STAGE 38 re-challenge 〜ヴィータ、再び〜
腰まで伸びる漆黒の髪。透き通る緑の瞳は、はじめて立ち入る暗い森の奥深くを映していた。
(神様、どこですか――……?)
少女の瞳は、怯えでなく、探し物が見つからない不安に揺れている。
彼女のこぎれいな服は村の中で着る普段着にしか見えない。しかも獣や魔物に襲われた時の護身用の道具は一切持たず、着の身着のままであった。
少女の頭上を、大きな鳥のような影が横切った。腹を空かせたそれは、回りこんで彼女の行く手を遮る。
「ぁ――」
声を詰まらせ、立ちすくむしかできない。
この地方でクロバットと呼ばれるこうもりの翼を生やした猫背の小型ワニは、その場ではばたきながら、ぬめり気のある爬虫類特有の眼で今晩の食事に狙いをつけた。
がぱりと大口を開けたクロバットを前に、彼女が頭をかばうように両腕をかざし固く目を瞑った瞬間、茂みから別の影が飛び出した。
「グルォォオ!!」
それは咆哮と共に空中のクロバットに喰らい付き、寸でのところでクロバットは空へと逃げた。しかしわずかに遅かったのか、尾の先が二寸ほど食いちぎられている。
「……!?」
乱入者に目を丸くした少女は、いよいよ腰を抜かし、座り込んでしまった。
地上で唸り声を上げるのは、豹のような滑らかな体毛を持つ、豹よりも一回り以上大きな四足歩行の魔物だ。例えるなら、翼のない竜と虎の合の子と言えば近いかもしれない。
食事を邪魔されたクロバットはしばし上空をうろついたが、やがて諦めて飛び去った。
竜とも虎ともつかない魔物の堂々たる風貌は、見方によっては神々しくすらある。呆然とその姿を見る少女は瞬時に閃いた。
「あの!」
クロバットが退散した今、次に狙われるのは自分だという危機感がすっかり抜けた様子で、少女は臆面もなくその巨躯の前に身をさらした。
「神様……ですよね?」
次いで、髪が振り乱れる勢いで頭を下げる。
「お願いします! 干ばつのリエステ村に、どうか天の恵みをお与えください。お願いします――!」
よかった。これで役目を果たせる。頭を垂れたまま、少女は涙ぐむ程に安堵した。
「コラ! 勝手に行くなって言ったろう!?」
唐突に、人の声。
想定外に反応しきれず少女は固まった。
声の主は、少年のように見える若作りな男だった。防寒用のマントの裾をうるさそうにつかんで、見た目の繊細さに反した大雑把な足取りで草を踏み分けて来る。
すると魔物は、ぽかんとしている少女には目もくれず、男に駆け寄って頬ずりした。
――神様が、帰ってしまう。
少女は焦った。
「ま、待ってください!」
男がぎょっとして、見慣れぬ少女を凝視する。
神の獣を従えた男に、少女は真顔で尋ねた。
「あなたが――森の神様ですか」
「はぁ?」
(くっ――! これは、私の運もここまでかしら――?)
レイドを駆りながら、右下へ急旋回。直前までいたその場所を、風の刃が駆け抜ける。ペルラを逃がさないよう、今度は正面から光魔法が放たれた。
それを大きく急降下して避けると、直後に急上昇。余程の乗り手でなければ、平衡感覚を失い酔っているところだ。
「退きなさい!!」
目一杯の気迫と共に、退路を塞ぐ二体の魔鳥にペルラは無数の水の槍を撃ち込む。
彼女から見て左の魔鳥は被弾を避けるために一時退いたが、右の小さな魔鳥はするりと槍を掻い潜ってレイドに肉薄した。
(く!!)
小回りの利く相手の方が、魔鳥同士の闘争では有利だ。避けようとしたレイドの左脇を魔鳥の嘴が切り裂き、空中で鮮血が散った。
「ちっ……!」
舌打ちと共に、ペルラもすれ違いざまにその乗り手を容赦なく撃ち抜いていた。
水の槍で肩を貫かれた人間が森に落下していく。しかし味方は助けに向かわない。天王山を前に、犠牲を払ってでもここでペルラを仕留める構えだ。
脇腹を裂かれたレイドは動きが鈍くなっている。圧倒的不利だった。
「くっ……くくッ……」
歪んだその口元から、嗤いが洩れた。
「く、くふ、あははははっ!!」
焦るでもなく、まして負傷した相棒を気遣う風でもなく、アリヤの元巫女姫補佐ペルラ=ミラウェイが『嗤っていた』。
「……なぁ」
ぴたりと、森でライアが足を止めた。
「俺、ここ知ってる」
ウィリアが銀髪を払いながら冷ややかに言う。
「ここいらの森なんて、どこも似たような風景よ。少なくとも、同じところを巡ってはいないわ」
ウィリアの態度が冷たいのは、歩き詰めで疲れているからだろう。
「いや、そうじゃなくって。俺、この場所に来たことあんだ」
その時は必死で走り回ったから、何となく辺りの雰囲気を記憶していた。
フェリーナが首を傾げる。
「え? でも……」
「――いや。そうだった、ライアはここを通ったかもしれない」
「う……それってもしかして、私達を閉じ込めた、あの――」
「そう。この付近だったよね、『彼』の住処は」
アルドの言う人物を、リーティスを思い出すのも嫌になって深くため息をついた。
そこで、アルドがふと考えるような顔をした。
「空はペルラが偵察に行ってくれてるけど、この森だって、誰が隠れてたっておかしくはない。野営は向こうから見つけられる危険も増すし、いっそ――」
「あの偏屈魔術師んとこ、訪ねてみようっていうのか?」
ライアは割と露骨に嫌な顔をしたつもりが、アルドは至極真面目に頷いた。
「あら?」
かの魔術師の住処だった小屋に、庭の菜園を手入れする娘の姿があった。彼女は来客に気付いてエプロンで泥を拭うと、警戒心のない笑みを向けた。
「何かご用でしょうか? あっ」
低い、大型の獣の唸り。
いち早く危機を察したリーティスが、後ろに立っていたライアを引っ張り出して迷わず盾にする。
