STAGE 11 a knights killer 〜黒の疾風〜



 情けは人のためならず、というが、フェリーナの行いが、期せずして、彼女自身の身を救った。
 アルドが療養している間、フェリーナは、積極的に集落で自分に出来ることを見つけて、それを仕事としていた。それは主に、集落に一人しかいない医師の手伝いだった。
 魔法を使ってばかりではフェリーナの身が持たないが、実は魔法を使う機会というのは、そう多くない。実際、魔法の才が無くとも、診療所に勤務したり、立派に医者をやっている者はいる。それに、フェリーナが使う水の回復魔法は、本人の治癒力を促進させて傷を塞ぐ質のものであって、衰弱や病気は治せない。しかしながら、祖母の助手として確かな経験を積んでいるフェリーナは、魔法なしでも、立派に看護師を務めていた。
 その後、アルドの経過は良好で、そろそろ出立かといったある日、住民の一人が息せき切らして報せを運んできた。
「お嬢さん。あなた達はお隠れなさい」
「え? 何が――」
 丁度診療を終えて休憩していたところへ、只ならぬ様子で、集落の男性とリーティスの2人が駆け込んで来た。
「シュトルーデルの騎士が近づいてるみたいなの! 急いで!」
「こっちだよ!」
 持病持ちの母を今までフェリーナに看てもらっていた食堂の女将が素早く先導し、リーティスに手を引かれるまま、フェリーナ達は物置に使われている屋根裏に入った。
「狭いけど、辛抱しておくれ」
 そう言って、女将は屋根裏に鍵を掛けた。
 薄明かりの中、少しの沈黙が流れる。
「あの……大丈夫、なんでしょうか……」
「うん、多分ね。アルドも、今頃どっかで上手く隠れてるはずだから。……集落の人達が協力してくれたの。これも、フェリーナのお陰なんだよ、きっと」
「私の――?」
 フェリーナは、リーティスの返事を待った。
「――うん。ここの人達、フェリーナに感謝してたよ。ほら、集落の患者さん達のこと、看てあげてたんでしょ? あんないい子を渡すもんか、銀髪の魔女な訳がないって――みんな、ね。ああ、それとついでに、忘れてたけど、ライアも周りからの印象は悪くなかったみたいだし」
 そう言った後で、リーティスはぽつりと、敵わない、と洩らした。
「え? だってほら、私、どっちかっていうと、ずる賢く立ち回る方が得意みたいだし、こんな意地っぱりじゃ、誰も助けてくれようなんて、思わないじゃない」
「そ、そんなことないです! リーティスは、いいところを一杯持ってます! だから、そんな風に言わないで下さい!!」
 自分を冷静に分析しただけのつもりだったリーティスは、フェリーナの必死さに、思わず苦笑した。
 それからフェリーナは、真剣な顔つきになってこう宣言した。
「もし、集落のみなさんに危害が及ぶようであれば、私、自分から出て行こうと思っています。……大丈夫。リーティスやアルドには、迷惑をかけないつもりですから」
「そんなあ……」
 リーティスとて、フェリーナを引き渡したくない気持ちは同じだ。
 彼女達がそうしている間に、外では事態が動いていた。

 シュトルーデル城から派遣されてきた3人の兵士達は、集落に着くと、早速聞き取り調査を開始した。上司の目が無いのをいいことに、真っ先に酒場を目指す連中も少なくはない中で、彼らは珍しいほど勤勉な部類だった。その勤務態度は寧ろ表彰ものだ。裏で金品を送った者ばかりが勲章を頂戴する慣習は、どうにかぶち壊せないものなのか。
 大人は皆、兵士の質問に対し、口裏を合わせてばっくれたが、ここに来て思わぬ盲点を衝かれた。階級は高くなさそうだが、3人の中では一番年上に見える1人の兵士が、大人達の様子を遠巻きに見詰めていた少女に近づいて、こう言ったのだった。
「お嬢ちゃん、ちょっとお話聞かせてくれないかな?」
 髪に緑のチェックのリボンを結んだ、まだあどけない少女は、兵士の言葉に無邪気に首を傾げた。
「ちかごろ、この集落に、旅人さんが来ただろう?」
「うん!」
 罪の無いその返答に、周りの大人達は、顔色こそ変えないものの、心穏やかではいられなかった。
「そうか。おじさんに、その人たちのことを教えてくれるかい」
「えっとね……」
 少女ははにかむような仕草をして、それから嬉しそうに笑った。
「赤い髪のお兄ちゃんでね、昨日はね、ユウナたちと、あそんでくれたの!」
「うーん……他に、旅人さんはいなかったかい?」
「いないよ!」
 兵士に、少女の純真な瞳を疑う理由はなかった。
 ライア以外の3人のことを口外してはいけないという大人達の話を、少女は、幼いながらにきちんと理解していたのだった。
「あのね、遊んでくれたお兄ちゃん、木にひっかかったユウナのリボン、取ってくれたんだよ!」
 ほら、と言って、少女は頭の両側で結んでいた片方のリボンを外し、兵士に見せるように両手で高く掲げた。
「そうか……よかったな」
 その位の歳の子供がいてもおかしくない兵士は、表情を和ませ、少女の頭に無骨な手を置くと、振り返って、近くで他の住民から聞き取りをしていた同僚の2人に呼びかけた。
「おぅい! この集落はハズレだ。戻るぞ!」
 少しの事実を混ぜることによって、嘘はより真実味を帯びる。少女自身がそれを理解していなかったにしろ、こうして、危機は回避された。



