姿が角を曲がって見えなくなると、ライアは、先程それを見た方向に向かって駆け出した。
(気にしすぎ……か? いや、だめだ、何か引っ掛かる……。確かめないと――!)
 妙な胸騒ぎがして、ライアは、それを捜さずにいられなかった。
(いた……!!)
 それは、背丈ならフェリーナと変わらないくらいの、小さな人影だった。

『ぎんいろ』

 まるで、それは胸の奥底に沈着した、不吉な呪文のようだった。
 日常では忘れかけていたのに、ふとした拍子に、それは浮かび上がって来る。
 ライアは、もともと自分に関係しないことにはやたらと首を突っ込みたがる性分ではなかったが、今回ばかりは、町を出て行こうとするそのしろがねの後を、大胆にもつけ始めた。



「あっ。お帰りなさい。どうでした?」
 先に帰っていたフェリーナに出迎えられ、冴えない表情のリーティスは言った。
「うーん、やっぱ駄目。そう簡単に、手ごろな剣なんて見つかんないみたい」
「そう、それに、こんな時期だからね。戦士でなくても、武器を持とうとする人が増えたみたいなんだ。品薄で、あまり質の良くないものですら、高く売られてる状況だったよ」
「そう、ですか……それは残念でしたね」
 自分のことのようにしょんぼりするフェリーナに引きずられそうになって、慌ててリーティスは言い直した。
「あ、うん。でもね、ノーゼに行けば、ちゃんとした物が見つけられるだろうって!」
「あっちは、実戦的な武器も多く取り揃えているはずだからね。どの道、安い買い物ではないんだし、焦らないで、ちゃんと自分に合ったのを選んだほうがいい。……って、あれ? そう言えば、ライアは――」
「もう少ししたら、帰って来ると思います。少し、疲れてしまったので、私だけひと足先に、戻って来たんです。その――何か、問題、でも……?」
 アルドの表情は硬く、フェリーナの声は、次第に不安そうに窄まっていった。
「いや……ちょっとね。リーティス。ここに残ってくれるね?」
「うん、いいよ」
 返事を確認すると、アルドは早々に宿を出て行ってしまった。
「あの、一体何が……?」
「ああ、えっとね、さっき聞いた話なんだけど――倉庫の方で、大のおとな3人が死んでるのが見付かったんだって。物騒だよね? だから、私達もそれ以上他の店を回るのは止めにして、さっさと引き上げて来た、ってとこだったの」
「そうだったんですか……大丈夫でしょうか、ライア……」
 リーティスは、そんな顔をする必要は全然無いとでも言うように、手をひらひらさせた。
「へーきへーき。だって、万が一、殺人だったとしても、死体が見付かったのはひと気の少ない港の倉庫の方だったっていうし、犯人だって、騒ぎになった以上、人に見つかんないようなとこに、とっくに逃げてるって。いぃっくら馬鹿でも、町なかにいて、今頃犯人とばったりー、なんてことは無いってば。それにほら、今アルドが行ってくれたし」
「それも、そうでしたね」
 気が抜けたように、フェリーナはほう、とため息をついた。ここまで行動を共にしてきた中で、やはりアルドに対して生まれた信頼は絶大らしい。
 気を取り直すと、フェリーナは、お茶にしましょうか、とリーティスに提案した。