「おいっ!?」
ライアが肩越しに文句を言う間にもそれは接近し、ビゼス、ウィーロス、ウィル、ウィリアが臨戦の構えを取った。
大型の虎のような魔物が姿を見せると、娘は必死でその首筋にすがりついた。
「だめです、ガルちゃん! この人達は悪いことはしていません!! きゃあっ」
娘の手をすり抜けて、魔物が跳躍する。リーティスはその眼前に貴重な生贄、もとい仲間の一人を潔く突き飛ばした。
「おまっふざけッ――いで!?」
前足で飛びつかれて、ライアは後ろに倒れそうになりよろめいた。
猫パンチならぬ虎パンチの勢いで飛びついた魔物は、四つん這いに戻り、腕くらい簡単に噛み砕けそうな顎をライアの手に寄せると、ざらつく舌でべろりと舐めた。
「ってて……。なんだ、お前、覚えてたんだ」
だが痛いものは痛い。胸に飛びつかれた時、微妙に爪が刺さったような。
「なんだ騒々し……、!!」
小屋からで出てきたのは、金髪の少年――に見えて、ライアよりも年上の青年。
彼はライア達を認めて有無を言わさず顔をしかめ、詠唱を口走った。ライアに擦り寄っていたガルダがぴんと耳を立てたのはその時だ。
「…… 分断せよ……!!」
小屋から一番離れていたビゼス達のすぐ背後、平らな半透明の壁が出現する。直後、森から複数の火炎が降り注いで、薄紅色のその壁に衝突して爆ぜた。
「何やってるセルミィ! 中に!!」
「は、はいっ!」
娘はスカートを翻し転げるようにして小屋の中へと避難する。魔術師は心底苛立たしげにライア達を睨んだ。
「まったく、人を訪ねる礼儀というものがなってないよ。どんな厄介事を運んで来てくれたのかい?」
「面目もありません」
襲撃者の紛れる森に目を光らせながらアルドが素直に謝ると、アーサーは不遜に言った。
「金輪際、僕の命令に従うと誓えるなら、全員、中に入れ」
その言葉に一同顔を見合わせるが、襲撃者は身を隠して機をうかがっており、迂闊に出て行ける状況でもない。アルドは、入ろう、と一同を促した。
庭に見張りのガルダを残し、自分が最後に入って扉を後ろ手で閉めると、アーサーは一気に魔力を解放した。瞬間、庭と小屋を包むように風の防護魔法が作動する。これで襲撃者の攻撃も容易には届かなくなった。
「――いちおう、確認しておこう。お前、『あの時の』騎士だな?」
「そうです、アーサー様。今となっては言い訳になりますが、このような形で貴方を巻き込むつもりは毛頭ありませんでした」
「ふん」
人間嫌いの偏屈魔術師は、半信半疑というように鼻をならした。小屋には、先程の娘の姿もある。
「あ。失礼しました、名乗りもせず。私セルミィと――」
「黙れ」
「ぅう……」
マイペースに自己紹介しかけた娘は、ぴしゃりと言われて涙ぐんだ。
「まず、僕達の方から名乗るのが道理ですね。私は、エスト大陸騎士団のアルディス=レンハルト。エストで起きた怪異の調査をしていて、ここにたどり着きました」
怪異、と聞いてアーサーの眉がぴくりと動いた。アルドは続ける。
「ここにいるライア、フェリーナ、リーティスは、以前の旅の縁で調査に同行してくれている仲間です。それと、こっちが」
「名くらい自分で名乗る」
にべもなく言う。
「ビゼスだ。こいつらとは今のところ利害の一致で行動を共にしている」
「同じく、ウィリアと申します」
なぜか胡散臭い営業スマイル。その弟達は通常通り。
「ウィーロスです」
「……。」
反抗的な下の弟の頭を、ウィリアがぐりんとつかんだ。
「で、このシャイボーイとそっちのが弟よ」
「痛て! 離せこのクソババア!!」
そんな姉弟を見るアーサーの目つきは据わっている。対してウィリアは、気持ちが悪いほどに愛想笑いを浮かべていた。
「じゃあ、質問だ」
アーサーが言う。
「今、外にいるあいつらは何だって言うんだい?」
ライア達は目配せし合い、最も人として害のないフェリーナが答える。
「あの、怒らないで聞いてください。あれは、多分私達と対立する――エスト大陸で怪異を起こした人達の仲間だと思います」
「じゃ、僕は通りすがりの君らに巻き込まれた被害者って訳だ。ってそこのお前」
「あら」
ぴたりと動きを止めたウィリアの氷の視線と、アーサーの視線が火花を散らす。
「動くな。さっきからこの小屋の『何を探ってる』?」
ライア達剣士には不審な行動と取れなかったので、恐らく魔力的な何かだ。
「バレちゃったらしょうがないわね……」
そうやって肩を竦めたかと思うと、ウィリアはいきなり杖の先端をアーサーに向ける。
「ウィリア!? やめてください! っ!?」
「なんだ!?」
声を上げたフェリーナとライアばかりでない。セルミィを除くその場の全員が、瞬時に見えない空気の枷で四肢を縛られた。
ライア達の自由を奪ったアーサーは微動だにしないまま、怒気を孕んで上目遣いに訊く。
「――どういうつもりかな?」
冷汗を流しつつも強気にウィリアが言う。
「あら、だっておかしいでしょう? このタイミング。この小屋に『来たところで』私達は襲われた。疑いを晴らしたいなら、ちょこっとその扉の奥、のそかせてくれるかしら」
「断る!」
アーサーに、初めて動揺の色が浮かんだ。
「待てよウィリア!? もしかして、アーサーが敵で、ここにリレーコアがあるとか考えてんのか??」
「可能性はあんじゃないー? だってホラ、そこの人ならあれくらいの術組めそーだし」
ライアの指摘をウィルが緊張感無くからからと笑った。
アーサーの顔から表情が消えた。
「もしそうだったとして、君らに勝ち目はないよ。この小屋の中で、僕は無敵だ」
「そうかしら?」
ウィリアの眼はあくまで不敵だ。
