(……――神様、私の何がいけなかったのですか?)



STAGE 33 betrayer 〜内通者〜



 ベッドに突っ伏したまま、金髪の後頭部は動かない。そのまま窒息してしまうのではないかと思われる程、長く時は経過している。
 彼女を一番大事にしてくれた人間は、使命のために去ってしまった。続いて、今度は仲間の一人まで失おうとしている。
 運命は彼女に冷酷だった。幼くして母を亡くし、昨年の怪異で故郷は半壊、ミハエル達とは今生の別れを経て、今、追い討ちをかけるように、母を奪ったのと同種の呪いがライアを蝕んでいる。
 何がいけなかったのだろう。
 素直にならずに、いつだって人を傷付ける事しか言わなかったから?
 勝手な事を言って家を飛び出して、みんなにいっぱい迷惑かけたから?
 家の者達の言う事を聞かないで、我侭ばかり通していたから?
 それとも、民衆の血税で暮らす貴族に生まれついた、それ自体が罪?
 いつの、何が間違いだったのだろう。わからない。でも、こんな酷いのって、私が何かしたからなんだ、きっと……。
「起きてるか? 入るぞ」
 ノックの音。リーティスは答えなかった。帰って――そう、心の中だけで呟いて。
 その人達は、部屋を覗いて遠慮して出直したりせず、勝手に入って、ドアを閉めた。
「邪魔するわ」
「顔見られたくないならそのままで良い。黙って聞け。正直私も腹の虫が収まらんのでな――」
 うつ伏せたリーティスには触れずにビゼスがベッドの端に座る。
「よりによって今日はライアと同室だ。今は奴の顔を見る気がせん。腹が立つ」
 言って、壁を睨む。ほとぼりが冷めるまでの避難所という事らしい。
「子供ねぇ……まったく」
 こげ茶の瞳が涼しい顔のウィリアを射抜く。
「言っておくが、貴様にも言う事がある、ウィリア。アルディスは自分一人の責任で隠し通すつもりだったと言うが、呪術とくれば、当然一枚噛んでたのだろう?」
 銀髪を払って、ウィリアは涼しげに返す。
「そうね、ライアを診たのはフェリーナじゃなく私よ。一緒に隠してた事になるわ」
「――お前相手に、殴ってやらないと気がすまないと思ったのは何年ぶりだろうな」
「あら? 殴れば良いじゃない」
 流石に心配になったリーティスが顔を上げた。ウィリアが挑発的に目を細める。
「ほら、貴方がそんなこと言うから、お姫様が心配で起きちゃったじゃない」
「……。貴様、それで私やリーティスに隠し通すのがどういう事か、自覚はあったんだろうな」
「ええ、当然貴方達は怒ると思ったわ。けど、それはアルディスと『本人が』決めたことよ。私に強く言う権利はなかったわ」
「それは、殴るならあいつらを殴れという事か?」
「そういう事ね。――ごめんなさいね、リーティス。こんなことになってしまって」
「私には謝罪なしで、そう来るか」
「当然よぉ? だって、繊細なオンナノコと貴方とでは、精神構造の造りからして違うもの」
「っ……この尼――」
 ウィリアは構わずビゼスの横に滑り込んでリーティスの肩を抱いた。結果、ビゼス、ウィリア、リーティスと横に並んだ構図となる。
 リーティスが、初めて口を利いた。
「……どうしたらいいか、判らない……」
 ウィリアが金髪に触れながら目を細める。
「いいのよ、難しく考えなくて。本人の希望通り、今まで通りに接してあげれば」
 リーティスは激しく首を横に振った。
「違うの。この前まで嫌な関係だったのに、急にすっぱり一人で抜けて、勝手に大人びて、私ひとり、ずっと怒ってるみたいで――!」
「そう。向こうが一方的に喧嘩をやめちゃったんで、ちゃんと謝る機会を逃したのね」
「謝る必要があるかは知らんが、一方的に許されたのでは、それは余計に腹が立つな」
 放っておけば本音を出さないリーティスである。すかさずウィリアが訊いた。
「……で? どう思うの、ライアのこと」
 リーティスの顔が歪み、堪えた後に、言葉が出た。
「……ムカつく……一人で決めて、どんどん先行って……っ」
 本音を聞けたことに、内心彼らはほっとした。ウィリアがリーティスの髪を撫でて言う。
「そうねぇ。ズルイのよ、男の人って。いつまでも中身が子供かと思えば、ある日突然、大人の男の顔になって、何でも好きに決めちゃうんだから」
 ビゼスが口を挟む。
「ふん、どこが大人だ。あいつはどう見たってケツの青いひよっこだ」
 ウィリアが胡散臭い笑顔になる。
「ご立腹ね。――悔しい? 術については門外漢で、何もできないのが」
 返事こそ無いが、普通なら絶対にしない図星の表情だった。くすりと笑った後で、ウィリアが遠くを見て言う。
「でもね――私だって、何もできないのよ。何も、してあげられない」
「そっ、そんな事ない! だって、ウィリアがいなかったら、呪いの進行を遅らせるなんて出来なかったんだし――……」
「ふふ……ありがとう。皆それぞれ悩んでるの。貴女もちょっとは、元気出た?」
 リーティスも落ち着いたらしく、ビゼスは立ち上がって扉の取っ手に手をかけた。
「夜には戻る。聞かれたらそう伝えておけ」
「ええ。行ってらっしゃい。頭冷やすのに、ひと暴れしようってのかしら?」
 答えずにビゼスは出て行った。