 馬車が通る大きな道からは外れた小道を、小柄な人影と、その後を追うライアは黙々と進んでいった。
 振り向かず、ただ一定の歩調で前を行く銀髪を見失わないようにしながら、しばらくして、ライアは思った。
(何やってんだ、俺……)
 まともに考えれば、いくら怪しいからと言って、ただそれだけで人をつけるなんて、失礼でしかない。訊きたいことがあるのなら、引き止めて尋ねればよいことだし、訊けずにいるのなら、こうして未練がましく後など追わずに、いっそ諦らめてしまうのが正しい選択だろう。
(……やめた。帰ろ……)
 冷静に思い直して、ライアが踵を返すと、背後から声がした。
「あのさぁ。あんたさ、さっきから人の後ろうろちょろして、一体何の用?」
(やべ。ふつーに気付かれてた……)
 ライアは、ここは素直に謝るべきだと感じた。
「あぁ……悪りぃ! あんまり知り合いに似てたもんで、つい。でも、人違いだったみたいだ。ごめん。だから俺、これで町に戻」
 すると、少年はいきなりライアに向けて氷の矢を放った。
「って、何すんだよいきなり!? ……危ないだろ!?」
 ライアの抗議に、少年は嘲笑うように冷たい瞳で見返すばかりだった。
(くっそ……なんか、普通じゃねーぞ、こいつ……!?)
 ライアは息を吸い、真面目に少年と対峙しながら、冷静に話をした。
「後つけられちゃ困るよーな訳でもあったのかよ? 違うだろ? な、だったら、そんな怒んないでくれって。人違いでこそこそつけたのは、俺が悪かったから」
「――へぇ? それって素? それとも演技だったり? ――ま、どっちでもいーけど」
「だから待てって――あーもう、くそっ!」
 問答無用で、少年は立て続けに氷の矢を放った。魔力の浪費を抑えたいのか、はたまた痕跡を残さないためか、ライアがよけて地面に突き刺さった氷は、すぐに消滅した。
 意識せずに魔法を使えば、普通はしばらく具現化した状態が続き、然るのちに消滅する。消滅までの時間は通常、術者の資質と魔力に比例して長くなるもので、魔法が純粋に魔力のみから成り立っている間は、多少の魔力が消費される。つまり、薪に燃え移った炎や、寒冷地の氷などは、物質として安定で、魔力が無くとも物理的に存在し続けるが、常温下での氷など、本来安定でない物質がそこに存在し続けるには、術者の魔力というエネルギーが必要になるのだった。
 目の前の少年は、魔法が具現化した状態を保てないほど魔力が低いのではなく、意識的にその場で氷を消しているように見えた。
 身の危険を感じたライアは、剣を抜きながら吼えた。
「どーしてそーなるんだっ!! 俺に、なんか恨みでもあんのかよっ!?」
「べえぇっつにぃ?」
「だったら、なんで――いくらキレたからって、いきなり人を攻撃するなんて、常識外れもいいとこだろ!?」
「なんでかって? つかさぁ、オレに何訊いたって、無駄だと思うけどー? だって――」
 薄い笑みを浮かべ、少年は、ぞっとするような、凍てつく声で言った。
「あんた、ここで死ぬんだし?」
 つまらなそうに笑みを引っ込めると、少年は、そこからは無言で、氷の矢を連発した。
 近づく隙を与えられず、休みなく放たれる魔法に翻弄されながら、ライアは、フェリーナと一緒に帰らなかった自分を呪った。しかし遅い。
 はっきり言って、機が訪れるまでひたすら攻撃を凌ぎながら待つ戦法は、得意ではない。けれども、ここで走り込んだら確実に矢の餌食にされてしまう。ライアは、敵前に突っ込んで仕掛けたい気持ちを、理性で抑えた。
(どうする、どうすれば……!?)
 逃げようとして背中を向ければ、それも負けだ。相手は、逃げ出す相手を見逃してくれる程、生易しくは見えない。寧ろ、喜々としてその背を狙ったであろう。
 焦るな、と自分に言い聞かせながらも、徐々に焦りは募っていく。剣を握る手が、じっとりと湿り気を帯び始めていた。
「冷たき極地の… 」
その時、ライアに待ち望んだ転機が訪れた。
 なかなか致命的な一撃を与えられないことに焦れた少年が、一気にケリをつけるつもりで呪文の詠唱に入り、矢の雨が、一旦止んだ。
(――今だ!)
 ライアは、迷わず少年の方に向かって駆け出した。
「…せて 嵐とならんッ!!」
(嘘だろ!?)
 発動する魔法の威力、範囲に見合わず、少年の詠唱の時間は極端に短かった。