 ライア達は、揃ってもう一度、あの魔術師の塔を訪れた。ライアにとっては特に、精神的にきつい因縁の場所だったが、本人が逃げたくないと言ったので、こうして全員で行くことになった。正直なところ、ひとりにされるのが恐いという思いがあったし、それに、一度でもこうして向き合っておかなくては、乗り越えられない気がしていた。
 道中、ライアが塞ぎこんでしまわぬよう、それとなくフェリーナが話し相手になっており、アルドも、リーティスも、ライアの動向には一番に注意を払っていた。
 現場に到着すると、そこには、跡形も無く崩れた塔の残骸が残っているのみだった。周りが心配したように、ライアがパニックを起こすような事もなかった。
 結局、リィドは自滅だった。
 狂ってはいたが、確かな才を持っていた魔術師の、不死への挑戦は、道半ばにして潰えたのだった。
 リィドが試行した術は、理論上の狂いこそなかったが、例えるならロケットを飛ばすような難しさがあった。それぞれの分野の専門家が最高の仕事をして初めて、ロケットは宇宙に飛び立つことができる。そんな零コンマ単位のずれも許されない途方もない術を、彼は己の力のみで推し進めようとした。
 この瓦礫の山が、その奢りが招いた結果だった。

 リィドに関する集落の人々への報告も終え、ライア達は、住民に感謝されながら、旅立ちの日を迎えた。
「ああ――貴女は天使だ……。本当に、お別れなのですか。ずっと、この集落にいてくれれば――いえ、その、いっそ、よければ私とけっこ……ゲホッ、ゲホッ」
 フェリーナに惚れこんでいた青年は、泣き咽ぶ余りに、咳込んだ。その隙に、近所の世話好きのおばさんが、フェリーナの話し相手の座をあっさりと奪ってしまう。
 去りゆく4人の背、というか、彼にはただ一人の背しか見えておらず、あまつさえそこに純白の羽を幻視しているのだろうが、それを見送る青年は呟いた。
「そうか、そうですよね……ああ、あの方は天界に帰ってしまわれるんですね――」
「リンド……お前、頭大丈夫か?」
 涙でぐしょぐしょになっている青年に、横から友人がツッコミを入れた。

 それから数日と経たないうちに、集落に、珍しい訪問者があった。
「おお、久しいねぇ! 坊ちゃんも、随分大きくなったじゃないか。元気だったかい?」
 彼は元々、集落の出身だった。狩人として森に移り住み、妻を得てからも森での暮らしを続けていたが、ある出来事をきっかけに、訪問の足はぱったりと途絶えていた。
「ああ――すまないね。ちょっと、訊きたい事があるんだ」
「あんたのことだ。訊くだけ訊いて、そのまま帰っちまうんだろう。うちに来い。話は、酒が入って、まずそれからだ。その子にはお菓子をあげよう」
 お菓子、と聞いて、子供の方は目を輝かせた。
 この調子では、酒に付き合うどころか、1泊くらいしていけと強引に泊まらされるのが落ちで、そうなれば、彼は本当に悲しみを乗り越えられたのか、この男に洗い浚い告白しなければならないことが明白だったが、彼は諦めて、その言葉に従った。