「仮にここにいるのが『貴方だけなら』、私達全員を好きなようにできるわね。でもどう? 例えば――彼女」
ウィリアの色の薄い瞳がセルミィを捉えた。
「あのコを守りながら、ここにいる全員を同時に相手できるかしら――?」
アーサーは、表面上顔色を変えない。その次の瞬間、ウィリアの表情が苦悶に歪んだ。仲間からは後ろ向きなので見えないが、彼女が振り解くように頭を動かす動作からその異変は伝わる。
ウィリアはもがくが、声が出ない。手足を縛る枷と同じようなもので首を締められているのだった。
「カッ! かふっ……」
締め付けが緩むと同時、ウィリアが咳込んだ。その様子を意地悪く見詰めて、アーサーは言う。
「ところでおたく、相当魔力高いけど――もしかして、『銀髪の魔女』?」
「けほっ……何か、不都合でもある、かしら……?」
震え上がったのはセルミィ。銀髪の魔女と聞いて怯えるのは、一般的な人間としては普通だ。だが、アーサーは違う。
「はは、まさか本物なんてね。討伐されたっていう話だったけど――やれやれ。これで交渉の余地が広がった。さて、僕は外で待ち構えてる奴らに君らを売り飛ばせいいのかな? それとも、生け捕りにした魔女を騎士団に引き渡してこちらの要求を飲ませようか。さもなければ――」
アーサーは試すように一同を見渡した。
「君らに組する利点が、僕にあるのかな……?」
アーサーが完全にアリヤ側の人間なら、問答無用でライア達を始末すれば良い話だ。
そうしてこないという事は、利害関係によってアリヤと関っているか、はたまた全くの無関係だが、ライア達を好きにできるこの状況に打算を働かせているかの二択である。
それを確かめるため、アルドはまず人間嫌いの魔術師に誠意を示した。
「まず、仲間の非礼をお詫びします」
「謝られても、何も戻って来ないさ」
取り付く島もない。その上、
「あれは根っからの魔女だ。銀髪の魔女(ほんにん)だとか関係なく、口塞いで黙らせといて文句はないと思うぞ」
ビゼスが口を挟むので、話がややこしくなる。ライアが突っ込んだ。
「いや、そうだけど、そうじゃなくって! ――アーサーさん、信用できないなら枷はこんままでいい。けど、外の奴らの正体が何者で、怪異がどんなものなのか、それだけは聞いてくれ」
「ああ、聞こうじゃないか」
ライア達の方から簡単に事情を説明すると、アーサーの口からは吐息が洩れた。
「へぇ。魔法でそれだけ広範囲の時を止める、か。ちょっと興味があるね」
人の世と隔絶した生活を送る彼に、良心を期待したのが間違いだったか。
「知っての通り、僕はなるべく人となんか関らないで生きていたいんだ。それだってのに、最近妙なのが転がり込んで来たばかりさ」
そう言ってセルミィを横目で睨む。それから独りでぶつぶつ言った。
「人を寄せ付けないために、金はあって損にはならない。だけど、あれだね。仮に君らの身柄と引き換えに大金が手に入っても、その計画とやらが進行すればノーゼでも怪異が起きる訳だ。エストの例から見て、いきなり大陸全土の時を止めるってのは難しいだろう。となると、怪異のお陰で周辺が静かになるどころか、世上が乱れて、まぁた安易に僕の力を頼って訪ねてくる奴が増えるって理屈さ。――そんなのは御免被るね」
ふ、とため息と同時にアーサーが指を鳴らすと、ライア達の枷が外れた。
「何? これはどういう事よ!」
ウィリアだけはなぜか枷が外れない。
「お仲間のありがたい忠告に従っただけさ。セルミィが怖がるし」
「あははは、マジ最高!」
姉の窮状に笑い転げるウィル。そんなウィルをじっと見て、アーサーは若干首を傾けながら述べた。
「てか、今はそこの魔女の方が上だけど、将来、君の方がおっそろしい魔法を使ってそうだ」
「そ? やっぱそー思う?」
ウィルもまんざらではなさそうだ。魔法に精通した者からの見解と、無知な者による感想とでは、ウィルにとって雲泥の差らしい。全く同じことを言われようが、後者なら『オレ天才だし?』で済ますところだ。
フェリーナが言う。
「それで――アーサーさんが敵対しないでくれるのなら、外の人達を、私達でどうにかしないといけませんね」
アーサーが制止する。
「待ってくれるかい。ここを出てくなら、一度外の防護魔法を解除しないといけない。迎撃するのは、方針が定まってからにして欲しいね」
ひとまず和解の姿勢を見せたアーサーだったが、奥の部屋だけは頑として非公開の事実に、リーティスが不信を露にする。
「ねぇ、そっちの部屋、どうして開けちゃだめなの? 疚しくないなら見たって問題ないじゃない!」
「うるさい!!」
フェリーナが、腰くらいの高さを手で示してセルミィに尋ねる。
「あの、そこのお部屋、この位のオレンジ色の水晶とか、魔法陣とかあったりします?」
「ぇえ? 魔法陣……魔法陣なら床にあったと思いますけど……」
「黙っとけ、セルミ!!」
「む。」
聞きつけたリーティスと、ついでにそこにいた師匠が手を貸して、アーサーを扉の前から退かす強行に出た。
「あ!!」
ビゼスに捕捉されリーティスに脇を抜けられたアーサーが叫び声を上げる。開放された扉の先には、何だかよく判らない魔法陣が床に3つ、それに左右の壁際に一つずつの寝具。
「ぇ……? あれ……?」
扉を開けた当人が困惑する程に、特に怪しい物が見当たらない。アーサーが喚く。
「ぅうう、しょうがないだろっ!? 玄関は邪魔だし居間じゃ景観崩れるし、奥の部屋は薬品だらけなんだから、一緒の部屋だって文句あるか!!」
どうも、この大魔術師殿は自分の寝具を居候に貸すのは我慢がならず、かと言って、女子を板敷きの床に放り出す度胸もなかった事実を、遠まわしに弁明しているらしい。
