STAGE 13 collision 〜激突〜



 ヴィータ渓谷。それは別名、『悪魔の爪痕』とも呼ばれる、大地の裂け目が、細く、長く続く、底なしの谷である。

 その淵に程近いところで、今、二人の人間が対峙していた。片方は、年若く、綺麗な銀髪をした少年魔道師だった。対するは、鎧を着込んだ立派な青年騎士で、こちらは、両手で扱う大剣を構えている。
 二人の間に、ぴりぴりとした緊張が走る。――殺気。それは、その戦いが命の奪い合いであることを、明確に示していた。

 青年が、動く。
 その時、決闘は幕を開けていた。



 ライア達は、走っていた。今からでは、間に合わないかもしれない。しかし、手遅れになる前に、何とかして追いつきたかった。
 アルドがシュネルギアを出ていた事を知ったのは、つい今朝方のことだ。それまでは、仕事で、と言っても、シュネルギアの内部で開かれる会議のような、事務的な用事でどこかにいるものとばかり、考えていた。
 最初は、ライアも迷った。アルドが自分達に報せなかったのは、多分意図的だろう。巻き込めない危険があるからこそ、アルドは、一人でその任務に赴いた。
「なーに、難しいカオしてんの? 普段頭使ってないんだから、似合わないって」
「うっせ!」
 悩んでいる所へ茶々を入れてきたリーティスに、ライアは事情を吐露した。無論、それはリーティスに対する信頼があったからこそ、である。
「うーん……でも、アルドがどこへ行ったかも、何をしにいったのかも、分かんないんでしょ? だったら、調べるのが先じゃない!」
 リーティスが言うのは最もだ。二人は、改めて詳しい情報を探り始めた。

 そこで判明した事実は、アルドが、ヴィータ渓谷付近で度々被害が報告されている魔族の討伐に向かった、という事だ。しかし、それは、騎士達が躍起になって捜索を続けている『黒の疾風』とは別件らしく、人手不足に悩むシュネルギアから、アルドに要請が回ってきた、という形だった。
 その仕事はアルドに一任され、アルドは、明け方に一人で出かけて行った、という話だった。一人で仕事を任されたというのは、それだけ信頼が厚い証ではある。
 けれども、なぜ一人で行かせたのだと、リーティスは、正面を切ってシュネルギアの官職を問い詰めた。そして返ってきた答えは、シュネルギアの苦しい状況が窺えるものだった。
 今現在、黒の疾風を追い込むために、かなりの人数の騎士が登用されている。しかし、そこで本拠地であるシュネルギアの防備を手薄にする訳にもいかず、シュネルギアの防備は、ぎりぎりの人数でローテーションが組まれている状況だった。そんな中から、辺境を荒らす魔族一人の討伐のために、多くの人数を割けるはずもない。

 一度、宿に戻った二人は、揃って難しい顔を付き合わせていた。
「アルド一人に任されたってことは……そんなに、危険な仕事じゃないってこと?」
「かもしれない。けど、俺――」
「ストップ。私達が行って、どうにかなる事? これって」
 先手を打って、冷静に制止をかけたリーティスに、ライアは不機嫌に答えた。
「最後まで聞けよ。俺だって、アルドと実力の差があることくらい、解ってる。……けど、嫌なんだ。ここで、何もできない事は」
「…………」
 ライアとて、アルドの力を信じていないのではない。しかし、相手の実像が見えてこない部分に、不気味さがある。魔族一人というが、もし、仲間がいたら? 向こうが待ち構えて、罠を張っていたとしたら?
「リーティス」
 腹を据えたらしいライアの表情に、リーティスは、徹底抗戦の意を表して睨み返した。もし、フェリーナとこの場の事を任されたなら、絶対に断ろう、と、変な所で対抗意識を燃やして。
「様子を見に行くだけ、行こうと思うんだ。危ない事はしない」
「あのねぇ! そうやって一人で突っ走ってどうなるって――」
 しかし、次の瞬間に、リーティスは気勢をそがれた。
「だけど、何かあった時、俺だけでどうにか出来るかわからない。だから――力を、貸して欲しい」
 正直、驚いていた。特に、男性中心社会のセーミズで育ったリーティスは、役目を軽んじられることに慣れすぎて、知らぬうちに肩に力が入ったまま生きてきた。それが、ライアのように、対等な立場から必要としてくれる人間がいようとは、思ってもいなかった。
 剣士としてこのパーティーにいる以上、腕力で男に劣るリーティスは、いつ、必要とされなくなってもおかしくないという不安を、密かに一人きりで抱えていた。ライアの一言には、そんな不安を払拭させるだけの力があった。
 そこでふと、リーティスは、立場が逆だった場合を想像した。もし、自分が男だったら、例え自分の実力に少しの不安があったとしても、助力を求めずに、一人で行ったことだろう。負けず嫌いとプライドが、自分と同程度の力量を持つ女性の力を借りることを、よしとしない。それはある意味、セーミズの男児としては、至極一般的な意識の持ちようだった。
 そこまで考えて、リーティスは苦笑した。
(……変なの。やっぱ変わってる。いくらセーミズとは文化が違うからって、普通、危険なとこに、女の子を連れてこうなんて、思う?)
 それは、女性扱いを受けていないとも取れたが、それがライアの場合には、不思議と気にならなかった。異性として一歩遠い存在になるよりは、信頼できる友という間柄であって欲しい。
 内心では、その信頼が嬉しかった。それでも、表面上はあくまで鼻に付く言い方をする。
「――ま、本当に危なかったら、何が何でもアルドを引っ張って戻って来る!っていうなら、手伝ってあげてなくも、ないけど?」
 やっぱり素直じゃない、と、リーティスは自分を再認識した。
 後悔したくなかったから。だから、ライアは考え得る最善の道を選んだ。アルドが危機に陥るような状況なら、自分一人が行ったところで、救える可能性は低い。なればこそ、つまらない意地を張っている場合ではなかった。何だかんだ言って、リーティスは頼りになる。そして何より、機転が利くし、頭の回転だって早い。一緒に来てもらった方が確実だ。
「……悪り」
「今更、でしょ?」
「――だな。頼むぜ!」
 立ち上がった二人は、そこに立っていた人影に、ぎくりとした。
「酷いです。私だけ、置いてけぼり、ですか?」
 可愛らしく拗ねる可憐な乙女の頑固さが、見た目に反して、てこでも動かない事を思い出した二人は、その瞬間、諦めた。