「…………」
「…………」
 廊下でばったり鉢合わせて、彼らは黙した。
 ライアが米神をかきながら目を逸らし、リーティスは恨みがましくちらちらと視線を寄越した。
 リーティスが腕輪を外そうとしたのがきっかけで、ライアが呪いに冒されていることをアルドから全員に公表してまだ半時だ。その時もウィルは冷めていたが、初めて知らされた者には動揺が走った。
「なぁ…………」
 言いかけて、言葉にはならずにため息に変わる。口火を切ったのはリーティスだった。
「なんで……教えてくれなかったの」
 知っていれば、自分もこんな嫌な奴にならなかったのに。思い返して自らの言動が身に染みた。
「そりゃ――……」
 後頭部を押さえながら躊躇して、しかしリーティス相手に隠したところで不毛な事を思い出す。
「……いつ死ぬか判んない奴戦場に連れてくなんて、反対すると思ったんだよ。特にビゼスとか。多分、足引っ張られるの死ぬ程嫌がんだろ?」
 弱った仲間は、戦場で味方を死に追いやる。ビゼス本人はともかく、ここに居るのは情を捨てきれる者ばかりでない。彼らは死神に付け入る隙を与えてしまうだろう。ビゼスは、ライアのせいで他の誰かが死ぬのを許せないはずだ。
「それに……さ、もしついてくのに納得してもらえても、嫌だったんだよ、変に気ぃ遣われんの。やっぱそれって、足引っ張るってことになるし」
 今後予想される激戦では、互いを気にかけている余裕などない。それこそ、リーティスやフェリーナは知らない方がよかっただろうとライアは思った。
「……結局、ばれちまったけどな」
「何それ。私のせいって言うの?」
「言ってねーだろ。それよか――その、だから変な気だけは遣うな! ウィリアのお陰で、今んとこ平気なんだ。今まで通り戦える。まずいと思ったらすぐ言うってアルドにも約束してるし」
 徐々に魔力を喰われて死に至る呪いだが、症状はまだ出ていない。
 リーティスの双眸が不服そうに睨んだ。
「気つかうなとか……それより、頼るなら頼っ……あ〜もう!!」
 しどろもどろが突然大声に変わって、ライアがびくりとする。
「とにかく、悪いのは全部ライアなんだから! 反省しまくって壁に頭打ちつけてればいーのっ!」
「な、何だよそれ!?」
 ふんと鼻を鳴らした後、リーティスは真剣に訊ねた。
「……ね。もし、もしだけど、世界のどこかに――」
 リーティスの言わんとしている事は解った。そして、言いかけて彼女自身が先に答えにたどり着いてしまった事も。
「……できない、よね。ここまで来ちゃって」
「いや」
 リーティスが目を見張った。
「最後までついてくって決めたのは、ここまで怪異に関わった義務とか、責任とか、そんなんじゃねーよ。どっちかっつーと、我侭。」
 その割り切った感じが大人ぶって見えて、リーティスはカチンときた。
「今はこの呪いが解けないことより、怪異を止める方法がないって言われることの方が、ずっと恐い。だから最後まで諦めずに走りてーんだ」
 ライアの瞳がまともにリーティスを捉える。もう、言うべき言葉は見つかっていた。
「頼む。だからそれまで背中、預かってくれねぇか」
「……!」
 取り繕うように、リーティスは両腕を組んで値踏みするように首を傾けた。
「いーけど。当然、等価交換でしょ。責任持って後ろ守ってよ!?」
「当然だろ」
 複合魔法が使えなくなろうと、もとから何が変わるはずもなかったのだ。できないものなら、できなくたって良い。相棒でいるのに、そんな条件は要らない。
 ライアが差し出した右手に、仕方なくだからね、と強調する顔でリーティスが右手をぶつける。――それが、冷戦終結の合図だった。

 陽の光が弱まりつつある林で、一人の男が空を斬り付けていた。かなり乱暴に連続で剣を振るっているため、息が上がっている。
 そこに、アルドが来た。
「随分熱が入っているね。もしかして、仮想敵は僕かな?」
 無論冗談だが、毎度この二人の会話は際どい。
「――――……」
 見返すビゼスの瞳はこげ茶だったが、暴走時に劣らぬ凄みがあった。
 ビゼスを見据えて柄に手をかけながら、アルドは訊ねてみる。
「相手に、なるけど?」
 申し出を蹴る選択もできたが、機嫌の悪いこの男はただ一言、こう言った。
「――来い」

 決着は、存外あっさりと付いた。
 頭のすぐ横で、大剣が止まる。ビゼスの剣もまた、アルドの胸を突こうとしていたが、寸分の差で頭を砕かれる方が早い。
 アルドは再戦を受けるつもりだったが、ビゼスはさっさと剣を納めた。
「帰って寝る」
 ひどく身勝手な発言だが、敗けて機嫌を損ねたのでもなさそうだ。
 変わり身の早さに呆れながら、アルドが言う。
「……君って、驚くほど切り替えが早いね」
「当たり前だ。貴様に負けたのは、剣一本だからじゃない。相当、頭に血がのぼってるらしいな? ――出直す」
「ああそう。まあ、頭が冷えたなら何でもいいけど――……」
 そう言ってアルドも剣を納める。町に戻る道中、二人はしばらく無言だったが、やがてビゼスが真顔で尋ねた。
「あいつは、後どれだけ生きられる」
 アルドは地面を見て言う。
「――わからない。火喰い鳥の亜種と言うから、末期にはアザが現れるはずなんだ。……それが出たら、多分、数日。その前でも、体力が落ちてきた時点でパーティーを抜けてもらう」
 ビゼスがそこで初めてアルドに視線を向けた。
「あの腕輪、呪いをそこに留めて抑制する物と言っていたが――左腕ごと、ってのはどうなんだ」
 アルドは首を横に振った。
「もちろんそれも訊いた。でも駄目なんだ。炎の護属性を持つ者の魔力全体に呪いは浸透してしまっている。腕を落としても、また別のところにアザができる……呪いの進行は、止まらない」
 アルドも気が気でないのだが、説明の間は冷静だった。
「対象が炎の護属性に限定されるから、リーティスに呪いが定着しなかったのが不幸中の幸いってとこだね……」
「――あの男、殺しておけばよかったか」
「まさか。彼を殺したって、何も変わらなかったよ。……それより、今僕達にできるのは、この馬鹿げた戦いを早く終わらせることだ。もう、あのセファって子や、ライアみたいな犠牲は要らない」
 そんなアルドを眺めて言う。
「ハ、大層ご立派な意見だな。――それだけか、貴様の思う事は」
 アルドが、珍しく人を射るように鋭く睨んだ。
「――その辺にしてくれないか。僕だって聖人じゃない。全てに納得がいった訳じゃない。今回のことは……」
「解っているなら世話ないな。そうだ。貴様は聖人でも君子でもない。さっさとその優等生面をはがしたらどうだ」
 空色の瞳が、沈黙のままビゼスを睨む。
「……僕に、この鬱屈した気持ちを晒せと? 大人の僕がそんなじゃ、周りを不安にさせるだけだ」
 ビゼスは涼しい顔で述べた。
「それは慢心だな。あいつらは、お前が思ってるほど幼くもないぞ。それより、貴様のように溜め込む奴程、危うい」
 先を歩きながら、ビゼスが肩を回す。以降、会話は無しだ。
 アルドは思う。自分でも、気付いてはいた。怒って良い理由があるのに、誰にも怒りをぶつけていない。友の未来が奪われたのに、涙が出ない。
(僕は……多分、泣けない。叫ぶ事もわめく事も、やめた。それが大人になることだから。ライアの事でさえ、整理はついたんだ。鈍くなったのかもしれないね……昔より。本当に、大丈夫なんだ。不思議なほど――)
 もう一人の僕は、泣いている。どこか遠くで。悔しくて叫んでいる。でも、それは子供の僕だ。大人の僕は、もう子供の僕を迎えに行けない。触れられないその傷は――どうすればいい?
 多分、見ぬふりをして、進むしかないのだ。後ろ髪を引かれながら。子供の僕を、更に置き去りにして。決別したもう一人の僕に代わって、男であることを、大人であることを、騎士である事を支えとして歩む。そうまでして完璧なリーダーであろうとする僕は、傍から見れば滑稽だろう。
 ふと、思った。もし僕が何もかも投げ出して解放されたいと言ったなら、彼らはどうするのだろう。あまりに馬鹿げたその問いを、気付くと目の前の男に投げていた。
 面倒臭そうにこちらを見て、彼は言った。
「その時は、私やあの馬鹿に殴られるのを覚悟しとけ。それに、女どもが黙ってると思うなよ。どうかすると私達より強かだぞ、あいつらは」
「それは……恐いね、確かに」
 もしかすると、僕自身が触れられない僕を迎えに行ける人は、案外いるのかもしれない。