「えーと」
考えて、リーティスは開けた扉をぱたんと閉めてお辞儀した。
「すみません」
「〜〜ッ!! これだから人間てやつは!」
後から枷を外されたウィリアがセルミィの耳元に囁く。途端に彼女は顔を赤くした。
「いっいえ! そんな関係じゃないです! 私あの、ほんとは食べてもらわなきゃいけなくて!!」
半ば混乱しているセルミィの迷言に、リーティスは呆然としてしまい、ライアは口元を押さえて赤面しながら視線を逃がした。
「はぁ……。すみません、最初からちゃんとお話ししていれば――」
給水して落ち着いたセルミィが誤解を解くのに、5分を要した。
彼女の生まれた村は、長い日照りに苦しめられていた。そこで、彼女は雨乞いのための生贄として、森の神に捧げられることになった。森の神――つまり、狼や熊などの獣の供物となることがセルミィの本来の役目であり、村の困窮を身に染みて感じていた彼女は、その役を拒まなかった。
しかし、森に入って獣に食われかけた彼女を偶然ガルダが救ったことで、事態は変わった。見た事も無い姿をしたガルダを、一目見てセルミィは神の化身と思い込んでしまった。ガルダの姿は、村を出たことのない田舎娘を勘違いさせるには十分だったのだろう。その神の化身が、若造にしか見えないアーサーに従うのを見て、彼女の勘違いは更に飛躍した。
「初対面の人間に、いきなり神様ですかはないだろう?」
思い出して、苦い顔をするアーサー。その誤解は解けたが、ガルダの事はやはり神の化身と信じて疑わないセルミィは、自分はガルダに食べられなくてはいけない、と言って譲らなかった。
「よせ! こいつはお前みたいな不味そうな奴、歯牙にもかけないさ。どこにでも消えろ」
「ぅう、困ります――……」
もとより、彼女に帰れる場所はない。村へ戻れば皆の落胆と絶望を呼ぶばかりだし、別の町へ行けばどこかでセルミィの身元が割れてしまうだろう。
何よりセルミィ自身、義務感の強さ故に、生贄の役を果たす以外の選択ができなかった。
「……だったら、」
アーサーは言った。
「ガルダが神の遣いだって考えを改めないなら、その主(あるじ)である僕に仕えろ。要は『神に身を捧げれば』務まるんだな? 下働きにだったら、ここでこき使ってやる」
セルミィは初めて笑顔になって返事をした。
「はいっ」
――そんな経緯を説明した本人が、ライア達の前でため息をつく。
「……でも、やっぱりまだ、ガルちゃんがその気になってくれなくて――」
アーサーが舌打ちする。
「このアマ、まだガルダの餌になる云々と抜かすのか! 諦める気がないなら、いっそ出てって他の獣に食われろ」
そう言いながら2ヶ月半が過ぎているのである。さりげなくウィリアが言う。
「でもきっと、あれは出てった後一週間は落ち込むクチよ?」
あまつさえニコリと笑いかけながら、魔女はセルミィにある事ない事を吹き込む。
「ガルダ(かみさま)に捧げられた身だってなら、いっそ、そのぬしと結婚しちゃったらどう?」
「え、それは、ちゃんとガルちゃんへの生贄ってことになるのですか?」
セルミィが不安そうに問う。天然のようだ。向こうでアーサーは頭痛がするように頭を抱えていた。
と、窓の脇でガタンと音がした。
アーサーを筆頭に窓をのぞきこむと、ガルダが太ったねずみを捕まえたところだった。ふぅ、と杞憂の息を吐く一同。
だからこの時、ガルダが捕えたねずみから小さな紫色の光が飛び出て、ガルダの口へ飛び込んだのを、誰も見ていなかった。
「――? なんだお前、疲れたかい?」
ガルダの瞼が重いので、アーサーは表の扉を開けて入れてやった。先ほど風の防護壁を作動させているから、よほど強引な手段を使わない限り、外からは侵入できない。さっきのねずみも、アーサーが扉を閉める時、既に庭に入り込んでいた事になる。
「――で、表の奴らはきっちり君達の手で片付けてもらうけど、それからどうするって?」
「リレーコアって物を壊さなきゃいけなくて……」
飼い主とライア以外には凶暴なガルダを横目で警戒しつつ、リーティスが言う。
リレーコアがどういったものかを聞くと、アーサーはあっさりと断言した。
「ああ、それならヴィータ渓谷の『底』だね」
「な!? 怪異のことなんて、今知ったばっかじゃなかったのか??」
「フン、馬鹿を言うな。僕はずっとここで魔法の研究をしている。近くの魔力の流れが変われば、そりゃあ気付くさ。暇潰しにその原因の場所を特定したら、あの深い谷底ときた。そこで僕は調査を断念したね」
アーサーの情報提供は渡りに船だ。しかし、同時に新たな問題が浮上する。
「あの下って――どうやって……」
口走ったところで、ライアは答えが判っていて判りたくない自分に気がついた。
リーティスを盗み見る。彼女は顔面蒼白で固まっていた。やらなければという心と、恐怖する心とが、彼女を縛って動けなくしている。
あれを、もう一度やれというのか。あの魔法で命を落としかけた彼女に。しかも、今回は……
「行けたとしても、もうそこへ行った人間は帰って来られないね」
アルドの冷静な一言。だが、ライア自身のことに限るなら
「いいよ、俺」
国を元に戻すためというなら許容範囲内だ。
「下行ってクリスタル壊した後、一生アルカディア(あそこ)で過ごす事になんだけだろ? だったら、そんなに悲観的になる事じゃない」
「貴様、光の届かない地の底でのたれ死ぬというのか?」
「いや、待って兄さん。あそこって、僕達が戦って――」
「うっわ。オレ達落とした当人なのに忘れてた!」
「……それは酷いね。だけど、そう。僕らはこの目で人が暮らす集落を見たんだ。夢じゃないよ。何せ、あそこでひと月暮らしたんだから」
