「ラーハネット〜? お茶まだ?」
「今淹れてる!」
 給湯スペースから返された声に、落ち着いた色合いの会議用の長机から、ああそうー、と間延びした返事をした、三十後半の女性。
 髪は赤。瞳はルビーの色彩。長い赤毛を、一本の三つ編にしてサイドに垂らしている。
 はす向かいには、王室の優美なドレスを着こなした、彼女より少し若い貴婦人が背筋を伸ばして座っている。その姿は、可憐ながらに凛とした薔薇に似て、ティアラを外していても、一国の姫君であろう事をうかがわせた。
 対して、だらー、と机に伏した三つ編の女性。彼女は、この国の第一王子、ラーハネット=ディル=スロウディアを顎で使っていた。
 ――いいのか、スロウディア。
 そんな突っ込みが聞こえそうだが、まあ、いいのだ、この場合は。
 さらに彼女は、のうのうと言ってのけた。
「子供も一人くらいは産んどくものねー。雑用やってくれるし」
(何それ!? そんな理由?? 俺の存在価値って……)
 今まさにお茶を注いでいたライアは、耳に入った言葉にがっくり肩を落とした。



STAGE 20 princess of fire 〜スロウディアの休日〜



 王女キアは、穢れ知らずの赤い瞳で、従兄のライアを見上げて尋ねた。
「らーにいさま、もうだいじょうぶ? げんき?」
「ごめんなー。心配かけた。……っと」
 ライアは、隣の椅子からキアを抱き上げ、重くなったな、と言いながら膝に乗せた。
 その向かいで、一児の母とは思えない美しい貴婦人がぼやく。
「……まったく。『冬に3ヶ月も病で伏せっていた』当人が、こんなに健康的でよろしいんですの?」
 ライアではなく、その保護者を横目で睨んでミールは言った。
 しかし、返された声はやる気の無さに満ち溢れていた。
「いーのいーの、うちの王子様、これで結構丈夫だから。とっくに快気したって公表してるし、いいじゃない、ね?」
 はーっ、と大きくため息をついて、貴婦人は諦めたように首を振った。
 従妹をあやしながら、半笑いで成り行きを見守っていた当事者は、突如、きっ!と叔母に睨まれ、びくりと姿勢を正した。
「貴方もです、ラーハネット。反省はしているんでしょうね?」
(解ってます解ってるって! それはもう……)
 思いながら、口では聞き分けよく、はい、とだけ言った。
 この相手に口答えをしてはいけない。それは、幼き頃より、身に染みて理解している森羅万象の揺ぎ無き摂理だ。
 そんな中、幼き姫は、母親の刺々しい口調に敏感に反応した。
「おかあさま、らーにいさまいじめちゃ、だめ!」
 いじめていませんわ、とミール。
「これはね、いじめてるんじゃなくって、『しつけ』っていうのよ」
 叔母の紅い瞳がきらりと光ったのは、ライアの目の錯覚だろうか。
 ライアは、腕の中できょとんとしているキアを、こころなし、しっかりと腕に抱いた。
 ――この母親は、実の娘にも容赦ない。
 ライアが城に舞い戻った、冬の終わりの頃だったろうか。前王の亡き第二夫人がたいそう大事にしていたガラス細工を、キアが触れて誤って壊してしまった際、ミールは静かな怒りと威厳をたたえた女神のごとき様相で、彼女流の『躾』を施した。
 実際、ミールではなく、その母親が大切にしていた物のために何もそこまで、とライアは思うのだが、残念ながら口を挟む余地は与えられなかった。
 こっぴどく叱られたキアは、広い城内にも響き渡るかと思われたほど、大泣きした。
 それがどれだけトラウマになったかと言うと、それから3日は、母親のところではなく、ライアの寝室にこっそり潜り込んで寝るほどであった。
(あれは可哀相だった。すっっごい可哀相だった……)
 思い出してもほろりと涙しそうな程、母親に叱られたキアの泣きようには悲痛なものがあった。
 だから、ライアは極力、叔母の前では努めて王子らしく振舞い、気を逆撫でしないよう、いつも細心の注意を払うのだ。
 どんなに彼女にがみがみうるさく言われても効かないのは、その姉くらいのものである。
 母のふてぶてしさに、ときにライアは、畏敬の念すら覚える。
「……あら」
 ふと、叔母はライアの胸元に光るものに目を留めた。
 細い銀の鎖に通したそれは、金の指輪だった。
「私が即位してからは、旦那に預けといたんだけどねー。成人するまでに渡しといて、って言ってあったんだけど。流石に、あの冬の不在騒動で、渡しとかないと不安になったらしいわ」
 その指輪は、女の指に合わせて作られている。初代国王ヴィシュタットが妻に送ったもので、レプリカではなく、本物だ。
 スロウディアでは、それを代々、王位継承権第一位の者に渡す風習があった。しかし、前王が早くに亡くなってしまい、第一王女のルネットが若くして即位したので、ライアが成長するまで、それは父の手で保管されていた。
 城を飛び出した息子に、繋ぎ止めておく首輪の意味も込め、父は早々に、帰ってきたライアに指輪を渡した。要するに、王子としての責任と自覚を持ちなさい、という事だ。
「そりゃあ、そうでしょうよ――」
 賛同したミールは、ライアが顔を見せなかった『あの時期』の事情を知っている。
「あ、あははっ……」
 ライアは、ただ笑って誤魔化すしかなかった。
 指輪を見つめて、ミールは不意に、遠い目をした。
「でもねぇ、その指輪……」
「にぃさま、キアにさわらせて」
 誤飲の危険があるので、鎖からは外さずに、ライアは、指輪を膝の上の少女の好きにさせた。幼い姫は、外してくれない事が不満だったらしいが、やがて、小さな指をぶかぶかのリングに突っ込むと、満足そうにきゃっきゃっと笑った。
「あっ、すみません、叔母上。あの、この指輪が何か……?」
「ええ」
 吹っ切ったように、すました様子で背筋を伸ばし、王宮の洗練された教育を受けた者の完璧な微笑で、叔母は言った。
「嫌いだった。その指輪が。姉さんと、わたくしの違いを、決定的にするそれが」
 そこに娘だった頃の面影がよぎり、ライアは知らないかつてのミールが、気高く気の強い少女だった事を窺わせた。
「言うと思ったわー」
 心底嫌そうに、女王は言った。
「こんなもの、お望みなら、あんたにくれてやりたかったわよ」
「判っていますの? そういう姉さんの態度も、十っ分、当時のわたくしの気に障りましたのよ」
「えーえー、そうでしょうとも! 私は、あんたの母さんに、さんっざ嫌がらせ受けたんだから。どれだけ自分の娘を女王にしたかったのかしらね。まあ、あのおばさんも死んじゃったから、今ではかわいそーって思えるけど」
「母上!!」
 流石に、そんな暴言は、息子として看過できなかった。
(……母さんとは、腹違いの姉妹なんだよな? 俺も、そんなに二人が仲良いとは思ってないけど……でも、いくら何でも、ここまで……っ? まさか、そんなに酷い関係だったなんて――?)
「くそくらえよ」
(……ぇえ!?)
 ライアは、耳を疑った。まさか、そのような言葉が、上品で愛らしい薔薇のような唇から紡がれたとでもいうのか。
 同じ王族でも、これが母の発言なら軽く流せたであろう事実が、どうにも悲しい。
 ぎぎぎ、と音がしそうな程ぎこちなく首を回し、叔母の機嫌を窺う。
「……ぉ、叔母上――? 今、何と……?」
「そんなもの、頼まれたって、要りませんわ。わたくしが指輪の所有者だったら、そうでなくとも、お母様が生きていたら、わたくしは、庭師との結婚なんて、永久に認められなかったでしょうから」
「そぉね。じゃ、私に感謝してよ」
 どうでもよさそうに、女王が突っ込んだ。
「勘違いしないでいただける? お姉様は、今でも十二分にわたくしの目の敵ですわよ?」
 そんな暴言を吐きながらも、妹の方は王女然として、かたや自分の母親は全然そう見えないのはなぜだろう、とライアは思った。
 状況を見守る子供たちを指して、ルネットは言った。
「ほら、私たちがこんな話するから、二人とも、心配そうに見てるわよ。言っとくけど、確かに昔のあんたは相当ムカついたわ。でも、今じゃ、だいぶマシになったと思ってる」
「あら、意外ですわね。お姉様の口から、そんなお言葉が聞けるなんて」
「おかあさま……ルネットおばちゃまと、けんかしないで……」
 泣き出しそうに訴えかけるキアの頭をライアが撫で、ミールが困ったように言った。
「別にね、お母さん、喧嘩してる訳ゃないのよ。ただ……ちょっとね、昔は、仲良くできなかったの」
「じゃあ、いまはなかよし?」
 うっ、と姉妹が同時に詰まって、それから、おほほ、うふふ、と乾いた笑みを交わしたかと思うと、彼女達は表情を緩めた。
「ええ、そうよ、キアちゃん」
「コホン。ええ、少なくとも、嫌いではないとだけ、言っておきますわ」
 叔母のツンテレっぷりは、旅路を共にした素直でない誰かさんを軽く上回る、と思いながら、ライアはため息をついた。