「遅ーい!」
 開口一番、そう言ったのはリーティスだった。
「え……何なの、この集まり?」
 アルドが思わず訊く。戻った二人を待ち構えたように、全員が揃っていた。
「いや、ほら。さっきはいきなりの暴露だったから、空気重すぎて、あんま話せなかっただろ? だから改めて全員に訊きたいんだ。俺が行くことについて」
 ライアが真面目に言った。
 見たところ、ここに居たメンバーの中で、既に結論は出ているようだ。アルドは疾うに了承済みなので、実質、この男の意見待ちなのだろう。
 ビゼスが息を吐きつつ頭をかく。
「……何だ。貴様ら、そんな下らんことで待っていたのか」
「あら、下らないことはないわ。大事なことよ」
 ウィリアが空々しく言う。
「まー今ココで話してた結論から先言うとー? 呪いはどーにもなんないんだし、来たきゃ来れば?って」
 お前要約しすぎだ、とライアが横目で睨むが、ウィルは知らぬ顔だ。
「それで、みんなは納得したのかな」
 試すようなアルドの視線に、そこに居た者は決意ないし覚悟の表情で応えた。
 よろしい、とアルドが頷く。空色の目は隣を見ずに言った。
「あとは、君だけだ」
 嫌そうに眉間を揉み解すと、ビゼスは触れれば切れそうな眼でライアを見た。回答は簡潔だった。
「せいぜい、死ぬまであがいて見せろ」

 フェリーナから話があるというので、アルドだけがそこに残った。出て行く時にビゼスが意味深な笑みで肩に手を置いていったのは、今しがたの仕返しだったとしか思えない。
 皆が去ると、フェリーナが曖昧に笑った。
「ありがとうございました。半分預かるって、あの時の言葉。それを、今お返ししようと思って」
 正直言って、不安だった。強い心を持つアルドなら、自分の微々たる支えなど、必要としないかもしれない。
 医師の信念に背き失意の底にいた彼女へ、アルドは言ったのだった。ライアを救ってくれてありがとう、そこに居たのが僕なら、迷わず同じ事をした。だから、君一人が背負うんじゃない。僕が半分持つ、と。
 今度は自分が支えたい。勇気を振り絞って、フェリーナは切り出した。
「アルドは言いましたよね。ライア一人の命より、この旅を優先する責任は、全部自分独りに帰す、って。でも、それは違うんです――」
 必死で青い瞳は訴えた。
「私も、アルドの選択を責められません。だって、ライアと、エストで怪異に巻き込まれたティスやおばあさま、どちらかを選べと言われて、決められないんです。虫が良すぎですよね……私。私は弱い人間で、ひとりじゃ、この罪を背負いきれない。でも、だからお願いです。アルドのその責任を、少しでも私に分けてください……」
 彼女は、恐れながらもしっかりと地に足を付けて立っていた。もう、大丈夫だろう。彼女は、自分が守ってやらなくてはならないそのひとではなくなった。対等な仲間の一人として、迎え入れるべきだ。
 ローゼスで始まった仮初めの関係は、この時をもって終焉を迎えた。そして新たに結ばれた友情が、フェリーナの失恋を意味していた。



 遠方のローゼス対策課で何かあった以上、ここからは自分達の手で情報を収集するしかない。ライア達一行は、残るパズルのピースを求めて、大都ルーレイを目指した。
 途中、森を抜け、タスタ村という小さな村の祭りにも参加した。心身を充足させ、悪天候を凌げたという意味で、その滞在は決して無駄にはならなかった。
 そして通りがかりの海沿いの町で、役人からこんな話を聞いた。
「こっから西に行った町でね――ええ、決して、何があっても近付かないでください」
 西にあるメイスという町で疫病が流行しているらしい。町からの最後の使者の伝言は、町の封鎖を願い出るものだった。
 救助要請ではなく自ら封鎖を選ぶ程に、状況は酷いらしい。古くから土地の神を信仰し、静かな暮らしで満足し穏やかに暮らしてきた住民の気質も、その選択に寄与したに違いなかった。
 港町に残っている最後の使者というのは、まだ子供っぽさを残す青年だった。メイスの住民は、健康で歳若い彼の生と住民の最後の願いとを託し、彼を寄越したのだろう。
 ライア達は使者の青年と話す機会を得たが、疫病の詳細を聞いてからというものの、フェリーナの様子がおかしい。彼女はすっかり色を失ってしまっている。心配して仲間が声をかけるが、小さく首を振って、なんでもありません、と返すばかりだ。
 そのため一同は問い質すのをやめた。が、この男だけは容赦がなかった。
「なんでもないという状態じゃないな」
 リーティスに睨まれても、ビゼスはその言葉を撤回しなかった。ほぼ責めるような口調だったにも関らず、フェリーナは頑固に否定を重ねた。
「ほんとうに、大丈夫です。ご心配をおかけして、すみません」
 ウィリアがやんわりと否定する。
「フェリーナ、貴女さっきの話気にかけてるんでしょう? だめよ。貴女一人が行ってどうこうなる話じゃないわ。それに、貴女はこのパーティーになくてはならない人なのよ」
 助け舟のつもりだったのだが、フェリーナは泣きそうな顔で、はい、と答えた。
 それを見て、アルドが勘付いた。そして、言おうか迷った末――
「フェリーナ。ちょっといいかい」
「え、はい」
「きみは、本当はメイスの人達を助けられる確信がある。違うかな」
 諸刃の剣だと知っていた。この質問が、彼女をより苦しめる結果になるかもしれない。
 全員が息を飲み、フェリーナは真っ青になって立ち尽くした。やがて出た言葉は。
「……できる訳、ないじゃないですか」
 気丈に笑いながら、ぽろぽろと涙が零れる。
「私は、ここにいます。ここで力になるって、必ずエストを元に戻すって、決めたんですよ? ――こんな所で抜けられるはず、ないです」
 その返答に呆然としながらも、リーティスは思う。こんな状態のフェリーナを見ているのは、辛い。
 彼女は確かに、住民を疫病から救う何らかの手立てを知っている。そして、それには彼女自身がメイスへ赴かなくてはならないのだ。
「そ、その通りよ! さっき言ったでしょう。フェリーナは、私達と来なくちゃ――」
 それが苦しい言い分なのは、ウィリアの顔を見れば判る。そこに弟がぽつりと言った。
「行けば?」
 銀髪の少年に視線が集まる。
「ぶっちゃけさ、邪魔なんだよね〜? そんな状態で来られても役立たずなだけだし、だったらさっさとメイスに行っちゃえば?」
 酷い言葉だ。ぐっと堪えて、リーティスは本当に大事だと思う事だけを口にした。
「ねぇ、フェリーナ……メイスに行ったら、フェリーナも死んじゃうでしょ」
 それだけは、看過できない。ところが意外にもフェリーナの首は横に振られた。
「私は、その病気にかかったことがあります」
 使者の話から、フェリーナはそう診断した。
 一度かかった病気には、耐性がついて二度とかからないものがある。ローゼスで研修をしていて、フェリーナはかつて罹患した病気がそれと知った。
 フェリーナには残って欲しい。それは共通の想いだったが、それで医者としての彼女が壊れてしまうなら、彼らはウィルに便乗して送り出す方を選んだ。
 『行け』。そう言ってやる事だけが、彼女のためだ。だから誰一人、引き止めない。
 泣き顔のまま途方に暮れるフェリーナだったが、最後には仲間達の心を受け取った。
「――、行って来ます……!」
 フェリーナは必要な薬品と道具を持ち、残る医薬品をリーティスに託した。その瞬間、ライアの顔が引きつった。……誰か他の奴に渡してくれ。
 魔女が、しなやかな右手を差し出す。
「最後にね、これだけは忘れるんじゃないわ。……貴女は、どこで何してようと、この私を一度だけ負かした唯一の魔女(ライバル)よ」
 握手を交わし、それから、アルドも激励を込めてフェリーナの手を握った。フェリーナは、最後にアルドもどきりとする艶やかで最高の笑顔を見せて、医者としての自身の道を歩き始めた。