 無数の氷の刃を駆使して、銀髪の少年は、全くアルドを寄せ付けなかった。だが、間合いに入りさえすれば、この勝負、立場は逆転する。
 少年はかなりの魔力の持ち主と見えて、これだけ魔法を連発しても、隙一つ見せなかった。加えて、無闇やたらに撃っているように見せながら、裏で計算された、無駄の無い配分で戦っている。
(相当、戦い慣れている――)
 それが、アルドの正直な感想だった。外見こそ、ライアやリーティスよりも歳下に見えたが、戦暦は、二人のそれを軽く上回るに違いない。
 魔族は、人間の倍以上の寿命を持つ。そうなると、目の前の少年でさえ、単純計算でアルドよりも長く生きている事になる。
「へェ? 来ないの? 怖じ気付いちゃった?」
 せせら笑う少年の挑発には乗らず、アルドは、じっと機を窺った。このまま1対1ならば、押し切れる自信がある。いくら魔力が底なしでも、小柄で線の細い少年と自分とでは、基礎体力が違う。今まで、あの少年の手にかかって絶命した者達は、見た目に騙されて舐めきっていたか、挑発的な態度に乗せられて勝負を焦ったが為に、足元をすくわれたのだろう。
(……クッソ……)
 氷の如く冷酷な表情のまま、少年は、僅かながらに苛立った。
(あンのクソ騎士、ここで乗ってくれりゃラクなのに――こんなんじゃ、本気出さねぇといけねーじゃん……めんど。)
 疲れるのはイヤだった。体力の乏しい彼にとって、疲れとは、敗北に直結しうるものだ。このような単独での戦闘では、尚更である。どのような手を使ってでも、自分が疲弊する前に、周辺の敵、全ての息の根を止めておかなくてはならない。
(……向いてねーっての)
 ぶつぶつと心の中で文句を唱えながらも、少年は、冷静に勝つための算段を練っていた。
 ふっ、と少年の口元に凶悪な笑みが浮かぶ。十代半ばにも届かぬであろう外見に反した、血の通わない悪魔のような笑みに、アルドは落ち着いて対応した。冷静に、少年の殺気を読むことだけに、集中する。
「――殺しちゃうよ?」
 ゾクリとするような声色と気配に、少年が、一気に片を付けようとしているのが判った。
(どう来る――? ……っ!!)
 アルドを取り囲むように四方に出現した尖った氷が、一斉に彼を襲った。
「ふ……っ!!」
 間一髪、身を低くしてアルドが氷をかわす。続く追撃に、一旦身を引くしかないように見えた。
(いや……違う! これは)
 それが致命傷を狙う一撃でないと見切ったアルドは、多少の怪我を覚悟で、大剣の刀身を盾に、逆に少年との距離を詰めた。
「!!」
 驚いたのは、少年の方だった。
(読まれた――!? ふっ……ざけんなぁあ!!)
 二撃目は、アルドを遠ざけるためのフェイントだった。距離が離れたところを、詠唱の必要な高威力の魔法で、一気に叩くつもりだった。
 詠唱を取りやめて、別の魔法に切り替えようとする少年に、あと少しでアルドの剣が届こうとした、その時――少年の前に、一人の男が割り込んだ。
「っ!」
 大の男としては決して大柄でない彼が、片刃の剣を以って、アルドの大剣を止めた。
 色の暗い瞳と、アルドの色の薄い瞳が、不意に交錯する。

「――下がれ、ウィル」
 気配もなく現れたその男は、静かに言い放った。
「な……っ!?」
 少年は瞠目し、不平を言った。
「待てよ!? あんな奴! オレひとりだって――」
 しかし、男は応じようとはしなかった。真っ直ぐにアルドを睨み、言葉を吐く。
「ウィルを追い詰めるとは、なかなかやるようだな。貴様」
「お前は……!」
 魔道師の少年でさえ、足元に及ばない隙のなさ。男は、明らかに少年とは格が違っていた。そして、黒衣。アルドは、目の前の存在が何であるかを、直感した。
(あの人の、仇……黒の、疾風――!)
 低く、唸るように、アルドが押し殺した声で言った。
「お前が、黒の疾風か……!」
 普段見せたこともない殺気を帯びるアルドに、男は平然と対峙した。
「人間達は、そう呼んでいるな」
 返された声はあくまで涼しく、つかみどころのない、一陣の風のようでもあった。
 鈍い銀色に縁取られた黒い衣装に、羽織ったマントは夕闇の紫。髪は黒く、首筋に沿って背後だけやや長めの短髪。腰には、左右に一振りずつ、ベルトで鞘をくくりつけてあった。先刻、アルドの斬撃を止めた左の剣だけが、抜かれていた。
「貴様は、騎士だな? ならば、相手として不足はあるまい!!」
 次の瞬間、一気に間合いを詰めた黒の疾風が、アルドの目前に迫った。まさに疾風の如き刃を、アルドは焦らず大剣の刃を当て、滑らせるように受け流した。
「ふっ……」
 相手は、笑っていた。殺気を込めて敵を睨むアルドとは、対照的だ。しかし、侮っているのではない。手応えのある相手を見つけて、不敵に笑う、そんな印象だ。