 遡る事20年、スロウディアには、二人の王女がいた。
 これは、当時の姉の結婚にまつわるエピソード――

 私は今年、17になる。
 年頃の娘を持つ父親なら、本腰を入れて婿を探し求めるのは、どこの家だって同じこと。それは、血筋を誇りとする貴族であれば、尚更な話だった。
 ただし、まつりごとに専念する賢明なうちの父上殿は、娘のことなんて、二の次のご様子ですが。
 ルネット=セルソン=スロウディア――全く、長ったらしい名前ですこと。
 『セルソン』はスティルト文字と呼ばれる、表意文字。直系の王族は、習慣的にこれを一文字、名前に組み込む。
 それで、私の『セルソン』の意味だけど――『愛』。
 『愛』ですって?? ……笑っちゃう。お姫様は、愛嬌があって、お飾りとして花のように笑って皆に愛されさえすればいい、とでも言うのかしらね。
 私はこう、もっとご利益のありそうな……そうね、『輝(ティル)』とか、『竜(ユーイル)』が良かったわ。……ああ、でも、ユーイルは男の子が生まれた時に授ける文字だったわね。
 竜は、不老不死と気高さの象徴。うちの騎士団のシンボルになってるのも、分かるなぁ。
 ――それにしても、うちのお父上の鈍感さと来たら!
 17にもなれば、好きな異性の一人もいるに決まっているじゃない!?