 二人だけの空間。それは最近にしては珍しい。姉は言う。
「どうしてそう、自分から傷つくことばかりしてるのかしらね。貴方、フェリーナに憧れてたでしょう。……知ってるわ、それが恋じゃないことも」
「…………」
「でも――そう、そうね……。私達とあの娘じゃ、違いすぎる。どんなに願ったって、手を伸ばしても、触れられはしない。私達は壊す者よ。あの穢れのない白さには触れられない、触れてはならないのよ、きっと……」
 彼はそう言う姉の事を知っていた。自分達は白くはない。それは確かだ。けれど、黒は黒なりの誇りを持って、姉は生きている。――自分とは違う。
 それだから、疎ましい。だから自分は、姉が大嫌いだ。



 『雷帝』ドラグル=エス=クライスは、重厚なビロードと大理石で彩られた謁見の間の玉座にて、使者からの伝令を受けた。
「リェートでの配備は、完了したとのことです。しかし――」
 獅子の如き髭を蓄えた帝王は、白髪混じりの年齢ではあったが、その迫力は地獄の帝王とでも表現するのが相応しい。王は、壮絶な笑みのまま問うた。
「なんだ。申してみよ」
「はっ! その……よろしかったのですか、レイファス殿下を暗殺させるなどと――」
 使者は声を絞って尋ねた。同盟国の王子を手にかけるなど、狂気の沙汰だ。
 それまで肘掛に頬杖をついていた王は、豪奢な王座に背をもたれ、悠々と言った。
「怪異が発生した当時、き奴は城を離れて無事だったというではないか。それがどうだ、我が帝国に援助要請に来なんだ。使者も寄越さん。……最も、大人しく余に縋るような男なら、そのまま援助という名目で徐々に属国にしてやったものを、な」
 帝国の広大な情報網を通じ、レイファスが供を連れて密かにノーゼに渡ったというきな臭い噂を聞いている。だが、彼がセーミズにいないのなら、それはそれで好都合だった。権力者が根こそぎ不在のセーミズに、同盟国の援助という形で軍隊と物資を送り、ゆくゆくはクライス領土としてしまおうという魂胆だ。
 そうなると、ノーゼにいる王子が邪魔だ。だからクライスの仕業とは知られぬよう、密かに暗殺する必要があった。
「わしは狂うとるか? のぅ……」
 使者は跪き、言葉を返さない。
「よいのじゃ。このわし自身も、クライスという極寒の国を豊かにするための道具にすぎんのよ。為政者として、余はどんな小さな火種も捨て置く訳にはいかぬ。それは、解ってくれような?」
 自身すら歯車の一枚であると公言する帝王に、伝令は畏まって報告を続けた。
「最新の情報によりますと、怪異で生き残った騎士から成る本隊とは別に行動する3人が確認されているそうです。いずれもレイファス殿下と歳の頃が一致する青年と言いますが、彼らを最優先で消すという事で宜しいですか?」
 王は渡された報告資料を一瞥して、ふんと鼻を鳴らした。
「この中の、黒髪の男を殺せ。然る後、機を見て本隊を一網打尽にせよ」
「……は??」
 消すべき王子は金髪である。使者は王の意図を汲めず、王その人は邪悪に顔を歪めた。
「こんなもの、目を引くための囮に決まっておろう。じゃが、もしも、万が一……この中にき奴がいるとすれば、変装もせずにという事はありえんよ」
 使者は感心して頷いた。
「最も、わしならば王子は本隊に隠すか、どこか安全な場所に匿って表には出さん。人違いならこの影武者の青年にはすまぬことをしたが、本物の王子への牽制にはなろうよ。……さて、腹が空いたな。最近煮込み料理ばかりが続くが、そろそろ燻製肉のベリーソースがけが出てもよい頃合だとは思わんか?」
 冬の間は忍耐が強いられるこの極北の地の帝王は、そう言って苦笑いした。

 その頃。
「兄上は一体何を考えている!」
 ルーガ=シス=クライス、現ゼーク国王は声を荒げていた。彼はクライスの属国たるゼークの統治者である。ゼークは事実上、彼らの祖父の代に鉱山資源の豊富なこの土地を武力で降伏させたのであり、現在でも放置すれば情勢が不安定になる危険を孕んでいた。
 心得た腹心の部下は言う。
「どうかお鎮めください。セーミズに混乱をもたらしているのは、前代未問の怪異です。まだ原因もつかめず、ドラグル様も、慎重になられているのでしょう」
「慎重……? しかし、やるなら今だというのに……!」
 好戦的な姿勢はクライス王家代々の血筋か、兄弟よく似ていたが、計略や知謀に長けた兄とは違い、実直で、悪く言えば単純なのがこの弟だった。反面、その実直さを買われ、統治の難しい不安定なこの地を任されたのだが、今は祖国に直接進言する立場にないのがもどかしい。
「私が――私がクライス国王なら――……」
 この機を逃しはしないだろう。セーミズとその東のスロウディアが怪異で弱体化している今、一気に大陸制覇に向けて動くチャンスである。兄はなぜ動かないのか。
 彼は兄同様、北国の自然の厳しさと国民の辛抱をよく知っている。だからこそ、この状況に人一倍焦れるのであった。