 ぎりり、と歯を食い縛ってアルドを睨む少年の横に、美しい銀の長髪がなびいた。
「ちょぉっと、アナタには荷が重すぎたみたいね?」
「うっせぇえッ!!」
 殺気をむき出しにして、少年は横に立った女を睨んだ。しかし、女は凝りた様子もなく、くすりと笑っただけだ。女の斜め後ろには、静かに控える、長身の筋骨逞しい若者の姿があった。うなじのところで一つにまとめた、背中まである長髪は、少年や女と同じ白銀で、春の若草のような瞳の色だけが、二人とは異なっていた。
(助けに来た? ざけんな……ちくしょう……ちくしょぉおッ!!)
「っざけんじゃねぇ……」
 あの人に、援護など必要ない。頭では解っていながらも、少年は、交戦中のアルドに向けて、氷の矢を放った。
「喰らえぇっ!」
「させるかよ!」
 炎が、空中で氷とぶつかりあって相殺する。少年は、自分の魔法を妨害した相手を見た。
 そこへ並んだ顔には、見覚えがあった。殺した相手の顔など、いちいち記憶しない少年だが、もともと記憶力が良く、執念深い性質の彼が、ライアの顔を忘れたはずがない。
(あん時の、炎使い――!! それに、魔力は高いくせに弱っちぃ女と、兄貴に歯向かおうとして腕折られた、バカな奴――)
 凍りつく怒りの炎は、まだ少年の中でくすぶっていた。しかし、内面の怒りとは対照的に、少年は冷静だった。
「――殺すよ?」
 無感情な声で、少年がつぶやく。同時に、紫の瞳が一気に氷点下にまで降下した。
 思わぬ獲物の再来。今度こそ、絶対にその首、取って見せる。

 ライアにとって、これだけの遠距離で魔法を使う事は、かなりの集中を要する仕事だった。だが今回は、過たず、アルドを狙った氷を打ち消した。
 自分の体から離れれば離れる程、魔法を発動し、操る事は困難になる。フェリーナなどは平気でやってのける遠距離攻撃だが、それは、彼女が類稀な魔法の才を持っているからに他ならない。
 そこで、フェリーナに気付いた銀髪の美女が、小さく首を傾げた。
「あら、奇遇ねぇ? こんな所で、また会えるなんて」
「貴女は……!」
 街で偶然知人にでも出くわしたかのような気安さの女に対し、フェリーナの表情は硬かった。
「何だ?」
 怪訝そうに問うライアと、その隣のリーティスに、フェリーナは震える声で言った。
「彼女、です……シエラさんに頼まれた薬草を、全て、駄目にしてしまったのは……!」
「何だって? ……リーティス。前に、船で話したよな? あのちっこい奴、俺が、港の近くでやりあった奴だ」
「嘘――? じゃあ、本当に、全部裏で繋がってた、って事……!?」
「! てことは、あのでかい奴も――うわぁっ!」
「ナニ敵の前で呑気にダベってんの? ホントマジ、ぶっ殺すよ?」
「ちょっと! ライア、大丈夫!?」
「あーぁ、悪り。油断した。アイツ、見ての通り危険なヤツだから、気をつけろ!」
「うん。それと、あの背の高いのも! 下手に近づいたら駄目だから!!」
 既に剣を交えているアルドと、黒の疾風も、ライア達の睨み合いを気に留めていた。
(ふん……増援か……。しかし、騎士には見えんな)
 アルドの相手をしながら、黒の疾風には辺りを見る余裕があった。しかし、それはアルドも同じだ。それというのも、今は互いに探り合いの状態だからだ。周囲の邪魔が入らない状況ならば、今頃、壮絶な剣士同士の闘いの末に、決着がついていた頃だろう。
 ふと、互いが距離を取り合った瞬間に、黒の疾風が、後から来た者達の姿を初めてまともに捉えた。アルドの様子を窺おうとしたライアと、偶然に目が合う。
「!?」
「!」

((あいつは――!))

『前に一度、会っている』

 しかし、思った事は同じでも、思い出された時と場所は違っていた。
 ライアが思い出したのは、ノーゼに渡ってきて、すぐの事。恐怖で、動く事もままならなかった、あの時の記憶。
 一方で、黒の疾風は。
(ふん……まさか、生きていようとはな――……)
 だが、今は戦闘中だ。互いに、それ以上の事を気に掛けている暇はなかった。 
 切り込んできたアルドの剣を受け流すと、黒の疾風は言った。
「ふ……騎士。貴様はそれなりに腕が立つらしいが、『お荷物』を抱えながら、戦えると言うのか?」
「お前は、僕が止める!!」
 ライア達の経験不足を、この男は一瞬で読み取ったらしい。内心の焦りを隠し、アルドは、慎重に呼吸を整えながら、黒の疾風を睨み直した。

 戦いは乱戦を極め、ある瞬間に、アルドは気付いた。
(……!! まずい。崖側に、誘導されている!!)
 戦力的には、やはり魔族側に一日の長がある。ライア達の方も、皆、善戦はしていたが、アルド以外に、戦いのさなかで誘導に気付ける者は存在しなかった。
 アルドは、咄嗟の判断で『母国語による』指示を飛ばした。
みんなっ! 僕が先陣を切って隙をつく! その間に、散開して、崖から離れろ!!
 次の瞬間、黒の疾風が、小さく笑い、アルドの表情が凍りついた。
解らないと、思ったか?
 それは、ライア達にとって馴染みのありすぎる発音だった。
 彼らは、敵の言葉を聞き、即応できるよう、訓練されていたらしい。発音にほとんど狂いがないところを見ると、或いは、敵地に間諜として送り込まれても怪しまれないまでに教え込まれているのかもしれない。事実、銀髪の3人に関しては、エストで現地の言葉を淀みなく喋っていた。