「おっはよ〜っ」
 妙に重い。そう思ったら、布団の上に少女が乗っていた。
 言うまでもなく、ここは、『僕の』部屋だ。
(はぁ……)
 またか、と僕は思う。
(どうしてこのコは。ほんとに、もう……)
 それでも、いつの間にやら、突然上から人が降ってくるのにも、朝起きると自分の上に人が乗ってるのにも、驚かなくなったらしい、この僕は。
 昨晩は、一人だった。寝る前に、戸も閉めた。だけど、ある事情によって鍵をかけなかったのは事実だ。というのは、何というか――その、そう。命に関わるからだ。以前、鍵をかけておいて、半殺しの目にあった。
「ファルド様!! 入りますよ?」
 侍女の慌てた声。これまた恒例。
「おはようございます」
 僕は、寝癖だけでも手櫛で押さえながら挨拶する。
「あああやっぱりぃ〜」
 お決まりのように取り乱す侍女は、僕の上に乗った少女に、機関銃のように喋り出した。
「一体なぜどうして、いつもこのようなお時間に、ファルド様のお部屋に侵入なさるんですか!? 毎度毎度注意してもお聞き入れ下さらないなんて……これは、私どもに対する嫌がらせですか? 仮にも貴方は、嫁入り前の娘なんです! この王宮で間違いを起こせば『ファルド様の』首が飛びます。それは良いにしても――姫様、もっと自覚をお持ち下さいッ! それとファルド様! 貴方もどうして、そうほったらかしにしてらっしゃるのですか? 就寝前に、鍵くらいお掛けになって――」
「いやさ、前は、掛けてたんだけど。……次の日、地獄を見るようなひっどい目にあった」
 つまりは、目の前の少女に、ボコボコにされた。
 女の子に反撃なんてできないし、とか甘いことを考えていたら、向こうは本気で怒り心頭きていたらしく、随分な目に合わされた。何より痛かったのは、その後数日は、まともに話してもらえなかった事だ。仮にも好いた子に、存在を否定するようにまるっきり無視されるのは、どれだけ痛かったことか。――あれは堪えた。
 侍女の冷ややかな視線にも、少女は知らん顔だ。そして、今日も侍女が負けて引き下がる。
「……はぁ。ともかく、今後はこのような事態を極力避けるよう、心がけて下さいね? 頼みましたよ、ファルド様。それに、姫様?」
 姫様に反省する気がゼロなのは明白なので、この場は僕が取り繕う。
「――すみません。僕も、従者として、これからは未然に防止するよう努めます」
 真摯に述べながらも、つい、『いいじゃないですか』という本心が顔に出てしまう。
 だって、可愛い女の子に腕に抱きつかれて、悪い気のする男がいるはずない。
 表情が緩むわ、あの子に引っ付かれてるわで、説得力がないのは、十分自覚している。それでも、言葉上は丁重に振舞わなくてはならない。
 何と言っても、僕は民間の出だ。もともと、ルネット様のご学友として城に上がったのが始まりで、以来、幼馴染として、この気の強い少女に振り回されている。
 誓って言うが、僕は、ルネットに無駄に抱きつかれはしていても、手を出した覚えはない。キスだってまだだ。
 ちなみに、恒例の騒ぎの当人に至っては、全く反省の色がない。僕の腕に引っ付いたまま、侍女にあっかんべ、さえする。
 深い深いため息をつきながら、侍女は退出していった。その姿に、僕はちょっとだけ、罪悪感を覚える。
 今朝の侍女も、先日、それに先々週も、姫を探しにきた侍女達は皆、僕の事を本気で咎めたりしなかった。彼女達は、おおかた、姫の方が主犯と確信している。
 民間人の僕が、これだけ姫と親しくして未だに城を追われない理由は、証言者であるはずの彼女達が、口を揃えてこう言うからだ。そんな事実はありません、と。
 それもそのはず、彼女達はうら若い王女の色恋沙汰に興味深々で、僕が追い出されてしまえば、噂話に花を咲かせる愉しみが、一つ減ってしまうと考えていたのだ。
 他にも僕らの関係に気づいている者はいるのだが、実際のところ、皆、こう思っているらしい。『若い二人の事だ、この位は目を瞑ってやってもいいのではないか』、と……。



 何たる事か!!
 こんな事態になっているとは、思いも寄らなかった。
 余が政に没頭している間にも、娘は、王室の然るべき教育を受け、王家を継ぐに相応しい、一人前の淑女に成長している予定だったというのに。一体、どこで狂いが生じた?
 実母の不在が影響するのか、跳ね返りに育ってしまったあれと違い、下の娘は順当に育った。だが、我がスロウディアの王家は、代々長子が継ぐ慣わし。いくら二人目の妻が奨めようと、今更それを覆す事はできぬ。ミールが余の後を継げば、母のないルネットは立場を失う。あれも、じゃじゃ馬だが、余の可愛い娘だ。だから、何としてもあれに王位を継がせねばならん。
 あの小僧を拾ったのが間違いだったか? 少しばかり剣の腕が立つ、ぱっとしない城下の坊主だったが、あれの両親は、仕事熱心で、国にもよく尽くす、善良な市民だった。あの小僧めを、学友としてルネットが気に入っておったから、あの小僧が親を亡くした3年前、不憫に思って、城に引き取ってやったものを――余の娘を誑かしただと!? この泥棒猫めが!