「あ〜っ! んにゃろっ!!」
 この距離では絶対に避けられないと悟ったライアは、半ば自棄気味に、自分の正面に炎で盾を作った。
(ちぃ……! ……炎、使い……!!)
 少年の目が細められ、憎らしげにライアを睨んだ。
(なん、とか……防げた――)
 ろくに魔法の鍛練を積んでいないライアでは、これだけの炎を操るのは、1度か2度が限界だろう。だが、間合いを縮めたこの今を、逃す手はない。
(子供斬んのは正直、嫌だけど――!)
 あと2歩も踏み込めば、手が届く。剣を使わずとも、体格差から、取っ組み合いになれば、ライアの有利は瞭然だった。
「……っ!? いい気になんなぁあ!!」
 ライアがつかみかかろうとする寸前で、少年は、詠唱をせずに魔法を発動した。咄嗟にライアは炎で前面を庇う。
「つぁあああっ!!」
 しかし、氷ではない何かが一瞬でライアの体を貫いた。走り込んだ勢いのまま前に倒れかかろうとするライアの体を、手の届きそうな場所にいた少年は、軽やかにバックステップでかわす。
(何、だ、今の……)
 地に顔をつけるライアの斜め上から、勝ち誇った少年の声が降ってきた。
「所詮、あんたに勝ち目なんてないんだって。どんなに頭弱くっても、これで解っ――」
 少年の言葉が、不意に止まる。ライアが、ふらつく脚で立ち上がった。
(体が痺れて……上手く、動かない――)
「……はァ!? ざけんなッ! 今の喰らって動けるだぁ!? テメー、何だッ、何もんだよッ!?」
 動揺した声で怒鳴る少年を睨みながら、ライアは、昔聞いたある話を思い出していた。
(そういえば、昔――母上から、聞いたことがある……。スロウディア王家の直系には、初代国王の英霊が憑いてて、加護を与えてくれてるとかって……。あれ、本当なのか?)
 話の真偽はともかく、少年の取り乱しようを見るにつけ、その魔法がライアに思った程の効果を与えなかったのは事実らしい。
(まだ、回復するまでちょっと時間が要る――それまで、どうにかやり過ごして――)
(こうなったら――最強クラスの魔法で、消し炭にしてやらッ!!)
 紫の双眸が凶悪な光を宿し、来る、と直感して、ライアは身構えた。
 と、魔力を溜めていた少年の手がはたと止まった。そして、呆れたように言う。
「うっそ。人来ちゃったぁ?」
(運のいいヤツ――!!)
 人との接触を避けたかったらしい少年は、去り際にこう言い捨てた。
「次はぜってぇ、その首取ってやっからな……覚えとけよ!」
 できればもう、関りたくない。それがライアの率直な感想だったろう。
(な――なんだったんだ?? 結局……)
 危機は去ったが、結局のところ、因縁を付けられた理由は判らず終いだ。
「ライア!!」
 そこに聞き慣れた声がして、ライアは反射的にびくりと反応した。心境で言えば、まさに、悪い事をした現場を母親に見つかり、不意に声をかけられた時の子供のそれ。
「捜したよ……一体、どういうつもりなんだ! てっきり町中にいると思ったのに、無断で勝手に外をうろつくなんて」
 恐る恐る、振り返ってみる。
(やっべえ、絶対怒ってる……ほら)
 物凄く怒っている顔、には見えないとしても、そこは幼少からの付き合いで、親友の怒りの度合いは、微妙なイントネーションから、何となく察せられる。
(……。とりあえず、この状況を弁解しないと)
 ついうっかり、ライアは抜き身の剣を鞘に納めそびれていた。
「ええっと……いや、あの、実はさ、剣の練習がしときたくて。クローキャットを追っかけてここまで来たんだけど――逃げられた」
 そう言って、ライアは少年が逃げた方角を見た。少年なら疾うに姿を消していたし、まして、クローキャットなんて元からそこにはいなかった。
 アルドは、不思議そうに首を捻った。
「――確かに、あの魔物はすばしこいから……じゃなくて! 僕が怒っている理由、きちんと理解しているんだろうね?」
(うぅ……解ってるって……そりゃもう、嫌ってぐらいに――)
「はい――……ゴメンナサイ」
 ライアが頭を下げて謝ると、アルドはため息を吐き、気をつけてくれ、と注意を喚起した。
「スロウディアは比較的治安が良いけど、向こうに渡ったら、町の外なんて、何が起こるか判ったもんじゃない。いいかい、もう、2度とこんなことはやめてくれ」