 銀髪の美女と、魔道師の少年の氷が、ライア達をひとまとめに追い込んで行く。
 唯一、その包囲網を抜けて向こうへ走り出ようとしたリーティスのところへ、今度は長身の影が妨害に入った。
 こうも間近で見ては、見紛うはずもなかった。
(やっぱり――あの時の!)
(折角、生かしておいたその命。ここで無駄にするか――……)
「はぁーっ!」
「ふっ!」
 リーティスの斬り込みを避け、若者が素早く反撃を仕掛ける。一度剣を折られている警戒心から、密着した戦いに持ち込めなかったリーティスは、結果的に、敵の包囲網の中に追い返されてしまった。
 逃げ場を失ったライア達は、ほぼ一箇所に固まり、あと数歩で崖っぷちという所に立っていた。
(くっ! 僕が付いていながら――迂闊だった!! こんな場所で、僕が地の魔法を使えば……足場が、崩れる……)
 それでも、アルドはよく戦った方だろう。黒の疾風という強敵を退けながら、周りの状況も見つつ、今この瞬間までを生き伸びた。
 ぞっとするような笑みを浮べて、魔道師の少年が言い放つ。
「逃がさないよ」
 少年が右から、銀髪の美女が左から、氷の魔法でライア達を追い詰める。
 そして、前面には。
「――終わりだ」
 それは、非情なまでに絶対的な、最後通告。
 黒の疾風が剣を持たない右腕を掲げたかと思うと、雷鳴が轟き、稲妻がライア達を襲った。その雷は、魔族の魔力を残した不完全な形であるが故に、人間であれば、即死する確率が高かった。
 退けば、谷に落ちる。留まれば、雷に打たれて命を落とす。ライア達は、完全に活路を断たれた。
「……ッ!?」
 雷が眼前に迫った時、ライアの足元に亀裂が走った。地面に突き刺さった無数の氷が、足場を脆くしていた。

 その瞬間、ライアの瞳には、全てがスローモーションのように映った。

 身を呈して、フェリーナを魔法から庇おうとするアルド。

 フェリーナが何か必死で叫んでいる。『どいて下さい!』

 すぐ側をかすめた、金髪。落ち……る?

「うわああぁーーーーっ!!」



 落ちる――!!
 そうはっきりと感じた瞬間、ライアは、反射的に近くにあった手を強くつかんだ。
 助けようと手を伸ばしたのか、自分が引きずり込んだのか、判らない。
 ただ、はっきりとしていた事は、どちらが先だったにしろ、自分も、つかんだ相手も、いずれ落下を免れなかった、ということ。
 落ちる、落ちる、落ちる。
 その中で、たった一つ、つかんだその手だけを、離さずに――。

 次に目を開けて、ライアが見たものは、細長い空だった。



 足を踏み外……違う、足場が崩れて、一瞬の浮遊感の後、自分と仲間達がどうなるかは、はっきりと予測がついた。何かが腕をつかんだけれど、それだって、これから直面する事態を好転させることはできない。……嫌になる程冷静な思考の中に、ふと、何かが流れ込んできた。
「…… …… …… …――」
 気付くと、聞いた事のない詠唱を口走っていた。



「ってて……」
 体を起こしてみると、背に若干の痛みを覚えたものの、大した事はなさそうだった。
 手も、足も、まだちゃんと自分の体についている。もし、自分たちが本当にあの細い空の淵――はるか天空にそびえる、がけの上から落ちてきたとしたら、どうしたって説明がつかない。
「リーティス?」
 すぐ近くの草地に、リーティスが倒れている。息はあるようだ。
 恐らく、距離からして、ライアが最後までつかんでいたのはリーティスの腕だろう。もう片方の手で何かを――多分、フェリーナかアルドの服の端を捕まえていた記憶があるのだが、そちらの方は、何かの拍子に放してしまったらしい。
 きょろきょろと周りを見渡すと、そう遠くはない土の上に、見慣れたダークブロンドと、青いウエーブの頭が、すぐに見付かった。
「くっ……」
 丁度、アルドが身を起こすところだった。
 気絶しているリーティスの方はひとまず放置で、ライアはそちらへ駆け寄った。
「なぁ、どっか怪我してんのか!?」
 心配そうに問うライアに、地面に尻をつき、折り曲げた右足を抱え込んでいたアルドは、顔を上げた。
「心配ない。それより、みんなは無事かい――?」
 明らかに無理をしているアルドに、ライアは怒り出したい衝動を堪えた。その時、フェリーナが目を開けた。
「ううん……ここは……」
 少しぼぅっとしていた青の瞳が、途端にはっと見開かれる。
「アルド! ごめんなさい……私をかばって……」
 落下した時、アルドがフェリーナを守ったであろう事実は、倒れていた状態から、ライアにも予測がついた。フェリーナも、同じくそれを感じ取ったらしい。
「いや。これは、僕の着地の問題だから……。気にしないでいいよ」
 一瞬だけ泣きそうな顔になったフェリーナは、すぐに医者としての顔に戻った。
「診せて下さい」
 その間に、ライアはリーティスの様子を見に戻った。
「リーティス。リーティス?」
 肩をゆさぶりつつ何度か呼びかけてみたが、返事はない。しかし、見たところ、特に異常も見当たらない。
「ふぅ……」
 ライアは、深いため息をついた。細長い空。弱ったことに、自分達が居るのは、見上げれば首が痛くなりそうな、高い崖の下だった。ここが、あのヴィータ渓谷である保証はなかったが、何にせよ脱出が困難であるのは、言うまでもない。