「……ああ、よかった。それを聞いて、安心したよ……」
 酒が回ってかなり眠たそうな様子で、彼は机につっぷしながら呟いた。子供は既に寝かしつけられており、今晩彼がここに泊まるのは確実だった。
 ヘンな事を訊くのだな、と酒に誘った当人は思ったが、昔からの付き合いで、酒が回ると隠し事を出来ない彼の性分を知っていたから、先日の兵士達との繋がりは無いと判断した。
 彼が尋ねたのは、赤い髪の少年の友達は助かったのか、という事だった。

 彼は、幸せそうに目を閉じたかと思うと、そのまま眠ってしまった。まだ酒を飲み続けていた男は、やれやれ、誰がねぐらまで運ぶんだ、とため息をついたが、その後で、こんな風に、夢の中だけでも幸せそうな顔ができるようになっただけでも、まだいいか、と思い直した。
 一体、誰が医師を責められただろう。
 あれは偶然、不幸な巡り合わせが重なったんだ、と男は思っていた。他の集落の誰に訊いたとしても、同じような答えだろう。しかし、妻を亡くした本人の悲しみは、それは深いものだった。普段、あまり口数の多くない寡黙な男ゆえに、胸に抱えた想いも深かったに違いない。
 集落に寄り付かなくなった彼は、それがあれば妻を救えたかもしれない幻の薬草のことを、繰り返し繰り返し、愛する妻との間にできた一人息子に語ってきかせた。それが、医師を責めることのできない、彼の未練の表れだったのかもしれない。
 妻の容態が悪化したとき、頼みの綱である集落の医師が、あろうことか不在だった。しかし、医師のほうにも事情はあり、街で長男と暮らしていた母親が危篤だという報せを受け、3日で帰るという約束で、集落を留守にしていたのだった。医師の母はそのまま息を引き取り、葬儀を終えるとまたすぐに集落に飛んで来た医師は、不在期間が結局たったの丸2日だったにも関らず、そのタイミングが悪すぎた。
 急ぎ、医師が彼の妻のところへ駆けつけ、治療には幻の薬草が必要だと診断を下した時には、既に、彼の妻は衰弱しきっていた。
 こうして、責められる対象すら持てないまま、元から寡黙だった彼は、より一層固く心を閉ざしてしまったのだった。
「……むにゃ……――、――、……ほぅら……あそこに活きのいい鹿がいるよ……」
 寝言に、子供の名前だけでなく自分の名が含まれていたことに、男は少しだけ驚き、それから、素焼きのゴブレットに瓶の底にわずかに残った酒を注ぎながら、寝ている彼に向かって、こう呟いた。
「ぁあ、そうだな――昔はよく、腕比べをしたものだった……。どうだ、今度、一緒に狩りに出ようじゃないか。坊やにもそろそろ、お前のお得意の弓を見せてやるといい――」
 返事はない。所詮、独り言だ。ただ、机につっぷしたまま幸せな夢を見る旧友の寝顔が、そこにあるだけだ。



 ライア達は、シュネルギア、あるいはシュネーギアとも呼ばれる街にいた。
 シュネルギアは、一風変わった、しかし活気のある街だった。街の至るところを一目で騎士と判る人間がうろついていても、不思議と物々しさがない。それは彼らが、非日常の一部ではなく、生活の一部として溶け込んでいるせいだろう。道端で猫に構ってやっているひょろ長の騎士も、銅貨と引き換えに店主からリンゴを受け取る若い青年騎士も、服装を除けば、どこにでもいる市民と何ら違いはない。
 シュネルギアは、特定の団体や王宮に所属しない騎士達が寄り集まって出来た街だった。住民の実に6割は騎士で、大陸全体で見ても珍しい女性騎士の姿も、ちらほら見かける。
 街の人々は、どんな組織にも属さない自由を誇りとし、騎士道精神に則った正義の心を信条としていた。とは言え、どこにも属さない、というのは、国家権力に対してであって、魔族との戦いでは、無論、人間側の勢力の一部に属する。街全体が堅固な砦のような造りになっており、安住の地を求めて移住して来る人々も少なくはない。
(ここなら多分、ライアを保護してもらう分にも、不足はないはず――)
 アルドの読みは、およそ正しい。以前訪れたシュトルーデルと比べれば、その治安は雲泥の差だ。しかし、一見平和に見えるこの街も、交戦中の大陸にある街として、逃れられない定めの中にあった。一行の中で唯一、騎士として議会の場にも顔を出す事を許されたアルドは、そこで内情を知ることになる。
「そんな――……彼が、戦……死?」
 アルドも、職業柄、仲間を失った経験が無い訳ではない。衝撃を受けたのは、単に同じエストの出身で、新婚の妻と顔見知りだったばかりでなく、戦いにおける彼の実力を知っていたことが、大きかった。
 アルドが殉職を知らされた騎士は、エストの大陸騎士団所属時代には、歳の近い二期上の先輩であり、訓練では、当時のアルドが引き分け以上を取れなかった相手でもある。
(許さない――……!)
 無関係のライア達には一切、その話をせず、その夜、アルドはひとり、昏い感情の炎を胸の内に燃やしながら、彼の仇を、黒の疾風を必ず討とうと誓った。