 余の前には、面と向かって話す機会がなくなって久しい、上の娘が座っている。
 若者特有の、恐れを知らぬ真っ直ぐなまなざしで、余を見据えておる。
「お父様」
 その声は、他界した余の最初の妻とそっくりだ。
「お話があると窺いましたが。一体何のお話でございましょう?」
「――お前の、将来の話だ」
 それだけで、ルネットも理解しただろう。
 この娘が、気性だけは余に似て、遠回しなことを嫌がるのは解りきっている。だから、単刀直入に伝えるつもりだった。
「そのことでしたら、折り入って相談がございます、お父様。私は……将来を共にしたい殿方がおります」
「――あの若造か? ……ファルドといったかな」
 あれは、子育てに無頓着な余が知っていたのが、少々意外だったらしい。
 しかし、臆しはせず、まゆを吊り上げて余を見た。
「……そうです。お父様は、それに反対なされるのですか?」
 余は、斜め下を見て短く息を吐いた。
「まあ、端的に言ってしまえばそういうことだ。――よく考えてみろ。お前の婿は、この国の柱たるお前を支える役割を担うのだぞ? 平民の生まれでは、少々、荷が重過ぎるのではないか? のう、ルネットよ」
 余は、かの若造と、直に言葉を交わした事はない。だが、見たところ、穏やかを越して、どこか腑抜けて見える。そんな者に、この国と、余の大切な娘を預けられたはずがない。
 娘も一瞬言葉に詰まった様子だったが、すぐに返す。
「お父様のおっしゃられたい事は判ります。確かに彼は、お父様の目から見て、頼りなく映るかもしれません。ですが……彼は、決して軟弱な人なんかじゃありません! だからこそ、わたくしは、『彼と』共に歩んで行きたいのです。困難に突き当たれば、私は、あの人と二人で越えて行く覚悟があります」
「しかしな――」
 淑やかで愛らしい下の娘とは違い、あれは、どうにも扱いにくい。
 可愛らしく拗ねて我侭を言う事をせず、言いたいことは可愛げなく正直に言う。
 媚び方の一つも知らず、お転婆ばかりやってのけては、城内に敵も味方も作っていく。
 素晴らしい宝飾品を贈られて、たちまち花のように顔を綻ばせる妹と違って、若い騎士達とつるんではしゃぎ回っている時にだけ、一番の笑顔を見せる上の娘。
 そんなあれの説得が、一筋縄で行くはずがない。
 ここは、話を一端切り上げて、策を練り直すのがよかろう。
「……お前の意思の固さは、理解した。今日のところは、下がりなさい」



「ルネット。よく聞きなさい。先日余に伝えた心境、変わりはなかろうな。お前は、どうしても、その者を婿に、と望むのだな?」
 いきなり二人でお呼び出しを受けたかと思ったら、まさかそう直球で来るとはね。一緒に来たファルドが、びくついてるじゃない。……まあ、それも計算の内、か。ここで震えて土下座して弁解する小心者なら、到底婿など務まらんって、ここで断言できちゃうんだから。
 私は、毅然としてお父様を見つめ返した。
「はい。お父様」
「――では、お前のその決意が本物であることを証明してみせよ」
(どうしろって言うのよ……?)
 むっとして私が尋ねる前に、お父様は続けた。
「今朝方、ミールの愛馬クィータが逃げ出した。足跡を辿ったところ、どうやら月眠りの森に逃げ込んだらしい。今宵は満月だ――護符を持ち、クィータを見事、連れ帰ってみせよ。成功の暁には、お前の意を聞き入れ、その者を婿とする事を認めよう」
 やられた、と私は思った。
 暗闇が大の苦手の私に、森中の獣も魔物も眠っている夜のうちに、一人でクィータを見つけて来い、と言っているのだ、お父様は。
 月眠りの森は、城に接した小規模な森林地帯。魔力と地場の関係で、満月の夜のみ、立ち入った生き物全てを眠りに誘う、不思議な場所だった。
 城の宝物庫には、その眠りの力を打ち消す護符が、3枚だけ保管されている。
 その一枚を持って私が森に入れば、獣や魔物に襲われる心配もなく、どこかで眠っているクィータだけを起こして戻る事が可能だった。
 ごくり、と喉が鳴る。
 夜の闇、それも森の中に一人で行かなくてはならない。考えただけで、気が遠くなってしまいそう。
 それでも……行かなくては。それが、お父様が私に課す、試練というなら。
 私が心を奮い立たせ、一歩を踏み出そうとした時、後ろから聞きなれた声がした。
「お待ち下さい! なぜ、わたくしではなく、ルネット様を試そうというのです? それならば、わたくしが参ります。無論、それはわたくしにとっての試練にはなりますまい。ですから、陛下の納得なさる形で、どうぞわたくしに別の試練をお課し下さい。どんな難題でも、挑戦してご覧に入れます」
 そう、ファルドは知っている。私がどれだけ暗いのを恐がるかを。
 跪いたファルドを玉座から見下ろしたお父様は、重々しく口を開いた。
「ぬしは、ここで、待つがよい。我が娘を真に信ずる者であれば、黙って待つことが出来よう。それが、余からの試練じゃ」
「……っ」
 ファルドが焦れる気配が判った。けれども私は、正直、ほっとしていた。
 だって、男性が力を証明する定番ときたら、魔物退治とかじゃない。そんなの、危なっかしくて見られたもんじゃない。……ファルドって、ああ見えて剣は結構強いみたいだけど、実際どれだけか私には判らない。何より、温厚なファルドに返り血なんて似合わない。
「お言葉ですが陛下――」
「控えよ! 余は、ルネットの返答を待っておる」
 私は、お父様に負けじと、真紅の瞳で真っ直ぐに見返した。
「……わかりました。必ずや、この手でクィータを連れ戻してお目に掛けましょう」
「うむ。その言葉、真実であることを願っておるぞ」