 アルドの右足は酷い捻挫で、到底自由に動き回れそうにはなかった。アルドが自分で治すには、全魔力を費やしてどうにか完治するだろうという具合なので、この状況下では割に合わない。フェリーナも先の戦いで魔力を消費してしまっているため、治癒魔法には頼れなかった。
 周囲の様子と、目を覚ましてから経過した時間から、ここにいても魔物に襲われる危険は低そうだった。ただ、野営をしようにも、全員がここから一歩も動かなかったのでは、埒が開かない。
 そこで、ライアが先遣隊として、周辺を探りに行くことに決まった。
「待っててくれよな。すぐに、戻ってくっから!」
「気をつけて。安全そうに見えても、未知の場所だ」
 万一、何者かが襲って来た場合に、フェリーナと、気を失っているリーティスを守るのは、アルドの役割だ。足の負傷で動けなくても、いつでも魔法で迎撃できるよう、アルドは、周囲に神経を走らせた。

「丁度、お昼を過ぎた辺りでしょうか――」
 フェリーナが呟いたのは、きゅう、と可愛らしく腹が鳴ったその為ではなくて、切り取られた細い空から、微弱でも陽の光が降り注いでいたためだ。その光は、ピークを過ぎて、再び弱まっていく傾向にある。
(ライアに、偵察よりも、野営の準備を優先させるように言っておいた方がよかったかな――。暗くならないうちに、戻って来てくれると助かるんだけれど)
 アルドがそう思っていた頃、意外に時間をかけずに、ライアが帰ってきた。その顔は、落ち着いているものの、若干の困惑が見てとれた。
「お帰りなさい。どうでしたか?」
「ぅん……」
 ライアの返答は冴えない。アルドは訊ねた。
「どうしたんだい? 何か、問題が?」
「休めそうなとこは見つかった。治療も、そこで問題ないと思う。……なんだけど――」



 ヒュウウウウ…………
 風が、砂塵を舞い上げる。
 崖に立つ、4つの影。
「……意外に、あっけなかったな」
 戻るぞ、と言って、彼は剣を納めて歩き出す。その後を、一人、また一人と、歩き出した。
 4人の中で唯一の女が、さりげなく、一番年下の少年に並んで歩調を合わせながら、視線だけは逆を向いて、話しかけた。
「残念だったわね? でも、ま、次があるわよ」
「…………」
 地面を睨んで歩きながら、少年は答えなかった。

 帰還後、女と長身の若者がそれぞれどこかへ消えてしまうと、黒髪の剣士の後ろを歩いていた少年は、ぱたりと足を止めた。
「オレは――ッ!!」
 去ろうとするその背に向けて、少年は叫んだ。
「あんたの後ろ姿しか、見ていない……っ」
 強くなりたい。あんな風になりたいと、何度も願った。同時に、頭の切れる少年は解っていた。自分自身が、憧れの人と同じにはなれないということを。……嫌と言う程に。
 彼は、足を止めて振り返った。
「当然だろう」
 冷たい表情のまま、剣士は少年に言った。少年は、俯いて、拳を震わせながら、悔しさで、軋むほど歯を食い縛った。
(オレは、あんたに追いつきたい――追いつけない……!! どうしてなんだ。どうして、オレは、兄貴みたいに体が頑丈で、力が強くないんだ……ッ!! くそ……クソッ!!)
「お前の役割は、何だ」
 問われて、戦士としての顔に戻った少年は、顔を上げた。彼は、真っ直ぐに少年を見ていた。
「解っているな。お前の目指すところは、私の横に立つ事ではない。――戦況を後ろから見る者にしか、見えないものだってある」
 彼は、少年の苛立ちを完璧に見抜いていた。
 それまでの無表情に、僅かに、試すような、余裕のようなものが浮かんだ。そして背を向け、最後に言い残す。
「お前は、お前の役目を果たせ」
 推し測るようにその背中を見詰め、それから、少年は決意に拳を握った。
(そうだ――オレは、このオレは、世界一の天才魔道師様なんだ。誰かに負けることんてない。この先絶対、負けたりしない――!)
 例え追いつけないとしても。認めて欲しい。対等であると、いつかきっと、認めさせる。



(はぁ――?)
 ライアは、ぽかんと阿呆面を下げて、林の中に出現した建物の群れに呆れていた。
 その四角の集まりは、明らかに人工で、自然の林の中に、ありありと異彩を放っていた。
 規模で言えば、100人から200人が暮らす中規模の町に分類される。異様なのは、このような建物を、エストでも、ノーゼでも、お目にかかったことがない、という事実だった。
(なんだよ――やっぱ俺たち、死んだのか? でも、冥界ってゆーには、やけにリアルなんですけど……?)
 四角の表面には、窓のようなものや、入り口のようなものが見られることから、それが人の住むものだろうとは、何となく予想がつく。――最も、これが本当にヒトの町かどうかは、定かでなかったが。
「△〜Ю、×××……」
(……は??)
 突然話しかけられ、ライアの頭は凍りついた。いや、とりあえず、落ち着くべきだ、自分。だって、話しかけてきたその相手は、少なくとも自分たちと同じ、人の形をしていたのだから。
 彼女はライアより頭一つ分背が低く、斜め方向から近づいてきたために、建物に気を取られっぱなしだったライアは、今の今まで、少女の存在に気がつかなかった。
 これまた少し変わった服を着て、まばたき一つせず、ライアを凝視してくるおさげの少女に、ライアは、頭をかきながら、曖昧に挨拶した。
「あの〜、どうも、初めまして……」
(えと……この場合、いきなり、『ここはどこですか』なんて聞いたら、おかしーか?)
「Ч‖? ……、……」
(やべ、言葉通じてない――何語だ?? つーか、ここ、ホントどこなんだよ!?)
 ライアはそこで、腰に剣を差していたことを思い出して、なるべく少女を刺激しないように、平静を努めた。
「俺 ライアって 言います。言葉 解りませんか?」
(――駄目か? なら、次はノーゼの言葉で……)
 その時、悩んでいた様子の少女が、ぱっと顔を上げた。
「〜〜、a、Estish? マッて! 呼ンで、キマす」
 そう言って、少女は踵を返すと、奇妙な建物の方にぱたぱたと駆けて行った。

