STAGE 37 shall we dance? 〜瑠璃の夜会〜



 ライアに呪いの残滓がないことを確認して、ウィリアは腕から垂直にすとんと腕輪を抜き去った。
「お疲れさま」
 腕輪が外れたのは何十日ぶりだろうか。ライアはある種の感慨と共にアザの消えたきれいな左手首をさすった。
「さてと――この腕輪の地金、とぉっっても高かったって話はしたわね?」
 ここへ来てそれか、とライアは固まった。スロウディアが元に戻ってからならともかく、ライアに手持ちの大金などあるはずがない。
 ウィリアは妖しい手つきでライアの胸板をなぞり、ぞくりとするような悩ましげな眼つきで囁いた。
「もちろん、その分……体で払ってもらうわよ……?」
「!??!?」
 ライアは混乱したまま半歩後ずさった。
 すると彼女はにんまり笑って、いつもの挑発的な物言いに戻った。
「何をするかは、アルディスに聞くといいわ。とんでもなく大胆で素敵な作戦よ? 期待してるわ、王・子・様」
 危うく吹くところだった。

「やあ。聞いたかい。本当は君が呪いでもう動けないのを想定してたから、リーティスひとりに頼んであったんだけどね。ライアが入ってくれれば、成功の可能性も上がる」
 笑顔で語る親友に、気疲れした心境でライアは尋ねた。
「てことは――別に話したんじゃねぇんだな? 俺のこと」
 言いながら預けたままだった指輪を返却してもらい、首にかける。
「僕は『王子に扮してもらう』ってウィリアに言ったんだ。何か齟齬でもあったのかな」
「いや、いい、それなら――……で。何をするんだ?」
 このところ警戒を強めるジェタスに取り入るため、3日後に国王が主催する夜会に代表者を出席させるというのがアルドの作戦だった。招待状を持たないため、リーティスにセーミズ王女を名乗らせて乱入するつもりだったと聞いて、ライアは度肝を抜かれた。
「ちょ――!? それ、俺が呪い解けないままなら、本当にリーティス一人にやらせたのかよ!」
 いくら何でも危険すぎる橋だ。陰謀渦巻く異国の貴族の社交場に、一介の貴族にすぎない彼女を姫君として送り込むのだ。何に巻き込まれたか知れたものじゃない。
「いや、実のところ本物だと思わせる必要は皆無なんだ。向こうだって、こんなところで怪異で被害を受けた一国の王女が現れるなんて『絶対に思わない』。だから、これは余興なんだよ。道化を演じた上で、相手に気に入られて、通行許可を得るための」
(そういう事か……)
 だったらリーティス一人でも問題はないかもしれないが、ライアが居た方がより臨場感は増すし、多少サポートもできるだろう。問題は。
「どうやって俺がそんな王宮の知識仕入れたってことにすんだ……?」
 まさか、ここに来て全員の前で暴露する事になるのだろうか。だが明かしたところで誰も信じない気がするのがまた悲しい所だ。
「うん。だから呼んだんだ。どう? 君の両親――『バーンズ家』だったね――が、お城で働いてるって事になってる。その設定を引っ張って、歳が近い王子のご学友をやっていたってことにしとけば」

 こうして、『お忍びで』王都入りしていた『ご一行』は、彗星のごとくジェタスの宮廷人の前に現れた。
 それを受けて、ジェタスでは彼らの待遇について議論が交わされた。
 胸を反らして会議室の椅子に座した男は、齢なら60代半ば、白髪にカイゼル髪という容貌で、その鷹揚な構え方からも服飾の仕立てからも、一目で身分は知れた。
 老獪な彼は、集まった要人達を前に、意地悪く目を細めて顎を撫でつつ意見した。
「面白いではないか。是非とも、お若い二人にはご出席いただきたいものだね。無論招いてなどおらんが、この程度の予定外はどうにでもなろう?」
 この場において彼に逆らう者もなく、そのまま意見は通された。
 この会議と呼ぶにはあまりにおざなりな取り決めの後、男は、人払いをした会議室に一人の忠実な下部を呼び寄せた。
「お呼びでしょうか」
 やってきたのは、17、8と見える娘だ。背はどちらかと言えば高く、すらりと細い手足に、妖精のようにふわりとした軽やかな雰囲気をまとっている。
「事情は聞き及んでいような?」
「は。」
 探るような顔つきで尋ねた男は、その答えに満足げにニヤリと口元を歪めた。
「だったら話は早い。お前に3日後の夜会への出席を命じる。王子が本物かどうかを探れ――姫の方は不要だ。セーミズはゼークの介入でまだ立て直す可能性が高い。だが、王都を失い他国の侵略の対象となろうとしているスロウディアに継嗣が舞い戻っては、色々と面倒だ。エスト内部で領土を奪い合い弱体化してもらった方が、我ら大陸の列強にとっては都合がよろしい……」
 愛らしい容姿に似つかぬ鋭い眼光を伏目がちに隠し、娘は確認する。
「わたくしをご指名という事は、本物と確認されればその場で――というお話でようございますね」
 男は据わった眼で返す。
「ぬし以上の適任はおるまい? 誰々が誰々の失脚を狙うなど、この宮廷では茶飯事だ。若き殿下が不幸にも『手違いで』巻き込まれる事も起きようよ……頼りにしておるぞ、フローレンス」