 宿に戻ると、和やかにお茶会が催されていた。
「おかえりー」
「あっ、お帰りなさい。今、お二人の分も淹れますね。どうぞ座っていて下さい」
 フェリーナに勧められるままに席につきながら、ライアはちらりとアルドの顔色を覗った。フェリーナと普通に会話しているところを見ると、どうやら、無断で外出した件については、もう怒っていないらしい。ライアは、ほっと胸を撫で下ろした。
「……へっ? 港の方で、殺人事件ん!?」
 リーティスの言葉に、ライアは素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと! 人聞き悪いこと言わないでよ。私は、まだ、人が死んでるのが見つかったみたいって、言っただけでしょ!?」
「いや、でもふつー、一度に人が3人も死んでたっつーたら……」
 二人分のお茶を追加しながら、フェリーナがおっとりと言った。
「ですから、心配して、アルドが捜しに行ってくれたんです」
 自分が王子だからアルドは少し過保護なんだ、と思っていたライアは、それを聞いて、すまなくなった。
「そっか……。ごめん、心配かけた」
「いいよ。もう、怒ってないから」
「ええ。本当に、何事もなくて、よかったです」
 実は何事もあったのだが、それは、ふわりと微笑むフェリーナの前で明かして良い事だとは到底思えない。ライアは、その件を自分の胸だけにしまった。
「ところで、さっきの続きなんだけど――……」
 よほど暇だったのか、宿の他の客が話しているのを聞いた、というリーティスの語るところによると、殺人にしてはどうにも奇妙な点が残るらしい。死体には傷ひとつ無く、死因は不明ということだ。
「普通に考えて、3人同時に心臓発作、なんてのは考えられないよね。……たまたま全員が全員、極度の怖がりで、そこでとんでもないものを見た! っていうんじゃなければ」
 リーティスの意見は妥当だった。もし本当に殺人なら、残るは、毒殺という可能性くらいか。
「ああ。そう言えば――」
 そこで、アルドが思い出したように、事件に関する噂を語った。ライアを捜しに行く時に、町で耳にしたそうだが、この場で話題にのぼらなければ、特に話すつもりもなかったらしい。
 そこでは、死体となって見つかった男達の身元が明らかとなった。いずれも、積み荷の仕事をさぼる常習で、よく昼間から倉庫の裏の方で酒を飲んでいることから、小さな子供を持つ親などには、特に評判が悪かったという。酔った勢いで揉め事を起こす事もしばしばとかで、現に、事件前に子供に絡んでいる姿を見た、という、嘘だか本当だか分からない証言も存在したらしい。
「じゃあ、正義の味方がずばーん!とやっつけちゃった、って可能性もあったりして?」
「って、それじゃ結局殺人じゃねーか!?」
「まぁ……何にせよ、外に出る時は気をつけて。出航は、2日後だからね。それまで、出来るだけ町の中でも単独行動は避けよう」
 お茶を飲み終えると、アルドは男子部屋に戻って行った。フェリーナは、宿の奥さんが身重だということで、調理の手伝いにさっき出かけて行った。フェリーナと2人でこの部屋に泊まるリーティスを除いては、ライアだけが、2杯目のお茶をもらって呑気にすすっていた。
 ふと、唐突にリーティスがにやりと笑った。
「やるじゃん」
「……何がだよ?」
 リーティスは、机の真ん中に、水に差してあった黄色い花を指差した。
「それ、フェリーナにあげたんでしょ?」
 ぶっ、とライアは飲んでいたお茶を噴出しそうになった。
「あっ、あのなぁ! 別に、そんなんじゃなくって! だから!!」
 赤くなって弁明する様は、誰がどう見ても、明らかに怪しい。
「ふーん? でも、フェリーナってああだから、うかうかしてたら、誰かに取られちゃうかもよ?」
「あーもう、うっせ! 俺、これ飲んだらもう戻るからな!!」
「はいはい」