 私と、護衛の近衛騎士隊は、夕暮れ時に森に付き、その入り口で待機していた。
「なーに、大丈夫ですって」
 明るく軽口を叩いたのは、年上だけど歳は一番近いレグ。私の緊張を察してか、気安く背中をぽんぽん叩いて言う。
「なんたって、うちの姫様の気迫は、本気になれば、魔物も真っ青になって逃げ出すくらいじゃあないですか!」
「ま、魔物なんか怖くないわ! でも、暗いのは……」
 弱さを隠せないのは、彼らへの信頼と付き合いの長さのためだ。
 そこに、付き添いの3人の中で唯一の女性騎士が、手を取って励ましてくれた。
「大丈夫ですよ。私達も、ここで応援しています。恐くなったら、振り返らず、目を閉じて思い出して下さい。――私達は、雨が降ろうと、槍が降ろうと!ここで姫様をお待ちしていますから」
「ん……ありがと」
 彼女には妹がいて、私の一つ下で、とても明るくて、変わった子だ。対して、お姉さんのシェスは、穏やかで落ち着いた、私にとって姉のような騎士だった。
 シェスが傍に居ると、私はすごく安心できる。
 そこで、最年長の青年が言った。
「そろそろ暗くなってきたか……。おい、ちゃんと護符は落とさないようにしてるんだろうな? どっかで落として、自分までぐーぐー寝ちゃったら、この試練はアウトだぞ? 姫様、そそっかしいから心配なんだよ……」
「余・計・な・お世話! ベルダじゃないんだから」
「はいはい、そうですか。姫様から見て、俺はそんな駄目騎士ですか」
 シェスとレグが、くすくすと笑い出す。
「ちぇ……」
 ベルダは拗ねたが、彼の身体能力と天賦の勘が、近衛騎士の中でも秀でている事は、誰もが認める。
 森へ入る覚悟ができた私に向けて、投げ槍に、ベルダが言って寄越した。
「んじゃ、がんばって下さいね。ぱーっと行って、ぱーっと帰ってきちゃえば、すぐですよ!」
 騎士達に見送られ、深呼吸を一つした私は、これから立ち入らんとする暗がりを睨んだ。



 初めて夜に訪れる月眠りの森は、静まり返っていた。時折風が吹き抜ける以外は、本当に、草も木も、石や水さえも、眠りについてしまっているかのよう。
 さやけき月の光に照らされた森の静けさは、心に余裕のある者の目には、どんなに神秘的に映ったことだろう。
 だけど私は、半分泣き出しそうな気持ちで、小走りに蹄鉄の跡を辿っていた。
 胸中では、他の事を考えないための呪文のように、半分しか血の繋がらない妹に悪態を付いていた。
 ――あんた、自分の馬のことくらい、ちゃんと管理しなさいよ!? 周りが甘やかすから、いけないのね。そうよ、あの子は可愛いから、ねだられると、あのお父様でさえ、目も当てられないくらい、普段の威厳がどっか行っちゃうんから。
 だけど、本心であの子を嫌ってはいない。私に対するあてつけのような態度は全て、あのくそば――コホン、あの子の母親の影響であって、ミール自身のせいではない。
 それでも、私は何かに当たらずにはいられない心境だったのだから、仕方がない。
 満月に照らされて、蹄鉄の跡ははっきりと視える。しゅるしゅる地を這う長い生き物や、かさかさ這い回る虫たちも、今は夢の中だ。
 でも、どんなに天敵が現れないといったって、一人ぼっちで、こんな薄暗い所にいるなんて、尋常じゃ考えられなかった。
 ファルドと、私自身のプライドのためじゃなきゃ、死んでも絶対こんな場所には来なかった。もういっそ、この状況を、ファルド本人に八つ当たりしたいくらい!

 かさりと木の葉が揺れて、私はびくりと足を止めた。……立ち止まったら、暗闇が死ぬほど苦手な私は、もうだめだと解っていたのに。
 今にも闇の奥から伸びた手が、私を引きずり込んでしまうのではないかという不安に駆られる。体が震え始めた。振り返って、振り返った先も闇だということに気付く。私は、知らず駆け出していた。
 逃げ出す先も、闇、闇、闇。
 私は走りながら、耳を塞ぎ、目を閉じて闇を振り払おうとする。
「痛!」
 蔦に足を絡ませ、私は転倒した。無我夢中で起き上がり、涙も拭かずに、私は周りを見ないで走り出す。
 どこをどう走ったのか、自分でも全く見当がつかない。長く走ったのか、ほんの少しの間だったか、気がつくと、薄茶色の馬の体が、目の前に横たわっていた。
「…………」
 私は、小さい時から厩に出入りしているので、大抵の馬とは顔見知りだ。
 見慣れたクィータに、少しだけ恐怖が和らぎ、落ち着きを取り戻した私は、懐から護符を取り出して、それで長い額をなぞるように撫でた。
 目を覚ましたクィータは、私の言う事を聞いて、大人しく背中に乗らせてくれた。
 あとは、温かい背に身体を預けて、目を瞑っているだけでいい。もうすぐ、みんなのところへ帰れる。クィータが私を、暗闇の先へ連れ出してくれる。

「……姫様!」
 私は、目を開けた。
 シェスだけじゃない。ベルダも、レーグもいた。みんなが驚いた顔をしている理由に気づくのに、私は時間を要した。
 無我夢中で走っていた時、私は、何度も膝をついて、服を泥で汚し、草で足を何箇所も切っていた。
 ベルダが頭をかいて言う。
「あやぁー……いやしかし、無事で何よりだ。よく頑張ったな、ひめ――」
「うわぁぁぁん!」
 緊張の糸が切れて、クィータから下りた私は、真っ先にシェスの首っ玉に抱きついた。自分でも、子供っぽくて恥ずかしいとは思った――けど、しょうがないじゃない……っ!
「あーあー、仕方ないっすね。姫様がお父上に顔向けできるお顔になってから、戻るとしますか」
「そうだな。おら、今のうちに泣いとけ。次は、いよいよおとーさまとのご対面だぜ……?」
 シェスの胸に顔をうずめた私の耳に、彼らの声は、不思議と暖かく響いた。