 夜会まで残すところ2日。
 正式な出席許可が下りたライアは、準備のために城に入っていた。
 宮廷では男性の立ち入る区域と女性の立ち入る区域が明確に分けられているため、リーティスとは互いに顔も合わせられない状況だった。同じ理由で、ライアに付き添ったアルドも向こうの様子を探って来ることは不可能だった。
 目的の関門を開いてもらえるかはまだ保留で、慎重に審議したいのでその間に夜会にも出席されたし、というのがジェタス側の回答だった。関門の件をひとまず交渉に持っていけただけでも、今は良しとするしかない。
 多少の編集・脚色を加えた上で、ライア達の旅の目的は先方に伝えてある。次の怪異までひと月を切ろうとしている今、なりふり構っている場合でもなかった。
 そんな訳で、ライア達が夜会に出席するような服を持っていないのも当然とされ、衣装は貸し出されることになった。午前のうちに城中での正装と夜会の服を選んでしまうと、ライアはジェタスの要人のうち数名と立ち代わり言葉を交わして午後を過ごす事になった。
 立場としてはライアも皇太子にあたる訳だが、所詮は東の小国と侮ってか、もしくは端から偽者と決め付けて、際どい質問や辛辣な毒舌を投げてくる者も多かった。
 それらを適当にいなしながら、ライアは思う。
(初日からこの調子か――大丈夫だろうな? リーティス……)



 2日後に迫る夜会への準備のため、リーティス王女には専属の侍女が一人付けられた。
「エリーと申します。何なりとお申し付け下さい」
 肩の上まであるショートカットをヘアバンドで留め、極力表情を出さないよう口を引き結んだ彼女は、リーティスより幾分年下に見えた。
 彼女を伴ってのドレス選びは大仕事であった。紳士物と比べて圧倒的にバリエーションも豊富な上に、体のラインに沿った造りのためサイズ選びだけで一苦労である。今回は採寸と直しの時間も取れないため、この膨大なドレスの山から、自分に合ったものを選び出さなくてはならない。
 リーティスはまず、最低限避けなくてはならない色を聞き出した。特に決まりはないというが、例えば全身黒だと、やはり印象は良くはないらしい。
 ドレスを物色しながら、さりげなくリーティスは尋ねる。
「陛下はどのような色を好んでお召しになるの?」
 王というものは、格別でなくてはならない。だからこそ、煌びやかな宝飾や豪奢な衣装で飾り立てる。そんな陛下と同じ色を着用する事は同格の主張と見なされ、無礼と取られる可能性があった。
「陛下はワインレッドを好んでお召しになります」
 それから、エリーは感情を抑えた声で淡々と提案した。
「リーティス様でしたら、華やかな黄色か、若々しい新緑がきっとお似合いでしょう」
 そう言って、リーティスを黄色のドレスが並ぶ方へと案内した。
 エリーに勧められるまま、一通りその区画を検分してはみたものの、細身のリーティスに合うドレスは残念ながら見つからなかった。裕福な貴婦人達は、基本的にふくよかな女性が多い。そこを腰だけきつくコルセットで締め上げ、女性としての豊かさを演出するのだ。
 リーティスには無い色気を搾り出せと言われているようなもので、立っているだけで眩暈がしそうなコルセットは大嫌いであったが、夜会での着用は覚悟している。
 黄色は駄目と判って、気を取り直すようにエリーは言った。
「では、若草色のドレスはいかがでしょう」

 リーティスがドレスと手袋、靴といった装身具一式をこれと決めるまで、実に半日以上が費やされた。
(予想はしていたけど――これって、かなり厄介)
 ここ半日で、リーティスは何か漠然とした悪意のようなものを鋭く感じ取っていた。敵意と呼ぶには弱く、流石に命を狙われる事はないだろうが、節々で試されている感があり、明後日の夜会で自分達を道化に仕立てようという意図が見え隠れしている。
(ああもう、何でこんなのにライアを巻き込んだの?? アルドが嘘吐いてるとも思えないけど、ご学友と信じるにしたって、今頃絶対へまやらかしてるに決まってる……!)
 宮廷には、階級に応じた面倒な作法やら言い回しやらが山とあるのだ。リーティスだって、ノーゼでのそれを把握しきれている訳ではない。
(私はエストの世間知らずのお姫様ってことで、多少はお目こぼしに預かる気でいるけど……)
 正直、今からでもライアの出席だけは取り消したい。想像するだに不安で一杯だ。今日あたり、ライアが謎の高熱か腹痛で寝込んでくれはしないだろうか。
 そこに、エリーが軽食のサンドイッチを運んできた。休憩中のリーティスは、一礼して下ろうとした彼女を引き止めた。
「あなたもお腹が空いたでしょう? 一人で全部は多すぎるわ。食べて行かない?」
 王族ともなれば高貴な娘達を周りに侍らせ共に食事を摂る事はあったが、エリーの場合は明らかに身分違いである。貴族ならば言葉遣いや身なりからエリーの身分を見抜けなければおかしい。本物の王女ならば犯すはずのない過ちに、エリーはあからさまに嫌悪を示した。
「お判りでございましょう。侍従と主が同じ席で食事をとるなど――」
「うん、判ってる」
 彼女は焦るどころか、ぬけぬけと返して見せた。険のある顔になるエリーを、リーティスは正面から見つめた。
「もし同席してばれた場合、お咎めを受けるのが私でなく侍従のあなただって事もね」
「…………」
 エリーの表情にわずかに驚きのようなものが交ざった。
「だから、無理にとは言いません。でも、できたら話相手になって。同席するだけなら罪にもならないでしょう? もちろん、あなたが私の味方ではなく、陛下のご意向でここにいることも承知はしているつもり」
 エリーは、王女を騙るただの馬鹿な娘でないらしいリーティスを、驚きと警戒の入り交じった目で見た。
「陛下を裏切れなんて言わないわ。話せることだけで良いの。私も、この国の風習なんかを知っておかないと、明後日ひどい目に合いそうだから」
 エリーは、推し量るようにまじまじとリーティスを見た。