 それから、特に大きな事件もなく、ライア達は船出の日を迎えた。

「う〜ん……どう見てもお似合いだよね、あの二人」
 甲板の手すりに肘をついて、掌の上に顎を乗せて横を見ながら、真剣な顔をして言ったリーティスの視線の先には、船の高い段差で美少女を見事にエスコートする、背の高い好青年の姿。少し離れたところにいる女性客のグループが、アルドを見てきゃあきゃあと盛り上がっている様子も、ここからだとよく見える。
(――俺に、どう答えろってんだよ?)
「何、その顔」
 振り返ったリーティスが、隣で複雑な顔をしていたライアに向けて言った。
「あ、そっか! 『羨ましい』」
「ちぃーがぁーう! あんなぁ……そうじゃなくって――その、アルドって、たしか故郷につき合ってる彼女が――」
「……そうなの?」
 隠しても仕方が無いと思い、ライアは知っていた情報をそのまま告げた。
「……少なくとも、半年前までは。今は、訊いてないから知らねーけど」
「そっかぁ。やっぱ、かっこいい人には居るもんだよねー。ああ、もしかしてそれで、アルドならフェリーナの側にいても平気〜って、思ってた?」
「はぁ?」
 そう返しながら、ライアは内心ではどきりとした。今まで、意識したことがなかっただけで、考えてみると、妬みだとか、焼き餅だとか、そういった感情をアルドに持ったところで、おかしくはない訳だ。
(――……でもなんか、それってあんま現実的じゃないよな……。そりゃ、あの2人がくっついたら、最初はすっっげー悔しいと思う。でも、だってそれは、フェリーナが選んだからそうなる訳だろ? だったら……仕方ねぇかなって――)
「そーいうリーティスこそどうなんだよ。アルドなんて、あんだけモテんだから、実は結構いいな〜、なんて、思ったりすんじゃねーの?」
「そりゃ、モテるでしょーけど。でも、私はその……タイプじゃ、ないし」
 そっけなく言うリーティスを半眼で見ながら、ライアは、さっきのお返しのつもりで訊いた。
「な、実はぶっちゃけ、アルドのこと苦手だろ?」
「!? どーして」
「何となくだよ、何となく! 別に、俺の勘違いだったり、言いたくなかったりしたら、いーんだけどさ」
 そう言って、ライアはせわしない出航前の港の様子に目をやりながら、一瞬だけちらりとリーティスの横顔を窺った。かもめの鳴き声と波の音に紛れてしまうような小さな声で、そうだけど、という呟きが隣から返ってきた。
「だって、アルドって、すごく丁寧で、親切で……」
「……それの、どこが悪いんだよ?」
 ライアは困惑した。普通なら当然、女性から見れば魅力となるべき点ではないのか。
「――だから見えないの。どういう人なのか、全然」
 ああ、そういうことか、と、ライアはやっと合点がいった。
 そこへ、アルドとフェリーナが船室から上がってくるのが見えて、今の言わないでよ!? とライアはリーティスに釘を刺された。
「言わねーよ。んなの、本人に言ったって、どうしようもねーだろ?」

 そして、必要な全ての荷が積み込まれ、陸を離れてから、波に揺られること、約1時間。

(あー……このことだったんだ……)
 心なしかよろよろと船室に引っ込んで行くアルドの背を見送りながら、ライアはひとり納得していた。今のところ、4人の中で被害者はアルドだけだ。
 ――海に潜む、もう一つの魔物。それは船酔い。