「みなさん!」
 大都ルーレイで声をかけた男が、最初、誰だか判らなかった。姿かたちは数ヶ月で変わっていないのに、様相が変貌していた。
 目元には隈、頬が少しこけ、瞳を爛々と光らす様は、徹夜で研究に明け暮れる学者そのものだ。
「カーラ、さん……? 無事だったんですね」
 アルドですら、最初は特定に戸惑った。彼は、対策課のカーラであった。
 彼は沈鬱な面持ちで返す。
「どうにか俺は、ってとこですよ……。ローゼスの本部が何者かに襲撃されて、うちの課員も今じゃ散り散りです……。これ以上みなさんのお力になれず、遺憾の限りです」
「頭を上げてください。カーラさんが無事だっただけでも、僕らには幸いです」
「アルディスさん……」
 その時、カーラの視界にリーティスが映り、その肩が小さく跳ねた。
「どうしましたか」
「い、いえ……なんでもありません」
 首を振り、懸命に不安を振り払おうとするかのような彼を見て、アルドはひとまず休める場所に行きましょうと言い、彼の滞在先まで同行した。
 そこで人払いをすると、アルドは一対一で、先程の事を尋ねた。最初こそ気のせいだと言い張った彼だったが、アルドの粘り勝ちで、ついに重たい口を開いた。
「あの、実は――」
 躊躇いがちに語られたのは、下手をすればパーティーが崩壊し兼ねない情報であった。
「リーティスが……怪異を起こした一味に加担してる?」
「い、いえ!! 本当に、その可能性が無くはない、というだけでして――……」
 怪異の調査中、国土のほとんどを壊滅に追い込まれたスロウディアと、国の西側半分は無事だったセーミズの違いは何であるか、カーラは疑問に思い、独自に調査を進めていた。奇しくも原因特定まであと僅かという時に、対策課は襲撃を受け、調査データは失われた。カーラは落ち延びる過程で、セーミズの騎士団が密かにノーゼに渡って活動しているという噂を耳にしており、それが彼の中で繋がった。
 アルドは慎重に尋ねる。
「リーティスは貴方がたの対策課で審問を受けたはずだ。そうでしょう?」
「その通りです。で、大変申し辛いんですが……リーティスさんの審問を受け持ったカイ――彼女、課の襲撃より前に姿を消してるんです」
 偶然か、はたまた。何やら暗雲の垂れ込む気配を前に、アルドはひとまずカーラを落ち着かせ、滞在先を後にした。

「ねぇ、ちょっと。いきなり観光で遠乗りしようとか、いい加減、これが何なのか教えてくれたっていいんじゃない?」
 リーティスがいぶかしんで問うが、アルドは涼しい顔で手綱を操りながら、あと5分したらね、と答えた。手綱を持ったまま不満そうに睨むリーティスは、後ろにビゼスを乗せている。借りた馬は3頭で、ライアの後ろにウィリアが、アルドの後ろにウィルが同乗している。あくまで馬への重量負担を考えての分乗だが、ライアは先程から要らぬお色気攻撃を受けていた。しかし、鼻の下は伸びるどころか頬が引きつっている。何せ相手は魔女だ。ついでにビゼスもセクハラぎりぎりのラインでないかと疑われたが、はっきりと拒否されそうな所は避けているため、あくまでグレーゾーンである。ウィルはお約束で同乗者の股間を触ってみたものの、そのケはないので寧ろこの中では最も健全だった。
「それじゃ、話そう」
 唐突に切り出して、アルドはとんでもない事を口にした。
「実はね。リーティスに敵じゃないかっていう嫌疑がかかってる」

 僅か20分足らずで遠乗りを終え、ルーレイ市街に戻った彼らは無言で警戒した。ここからは、誰が敵か判らないのだ。
 一切の釈明も弁明も避けたリーティスは、今も毅然としている。
 そこに後ろで髪を束ねた男が駆けつけた。
「こんなところにいたんですか!? ああもう、捜しましたよ……」
 ここが観光用の馬場と知って、諌めるような目をしたカーラに、ライアがしれっと答える。
「周辺の地理を調べておこうと思ったんです。気候も良いし、偵察には絶好でしたよ」
「それより、どうしたんですか。急いでたみたいですけど」
 リーティスが訊くと、カーラは何かを気にした様子ながらに答えた。
「俺の滞在先に覆面の男達が押し入ってきて、やっとの思いでここまで逃げてきたんです。もしかして、皆さんにも何かあったのではないかと心配になって来たんですよ」
「そうでしたか。ご心配なく、僕らの方は見ての通りです。ともかく、カーラさん、貴方はもしかすると、まだ追われているかもしれません。どうでしょう、しばらく僕達と一緒に行動しては」
「そうですね……、恥ずかしながら、俺には護身になるような大した魔法も使えません。お言葉に甘えたいところですが、その……本当に、迷惑では?」
 ご心配なく、とアルドが言って、カーラはようやく人心地ついたようだった。アルドが彼にライアを除く仲間をつけて先に帰らせると、ライアは眉をひそめて念押しした。
「……信じるな、って言うんだな……?」
 リーティス達の帰った方角を注意深く見ながら、アルドは頷く。
「悪いけど、もし敵なら、やっぱり君を狙うだろう。特に用心して」
「――了解」
 不意に、二人は視線を感じた。出所の特定に時間はかからなかった。
 建物の間からこちらを窺う二人組。彼らは、こちらが気付くのを待って移動した。
「……ッ」
 銀髪を見て息を飲むライアに対し、アルドはしっかりと言った。
「行こう」