そこで、リーティスを慮ってフェリーナが谷底での出来事を補足した。リーティスはあのひと月、魔力を使い果たして回復の見込みがないまま、昏々と眠り続けた。
「「「「 …… 」」」」
そこまで聞かされてリーティスに無理強いできる程、彼らも厚かましい連中ではない。
何よりリーティスが『その魔法で死に掛けた』恐怖を払拭できない限り、魔法の失敗はほぼ確定している。深層心理を含めた術者の精神状態は、術の発動に一番大きく作用するところだ。
リーティスは、白くなる程拳を握り締め、必死に恐怖と迷いに打ち勝とうとしている。
そこへ、
「――そこへ行けば、もう騎士やらどこぞの遣いやらの煩わしい訪問を受けることもない、か……」
アーサーだった。人間嫌いも、ここまで徹底するといっそ気持ちが良い。
「じゃ、僕が谷底まで一人運べば、万事解決って事かい?」
アーサーの眼は本気だ。確かに彼ならばリーティスに伝授した魔法のオリジナルを使えるし、魔力の許容量が高いので、瀕死に陥る心配もない。
唐突な展開にセルミィを見遣ったウィリアは、アーサーに何か言おうとして、しかし後悔の表情のまま何も言うことのできないリーティスに気付き口を噤んだ。当事者でない彼女に、口を挟む権利はない。
周囲の沈黙を肯定と捉え、アーサーは言った。
「じゃ、セルミィ。ガルダは任せた。お前は生贄として、かみさまがこの姿での天寿を全うするまでは仕えるんだからな。それと薬品のある小部屋はほっといてくれ。触ってろくなことにはならない。むしろ、トロいお前は永久に立ち入り禁止だ!」
セルミィはきょとんと瞬き、それからアーサーの意向を受け入れた。セルミィは神に仕える巫女のように、美しい角度で一礼をした。
「ありがとう、御恩は一生忘れません。私を救ってくれたアーサーさんは、やっぱり、神様みた……」
セルミィは頭を上げて、泣き笑いになった。
「あれ――? おかしいな……救われなきゃいけないのって、私じゃなくって、村の方なのに――」
アーサーは照れ隠しで顔を背けてしどろもどろに言う。
「お前は、できる事はしたんだろ? その覚悟はしかと神に見せつけたんだ。あとは雨神の気まぐれ次第だろうさ」
どうやら本気で引き受けるらしいアーサーに、アルドが念を押す。
「本当に、ご協力いただけるのですか」
「勘違いするな。僕は僕の安寧を求めたまでだ。その集落の話、法螺でないのだろう?」
フェリーナが首を縦に振る。
「本当――です」
「よろしい。見事じゃないか。僕は、最低限の近所付き合いをするだけで、余計な邪魔をされずに一生を過ごせる訳だ」
話がまとまる一方、こっそりリーティスだけが壁側を向いた。その隣には、壁に背を預けてリーティスとは逆の方を向くライア。
「なんで――」
その声には、二度と戻れない事を簡単に決めてしまったライアへの反発と、決断できなかった自分への自責が痛い程に滲んでいた。小声でライアが返す。
「――バカ。そっちのが普通だろ。俺はこの前まで呪いで死ぬ覚悟してたから、こんなこと簡単に決められただけだ」
「……。」
決してリーティスの方は見ない。強がりな彼女は、悔し涙など他人には見せたくないだろう。
アーサーは、部屋の隅で丸くなっていた巨大な毛玉に近付いて、その毛並みを撫でながら語りかけた。
「ガルダ、セルミィを頼んだ」
アーサーを虚ろな黒目で見たガルダは、
「危ない!!」
「ッ!?」
主人に喰らい付こうとして、"気"をまとったウィーロスに妨害される。
「グルルル……」
ウィーロスと力比べをする顎からは涎が垂れ、闘争心でギラギラ眼を光らせている。
「ガルダ!」
飼い主自らが、その鼻先に魔法を放つ。いかに腕力に優れても人間であるウィーロスがガルダに力負けする前に、ガルダの巨体を空気の枷が縛った。
動きを封じられたガルダは、殺意を撒き散らすように唸りながら身を捩った。
「どうなってんだ……?」
今のガルダは、相手がライアでも構わず襲ってくる様相だ。
持ち前の怪力でも枷が外れないと知ると、ガルダは途端にしおらしくなる。
続く異変は、予期しない人物の方で起きた。
「あ、ぁあ……ッ」
セルミィの体が直立したままレンガ二つ分ほど宙に浮き、彼女は不可視の力に抵抗できずに緑の瞳を見開いて震えながら鼻から口元にかけてを両手で覆った。手の甲に、ザワザワと黒い紋様が走る。
(くっ……!)
即座に事態を把握できたのは、わずかにアーサー、ウィル、ウィリアの3名。ガルダからセルミィへ乗り移った何かが、セルミィのすべての魔力、すなわち生命と引き換えに、この場の全員に向けて何らかの魔法を放とうとしていた。
姉弟の考えが咄嗟に及んだのは、最悪の事態の回避のため、セルミィの命を絶つこと。これではどの道、彼女は助からない。
そして、アーサーは
「ふ……っざけるな……!」
ウィルもウィリアも知らないやり方で、セルミィの中にあるモノを引きずり出そうとする。額の汗と、切羽詰った表情から、アーサーの力を以ってしてもそれが困難な事であると解る。ウィルとウィリアは、最終手段である攻撃魔法をぎりぎりまで先延ばしした。
「……ッ!!」
アーサーの顔が歪む。セルミィから弾かれるように飛び出た紫の光が、アーサーの胸に吸い込まれたのだ。
うずくまり、苦しそうに胸の辺りを押さえているのは、あるいは『それ』を自分の内にとどめようと足掻いているからかもしれない。
「くぅ――、おい銀髪――っ! 僕を、『囲え』……っ!!」
意味を理解したウィルが、アーサーを中心にバリアを展開して隔離した。直後、アーサーの魔力(いのち)を削って、彼の意思とは関係なく魔法が発動する。
ブワ……ッ!!