 ――夜会まであと1日。

 丸一日以上引き離されていたライア達の再会の場として、陛下の御前という緊張感溢れるセッティングが用意された。
 これでは、折角顔を合わせても互いに声もかけられない。
(俺達に事前の打ち合わせをさせないためか――もう、悪意しか感じねぇ……)
 いくら鈍感なライアでも、この仕打ちには反感を覚えた。こうなったら、何が何でも『完璧に王子を演じきって』やろうと決意する。
 王座の前へ呼ばれた彼らに、ゆったりとした威厳のある声がかけられる。
「ようこそおいでになりました。ラーハネット=ディル=スロウディア殿下……そして、リーティス=クレイア=セーミズ殿下」
 王座に鎮座するのは、ふくよかな初老の女性――彼女こそが、この国の女王である。
 ライアは左の腰に儀礼用の宝剣を下げている。女王が黙って差し出した手に、ライアは近寄って右膝をつき、口付けをした。遠目には判らないが、実際は手袋をはめた自分の手の親指に唇を触れさせただけである。そして、女王に背を向けることなく元の位置へ下がった。
 リーティスも流石と言うか、不敬を働くことなくその場を凌ぎ、女王の言葉に耳を傾けた。女王は、ライア達にとって肝心な関所の話に触れる気配がない。だが、二人は決して自分から話を振ることをしなかった。
 やがて、退室の刻は訪れた。
 それでも、二人は自分達から口を利くというタブーを犯さなかった。関所通行の可否を問いたいのは山々なのだが、それによって全て台無しにする可能性が強い。だから耐えた。
 するとここにきて、女王の厳めしい顔つきがわずかばかり変化した。
「わたくしも女王と言っても、実権は叔父のマクスウェルのものです。あなたたち若い人たちは――自由で良いわね……」
 それは窓辺から飛び立つ小鳥をただ眺めるしかできない、地上に縛られた人の瞳だった。

 謁見を終えたライア達は、話す間もなく速やかにそれぞれの場所に返される予定だったが、そこで思わぬ助けが入った。
「聞けば、関門の通行許可が下りればすぐにでもお発ちになるご予定とか。でしたら、今日のうちにご案内しておきたい場所がございます。――よろしければ、ラーハネット様もご一緒にいかがですか」
 そう言ったのは、リーティスに付き添っていたエリーである。ライア側の付き添いはアルドなので、こちらはある程度の融通が利く。
 ライア達を道化に仕立てるなら、心理的に追い詰めるためにも当日まで二人を離しておくのが一番だ。だからエリーの言葉はジェタス側の筋書きにはなかったものだと、容易に想像がつく。
「こちらです」
 先導する足取りも、どことなく人目を気にして緊張しているように見えた。
 案内されたのは、贅沢尽くしの宮殿にこんな場所があったのか、と驚くようなひっそりとした一画だった。
 噴水から軽やかに水が沸き、鳥達の遊ぶ庭園はしかし、豪奢でも広大でもなく、煌びやかな服飾を競い合う貴族たちにとっては無用の地らしかった。ごく稀に、詩や音楽を愛する変わり者の貴族がインスピレーションをもらいに訪れるくらいのものらしい。庭園の整備はされているが、女子禁制の区画からも男子禁制の区画からも外れ、忘れられたようなこの場所を通るのは、専ら隠れて休憩や近道をしたい使用人達という。
 エリーは庭園の入り口で足を止め、ライアとリーティスだけを導くそぶりをしたもので、2人は戸惑いながらも庭園の中に入った。
 それまで一言たりとも言葉を交わせなかった彼らである。入り口で待つエリーとアルドの目が届く範囲を歩きながら、初めて小声で会話した。
「どーゆー風の吹き回しだろうな……? 助かったけど。なぁ、そっちは上手くやってるのか?」
 するとリーティスは顔を近づけ、しかめ面になるほどまじまじとライアの顔を見た。
「……ほんっとーに、ライア?」
「なんだよそれっ」
 女王の間で落ち度がなかったことを不審に思っているらしい。
 何やら言い争い始めた王子と王女を遠目に、エリーはぽつりと洩らした。
「不思議な方達ですね」
「そうですか。どこにでもいる、普通の若者だと思いますが」
「普通ではないです。だって、こんな場所で自然体でいられることの方がおかしいですから――王宮は『魔窟』です。ここの住人は、皆どこか普通ではありません」
 例え王宮で生まれても、『普通』であれば蹴落とされ、知らぬうちに消えてしまうのだ。
「随分とはっきりものをおっしゃるんですね」
 それでは長生きできないと案じる言葉だったが、エリーは存外強い瞳でアルドを見返した。
「ご心配には及びません。貴方がリーティス様のご友人だから、こうしてお話するのです」
 何があったのやら、リーティスはここ1日で敵方のはずの侍従を感服させた模様だ。
(――流石、だね……)
 リーティス恐るべし。アルドは苦笑するしかない。そうなると、心配なのはむしろ本業が王子のはずの幼馴染だ。
(いや、あれでいざとなればできる子なんだ。そうだよね、多分、うん)
「どうかされました?」
 見ると、5歳は年下に見えるエリーの、強く凛とした表情がそこにある。
「いえ。ここだけ、まるで別世界のような庭ですね」
「はい――ここは、私の母が好きだった場所です」
 彼女もまた、何かしらの強い信念を持ってこの王宮で生きているのだと、その時アルドは感じた。