「ルネット=セルソン=スロウディア、只今戻りました」
 姫君ともあろう者がみっともない、と言うシェス達の反対を押し切り、私は森に行ってきた格好まま、玉座に臨んだ。
 足に切り傷を作り、服を汚して帰った娘の姿に、さしのお父様も目を見張った。直後、まゆをひそめて不快感を露にする。
 ……してやったりだわ。私は、心の中でほくそ笑んだ。
 咳払いを一つして取り繕うと、お父様は、ことさら重々しくのたまった。
「ぬしは、確かに余の試練を成し遂げた。その者についても、ぬしが課題に挑む間、大人しく書庫で待っておったことを認めよう」
 その言葉に、正直カチンときた。私がこんなに頑張ったのに、ファルドときたら、今の今まで、のうのうと読書してたって言うの!? 冗談じゃないわ!
 それに、森から帰った私の姿を目にしても何だか反応が薄くて、私は愕然とした。
 いくら人前っていったって、何も言わないで抱きしめるくらいの事、してくれたって私は怒らないわよ!? 本当に、私の事好きなの? 心配してくれた? ――だったら、がんばったね、の一言くらい、あってよさそうなものじゃない!? ……好きだったの、ひょっとして、私だけ……?
 そんな事考えたら、目頭が熱くなった。さっき大泣きして、もう涙なんて出ないと思ったのに。しかし、幸いというべきか、私のネガティブスパイラルは、父上の声によって遮られた。
「では、最後の審判と参ろう」
「陛下!?」
 控えていた従者達がざわめき立つ。……そんなの、聞いていない。
 お父様が、おもむろに玉座を立つ。
「――来るがよい、ルネット。余を越えられるか? 次期後継者としてその力を示すなら、余は、ぬしを一人前として扱い、その意思を認めようぞ」
 しん、と場が静まった。
 それだけ、お父様の本気は、他者を威圧する力があった。
 私は、急に恐ろしくなった。実の娘に手を上げることはしない父親だったが、今度ばかりは本気だ。魔力の扱いでは到底適わない、ちっぽけな私が、この場で、お父様を凌ぐ力を見せ付けなくてはいけない。
 知らず、膝が震えた。お父様を、こうも恐いと思うのは初めてだ。
(どうしよう――従者もいるし、私にケガはさせない。きっと、私が魔法でお父様に押し負ける瞬間に、左右に控えてる従者二人が、魔法で私をかばうはず。だけど、いくら魔法が意思の力を反映するといったって、私……)
 勝てっこない。そんな思いが、私を支配しかけた時――

 どうして、貴方がそこに……?

 私に背を向けてお父様との間に立った影。今のお父様が放つ、尋常でないプレッシャーをまともに受けていながら、彼は平静に言ってのけた。
「ルネット様は、貴方がお出しになった難題を見事やりとげて、この場にお戻りになられました。なれば、これ以上の審議は不要でございましょう。力を見せる必要がおありなら、この場は、ルネット様に代わり、わたくしがお受け致します」
 お父様は、この余に滅びをもたらす地獄の王のごとき重さを持って、宣告した。
「……そこをどくが良い、若造よ」
「……いいえ。陛下の命であれど、それには従えません」
 もういい、どいて……っ!! かたくなに動こうとしないファルドに、私は願った。
 お父様は、私を痛めつけるつもりはない。だけど、ファルドが相手なら。
「いい! やめてファルド、貴方がやったら、殺されてしまう……!!」
 お父様は、国王に代々受け継がれる炎の最上級魔法を習得している。それを、城に上がってから3年、魔法を使うところなんてお目にかかったことがないファルドが相手なんて、最悪の想定をせずにいられなかった。
 ファルドは動かず、声を落として、背後の私に言った。
「ルネット。大丈夫。だから、下がって」
 ただ立っているだけに見えた彼は、既に、いつでも魔法を発動できる状態にあった。
(嘘……。)
 私は、今になって自分の無力さを痛感した。彼は、私の説得なんかじゃ諦めてくれない。普段通りの、ファルドの声。優しかったその声を聞けるのも、これが最後に――?
 こんな時なのに、私は足が張り付いたように動かなくなった。焦りと恐怖と絶望が重なり合って、私の四肢をいとも容易く絡め取ってしまう。
 もう、諦めるしかないと思った。私がこの人との結婚を諦めると申し出たなら、この勝負は無くて済む。離れちゃうのは嫌だけど、大好きなファルドがいなくなってしまうより、ずっといい。ファルドも――許して、くれるよね……?
 私が口を開きかけた時、お父様の表情が変わった。
「……ふ……」
 目を伏せて自嘲的に笑ったお父様は、困ったような、苦々しいような顔をして言った。
「それだけの覚悟を持って、ルネットを愛そうというのか? 守ろうというのか? ……いいだろう。ただし、余を失望させるな」
「陛下……」
「嘘じゃないでしょうね。本当に、本当っ?」
 私が急き込んで問うと、お父様は、手を大きく払いながら宣言した。
「ぇえい、くどい! 余に二言はないっ!」
 突如として、謁見の間が沸いた。おめでとうございます、お幸せにー、と、次々に祝福の言葉が投げかけられる。……どうやら皆、陰ながらに私たちの事を応援してくれていたようだ。
「えぇい、静まれ、静まらんか!」
 叫んだところで、しばらくは収まりそうにないと知り、お父様も渋々、手を組んで傍観する。
 こんなにも嬉しい瞬間を待ち望んだはずなのに、私は実感が湧かなくて、ふわふわした気持ちだった。そんなところを、不意に、強く抱き止められる。
「好きだ。ずっとずっと、大好きだった……これで、やっと一緒にいられる――」
「……うん……!」
 やっと実感が追いついて、私はファルドに思い切り抱きついた。これからは、大好きなファルドと、ずっと離れないでいられるんだ……!
 抱き合う私達に、はやし声と歓声は一層高まり、見てられぬというようにかぶりを振ったお父様は、いつの間にか退出して、気付いた時には玉座から姿を消していた。