アーサーの身体から無数の黒い帯が迸り、バリアの内でのた打ち回った。
悪夢のような瞬間が過ぎ去ると、黒い帯は消滅し、ウィルのバリアも消える。うずくまったアーサーは、ぐらりとバランスを失って前のめりに倒れた。
「……やったか?」
仲間の押し殺した声に、術者は額にびっしりと汗を浮かべて息を整えながら答えた。
「ええ……最後に乗り移った相手は若干抵抗してきたから、『目』と『耳』までは奪えなかったけど――魔法を発動した感触は、確かにあった」
「……そうか」
仲間達に安堵の色が広がる。
今しがたの術で、紫に発光する『媒介』を通し、敵がリレーコアの場所を特定したこと、そこへ行く手段を持った風使いがいることを知った。そこで最も非力そうな娘に『媒介』を移し、彼らが谷底へ近付けないよう、娘にある魔法を使わせた。
直前で妨害が入ったが、代わりに妨害した人間を操って同じ魔法を発動させたので、敵は今頃――
「来たか」
術者を倒したところで解けぬ術とも知らずに、のこのこと現れたようだ。
敵は既に、リレーコアへたどり着く手段を失っている。相手にせず、このまま退却しても良い。
「――どうするの?」
「折角あちらから出向いて来たんだ。きっちり片はつけるさ。ご苦労、お前は休め」
疲弊した術者を残し、10人の仲間が敵を迎え撃つため戦線へと出る。魔鳥を駆る別働隊にキャンプに残した通信・衛生の担当や職人まで含めると総勢26人がこのヴィータに入り込んでいた。
敵の指揮官はダークブロンドの美男子だ。彼は身振りで味方に開戦の合図を示す。黒髪の剣士と赤髪の剣士が先陣を切って、金髪の娘がそれに続いた。
交戦の最中も、敵は声を発しない。後衛に武器を持たない術者の姿も見えたが、彼らも先天性魔法のみで戦っている。
その意味するところを確信して、彼らはほくそ笑んだ。
丁度その時、戦場に小さな紫の光が紛れ込んでいたのに気付いた敵も味方もいなかった。
アーサーの身体を通して発動したのは、『声』を奪う魔法だった。
声が出なければ当たり前のように後衛の戦力が低下する。詠唱を必要とする光魔法と闇魔法、威力や精度の高い上級魔法はもちろん、フェリーナの回復魔法も後天性のため、詠唱が必要だ。
反面、ウィルのバリア、リーティスの催眠魔法、ビゼスの雷、フェリーナの水の竜などは先天性なので声が出なくとも使える。ただしその分、安定性に欠く。
ライア達は10対8の人数差をうまく連携でカバーしているものの、向こうも精鋭、戦況は一進一退だった。
事態打開の強攻策に出たのはビゼス。敵が集まる場所に、狙いよりも威力を重視した雷撃を撃ち込んだ。
その時、ビゼスはある種の感覚に見舞われた。
――即刻中断しなければ、このままだと『呑まれる』。
暴走すまいと抗って、一度だって抗しきれた試しはない。嵐の海に投げ落とされた無力なヒトのように、もがけばもがくだけ水を飲み、意識をさらわれる。
しかし、今のビゼスは魔法を中断するつもりもなければ、抗う気もなかった。
(この力は母のもの。この身に流れる血は父のもの。ならば――)
押寄せる強大な圧力に逆らわず、黙って嵐の海に投げ出される。
(……どちらも『私』だ)
すとんと落ちた先は荒れ狂う波間ではなく、穴の底だった。
アルドは冷静に戦況を判断する。相手に増援がなければ、どうにか押し切れそうだ。
そう思った直後、背後からぞわりとする気配が伝わった。
「ふふふ、あはははっ」
前からの敵はライアが対応すると信用して後ろを向いたアルドの目に、哄笑する美人が映った。レイドの姿はない。彼女は病んだ瞳で、立て続けに魔法を放った。
「!」
アルドは掠りそうになったそれを冷静にかわすが、今のは味方を巻き込んで不思議はなかった。
その頃、前線のビゼスは人ならぬ速さ・冷徹さ・正確さをもって手近な敵を斬り刻み始めていた。その動きは暴走状態のそれだ。まともな抵抗をできないまま4人がその剣の露と化す。
だがその諸刃の力が敵を追い込み、勢いに乗ったライア達が遂に勝利を収めた。
誰もが、手練れ相手の乱戦のため、味方の状況を即時把握できていない。何人かはビゼスの変化には気づいたが、彼らも『他の仲間』にまでは気を払わない。
無防備なリーティスの背に向けて、ライアは剣を振りかぶった。
(つ、ぁ――!!)