「先生! せんせ〜いっ!!」
 どんどんっ、と部屋の戸を叩く音がしても、机に向かった男は、まるで動じる気配がなかった。
「ああー、アリシア? 邪魔しないでー。今月のナンクロ、難問で、まだ解けないんだよ〜」
 コーヒー片手に、どこから取り寄せたのか、胡散臭げな雑誌の、9×9マスの格子と睨み合っていた学者風の男は、外の声に取り合う気配を見せなかった。
「先生、先生ってば!! もーっ、お母さんに言いつけちゃいますよー!?」
「んっ……!?」
 9、と書き込もうとしていた男の指先が止まる。一秒の間を空けた後、すたすたと部屋の入り口に向かい、男は鍵を開けた。
「姉さん? それはまずい! アリシア君、君の望みは何かなっ?」
 扉を開けると、十四、五才のおさげの少女が、仁王立ちで立っていた。しかし、そのような仕草でさえ、可愛らしい。
「『お客さん』ですっ、先生! いーから、早く行ってあげて下さい! あれ、エストの人ですよ? 多分……」
「あー、やれやれ……それで僕ね――お母さんのお使いじゃなくって、よかった……って、今なんつった? 『お客さん』?? それは、本当かいっ」
 はしょり気味の学者に、彼よりもよほど精神年齢の高そうな少女は、はぁっ、とため息をついた。



「ぃいやー、どうもぉー、初めましてっ☆」
(うっわ、『怪しい』……)
 それが、男を見た第一印象だった。しかし、戻って来た少女と一緒にやって来た彼からは、少なくとも、悪意は感じられなかった。
「こ、こちらこそ……」
 人当たり良すぎな満面の笑みで男が差し出した、骨ばった大きな手を恐る恐る取って、ライアは挨拶を返した。
「あのねぇー、きっと君、『上』から来たんでしょ? 困ってるんじゃないかなっ。ここに来るのは、偶然の事故が、ほとんどだからねっ」
「上!? やっぱ俺達、あそこから落ちてきたんですか!? あっ、いや、その……」
 ここで、男はやっと、『大人らしい』落ち着きを、初めて見せた。
「んー。そっか、お連れさんがいるんだね。ここに、連れておいで。悪いようにはしないよう。ほらほら、急いでーっ。ここは、暗くなるの早いから――」
「あ、あの……」
「何だか君、色々と混乱してるみたいだけどー、まずは休めるとこ、必要でしょっ?」
「あ……はい。すみません、ありがとうございますっ!」
 そう言って、ライアは来た道を引き返した。

「ほんとうに、人里だ……」
 ライアの話を聞いて、半信半疑だったアルドは、実際に建物を目の前にして呟いた。幸い、目を覚ました現場からはそう遠くなかったので、アルドは、フェリーナに肩を借りながら、不自由ながらもここまで歩いて来た。
 町の入り口では、言葉が通じたあの男が、人の良さそうな笑顔で、ライア達が迷わないように待っていた。今度は、男の他にも、数人の男女がいた。
「やぁやぁ、よく来たね。ようこ、そ――」
 言いかけて、男の言葉が止まる。凍りついた真顔のまま、早足で猛然と迫ってきた男に、リーティスを背負っていたライアは、反射的に身構えた。足を痛めているアルドも、同じく警戒して体を強張らせた。
 男は、ライアの半歩手前でぴたりと止まったかと思うと、肩に乗った頭をじっと見た。
「その子……!」



「あ、あの――大丈夫、なんでしょうか……?」
 おずおずと尋ねたフェリーナに、男は忙しなく動かしている準備の手を止めずに、底なしに明るい声で返した。
「大丈夫、だいじょうぶー。まっかせっなさぁーい☆」
 ライア達は、町に入って程なくしたところにある、一軒の、白っぽい建物の中にいた。その建物もやはり四角く、中に入ると、異種独特の雰囲気が漂っていた。門を潜ったばかりの時、見た事のない物ばかりで、不安な顔を隠せなかったライアに、辺りを見渡したフェリーナが、ライアの目を見てしっかりと頷いた。男は医者だと名乗ったが、どうやらフェリーナには、使用用途が判る道具もあったらしい。
 町の入り口で、顔色を変えた男は、リーティスの今の状態を、こう判断した。
『魔力が、底を尽きかけているね――!?』
『!?』『っ!!』『!』
 ライア、フェリーナ、アルドは、程度の差こそあれ、リーティス状態の危うさを悟った。
 男は、ライア達の聞き取れない言語で、早口で周りに何か説明をして、それを聞いた大人達は、それぞれに散って動き出した。その場に残った男は、ライアに言った。
「さて。君は、その子を連れて、このまま僕と来る! さぁさぁ、早くしないと、手遅れになってしまうよっ!?」
 深刻な顔で俯きかけたライアの肩に、長い黒髪の妙齢の女が手を置いた。彼女も、こちらの言葉が解るらしい。
「大丈夫よ。先生は、とても腕がいいから。安心して」
 ライアは、小さく頷いた。女が離れて、自分の持ち場へ去ろうとするのとすれ違いに、今度は、八百屋の親父、といった表現がしっくりくる、ランニングシャツの男がアルドに近づいた。
「肩、貸したろうかい、あんちゃん? そんな細腕の嬢ちゃんに頼りっぱなしじゃ、立場ってもんがないだろう? なぁ?」
 そう言って、男はにやりと白い歯を見せて笑った。