 私が湯浴みを終えて服を着替え、傷薬を塗ってもらった後、カルサが私を訪ねて来た。
 カルサは、王宮騎士の中でも優秀で、お父様にも一目置かれている。純粋な実戦能力ではベルダに及ばないだろうけど、彼の指揮能力は的確で優れていた。列記とした上流階級の生まれなのに、気取ったところがない。それに、城で育った彼とは幼馴染同然だった。
「ルネット様。よくぞ、陛下の試練を達成されましたね」
「あら、あの位、私には朝飯前だったのよ!」
 16にもなって大泣きした記憶は封印して、彼が居合わせなかったのをいいことに、私はふんぞり返って見せた。すると、なぜか彼はくすくすと笑った。
「そうですね……そういうことに、しときましょうか」
「何よぉ、その言い方……あ! さては信じてないでないんでしょ!? 本当の本当に、私が行って、クィータを連れ戻したんだから!」
「ええ。知っていますよ。――拝見しておりましたから」
「……はぃ――??」
 嘘だ。そんな訳ない。認めない。
「貴方の暗所恐怖症は、筋金入りですからね。陛下も、まさか本気で貴女が試練を突破されるとは、お思いにならなかったのでしょう。貴方がリタイアした後に、クィータを連れ戻すようにと、こっそり命令を受けて、私も護符を賜っておりました。だから、居たんです、あの森に」
「え……ちょ、見てたって、まさか全部――!?」
 混乱して泣きながら無茶苦茶に走って、挙句、森を出てから子供のように泣きじゃくった情けない姿を、見られてた……? そう思うと、あまりの恥ずかしさに、カルサと目を合わせられなくなった。
「クィータの元に辿り着いた貴女を見つけた時は……正直、悩みましたよ。ご存知でなかったとは思いますが、私は、陛下に貴女の婿候補として挙げられていたのです」
 初耳だったけれど、疑う理由はなかった。
 小さくため息をついて、カルサは続けた。
「ですから、貴女を見つけたとき、ここで貴女の前に姿を晒し、全てを打ち明けて、貴女の心をこちらに向けさせることができれば――と、そんな風にも考えました。でも、もしそうしたとしても、きっと無駄だったでしょうね……。あの熱愛ぶりでは」
「ま、まぁね」
 私は、気恥ずかしさを押し殺して強気に答えた。
 カルサは、吹っ切ったような笑顔で席を立った。
「話は、これだけです。夜分にお邪魔して、失礼。……あの方と、お幸せに」
 退出して行ったその背に、私はこっそり感謝した。やっぱり、カルサは善い人だと思ったから。もし、私とファルドの結婚を邪魔したかったのなら、私よりも先に、クィータを保護してさっさと森を抜けちゃえばよかったんだ。そうしたら、私はそのうち恐怖に負けて、諦めざるを得ない状況になっていた。
 それが出来たのに、カルサはそうしなかった。カルサの態度からして、私にまったく気がなかったとも思えないのに。
 だから……ありがとう。



 私とファルドが結ばれて、どれくらい経っただろう。過労が祟ったか、お父様は、若くしてこの世を去った。さすがに亡くなった時には涙が出たけれど、私は、悲しみを引きずったりはしなかった。むしろ、葬儀ではファルドのほうが沈うつな表情をしていたように思う。それがファルドの不思議なところであり、彼らしくもあった。
 私が正式に王位に就いたことで、今までの復讐に行くとでも思ったのだろうか? ミールの母親は、すっかり私のご機嫌をうかがって、へつらうようになった。
 どうせ、私にはどうこうする気はなかったから、ミールと母親の扱いに関しては、しごく一般的なものだった。
 ……でも、あのオバサンにしたら、今は静かでも、私がいつ牙を剥くのか、恐くて仕方がなかったんでしょうね。過去の私への仕打ちを思えば、ファルドが傍にいて満足している私が、つまらない過去のしがらみ一つに今更興味なんて持たないと、正確に想像できなかったみたい。いつ、私の手が自分と娘に及ぶのか、要らぬ心配を抱え込んでいたせいか、ミールの母親は、お父様の喪が明けて間もなくして息を引き取った。
 お陰で、私とミールはようやく、気兼ねなく本音を言い合える姉妹になれたことは、怪我の功名だったかな。



「……にしても、あんた、昔っから口だけは達者で、口うるさかったからねー」
「あら。躾ひとつできずに、実の息子に家出された姉さんに、言われたくありませんわ」
「……キア。外行こっか。俺の部屋で遊ぶ?」
 第二ラウンド開幕の気配を察して、必死で注意を逸らそうとする俺に、従妹は、純真な瞳で訊いてくる。
「ね、にいさま、あれ、けんか?」
「――あのな、キア。世の中には、『喧嘩するほど仲がいい』って言葉があるんだ。喧嘩できる人同士ってのは、本当は、仲いんだ」
「けんかなのに、なかいいの?」
 キアは、納得できない様子で、俺を見た。こうなると、なぜ、どうして、の質問攻めに遭う事は必至だ。だけど俺は、キアの注意を母上と叔母上の会話から逸らせた事で、当初の目的は達成していた。