避けろ、そう叫びたいのに、声帯までが術者の支配下にある。自身の意思とは別に、情け容赦ない速さで剣を振り下ろした。細身の少女の体など、それで簡単に裂けてしまう。
耳障りな音と共に、両腕には重たい痺れが走った。
この時ほど幼馴染に感謝したことはなかったかもしれない。アルドがその大剣をもって、ライアの不意打ちを防いでいた。斬られる所だったと気付いたリーティスは愕然としたが、一部の仲間はそれを好期と見た。
「なーんつぅか、大ハズレ?」
ウィルが公然と術者を罵る。
「このメンバーでライア狙うとか、運なさすぎー」
先程まで先天性魔法だけで戦っていたのは、敵に上手く事が運んだと思わせるための作戦だ。
美しくも無慈悲なウィリアの氷が、ライアの四肢を凍らせる。
「アルディス、やりなさい! 光魔法なら潰せるわ――!」
「解った」
心得たアルドは、動けないライアに光魔法を見舞った。
人間であり、しかも異常に魔法抵抗の高いライアは、後にその衝撃を『机の下でうっかり立ち上がろうとして頭とか背中打ったくらいの感じ』と語っている。
無論、アルドは手を抜いていない。その証拠に、ライアの内にあった『媒介』は光魔法によって霧散していた。媒介を破壊され気力を使い果たした術者は、今頃どこかで伸びているだろう。
氷が解けて自由になったライアは、即刻剣を構え直した。切羽つまったその赤い瞳が捉えるのは、間合のリーティスや幼馴染ではない。
『それ』に気づくとペルラを除く全員が身構えた。
「…………」
注目のその人は、黙って周囲を見渡した。冷汗まじりにウィーロスが呼びかける。
「に、兄さん――……?」
「?」
鈍い金の目をしたビゼスは首を傾げた。その挙動に、ライアは引きつった顔のまま、剣を持っていない片手で自分の瞳を指差した。
それを受けてビゼスは流れるように片方の剣を納め、広げた手を自身の目の辺りにやる。
「戻ってない――か?」
呆けた返答があったので、一同、肩の力を抜く。瞳は金のままだが正気のようだ。
「どういう事だい」
アルドが訝しげに問う。
「知らん。」
さしあたり、その素の態度は操られているのとも違う。
味方から警戒されまくっているのでビゼスはもう片方の剣も納め、目を一度軽く伏せた。
「……。まだ、そのままか」
瞳の色を確認して、ライアとリーティスが言葉を洩らす。
「いや――」
「戻っ、た……」
ビゼスは小さく息を吐き、誰にともなく吐き捨てる。
「よもや、開き直りが鍵だったとはな……やってられん」
こうもあっさり暴走を回避できたとあっては、今までの苦労が馬鹿馬鹿しくもなる。暴走への恐怖と、力を無理矢理押さえ込んでいた事が逆に反発を生み、暴走へつながっていたのだ。
そうは言っても、幼少の頃のビゼスでは、やはりこの力を暴走させるしかなかっただろう。身も心も成長した今だからこそ、このように意識を保てたのだ。
かくしてビゼスの件が片付くと、アルドはもう一人の要注意人物を振り返った。
「で、さっきのは一体何だったのかな? ペルラ」
「え? 何、普通でしょう? 魔法使いすぎてテンションが上がっただけ」
さらりと言うが、よく見ると彼女の手や服はところどころ血にまみれていた。フェリーナが血相を変える。
「ああ、これ? 返り血よ。それと、レイドの」
指先をぺろりと舐める。その行為にも薄ら寒いものがある。
「って、レイドはどうしたんだよ!?」
ライアが急き込むと、ペルラはハイテンションの反動のようにだるそうに瞳を上げた。
「大丈夫です! まだ、これなら――!」
林に残され、血を流しながらぐったりしていたレイドに、フェリーナは迷わず治癒魔法を使った。
この場で一番心配をしていいはずの人間が、殺伐と告げる。
「アリヤを離反シた時点で、こうなルのも覚悟の上だったワ――」
「そんな!! ……どうして、そんな風に言えるんですか――!」
フェリーナの非難の眼差しに、ビゼスが返す。
「いや、ヒトとしての感情がどこか『抜けてる』のは、むしろ兵としては普通だ」
納得がいかない顔のライア、フェリーナ、リーティスを、ウィルが苛々と問い詰める。
「オレとか見て何も思わねエ? 兄貴みたいなのは特別。精神が弱いフツーの人間は、正常(マトモ)じゃコロシアイなんてやってらんないって」
殺すか殺されるかの極限状態が続くうち、ヒトは精神を病んでいくか、平時では人に受け容れられない趣味嗜好を曝け出すか、ただひたすらに鈍感になっていく。ウィルは『壊れない』ために、『ヒトを嬲り殺すことが快感』という破綻した性格を作り上げた。
そうこうする間に、レイドが弱弱しく目を開けた。その黒目がペルラと交わると、彼女は逃げるように視線を逸らした。あるいは、度々レイドに命令違反をされている引け目さえなければ、ペルラの側だって対応が違っていたはずだ。
魔物を手懐けるテイマーとしての腕は巫女姫にも認められたはずの彼女が、卵から育てたレイドにだけはなぜか手を焼き、舐められている感覚が今も拭えない。
そんな複雑な主従を前に、アルドは諌めるように言った。
「ともかく、レイドが動けるなら一度小屋に戻ろう。あっちもどうなってるか心配だ」
小屋の近くまで来ると、一行はぴたりと足を止めた。それ以上近付くと風の防御魔法が発動するので、ライアは両手を添えてその場から大声で叫んだ。
「おーいっ!」
すると中から金髪の主人が不機嫌に姿を見せた。
『媒介』を取り込んだ時、アーサーは全力をもってそれに抵抗した。さもなければ――またそれがアーサー程の魔法使いでなかったなら――体中の魔力を魔法に持っていかれて命を落としていただろう。
幸い、ウィルのバリアが功を奏して周りに危害は及ばなかった。けれども、バリアの内にいたアーサー自身はその魔法で声を失った。
「――――、――!!」
どうしてくれるんだ、と唇を読むまでもなく、態度でアーサーは語る。彼は多くの先天性魔法を習得しているので、小屋の防御魔法などに変化はない。
流石に来訪者9人と住人2人が詰めた居間は手狭だった。庭では、ガルダがおいしそうなレイドを見詰めている。……惨事にならないと良いが。
声が戻る見込みについては、アーサー自身がきっぱりと否定した。曰く、この手の魔法は強烈で、術者が死亡しても解けず、術を受けた2年後、3年後に魔法の効果が薄れるかどうかは、天運に任せるしかないとのことだった。
椅子にかけ、忌々しげに腕を組んだアーサーは、ライア達に最新の報告を要求した。
接触した敵については全滅させたと聞くと、彼はひとまずは落ちついた様子で、これからどうするつもりかと尋ねた。
皆の視線が向く前に、彼女は自分から名乗り出た。
「――私が」