 二つの人影は、一定の距離を保ちながら誘導するように郊外まで移動した。足を止めた彼らに、ライア達が追いつく。
「ウィーロス――」
 そこで確信したライアが呟く。互いに、声が届く範囲で距離を空けている。
「今日は最後のお願いに来たんだ」
 ウィーロスは言う。巡礼者というよりは戦士に見える同伴者は黙っている。
「最後……? どういう事だよ」
 ライアの問いかけに、ウィーロスは静かな決意と共に述べた。
「これから話すこと、多分、いきなりは受け止められないと思う。でも、できるなら受け容れて欲しい。……怪異は、確かにヒトが生んだものなんだ。でもね、人を傷付けるための力なんかじゃない。あれは争いのない平和な世界をつくるために必要な力なんだ――だから、怪異に関る一切から手を引いてくれ」
「何言ってんだ……? ウィーロス……ッ!」
 信じたくはないが、いつぞやの女性の指摘は正しかった。
 二の句が継げないライアの横で、アルドは冷静に訊ねた。
「そんな情報、どうやって知り得たんだい? ただの憶測っていうんじゃ、その忠告には従えないよ」
 ウィーロスは逡巡し、そして観念したように白状した。
「――きっと、もう薄々気付いてるよね……そう。僕『達』は、怪異を起こした人達の理念を知って、それに共感したから、今はそれを手助けする立場にあるんだ」
 赤い瞳がウィーロスを睨む。
「冗談……じゃ、ないんだな? なら、俺を消すためにここにいるのか?」
「違う。それが嫌だから、こうして来たんだ。これが最後だよ。もう、魔法陣を壊さないで。でなきゃ、僕は――ライアだけじゃない、みんなと戦わなきゃならなくなる」
「――俺が、それにみんなが、断るっつっても、考えは変わんねぇんだな――?」
 首は――縦に振られた。
「今すぐに答えを出してとは言わない。魔法陣を破壊しに来なければ、僕達は手出ししないって約束する。けど、どうしてもやめないなら……僕が、全力で止める」
 そう言った若草の瞳には、強い意思が宿っていた。



 ウィーロスとの邂逅から間を置かず、今度はリーティスが失踪した。
 市街で騒ぎが起きた気配はなく、外出が長引いただけかと思われたが、誰も彼女から外出のことづけを受けていないのが妙であった。
 顔面蒼白のカーラは、耐え切れずに頭の両側を手で押さえて叫んだ。
「あっ……や、やっぱりスパイだったんだっ! きっとこの場所を知らせに行って、もうすぐここにも――ッ」
 アルドが先手を打って馬上であの話をしなければ、ここで動揺する者も出ただろう。
「カーラさん。落ち着いてください。もしそうだったとしても、僕らが必ず守ります」
「で、でも! 彼女があっちの人間なら、何もかも筒抜けなんですよ!? こんなところでのんびりしてていいんですかっ!?」
 ビゼスが冷たく言い放つ。
「なら、もうどこに行っても手遅れだな。こうなれば向かってくる奴を斬るまでだ」
 アルドが緊迫した顔で頷き、指示を出す。自分とライアが残ってカーラの護衛。他が市街の警戒とリーティスの捜索。それを受けて紫の瞳が据わった。
「いいのぉー? オレとか、リーティスよかよっぽど裏切りそだけど?」
「いいよ。その時は、僕の見る目がなかったってことだ。責任は、僕が取る」
 ヒュウ、とウィルが口笛を鳴らし、ビゼスが余計な事を言う。
「それよりも、この状況で寝返られると一番厄介なのが貴様だ、アルディス。おいライア、しっかり見張っとけ」
「ぇえ!? 俺!?」
 こうしてカーラを不安のどん底に突き落とすと、捜索組は出発した。

「てな訳で〜、随分と信用されちゃってるみたいだけどぉ、具体的にどーすんの?」
 ビゼスが淡々と答えた。
「リーティスが自分で出て行ったなら、普通には見つからんだろう。というか捜す必要がないな。私達は迎え撃つ準備をすればいい」
「今考えるのは、それ以外の可能性ね」
「このタイミングでリーティスに手ぇ出すメリットとか、ひとつしか考えらんないんですけどー?」
 それは仲間の不審を煽り、パーティーを弱体化させる事だ。個々の戦闘能力が高いとはいえ、結束しなければただの個人だ。撃破される可能性は上がる。
「それなら、リーティスを私達の目に触れないようにしてしまえば良い訳か」
 亡き者にするのか、捕えておくのか。どちらにせよ、本人が見つからないうちは、仲間内で不審が広まる。
 ウィリアが苛々と爪を噛んだ。
「人質に取られた方がまだやりようがあ――いいえ、不謹慎だったわね……」
 人質ならば向こうから要求があるので、所在は知れる。今回はその望みすら薄い。
「ともかく……やるしかないのよ……!」
 その気合いも虚しく、すぐには目撃情報は上がってこなかった。
「は? 何ぃ、娘っこがゆくえふめぃ?」
 胡散臭そうに聞き返したのは、ルーレイで商いをして長いという、耳の遠くなり始めた浅黒い老人だ。彼は路上に痰を吐きながらこう言った。
「神隠しなら、この辺でいくらでも起こるわい」
 何でも、ルーレイから徒歩で行ける森に雪狼(ゆきおおかみ)と呼ばれる真っ白な夜行性の獣が棲んでおり、家で養えなくなった老人や子を昼に森へ捨てに行く者が在るのだとか。他にも哀れな遭難者が彼らの餌食となる。老人は語らなかったが、事実が確認されないだけで、実際は犯行の隠匿にも用いられた。
「あの白い悪魔の使いどもめ、残す物と言ったら骨だけじゃ! ワシらは、暗くなったら決して森には近付かんのよ……」
 それから、3人は顔を付き合わせた。
「日没まで2時間切ってるな――森は、とても捜せた範囲じゃない。だいたい森に連れてかれる時点で殺されてるだろう」
「そうね――そうかもしれない……それでも」
 消え入りそうに、魔女は、あの子の体は見つけてあげないと、と言った。
 そこへ、唐突に彼女は登場した。
「フッ……待たセたわネ」
「え〜、ダレあの人」
「さあな」
 言いながら、女性の前をすたすたと通り過ぎる。女性は慌てて追いすがると、ウィリアとウィルの服をつかんで、ぐぐぐと引き止めた。
「チョット……そレはないんじゃないカシら……!?」

 かくして、女性は壁を背に3人に囲まれ頬を引きつらせていた。
「う……、い、いきなりか弱い女性ヲ取り囲むとか、どうイウ了見かしラッ! ひ、人を呼ぶわッ!!」
「――呼べば?」
 首を傾げつつウィルが言う。あっさり形成逆転されて女性はよよよと泣き崩れた。