 ノーゼ大陸の一地方、リェート。
 ジェタスから離れたその地で、薄暗いぼろ屋の中、不意を襲われ敗走した2人の若者が昏睡状態の1人を囲んでぼそぼそと会話していた。
「……医者の話では、左目と左手足は諦めろという事だ」
「それ以前に、もう死ぬ確率の方が高い。今判断すべきは、無意味にここで過ごすのか、逃げるか進むかだったよね」
 血も涙もない発言に、お前の肉親だろう、と彼は非難の眼差しを向けた。彼は奮戦してくれた重体の青年の腕を取るが、反応はない。
(――すまない。そして、恩に着る……)
「ねぇ? ラファーガ……」
「レイファスと呼べ」
 動かない青年の手を握り、相手に背を向けたまま、低く彼は言った。振り返った彼は、これまでで最も強い眼をしていた。淡々と思惑を述べる。
「今この瞬間から、『俺がレイファスだ』。討たれたこいつは偽者で、本物はまだ健在――」
 その言葉を受けて、思考の読めない冷淡な瞳は覚悟に据わる。
(ふぅん。そういう決断)
「お前はこの俺に従え!! 勇敢なる我が同胞達とミハエルの犠牲に報いるため――リーティスのため――俺は立ち止まらない……!!」
 かくして、若者は恭しく跪いた。
「仰せのままに」



 天球を模した大広間、瑠璃の間は王宮でも1、2を争う美しさである。銀糸に縁取られたビロードのカーテンは重厚な藍色。磨き上げられたタイルは深い瑠璃色で、散りばめられた金と銀の無数の星が輝く。天井は中心に行くほど高くなる造りで、広間に立つ者はまさに天球の中心にいるように錯覚する。贅沢品である巨大な鏡も惜しみなく用いられ、空間に無限の拡がりを持たせていた。
 彼女――フローレンスは、そんなこの広間にもいくつもの死角があることを知り尽くしていた。普段は部下を使って裏での諜報活動に専念しているが、自ら王宮の中に紛れ、直接手を下す仕事もこれまでに何度かこなしている。
 最初の表での仕事は12の時。ターゲットに直接手を出した訳ではないが、上手く仲間をサポートした。14の時には、単独での仕事にも成功している。15になると、買収されて主以外の貴族と通じていた同僚の秘密を暴き、マクスウェルの命によりその手で制裁した。
 そして17歳の今日、『王宮のどこにでもいそうな』貴族令嬢に扮した彼女は、ターゲットが舞台に上がるのを待っていた。今回は、まずターゲットに近付いてその身元を確認するのが先だ。その上で、消すべきか否かを判断する。
 やがて、リハーサルをしていた楽団が姿勢を正し、一心に指揮者の合図を待つ体勢に入った。ざわめいていた会場も、ファンファーレが鳴ると緊張感に包まれた。
 一同が注目する中、国の主要人物などが席を連ねるステージの中央より、カイゼル髭のマクスウェルにエスコートされた女王陛下その人が姿を見せた。

 本日、フェリーナ、ウィーロス、ペルラの三名は城下に宿をとって待機している。片やアルドは警護、ウィルとウィリアは給仕として、それぞれ会場に入り込んでいた。派手な衣装が似合いそうなウィリアだが、白のヘッドドレスとシックな赤と黒を基調にした給仕服を、存外見事に着こなしている。
 大きな襟付きの若草のドレスをまとって登場したジェタス女王その人に、アルドは血の気が引くのを感じた。昨日、庭園でエリーと何気ない言葉を交わしているうちに、彼女がリーティスに若草色のドレスを勧めた事実を聞き及んでいたからである。今思えば、あれすらもリーティスを陥れようとする女王の差し金だったのだ。
 時既に遅く、今からそれをリーティスに伝える手段はアルドにはない。アルドの心境を余所に、女王からの言葉が終わり、来賓入場の段となった。
 これしきの事に取り乱すリーティスとは思えないが、ここは敵地だ。ドレスの色ひとつ取っても、どれだけ痛烈な批判を浴びせられるか知れたものではなかった。
 実際には飛び入り参加のライア達だったが、正式な来賓として女王より彼らの来訪と経緯の紹介があった。こうなっては、どこにも逃げられない。
 目を覆いたくなる事態に、女王の紹介に与り颯爽と現れたのは、濃紺のタキシードを着込んだライアことラーハネット王子と、純白のドレスに身を包んだ清楚な王女であった。

 ――アラ、役作りになかなか気合が入ってらっしゃるご様子ですこと、うふふ。
 ――誠実さを表す紺に、潔白を示す白だと? ふん、ここまで堂々とやってくれるとは、いっそ敬服に値するわ。
 偽者と決め付ける者達の口からはそんな言葉が洩れ聞こえたが、それはアルドが心配したのと全く違う質のものだった。
 事実、エリーは強く若草のドレスを推した。だが肝心のリーティスが聞き入れず、エリーの推奨を押し切って自分で白を選んだのだった。
 焦ったエリーはあの日、服を選び終えてリーティスが休憩している間に、急ぎその事を女王に伝えに行っている。
「申し訳ございません、陛下……。わたくしは若草色を選ぶよう誘導したのですが」
「いいのですよ。彼女は自らの意思でそれを拒んだのでしょう? それならば、あなたは十分に務めを果たしました。これからの働きに期待します」
 女王は、マクスウェルの権威に靡かず、真面目な働きを見せる侍女をこれしきのことで切ってしまうつもりはなかった。また、女王たる自分の方が小娘の選んだ色に合わせるつもりなど尚更ない。
 結果、リーティスは事なきを得た。