 その日の晩、ライアは、船内を歩いて来ると言って、2人部屋の船室を抜け出した。
向かった先は、まだ少し人の残っている食堂でも、フェリーナ達の居る部屋でもなく、静けさと波の音が支配する、夜の甲板だった。
 黒い水の上に、ぽっかりと月の影だけが浮いている。
 向こうの端の方に、愛を語り明かす若い男女の姿があったが、船の反対側に回ってみると、そこに先客の姿は無かった。
「はぁ……」
 わざわざ船室を抜けて来たのは、おとといのあの出来事が、そう簡単に忘れられるものでもなかったからだ。相談できる内容ならともかく、話せない事柄に関しては、アルドの前で難しい顔をして考え込むのはNGだ。
「あれ、ライア?」
 声がして、見ると、何やってんの、という顔で、リーティスが低くなった船内の入り口から、ひょっこり頭をのぞかせていた。
「そんな暗いとこ立ってると、うっかり足滑らせて、落ちちゃうかもよー?」
「誰が落ちるかっ!? よけーな世話だっ!!」
 リーティスは、大きな段差も難なく飛び越え、よっ、と身軽に甲板に降り立った。
「あれ? 何、珍しく考え事?」
「いーだろ、別に。ほっといてくれって」
 うわ、とその瞬間、リーティスは幽霊でも見たかのように、思い切り引いた。
「……ライアでも、悩んだりするんだ……」
「どーいう意味だよ」
「どうって、そのまんま。ライアってあんま悩まなさそーだもん」
「あ・の・なぁ!? お前、俺のこと何だと思って――」
「いいじゃない、別に」
(よくねぇ)
「それより、ほんとにどうかしたの? アルドと、喧嘩した……とか?」
 迷うようなその顔からは、リーティスが、アルドが誰かと喧嘩をする様を想像出来ないらしいことが覗えた。
「違う。けど――船室に居られないって意味じゃ、同じか」
 すると、改まってリーティスが尋ねた。
「じゃ、訊いていい? 訊いちゃいけない事なら、私はこれで退散するけど」
 ライアは、真剣にリーティスの方を見た。向こうは、何を言う訳でもなく、ただじっと、ライアの返事を待っている。
「――解った。帰る」
 ライアが答えないでいると、リーティスはそう言ってくるりと背中を向けた。
 引き止めるべきか、ライアはぎりぎりまで迷った。
「――リーティス」
 これで、関係がなければ、ただのいい迷惑だ。だがそれでも、ライアは、リーティスには話しておこうと、その時、思った。

「何それ――それじゃあ」
 リーティスの顔からは、血の気が引いていた。話してしまったことを後悔して、うなだれるように、ライアは呻いた。
「悪い……そっちだって、思い出したくないよな、あんな事」
 あんな事、とは、リーティスが腕を折られた一件を指していた。しかしリーティスは、真剣な目でライアを見ながら、首を横に振った。
「ううん、それより――銀髪で、氷使いだった、っていうなら、フェリーナを襲った魔族と、何かしら関係があるのかも――……」
 リーティスが同意してくれたことで、ライアは、少しだけ心の荷が軽くなった。これで、全く関係ないんじゃないと言われたら、しばらくは自責の念を引きずりそうなところだ。
「だろ? だけど、フェリーナを襲ったのは、女だったって話だよな」
「私が会ったのは男の子だったけど」
 そう言って口を挟んだリーティスに、念の為、ライアは尋ねてみた。
「――それ、どんな奴だった?」
「……前に言った通り。銀髪だったみたいだけど、それだって、今となっては定かじゃないし――……私だって、必死だったんだからね? 覚えてることって言ったら、寡黙で、余計なことは喋らないって印象くらい」
「……なら多分、俺が見たのとは違うな。第一あいつ、剣を折るどころか、折れそうにほっそい腕してたんだぜ? あ――」
「何?」
「そういや、俺……一発だけ、あいつの魔法、まともに喰らったんだった……。今も何ともないから、多分、平気なんだろうけど――」
 ライアは、身を貫くような衝撃について語った。あの時、程なくして回復はしたが、直後はまともに動けずにいた。
「それって、もしかして、闇魔法ってやつなんじゃない? 人間は耐性が低いっていう」
 リーティスによって、存外あっさりと、1つの可能性が示唆された。
 言われてみれば、そうかもしれない。魔法の発動に関る護属性は、人間でも、魔族でも、通常1つしか持ち得ないが、それ以外に、特殊な訓練によって、純粋な魔力を引き出す方法がある。それが、魔族なら闇、人間ならば光魔法として便宜的に名付けられているものだ。
 どこか欠落があるようにも感じたが、正直、今はそれどころではない。
「変な話して、悪かった。どうせこれからノーゼなんだし、しばらくは関係のない話だよな?」
 彼らの前に待ち受けるのは、ノーゼという、まだ見ぬ地。そこは、魔族と人間の勢力が拮抗し、本物の戦いが繰り広げられている場所だった。
 波間に揺られる船の上で、ライアは、ぽつりと本音を洩らした。
「早く、帰れるといいな――」
「うん……そうだね……」
 夜の闇に包まれた航路を、おぼろげな月の光だけが照らしている。


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