「まったく、人遣いの荒い!!」
 つい母国語に戻りながら、彼女は愛鳥を駆る。地平線はオレンジに輝き始め、眼下には薄い雪化粧の冬枯れの森が広がっている。巨鳥の背に同乗した男が、エスト語で言う。
「時間がない。夜行性の雪狼どもが活動を始めたら、ヒトの手には負えないと聞く」
「だから、そんなとこに飛び込もうとしてる貴方の気が知れないわっ!!」
 今は上空から雪狼の縄張りをなぞるように旋回しているだけだったが、必要とあらば降下も辞さない覚悟だ。だが実際のところ、男も乗り気ではなく、連れの剣幕に圧されてここにいる。乗り気でない理由は、暗くなり始めた森でヒト一人を探すなど非現実的であるのが一番、向こうが死んでいる可能性が高いのが次点である。それでいて眼下から一時たりとも目が離せないのは、今なら、まだ――という甘い考えがどこかにあるからだろう。そんな期待は無意味と知る現実主義な自分と、希望を捨てきれず真剣にならざるを得ない自分とが、彼の中でせめぎ合っている。
 ルーレイでは連れが聞き込みを続けていた。あれだけ人通りの多い街なので、今頃何かしら手がかりをつかんでいるはずだ。対して、こちらの捜索のタイムリミットはあと僅かである。
 冷え込む向かい風の中、若葉色の風切り羽が空を切った。



 目覚めると、土の上だった。街で気分を悪くした少女がうずくまっていたので、放っておく訳にもいかず彼女の家まで肩を貸してやったつもりが、どういう訳か森にいる。
 立ち上がると、少しくらくらした。
「――え?」
 二、三歩進んで、目の前に太い幹がある。自分はその幹を背にして進んだはずだった。これは夢か? 足元を、一匹の黒っぽい青虫が這っている。
 息を吸い、もう一度歩く。一、二、三、四、五歩。立ち止まって見回すと、真後ろにあった木は、斜め後ろに見えた。同時に、自分より一歩以上も先を、先程の青虫が這っていた。
 肝が冷えた。どうして、そんなにも先へ移動したのか。落ち着け。耳は正常だ。目も見える。もう一度青虫に目をやると――そこには何もなかった。枯葉の裏か草陰に移動したのだとしても、目を離したのは一瞬だ。
 ごくりと唾を飲み、もう一度足を進めた。今度は、七歩。
 最初のように目の前に木の幹が現れることもなかった。そこで辺りを見て、愕然とする。
(待って――今、どっちから来たの……?)
 最初に後ろにあった木はどれか。太さからして、距離からして、多分あの木だ。けれど、考えるてみると、すぐ右手が触れそうなこの木だった気もしてくる。
 焦燥の中で考えた。何が起こっている? 今まで明るかった空は、美しい夕焼け色をしていた。
 たどりついた結論は一つ。方向感覚と、時間感覚を歪める薬物に、自分が冒されているということ。でなければ、悪い夢だ。早く覚めて欲しい。
 びくりと、華奢な肩が跳ねた。まだ遠いが、何か居る。全身の勘が危険を知らせた。
 左の腰に剣はある。だけど、今の自分にまともに抜けるのだろうか。
 遠くで白い二つの塊が動くのが見えた。
(助けて……!!)
 自分はここから動けない。動いたとしても、思う方向には進めないだろう。
 祈るような気持ちで剣を抜く。しかしまだ半分も抜かないうちに、遠くに見えたはずの雪狼が目前に迫っていた。最後の意地で、剣を引き抜く。
 ……間に合わなかった。
 気付けば脳天から顔の右半分を通り胸までが血で汚れていた。それでも放さなかった剣は銀色のままで、雪狼に届く事もなかった事が知れた。涙が頬に筋を作る。自分はもう痛いと感じないけれど、体は痛みを感じているのだろうか。それとも、感覚がずれているせいで、痛みもこれから来るのか。
(やだな……)
 できるなら、激痛なんか感じずに落ちてしまいたい。一瞬目を閉じて、でも本当は一瞬でなくて、いつの間にか誰かに支えられながらもつれる足で進んでいた。向こうへ行けば母が待っているのだろうとぼんやり思ったが、聞こえたのは男の声だった。自分では耳は正常と思ったのに、かけられた言葉の意味が理解できない。ただ、その声に不思議と安らいで、もう一度、目を閉じた。その時には、暖かな羽毛の上にいた。
「3人はキツイわね……。行ける? レイド」
 知らない声。無論その言葉も理解できなかったが、それに続いて体が沈み込むような重圧を感じた。
 そっと、目を開ける。唐突に五感が戻ると、彼女は絶叫した。背に密着した人間が反応して後ろから視界を塞ぐ。どこか安堵したような声。
「戻ったか」
「ひッ……」
 まるで、うっかり雲から足を踏み外し、永遠に落ち行くような浮遊感。
「もう少しで着く。大人しくしてろ」
「こっ、ここって……」
 目隠しされる前に見た光景は幻でないだろう。返されたのは、実に適当な返事だ。
「まあ、あれだ。高さとか、気にするな。落ちたら死ぬが、あまり深く考えるとハゲるぞ」
「△×□〜〜!?」
 嗚呼、夢じゃない。今こそ本気で気絶したいリーティスであった。

「よし。『全員』揃ったね」
 逃げ隠れしても無駄と割り切って、目抜き通りの酒場に繰り出しての夕食だった。普段は旅費を節約しているが、アルドはちゃんと使い処を弁えている。
「明日、ジグラル砦に『攻め入る』事にした。今夜はその景気付けだ」
 アルドの音頭で杯が交わされ、各々が好きに注文した料理が運ばれて来る。ラム肉に噛り付きながらライアが訊いた。
「向こうは誰が攻めて来ても迎え撃つ準備してんだろうけど……勝算は、あんだよな?」
 アルドが片目を瞑る。
「うん。『彼女』の協力次第、ってとこだね」
「まったく、貸し馬じゃないンだから、気軽に使ワないで欲シいワ!!」
 なぜか女性が仲良く食卓を囲んでいる。
「もぐもぐ……お嬢サンが軽かったカら、レイドもちゃんと飛べタけど……はぐはぐ」
 妙齢の女性の髪は肩の上までのウエーブのダークブロンド、瞳は菫。間違いなく美人の部類に入るだろうが、空腹に耐えかねたらしいその姿はいただけない。
 ライアの隣では、リーティスが黙々と白パンをシチューに浸して食していた。
「あのさーぁ? 前にも言ったけど、カタコトよしなって」
「棒に入っては棒にシタガえト言うでショう!?」
「『郷』?」
 呆れ顔のウィルに訂正される。彼女がライア達の前に姿を見せた理由は、要するにこうだ。『偵察活動中に、見つかってしまった。だから助けろ。』
「……。どっちが協力してやるんだか、判らん状況だがな」
「ム。だからお嬢さんの救出に一役買っタでショう!? それに、チャんと仕掛けるものは仕掛けてきタわ!!」
 彼女と愛鳥の活躍で、間一髪、リーティスが返り血を浴びただけで済んだのは事実だ。アルドが戸惑いがちに尋ねる。
「仕掛けるって……もしや、術とか爆弾とか?」
「マさか!」
 否定しつつも、今ここで明かすつもりはないようだ。この陽気な酒場において唯一蒼白のカーラに、ウィリアがしな垂れかかる。
「てゆぅか……んふっ、お兄さん、お酒進んでないみたいだけど……?」
「いや――俺は飲める気分じゃ……って何注いで!? いいって言ってるでしょお!?」
 10分後、彼は盛大に寝こけていた。その鼾は、他の客の喧騒にかき消される。
「……何を入れた」
 ビゼスが小声で問うが、ウィリアは涼しくウインクを返した。
「大丈夫。貴方の分にも盛って、夜這いなんてしてない・か・ら」
 魔女の毒の言葉に、さしも剣鬼も閉口する。
「ムム……やルわね」
 何に感心してるのか、昏睡状態のカーラを見て女性が顎を押さえながら言った。その隣で、我らがリーダー殿は何も見なかった態で言う。
「彼は、疲れていたんでしょう。今はそっとしといてあげよう」
 優しく言った後で、彼は一同の目を見渡した。
「それじゃ、明日の作戦会議といこう」