 さて、一つ目の危機を回避したライア達だったが、一身に注目が集まるのは如何ともし難い。舞台に上がった今こそが、本領を試される時であった。
 噂の来賓に広間が沸く傍ら、警備として広間に立つはずだった一人の男が、警備を指揮するネルビス副団長に見つかり控え室に引きずり込まれた。
「なんだ」
 腕を組んで引きずられるように連行された部屋で、彼は不服そうに言った。
 鋭く見渡した室内には、いずれ劣らぬ屈強なネルビスの部下達がくつろいでいる。
「なんだとはご挨拶だな」
 ジェタス兵団を指揮する副団長ネルビス以下、部下の何人かには見覚えがあった。連れ込まれたビゼスに好奇の目を向ける者、あまつさえ久しぶりと親しげに手を挙げる者までいる始末だったが、副団長が連れてきた人間に特に関心を示さない者が多い。
 ネルビスは彼らに聞こえないよう声を落とした。
「あんたは一度俺達に捕らえられてる。気をつけな、どこで顔見られてるか判ったもんじゃないぜ。ここはジェタス領内だ」
 だからここで大人しくしていろ、という意味らしいが、別の意味にも捉えられる。
「ここに居たほうが身の危険を感じるが?」
 ネルビスとその部下しかいないこの環境では、ビゼスを殺害して証拠を隠匿する事も可能だろう。
「馬鹿言いなさんな。あの件は片付いた。多くの同胞を殺ってくれた魔族は、大衆の前できっちり処刑されたんだからな。それより俺達の余計な仕事を増やさんでくれ。あんた、どう見たってあの会場じゃ浮いちまう」
 ビゼスのような戦場の臭いが染み付いてしまった者は、どうしたってそれを隠し切れない。広間に居て変に注目されるより、裏で静かにしていて欲しいというのはネルビスの本心のようだ。
 あんたに斬られた者の近親者もこのメンバーにはいないから安心しとけ、と彼は律儀に付け加えた。
 ビゼスの背丈に合わせて屈んでいた偉丈夫の副団長は身を起こすと、声量を普通に戻して述べた。
「俺達も、王宮からお呼びがかかって都に参上つかまつったものの、有事以外は結局のとこ鼻つまみ者でな」
 普段は王都から離れた兵舎に駐屯するジェタス兵団とは別に、王室にはお抱えの騎士団が存在する。彼らは高貴な血筋と有能さを誇りとし、叩き上げのジェタス兵団とは反目し合う仲だ。
 それでもネルビス達が毎度このような場に召集されるのは、表向き、両者がジェタスを代表する軍隊として協力し合うべきだという強調であり、内情は、この王宮にお前達の仕事などないぞという騎士団側からの見せつけであった。
 それを承知しながら、ジェタスきっての女傑である現兵団長などは、
「女王様(ママ)からあまーい砂糖菓子の碌と金メッキの剣を与えられて、勇んでちゃんばらごっこしてる坊やたちが、有事に王宮を守りきれるとも思えんね。当日に限って何か起こらんとも限らん。お前達、行ってやれ」
 と憐れみの視線と共に部下達を送り出したのだった。
「そういや、団長への土産って何がいいっすかね」
 会場警備の名誉に預かる使命感に満ち溢れたこの討議。
「そーだなー……見た目は漢前(おっとこまえ)だが、あれで、甘いもんには目がなかったりする。よし。後で適当に焼き菓子をかっさらう少数精鋭部隊を派遣する」
「イエス、サー」
「あー、副団長。オレ、さっき見た林檎のキャラメリゼってやつ食ってみたいっす」
「手が汚れるから却下だ。隠密に、しかも大量に持ち運びできるものを優先しろ」
「イエス、サー……(泣目)」
「……」
 大丈夫か、この部隊。毒気を抜かれて呆れ返るビゼスに、ネルビスは苦笑いした。
「ま、あんたにゃ協力義務はない。気に入らないなら、そこの壁に突っ立って始終俺達を警戒してるといいさ。この部屋の空気を吸うだけで、あんたから金を取る気はない」
 ネルビスはビゼスから離れると、一同に呼びかけた。
「さあ野郎共! 今夜一番の大仕事にかかるぜ……?」
 どうせろくなことでない。ビゼスは扉の横に立ったまま、半眼でご馳走漁り隊結成の模様を眺めた。



 当初こそ、新郎新婦よろしく二人セットでの対応だったが、意地の悪い質問に上手く立ち回ったのが面白くなかったのだろう。一人対多勢ならば失言を引き出せると思ったのか、途中からライア達は別々のグループにさらわれた。
 貴族男性のグループに捕まって、どことなく嫌味な雰囲気の中、見た目ばかりは朗らかな笑みを浮べながら交わされる会話に、ライアは精神的疲労を感じずにいられなかった。
(うわー、俺そろそろこの場から出たい……)
 テーブル一つ挟んだ向こう側のリーティスを横目で盗み見ると、何でもないようにすまし顔で貴婦人達への対応を続けている。流石だ。
(はぁ……)
 こんななら、俺いなくてもよかったじゃないか。
 そんな情けない後悔が心を過ぎったとき、離れたところで目が合った少女が微笑んだ。
(可愛い子だ……)
 一見して思わず頬が上気するような、しかしこれといって強い印象の残らない少女だった。だからライアは、半時後に彼女が話し相手になっていようとは予想だにしていなかった。