「そうそう、僕は、レイモンドっていうのさー。よろしくぅ」
 自称・『医師』レイモンドは、リーティスに処置を施す間、ほぼずっと喋り通しだった。自分の治療は後回しで同席していたアルドも、流石に困惑した様子で、喋りつつもてきぱきと作業をこなす彼を、複雑な表情で見ていた。
 どちらかと言うと、普段と一番様子が違っているのは、ライアだった。フェリーナが、そっと横から近づいて、囁いた。
「大丈夫です、きっと――。信じましょう。レイモンドさんと、リーティスを」
「ん……」
 しかし、その声には、覇気がない。だんだんと思考が整理されて、状況が解ってくるにつれて、罪悪感も増していた。
 自分が、リーティスを誘ったのが、間違いだったんじゃないか。アルドとて、勝てない戦いを無理に押し進めたりはしない。自分たちが戦場まで追いかけなければ、アルドは、加勢が現れた時点で、どうにか身を守りながら、撤退しただろう。それは、解っていたことだ。
 ただ、自分が、待っているだけなのが、恐くて。その恐さから逃れるためだけに、自分の我が侭で、みんなを巻き込んで。それに、リーティスまで。
(あの時、俺に、アルドを信じて待てるだけの、強さがあったなら――……)
 状況は、変わっていただろうか。
 ぱんっ!と手を叩く音に、沈みがちだったライアの思考は遮られた。
「はいっ、術は成功、っと! よーっしよし、うん、ばっちりだ!」
 自画自賛するレイモンドは、満面の笑みを湛えていた。



 ここは、アルカディアという町だった。
 ライア達の知らない技術が大いに発展した土地で、ここに住む住人達は、先祖の代から千年来、ここに定住しているらしい。
「なんにせよ、ここの住民が親切で、僕達の言葉を聞ける人がいて、助かった、と言うべきだね」
 歩けるまで一週間はかかるねっ、と指摘されたアルドも、療養する時間だけは、嫌という程にあった。それというのも、元いた場所に戻る方法が、皆目見当もつかないためだった。
 アルカディア、という地名は、アルドの所持していた、シュネルギアで作成された、かなり精密で詳細な地図にさえ、その名を刻んでいなかった。ただ、状況から、ある程度、真相を把握しつつあった。
「リーティスが、魔法で俺達を……」
 あの時、確かにライア達は、谷に落とされた。それは、夢でも何でもない、というのが全員の共通した認識だった。そこを救ったのが、恐らく、リーティスの発動した魔法だったのだろう。風の魔法には、相手を切り裂くばかりでなく、衝撃を和らげる類のものもある。
 しかし、あの切羽詰った、精神的な余裕も持てたはずのない状況の中で、咄嗟に4人の命を救う魔法を使った代償は、大きすぎた。
 リーティスは、レイモンドの処置で一命を取り留めた。しかし、術を施した彼の口から告げられた真実は、あまりに重かった。
「すまないねぇー……。目覚めるかどうかは、僕にも、判らないんだ。このまま状態を維持することだけなら、自信を持って保証するんだけどー……――って、そう気を落としなさんなぁ。この子は、まだ若いっしょ? いつになるかは判らなくっても、目覚める可能性なら、いくらでもあるよっ」
 ――それが、ライア達が揃って浮かない顔をしている理由だった。



 アルカディアに来て3日目、フェリーナが、バスケットを抱えて、レイモンドの医院に出かけようとしていた。
「それじゃ、行ってきます」
 今日は丸一日、医療技術と魔法の講習を受けることになっていた。バスケットの中身は、彼女が台所を借りて調理したサンドイッチだ。
 アルカディアは、ライア達にとって、未知の技術が詰まった場所だった。暖炉に薪をくべる必要もなく、暖かい風が吹き出す仕掛けがあるかと思えば、わざわざ井戸に汲みにいかなくても、各家庭で簡単に水が手に入ったりもする。医療と魔法も独特の発展を遂げたらしく、フェリーナにとっては興味の尽きないところであった。
 医院には、レイモンドの姪にあたるアリシアが助手として来ていた。左右に結んだ髪が可愛らしい彼女は、ライアがこの町に辿りついた時、レイモンドを呼びに行ったあの少女だった。カタコトながらに話すアリシアと、フェリーナは、すぐに打ち解けた。
 帰りがけに、まだ聞き足りない顔をしていた勉強熱心なフェリーナに、レイモンドは言った。
「明日も来たいって? いいよん、好きな時においでっ。どーせ、この町じゃあ、病気してる人も少ないし、暇してること多いからねっ」

『なにこれ……?』
 リーティスがここにいたら、きっと、そう言って妙な顔をしたに違いない。そう思って、ライアは、また一つ、ため息をついた。目の前には、『レイゾウコ』なる、これまた未知の品が鎮座ましましている。
「おぉや、『上』じゃ、見かけないかい?」
 そう言ったのは、ライア達を泊めてくれているおばさんだった。彼女は、小麦を育て、粉に挽くことを生業としていた。家の外観は灰色で、謎の材質は、打ちっ放しの『こんくり』だという事も、つい昨日知った。
 アルカディアは、ライア達の目から見てかなり風変わりではあったが、人間が暮らしていることに変わりはない。畑を耕す者もいれば、家畜を飼育する者、糸を紡いで布に仕立てる者、金属を精錬、加工する者など、生活の基盤となる仕事を分業しているのは、共通だった。ただ、その手法の大部分が、装置、あるいは魔法によって自動化されている点が、『地上』の町とは大きく異なっていた。
 この町独特の技術の最たるところが、町全体を覆う、巨大なシステムだった。稼動中以外は透明で、空気のようにそこに存在しているそれは、町の全てをカバーするドームのような形をしていた。
 両側を遙かにそびえる天然の壁に挟まれたアルカディアは、日照時間が極端に少ない。これでは、育つ作物もごく一部に限定されてしまう。しかし、ドームの内側に張り巡らされた術によって、擬似光源をコントロールし、日照不足を解消していた。
 ドームは、そのままバリアーに転換することも可能で、夜間は、ごくたまに出現する魔物の侵入を防ぎ、万が一地震がおきても、落石から町を守ることができた。
(こんな凄い技術があるなら、地上に戻る方法の、一つくらい、転がっていてもおかしくないのに)
 もと居た場所に帰る目処は、今のところ立っていない。それでも、考えずにはいられなかった。
(戻ったら、何がしたいんだろう、俺)
 銀髪の3人と、黒の疾風の姿が、脳裏をよぎる。忘れようにも、あの一戦の記憶は、あまりに鮮烈だった。
 戻れたら、戻るとき、戻りたい。……――戻れるのか?
 流動的に次々と思考することによって、ライアは一番触れたくない、ただ一つの不安から、思考を逃がしていた。地上に戻る方法、戻れた時のこと、黒の疾風、銀髪の魔族達、今後どう対処していくべきか、自分は戦いから身を引く時なのか――そうやって、目先の問題に集中している間は、そのことを、考えずに済む。