 女性はペルラと名乗った。偽名か本名かは判らない。
 彼女が単独で確かめた情報によると、エストを元に戻すために消さなくてはならない術は、あと二つ。一つが近隣のジグラル砦、もう一つがヴィータ渓谷だという。
「貴方達、蜘蛛のガーディアンと戦ったって言ったわネ。その先ノ廃墟にも、上空かラは魔法陣とクリスタルが確認でキたワ」
 だが、それはノーゼで怪異を起こすためのものらしい。今はそちらにまで手を回す余裕はなかった。どの道、次の怪異を起こされる前に大元を叩けば良いのだ。
 ペルラは魔法陣の側で待ち構える怪物のことをガーディアンと呼んだ。一度目覚めるとその地を動かず、向かってくる者を排除するが、ヒトの制御下に置ける代物ではないため、通常はその場所には戻らないことを想定して仕掛けるらしい。ジグラルはヒトが常駐する拠点となっている以上、ガーディアンは置かないはずだとペルラは言った。
 ノーゼ語が億劫になったのか、エスト語でペルラが言う。
「私の存在もばれてしまった以上、近日中にジグラルには周辺の戦力が結集するはず。こちらから攻め込むなら、早い方がいい」
「にしたって、明日ってのは急だよな。さっき仕掛けてるっつったのは何なんだ?」
 よくぞ聞いてくれました、とペルラは得意げな顔をする。
「フフン、それは『噂』よ!」
 『魔物を操る恐ろしい一団がジグラルにいる。彼らは街を襲うつもりだ。』――そう彼女はふれて回った。早ければ昨日今日にも、ルーレイを中心に結成した討伐隊の第一陣が乗り込んでいる頃合だと言う。
「ふ……爆薬なんて物騒な物は使わずに、華麗に乗り切るのがこの私のやり方。明晰な頭脳の勝利ね!」
「ねー、思ったんですけどぉ、そんなら討伐隊が全部片付けてくれんの待つほぅが賢明っしょ?」
「甘イ! 甘いワ!!」
 なぜかまたノーゼ語でペルラが言う。テンションの問題かもしれない。
「ワタシが流した情報、ウソじゃナいわ! 彼らは本当に魔物を操ル。ワタシの指示でレイドが動クの、見たデショう!?」
 彼女は元々向こう側の人間だ。だからミース教巡礼の一行と同じく、人に懐かないはずの魔鳥を手懐けていた。片や、ガーディアンのように魔術を組み込んだ半人工的な存在となると、躾けられないそうだ。
「魔物と人、どちラとも戦い慣れテなきゃ、フツウの討伐隊じゃ苦戦スるわ。他にモ、特殊な力を使うひトガいル。決着は、私達自身の手でツけるべキね」
 特殊と言えば、ウィーロスの"気"も、普通にないほどに鍛えられたものだ。
 アルドは明日、ジグラルで接近戦になってウィーロスが現れない事を祈った。



 明け方、目を覚ました彼は猿ぐつわを咬まされ、手と足を縛られて転がされていたのを知った。
「むぅーっ! んーっ!」
 ひとしきり叫んでみるが、近くに人はいないようだった。
 しかしこの納屋は人が造ったものには違いない。膝の屈伸を利用して戸のところまで移動すると、渾身の力で戸を蹴った。何度かそうしてみて、しばらく待つ。
 やはり、誰もいない。
 彼はその憎悪の視線を、戸の隙間から漏れる外の光へと向けた。

 太陽が地平から顔を出す頃、ぴしりと氷の張った池の近くを通り過ぎる一行があった。その中に、ペルラやカーラの姿はない。
「何かと不安要素がいっぱいね――」
 そう言ったのは銀髪の美女。らしくない彼女の憂鬱は、今回ばかりは身内が敵に回る可能性が高いことに起因した。それでもこの行軍に参加したということは、覚悟を固めた証でもある。
 カーラを夕方まで人が来なさそうな安全地帯に『隔離』し、夜明けと共にルーレイを出た一行は、まだ空が暗いうちに近くの窪地へ寄った。そこで待つのペルラの頼れるパートナー……のはずだった。しかし、レイドはいざ出撃という段でぐずって命令を聞かなかったので、ペルラは慌てて弁明した。
 曰く、昨日の捜索のために好物の兎の肉をやってしまったので、今手持ちの餌では動いてくれない、と。一体どうしてくれるんだ、とペルラは肩を怒らせた。
 どう見ても居直りのその非難は無視する方向で、ビゼスが呆れたように薄茶色の巨体を見上げた。
「つまり、食い気で動いてるのか、こいつは」
「うぅ〜、ちょっと!? 主人の命令が聞けないって言うの!? ウゴキナサイ!」
 レイドは悪びれず、わめく主を無視し続け、あまつさえまだ寝かせろと言わんばかりに窪地に体をうずめた。
 拉致が空かないので、ペルラとレイドはその場に置いてきた。
 歩きながらアルドが言う。
「まあ……不安要素もあるけれど、彼女から聞いた情報が正確なら、やりようはある」
 ペルラの広めた噂で、昨日から近隣の討伐隊も動き出しているらしい。
 ジグラル山地には古い戦で使われた砦が二つあり、片方は半壊という話だが、恐らく一見崩れかけで使えないそちらが本命というのが、ペルラの見立てであった。
 討伐隊は壊れていない砦に主力を差し向けるであろうが、むしろ好都合だ。相手の戦力が裂かれている間に、裏をかいて本拠地を制圧できる可能性が高くなる。無論本命なら、それだけの精鋭を置いているはずだが、そこは実力で押し切るしかない。魔物を操ることは判っているので、ライア達なら対峙したときの精神的な動揺も小さいだろう。

 と、その時、行く手に砦の方角を見張る武装した男達の姿が見えた。


   →戻る

inserted by FC2 system