「わたくしなぞにお声をかけていただき、光栄の限りですわ。ラーハネット殿下」
 少女は、フローレンスといった。辺境で細々と続く一貴族の娘だという。
「一度、お話したいと思っていましたの。実はわたくし――」
 以前スロウディアを訪れたことがあり、その際に心を奪われた者がいるのだという。
「……ファルド様の大ファンなんです」
 俯きつつ少女は告白した。あの父が、とライアは思うが、それは女王に溺愛の私生活を見慣れ過ぎているだけであって、身なりを整えて公式の場に出ればそれなりに映える容姿だろう。城下の視察などに出る時も、気さくな人柄と相まって人気が高いのをライアは知っている。
 オジサン好きの変な女だと見られるのを恐れたか、恐る恐るライアの顔色を窺うフローレンスに、ライアは当たり障りのない微笑みを返した。
「そうですか。父も喜ぶと思います」
 彼女は安堵したらしくはにかむような笑みを見せ、殿下もお父上に似て目鼻立ちがはっきりしていますねと付け足した。そんなおべっかは必要ないとライアは思うのだが、上流階級の社交場ではもはや慣例だ。
 ライアが自然体で接するので緊張が解けたのか、父のどんなところに魅力を感じたのですかと尋ねると、熱っぽい瞳で返答した。
「由緒正しいお生まれなのに、親しみやすい素朴さというか……」
(そりゃ、父さんほんとは平民出身なんだけど――)
 長年城下に住まう年配の皆さんは真相をご存知だが、現女王ルネットの父王の時代は保守的な風潮が強く、世継ぎの姫と高貴なる騎士のラブストーリーがなぜか巷で成立していた。それによればライアは高貴な騎士の子らしい。無論、ルネット王女に永遠の忠誠を誓った貴公子ファルドなどというのは架空の人物に相違ない。少なくともライアは、そんな父は知らない。
「それに、あの内に秘めた力強さ……ああ、まるで夏の陽光にきらめく木立のよう。夏にお生まれになったというのも、偶然とは思えませわ」
(あれ? 誰に聞いたんだろ、そんな話……)
 母とライアの誕生日は城総出で盛大に祝われるが、新年の祝いに紛れて印象に薄く、しかも内輪でささやかにしか祝われない父の誕生日は、有名ではない。しかも季節を間違っている。
 ライアはそんな疑念を飲み込んで、にこやかに応じる。
「そうですか? 買い被りすぎですよ」
「ふふ、だけど意外な一面もお持ちですよね。聞けば、ファルド様がお好きな花は、あの可愛らしい菫とか」
 いや、違う。父の愛する花は、息子の誕生月に毎年満開になるあの樹木だ。城下でも割と広く知れた話のはずだが、フローレンスはきっと花の話題に持っていきたかったのだろうと踏んで、ライアは訊き返す。
「花はお好きですか」
「はい。そうですね――キョウチクトウとか、特に」
 それから取り留めの無い話をして、彼女は来た時と同じようにふわりと去っていった。
 この大広間で彼女のように害意無く話しかけてくる相手は少ない。次は誰が来るかと待ち構えていたところに、ライアは気配を感じた。
(げ。)
 そこには、怒りとも悔しさともつかない切羽詰った表情の白いドレスの乙女が猛然と立っていた。

 直前までフローレンスと居たので焼き餅かと思いきや、それは酷い自惚れだったとすぐに気付く。
「リーティス――」
 泣き出しそうな彼女の腕をしっかり捕まえた。彼女の怒りは、悔しさは、ライアに向いていない。彼女の方で、何らあったに違いなかった。
 俯いたリーティスは3秒間の沈黙ののち、きっと顔を上げた。
「踊って」
 彼女の来た方向を注意深く見遣ると、複数の男性貴族がからかい合う姿が目に入った。耳を澄ますと、少しずつ、ライアにも状況が見えてくる。
 彼らは、誰が偽者の姫に最初のダンスの相手を申し込むかで、互いに譲り合っているのだ。お互い、自分が行っても良いが、あの娘に恥を掻かす訳にも、と謙遜するふりをして公然とリーティスを侮辱しているのだ。リーティスならば、どんな相手に誘われようと逆に目に物見せてくれると息巻いていたに違いないが、ダンスに誘われもしないのでは、それは酷い屈辱だろう。
(許さねぇ――)
 ライアの闘争心に火が着く。そんな胸の内を知らず、憤りで顔を紅潮させたリーティスは言い募った。
「この際ライアでいい……! ――来て。私がリードするから」
 腕を引こうとしたリーティスが怪訝な顔をする。ライアはすぐには動かず、中央で踊る人の波をしばし観察していた。
 基本的に踊り方は自由だが、どこの王宮にも必ず流行り廃りがある。演奏されている楽曲の特徴、主流の動作をおおよそ頭に入れてしまうと、ライアは言った。
「よし、行こうぜ」

 広間が、ざわめいた。
 人々の注目を独占するのは、若い一組のペアだ。
 彼らが入って来た当初は、わざと接触して困らせてやろうと目論むペアが複数いたが、今はそんな者達ですら、唖然と彼らの舞踏に見入っている。
「……まったく、影武者が本職か? あいつらは」
 人目に付かぬよう会場の隅に入り込んだ男は、愛想を振りまく給仕のトレイから皿を取りつつ言った。
「そうねぇ、今度からそれで路銀を稼ごうかしら」
 銀髪の給仕はごく自然な動作で空いた皿を回収しながらうそぶいた。