怖くないと言えば、嘘になる。地上に未練がないと言うなら、それもまた嘘だ。
ここでできないと言えば、それを責める仲間はいないことは知っている。だけど、今諦めたら自分はそれを一生後悔するだろう。
魔力が尽きたとしても、その時はライアがいる。だから、魔力を使い果たして死ぬことはない。そう信じる。だから、魔法は失敗しない。
アーサーは、声を失うというとばっちりに腹を立てはしたが、ライア達に一晩居間を開放するのは認めた。
そして、谷への移住は保留とした。成功するか定かでない他人の魔法に便乗できないというのが一番の理由だったが、先の襲撃で、ガルダやセルミィについて、思うところがあったのもまた確からしい。
就寝までの間、アーサーは自室に引っ込み、フェリーナは例の小部屋でセルミィにあれこれと薬草の講義をしつつ、合間には女子トークに花を咲かせた。
ペルラとウィーロスは庭だ。今日は星が出ていて、魔物達とペルラはそのまま外で過ごすつもりらしい。ウィーロスは就寝前には戻って来るだろう。
寝る場所については、女性陣が中、男性陣が外ときっぱり線引きをしてもよかったのだが、今日は何となくそうする気になれなかった。
多分これが、このメンバーで過ごす最後の晩だ。
ビゼスが窓際、アルドが玄関近くの壁にもたれて眠り、ライア達も床で雑魚寝をした。両手に花、川の字で挟まれたリーティスは、フェリーナに手を握られ、お姉様に抱き枕よろしく抱きつかれながらも、寝苦しいと文句を言わなかった。
迎えた翌朝、アーサーとセルミィに礼を述べると、一行はヴィータ渓谷に移動した。
「まさかまた、ここに来るとはな――」
言ったのはビゼス。
ここはかつて、ウィルとアルドが戦った地だ。
「最後に、伝え残した事はないかい」
アルドに問われ、ビゼスはニヤリと笑った。
「私はもう、教える事は教えた。最後くらい、貴様の本気を見せてやったらどうだ」
「……――そうだね」
困ったような微笑で、アルドは応じた。
(アルドって、こんな強かったのか――)
最後の手合わせを終えて感じたのは、そんな事。
常ならば、実戦演習はビゼスの担当だが、今回は違う。アルドと弟子達の対戦に、ビゼスが立会人となった。
一戦目でリーティスが敗れて、二戦目のライアも本気のアルドには敵わなかった。
「ふん。言う事ナシだ」
それでもビゼスは太鼓判を押して、二人を送り出した。
「お幸せにィー? ケドその前に、ちゃんとリレーコア壊してよ〜?」
ウィルは最後まで生意気なスタンスを崩さない。
「ったり前だろ!? そっちこそ、しくんなよ……?」
「だぁいじょうぶ、なんたって、こっちはこのお姉様と無敵のメンバーが揃ってるもの!」
「アリシアちゃんや先生たちに、よろしく伝えてください」
ウィーロスが無骨な手を差し出す。
「ライア、リーティス。友達になれてよかった」
「ああ、俺も」
「うん!」
三人で握手を交わす。
アルドが言う。
「頼んだよ、二人とも」
アルドを正面から見て、ライアは答える。
「行ってくる! 運がよければ、56年後」
そう言ってにっと笑う。リーティスも声を投げた。
「みんなも……それまで無事でいなきゃ、承知しないんだから!?」
「はいはい、おばあちゃんになって、気長に待ってるわ」
そして二人は崖に立つ。震えていたリーティスの手は、ライアがつかむと収まった。
リーティスはここにはいない兄へ、決意を伝える。
(ごめんなさい。私はセーミズには戻れないけど――私の仲間が、きっとやってくれるはずだから……!)
――見守っていて、兄様――!
手をつないだ二つの影が、谷に吸い込まれる。
渓谷の乱気流に巻き込まれないよう、上空からその様子を見守っていたペルラは、リーティスの風魔法が発動したらしい軌跡を見届けて、崖の上の仲間に成功のサインを送った。
風は強い。しかし空は晴れ渡り、進行には絶好の日和だった。
「行こう!」
アルドの晴れやかな掛け声と共に、6人と上空の1人はエスト行きの港を目指した。
(レイファス殿下と思しき人物が、この近くで何者かに襲われ今も敗走中――か。それこそ、偽の情報かと疑いたくなる内容だが……さて、どうしたものか)
「話の人物が人物だけに、無視という訳にもいかぬが……どう思う。背後にどこぞの国が絡んでるというきな臭い話も聞く。わたしは、今のうちは静観が良いかと思うが」
国王その人に問われ、その者はあっけらかんと返した。
「何を仰られます。今こそ殿下をお助けし、売れるだけ恩を売っといた方が、後々何かと便利でしょう。でなきゃ、この前仔兎ちゃんを助けた恩まで台無しですよ。売れる恩は売っておく。後で要らなければ捨てればいいんです」
実を言えば、王も救援に全くの反対ではなかった。弟を軽く試すつもりで話を振ったのが、あけすけな物言いに逆に泡を食う羽目になった。
「……つくづく、お前が弟であるのが恐ろしいよ、わたしは」
「やだなぁ、兄さま! 僕は表に立つより裏で暗躍する方が向いてると、常々思っていた所です。だから、兄さまにはまだまだ壮健で頑張っていただかないと!」
「それで、裏からお前が支配する、と」
「人聞きが悪いなぁ……心配しなくても、兄さまを失脚させようなんて思うのは、余程の事があった時だけですよ」
「お前はわたしの死神(ジョーカー)か?」
「ま、ぃんじゃないですか。それで、救援には僕の私兵を動かします。いいですね?」
とんとん拍子に事を進めるシキに、シヨウは閉口した。
「――もう、兄は何も言うまいよ……」
ノーゼの一地方を、決死の行軍をする一行がいた。彼らの仲間に瀕死の重傷を負った者も出ていたが、その守りに動ける者を置いてくるような事をしなかった。行軍可能な者を総て率いて行く様はどこか悲壮で、彼らもまた仲間のように殉ずる意気が見て取れた。
行く手には、彼らを待ち伏せる一団が息を潜めて機を計っている。それを知りながら、彼らは歩みを止めない。最期まで逃げずに戦い抜くことが、王宮騎士としての誇りだった。
そこへ、待ち伏せた一団と彼らが接触するよりも早く、どこからか蹄の音が響いてきた。その音で、一行は覚悟を決めた。
(ここまで、か――この間の覆面の軍隊か? 雇われた賊か……? いや、あの旗は――)
現れた騎馬隊は、白と水色の紋章を掲げていた。物々しい武装の兵士達に混じって、一際煌びやかな衣を真新しい鎧で覆った青年が、何か探すように一行を見渡した。
彼は目的の顔を見つけると、馬上で腕を掲げ声を張った。
「よ! ジロット」
「ショ――シキか……貴公」
信じられないといった目で、エメラルドの瞳が馬上の皇子を見返した。
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