 アルドがその事実に気付いたのは、滞在5日目の午前中の事だった。
「は? それじゃあ、ライアは、まだ一度もここに来ていないって事ですか?」
「あの赤い髪の子っしょー? うーん、見ってなっいよー。ああ、それで君。自分で回復魔法かけたって言ってたけど、うん、上手くいってるみたいだね。歩いても問題ナシ! ただし、気をつけてよー? まだ、完全に治ってなかったりして、一度痛めたとこ、もっかい痛めちゃうと、もぉっと酷いことになるから」
「はい。無茶はしません」
「そっかぁー、ヨカッタ。君、なんかあの中で、一番無理しそーだし」
「は――僕が、ですか?」
 アルドは、思わず訊き返していた。フェリーナはともかく、あの幼馴染よりも無茶だというのは、何か納得がいかない。
「あははっ! 君、今赤い髪の子のこと思ったでしょ? 違うよー。もちろん、見た感じ、あの子の方がずっと無謀だねっ。けどさ、そーゆーんじゃ、ないんだ。僕が言う無理ってのは、そぅだなぁー……ここぞって時、自分を大切にするか、犠牲にするか……って辺りかな?」
 レイモンドは少し目を細め、アルドの目を覗き込んだ。
「君、歳からして、あの中じゃ、みんなを引っ張っていく立場じゃないのかな? だから、早く治ろうって気持ちはあると思うけど、そこで無理しない勇気も大切なのさっ」
 見舞いに立ち寄ったところを、脚を診てもらい、終いには、カウンセリングまで受けてしまった気分である。
 最後に、レイモンドは言った。
「こう言っちゃ悪いけど、地上に戻る方法なんて、そー簡単には見付かんないと思うんだねぇ。時間はたぁーっぷりあるだろう? だから、気長に治すと良しっ」
(あは、嘘ついちゃった……。でも、今はまだ、教えないほーがいいよねっ。だってまだ、あれには一ヶ月近くあるんだから――)

 アルドが帰ってしまうと、レイモンドはすることがなくなった。
「ちょっと! 邪魔するわよ」
 コンコン、とドアを叩く音がして、レイモンドと同じ茶色の髪をした女性が入ってきた。
 女性は理知的な薄茶色の瞳の持ち主で、髪はさっぱりとまとめている。見た目は三十前後で、言われなければ、とても十四の娘を持つ母親には見えない。
 外見は若々しい彼女だったが、威厳、とでも言おうか、雰囲気にはそれ相当の重みがあった。
 レイモンドは、それが決まりごとのように、黙ってお茶を淹れ始めた。姉に使われることは、もはや宿命とも言っていい。
 女性が出された茶に口を付け、その間に、レイモンドは訊ねられた近況を、簡単に報告した。
「あら、何、言わなかったの?」
「うーん。あの子達だって、帰りたいだろうしね。いずれは言ってやんなくちゃなんないとは思うけど……」
「まあ、でもよかったわ。うっかり口を滑らせて、前回の時、現場にいたような口ぶりで喋っちゃったら、あなたその歳じゃ、怪しまれるわよ?」
「くす、くす。やだなぁ、そんなヘマしないってば! でも、あのお兄さん、なかなか切れそうだからね。下手に言わなくて、よかったかな。うん」
(そうさ。何せ僕らは、『神の掟を犯した』、罰当たり者の集団なんだから……)
「……。じゃあ、『アルカディアの真実』は、伏せたままでいいのね? 長老様に、私から伝えておくわ。それに、帰り方についても触れていただけるように、とね」
「うん。あれは、誰も彼もが望む物じゃあない。『上』の世間に戻るのなら尚更、知らない方がいいことだって、あるもんさ。ねぇ? お肌の張り具合と、白髪の本数を気にしなくてよくなった気持ちは、いかがなものだろうか? 姉さん」
「わからないわ」
「うん」



「ライア、ちょっといい?」
「え? ああ、うん……」
 夕食の後、アルドがわざわざ、フェリーナが同席する食卓での話を避けて、ライアの個室を訪ねてきた。
 ぱたん、と戸を閉めて、アルドは静かに話し始めた。
「こんな話、聞きたくないかもしれない。でも、きちんと向かい合わなきゃいけないと思うんだ――ねぇ、ライア? こうなったのは、ライアのせいじゃない。黒の疾風との戦いでは、僕も冷静さに欠いた。むしろ、あんな状況で全員が生き残ったのは、ライアの強運のお陰かもしれないって思う。だから、そうやって、責任を自分だけで抱え込まないで欲しいんだ」
「な……何言いだすんだよ、急に!? 俺、そんな落ち込んで見えた? はは……っ、心配しすぎだって! アルドは、いつも過保護なん――」
 アルドは、酷く悲しそうな顔をした。
「ほんとうは、気にしているんだろう――? だから、リーティスに合わせる顔がない、そう思っている」
 指摘された瞬間、ライアは心臓がぎゅっ!と縮こまった気がした。


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