 コルセットの締め付けでいつもより不自由なはずなのに、なぜかライアと踊ると体は軽かった。
(あり得ない。ライアがそれっぽく見えるとか……)
 まるで王子様、と不覚にも一瞬でもそう錯覚したのは、先程、悔しさのあまりに勢いで飲み干したグラスのせいだと解釈する。不慣れなはずのライアが生き生きとして見えるのも、アルコールによる多少の知覚低下と、自分のリードの賜物に違いなかった。
 数曲、どれも完璧に踊りきって散々場を沸かせた後、着付けを直したいと言って二人は一度退場した。
「じゃ、後でな」
 そう言って別々の更衣室に入って行く二人の足取りは、確かなものだった。
 男子更衣室で、ライアは腹心の友と会話した。
「お疲れ。どう、貴族達の対応は」
「ん。やっぱ海挟んだ東の小国なんて気にも留めないんだろうな。全然事実にない噂も広まってて、面倒だからそのまま流したけど、あとは何となく王子っぽいこと言って誤魔化してる」
「あぁ、そう……」
 わざわざ嘘を流す意義は無いが、もとよりこの遠方の地で、ライアが本物か見抜ける者などいないのだ。特にアルドが咎めることもなかった。
「でもよかった。ともかく君とリーティスが無事踊りきれて。夜会も後半あと少しだ。気を抜かないで行こう」
 庶民然とした本物の王位継承者はあっけらかんと返した。
「任せとけって」



「マクスウェル様……」
 影の如く静かに近付いた娘に、むぐむぐと料理に口を動かす振りをして応じる。
「(フローレンスか――どうじゃ)」
「……は。あの者は別人にございます。王子ならば実の父の情報を違えるはずありませんもの」
「(そうか。下がってよい)」
 自身は一度もスロウディアに足を運んだことの無い娘は、各地に散らばる部下達の正確無比な情報を頼りに、こうしてターゲットの身元をしかと見定めたのであった。



 広間の熱気を避けるようにテラスに避難したビゼスは、先客の女がいることに気がついた。
 歳はライア達と変わらないだろう。しかし、強いカクテルを手に、手すりにもたれかかった後ろ姿は実際より大人っぽく見える。彼女とは距離を取ってテラスに立つと、不意に声が投げられた。
「……貴方も、人ごみは苦手?」
 やや不明瞭な言葉はほろ酔い加減に見せかけて、実は酔っていないと、何となくだがビゼスは思った。
「まあな」
 そっけなく返す。娘は外を見ながら酒を一口含んで、それからのろのろとビゼスを見直した。
「――見ない顔ね。見たところ、貴族のお坊ちゃまって感じじゃないけど」
「警備の裏方だ。今日だけ雇われてる」
「そう。あたしもね、似たようなもの」
 雇われ者と聞くと、途端に口調が親近感を増した。言われて娘を見返してみると、確かに、姿そのものは会場に溶け込んでいるものの、どこか温室育ちの令嬢ではありえない強かさを感じさせた。
「お仕事で参加させてもらってたんだけど、その必要がなくなっちゃって、丁度気が抜けてたとこ」
 ビゼスも似たようなものではある。控え室に料理を持ち込んで盛り上がるネルビス達のおこぼれに預かって飲み食いしただけで、終ぞ出番はなさそうだ。
「「ふぅ……/はぁ……」」
 二つのため息が、星空に消える。
 娘は自分のグラスを揺らしつつ尋ねた。
「お酒は飲める?」
「それなりに」
 今日のところは、もう彼らのような者に活躍の機会が巡ってくることはないだろう。酔いつぶれようが気兼ねする理由もない。
 じゃ、と言って彼女はグラスを掲げた。
「乾杯」

 その頃別のテラスでは、中盤からの華麗なる反撃を見せつけた噂の二人が愛を語らって――いなかった。会話の内容は、こんな所だ。
「明日から、しばらくこんな食事にはありつけないよなー……」
「ずるい! コルセットのせいで私なんてろくに食べられないのに……!」
 地団太踏むリーティスに、痩せられるだろ、と言うとぴたりと動きが止まり、思い切り足を踏み抜かれた。
「いぃっつ!?」
 どこで誰が見てるか知れないので極力不審な挙動は抑えたが、割と容赦なく痛かった。
(くっそー、本気でやりやがって……)
 彼らにとって最大の心配は、このあと関所の通行許可が下りるかどうかだ。もし、ここまで来て女王から許可できないと言い渡されたなら、この夜会もとんでもない寄り道だった事になる。
(もう少しなんだ。もう少しで、怪異の大元を叩けるとこまで俺達は来てる――)
 必ず、エストを元に戻して見せる。ノーゼでの次の怪異も、起こさせない。
 呼び起こされた郷愁と、いつもより綺麗なリーティスと踊った高揚の余韻とが、ライアに不用意にこう言わせた。
「あのさ。もし、スロウディアが元に戻ったら――そん時は」
 言えない。その先が。『その時』もう自分はライアとして会う事はできないだろう。
「……絶対、遊びに来てくれよな。案内する」
 その時は、王子として。
 遊びに来てくれと言った瞳がとても寂しそうなのを、ライア本人は気付けない。
 落胆ではなく、純粋な疑問を浮かべた緑の瞳が、真っ直ぐにライアを覗き込んだ。

 ――ねぇ。本当は今、何を言おうとしたの――?