「……そうか。それは大変だったな」
 俺は、テラスの手すりに、ぐだーっと突っ伏して、隣に立つ父さんの声を聞いていた。
「……そう言えば、お前が居ない間、ミール様から打診された事を、まだ根に持っていたようだからな」
「母さんが? 何を?」
「それとなく、『子を作られてはどうか』とな。――無論、私も母さんと同じで、断固反対したぞ! ぁあ、いや、お前が妹か弟が欲しいと言うなら、父さん、頑張らないでもない」
 ああ、そういう事か。
 俺が帰らなかった場合を考えて、って事だろう。血統を守る王族として、叔母の考えは間違っていない。だけど父さんと母さんは、俺が帰ってくると信じて、待ってくれてたんだ。
「母さんは、なんて――?」
「……コホン、こう返したそうだ。お前が帰って来たら、弟がいいか、妹がいいか、聞いてみる、とな」
「……そっか。じゃあ、そだな――今は、キアがいるから、いいや」
 少しの沈黙の後、そうか、と小さく返事があって、それから、なぜかいたく意味深な様子で肩に手を回してきた。
「……で? ラーハネットよ」
「な、何だよっ……?」
「旅先で、いいコはいなかったのか?」
「はぁ?」
「なに、お前が半年近く不在にしてたのと、相手方の姫君が療養中で、当面は快癒しそうにないとの事で、縁談はお流れになってしまった。今がチャンスだぞ? 相手が民間の女性だって構わない。本当に、いなかったのか。気になる娘とかは」
「……いないよ」
 俺は苦笑しながら答えた。
 フェリーナの事は、確かに気になってた。だけど、好きだけど、本当はそういうのじゃなったのかな、っていうか、純粋な憧れだったのかも、と、今はほろ苦い想いに落ち着いている。
「むぅ……なんなら、父さん、良さそうな子を見繕ってやってもいいよ」
「いいよ、まだ」
「しかしだな、お前くらいの歳の時に、私は母さんと――……」
 父さんは、案外心配性だ。

「案外、心配性ですね。フォル様も」
 彼の弟子は、師の言葉を笑顔で流した。
 紺色の瞳に、色素の薄い髪。北方の他国の生まれのその男は、弟子の発言に腹を立てる事なく、穏やかな、落ち着いた声で告げた。
「わたくしの思い過ごしだと良いのですが」
「たしかに、ちょぉっと、変ですよねぇ……?」
 机に大きく広げられた計算用紙を眺めて、別の弟子が首をひねる。
 用紙の隅にそっと手を置いて、フォルワードは述べた。
「ええ。去年の秋くらいから、スロウディアとセーミズの魔力の流れに、かすかな変化が生じています。季節的なものでないとすれば、他に何か……と思ったのですが」
「過去100年の資料をあたってみましょうか。古ければ古いほど、測定の精度は保障されませんけど。年単位のものではなく、もっと大きな周期で動く変動かもしれません」
 弟子の言葉に、思考を巡らせたフォルワードは、結論を出した。
「そうですね。――念のため、目を通しておきましょうか」
(……まぁ、取り越し苦労でしょうがね。自然環境というものは、往々にして、人間の予測を遙かに超えるものですし――……)



 息子が城に戻ったとき、その母は、こう言って褒め称えた。
「流石は私の息子! 判ってたわ、必ず帰って来てくれるって! 貴方、悪運だけは人並み以上だもの」
 それを聞いた子供は、若干顔を引きつらせた。
「母さ――母上、それって褒めているのですか? 複雑な心境なんですが」
「嫌ね、敬語なんて使わなくていいのよ、公式の場じゃないんだし」
「はっはっは。半年近くも王宮を離れられていた殿下のほうが、陛下よりも余程しっかりなされている」
「ほら、折角の親子水入らずでしょう? 遠慮はいらないわ」
「母さん……今さわやかに、ベルダの存在否定したね……?」
 そこにいた近衛騎士長は視界から排除、いや、ライアの言う通り、その存在自体を抹消して、女王陛下は続ける。
「こんなに背も伸びてしまって。私も、歳をとったものよ」
「そう? 別に変わんないと思うけど……」
「いやいや、どうかお顔を近づけて、よぉーっくご覧になって下さい。殿下がお留守の間に、小じわが二割り増――」
「ああそう、そうだったわ。そろそろ、近衛隊長も交代の時期かと思ってたの。私としては、ルーンなんかが次期候補として有力だと思うのだけれど――どう思う? ラーハネット」
「めっそうもない! わたくしはただ、真実を殿下にお伝えすべく――」
 そちらを見ないで笑顔で固まったまま、女王は、ついにその存在を認めて言葉を放った。
「――明日から、城の者全員に、貴方のことは『ベルルンっ♪』って呼ぶよう伝えておくわ。楽しみにしててね」
「陛下はご冗談がお好きですなぁ……はっはっは……」
 悪ノリして、ライアも追撃する。
「ベルベル、なんてのもいいんじゃない? 呼び易くって」
「あら、いいわね、それも」
「殿下ぁ〜っ!」
 この後、城でどんな発令がされたかは、想像にお任せする。

「あれは、悪夢でございました。にしても、殿下もお強くなられましたな。聞けば、お父上から、2本先取を始めて勝ち取られたそうではないですか。悔しがりながら喜んでおられましたよ、ファルド殿は」
 木剣での手合わせの休憩中に、赤髭の近衛隊長はふと言った。
「まだ、まぐれの域だよ」
「ご謙遜なされますな。殿下の腕は、秋以前から確実に上がっておられる」
「そうかな……一応、アルドに見てもらってたんだけど。最初はさ、俺が戦うのに、あんまいい顔しなくって」
 かの青年の立場と、真面目さを考慮して、ベルダは、にやりと笑った。
「まあ、そうでしょうな」
「ちぇ……」
 こういう時、王子じゃなかったらよかったのに、とライアは思う。
 ベルダは、どん、と胸を張って言った。
「ご心配なされますな。わたくしめであれば、手加減するなとおっしゃれば、その通りに殿下のお相手を致しましょう。ぁあー、ただし、陛下にはご内密に。おなごというものは総じて、こういった事に理解を示さぬ生き物ですからな? ……と、休憩はそろそろよろしいですかね。どうです? 弓の方も、少し拝見いたしましょうか?」
「ああ、頼むよ」
 木剣をベルダに渡しながら、ライアは髭面に見合わずひょうきんな近衛騎士長と、連れ立って弓道場へ向かった。

 季節は、せみしぐれの夏。このときまだ、スロウディアは平和な時を謳歌していた。


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