 夜会でのライアとリーティスの働きは、ジェタスに予想外の効果をもたらした。
「エスト大陸にも、一度は訪れてみたいものですな、はっはっは……」
「我が国も、東洋の国々ともっと親睦を図るべきでしょうなぁ」
「どれ、ひとつエストの温泉地帯に保養所でも買っておこうかね」
 それらは、夜会の前であれば100%冷やかしと言えたが、今では1割程度が本気に変わりつつある。
 ついでに、リーティスは一人の熱烈な信者を得た。
「……おねぇさま……」
 昨夜の非の打ち所がない舞踏が決定打となり、エリーは心底惚れ込んでしまった様子だ。リーティスとの別れ際、エリーはいつまでもお慕い申しております、と侍従としてかなり言動が怪しくなっていた。

 こうして、ライア達の活躍の甲斐あってか――女王から正式な通行許可が下った一行は、最後のリレーコアがあるヴィータ渓谷へと急ぐのであった。



 あの日の夜。
 周囲から人が引いたのを見計らって、彼女はこう言った。
「――踊れたんだ?」
 どこかつまらなそうに、悔しそうに見えるのは、果たして気のせいか。
「ま。でもこれでラーハネット様のお友だちだった、ってのだけは、信じてあげる」
「信じてなかったのかよ……」
 呆れて返す。しかし、彼女はこちらを見ていなかった。何か考えるような目をしてこう尋ねた。
「――ねぇ。ラーハネット様ってどんな方?」
「はぁ? ――別に、普通の王子だって」
「何それ。説明になってない!」
「じゃ、どう説明すりゃいいんだ? だいたい……リーティスには何の縁もないだろ」
「いいじゃないそんなの! って、ちょ……機嫌、悪い……?」
 リーティスの狼狽振りから、どうやら自分は不機嫌な面をしているのだと知る。
(何で本物の王子の事なんて気にすんだよ。さっき一緒に踊ったのは俺だ。それじゃ不足か……?)
 そんな胸のうずきは、自己嫌悪に変わる。
(何やってんだ、俺――……)
 この苛立ちの原因には気づいている。いや、もう解ってしまった。原因はリーティスにあるんじゃない。駄目なのは、これまで自分の感情を直視せずにいた、俺自身。
「スロウディアが元に戻ったら……」
 もう誤魔化せない。やっぱり、俺は
「一緒に、来てくれないか?」
 リーティスが、好きだ。

 ……という、今朝の夢。正確には、途中までの会話は実際に昨夜あったことだ。その時の苛立ちもまた事実で、それが未練がましく夢にまで出てしまったのだろう。
「どうしたの」
「あ……うん……」
 支度に時間がかかっている仲間から離れてぼーっとしていた俺の冴えない返事に、アルドは苦笑した。
「恋煩い?」
「はぁ……っ」
 見抜かれたのか、鎌をかけられたのかは判らないけど。
 ともかく、俺はそんな判り易いため息をついてしまった。
 肩を並べたアルドが、慌しく準備しているウィリア達を遠目に小声で言う。
「叶わぬ恋、だね……」
 そんなの、言われなくたって解っている。解っているから悔しい。
 しかめっ面で黙り込む俺の頭上に、掌の重みと温かさが加わった。
「辛さの分だけ、大人になれるんだよ。……もし、僕達が頑張って、頑張り切って、それでも怪異を消せなかった時は、逆にそれ位は報われてもいいと思うけど」
「……縁起でもない事言うなよ」
 俺が睨むと、アルドはごめんと目で謝った。
 アルドなら、最悪の場合の『もし』の救いも考えて、それでいて甘んじる事なく困難な目標に向かって進めるのだろう。でも俺は、きっとそんなには強くない。だから。
 せめて、一番好きなその人が、故郷を取戻して笑えるように。そのために、最後まで抗ってやると誓う。
「もう、手の届くとこまで来てんだろ。だったら、後は走りきるだけだ」
 それまでは、彼女が隣を走ってくれるだろう。そのあと手を離すのが決まっていても、今はそれでいい。
 感慨を込めた空色の瞳が俺を見た。
「そう。だったら僕も、君を避難所から連れ出した責任を最後まで取らないとね」
 思えば、旅はあれから始まった。記憶を無くして彷徨ったのは、もう随分遠い事のようだけれど。
 3人で始めた旅は、仲間を得て、多くの人に支えられてここまで来た。そして今、旅の終着点はそこまで来ている。
「……この事が全部片付いたらさ、俺、もうライアじゃなくなるんだな」
 それが少しだけ、寂しい。アルドが何か言う前に、ウィーロスが迎えに来た。
「お待たせ。姉さん達も準備できたから、そろそろ行こうって」
 俺の微妙な憂鬱の気配を察して、ウィーロスが尋ねた。
「どうか、したの?」
「ん。くだらない話」
「ライアが本当は王子様だったりとか、別の世界から来た未知の生命体だったりしたら、見方が変わるかなって話をね」
 ウィーロスは律儀に脳内シミュレートした後、おっとりと微笑んだ。
「これからどんなに変わったとしても、ライアはずっとライアだよ」
 それが心からの言葉と判ったから、俺は、そんな未来にほんの少しだけ期待してみようかと思った。
 先に歩き出したアルド達の後ろで、俺は一度だけ振り返って、苦笑いを青空に向けた。
「俺、王子なんかに生まれなきゃよかったのに」
 そんな嘘は空に吸い込まれ、この場限りで、俺はこの件を吹っ切ることにした。


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