「なぁ、俺さ、多分、アルドとこの街に居残ることになると思うんだ」
 2人で買出しの途中に、ライアがふと口を開いた。シュネルギアはフェリーナの目的地にも近く、彼女は折を見てこの街を発つと言っていた。残るリーティスの予定だけは、まだ聞いていない。
「私は……どうかな。ここに滞在してもいいけど、あんまり歓迎されないかも……」
「? どうして」
 リーティスは、周りを気にして声を一段低くした。
「ここの人達って、すごく自立意識が強いでしょ? どんな国にも、王様にも縛られない事を、誇りに思ってる――。アルドはいいの。所属してるのがエスト大陸の騎士同盟だから。でも、私の場合は……」
「待てよ。騎士っつっても、リーティスは貴族なんだろ? だったら、騎士だってことは隠しといたって、そっちの身分で通せばいいんじゃ」
「そうだけど……」
 言い辛そうだったリーティスは、割り切った口調で、出身が問題なの、と小声で、スロウディア地方の標準語に切り替えながら説明した。
「セーミズは、エストの中でも魔族に対抗して同盟を組んでいるし、こっちの大陸にも沢山兵士を送って来ている。それで、なんて言うのかな……過激派、とまではいかないんだけど、結構好戦的な部類に含まれてると思うの」
 敵である魔族を悪と見なしこそすれ、争いそのものを好む意識は、ここシュネルギアでは倦厭される。騎士の街としては意外かもしれないが、この街の騎士達は皆、独特の騎士道精神というものを持ち併せている。
 リーティスの心配を理解したライアは、素朴な疑問を口にした。
「けど、個人に対してそんなとやかく言うようじゃ、心狭すぎじゃないのか?」
 ライアらしい大雑把な意見だったが、実はこの件に関してはそれで正解だった。宿に帰ってから、どうせリーティスは自分からは話さないだろう、と踏んだライアが、4人が集まった場でその話をすると、リーティスの予想に反して、アルドもライアと同意見だった。そして本当に、リーティスの出身は滞在には何の影響も及ぼさなかった。
 すんなり受け入れられたことに少し面喰っていたリーティスに、アルドは言った。
「もともとここは、移民の街だからね。そういうところには、割と寛容なんだ」
 要は、各個人の人間性が重視されるのであって、リーティス個人が特別に危険な思想を持たない限り、問題にはならないということだった。



 街に滞在する間は、アルドには騎士としてシュネルギアの騎士達に協力する義務があったが、代わりに、寝床や食事など、最低限の生活が保障されていた。
 そんな経緯から、アルドのところに一つの依頼が舞い込んだ。内容は、先日、アルドの知り合いの騎士が、黒の疾風に手にかかって命を落とした現場周辺の調査だった。彼の死に報いたいと考えていたアルドにとって、それは願ってもない事だった。
 期限は5日とそれなりに余裕があり、必要に応じてシュネルギアの騎士を伴とする許可も下りていた。どのような者を何人連れて行くかは、ほとんどアルドの判断に委ねられていると言って良い。無論、審査はあるのだが、調査対象の相手が相手だけに、余程無茶な要求でない限り、審査が通ることは確実だった。

 ここ数日で、アルドはエスト大陸を巡る任に就いていた時代の顔馴染み数人ともシュネルギアにて再会を果たし、それなりに協力の当てを得てはいた。ただ、最後まで気にかかっていたのが、ライアのことだった。
 本音を言うなら、これ以上、戦いに巻き込みたくはなかった。単に身が危険にさらされるだけでなく、踏み越えてはならない一線が、そこにある気がしたからだ。ここから先、戦うべき敵は、魔物ではなく、ヒトという存在にすり替わっていくことだろう。王となるべき人が、その手を血で汚してしまっては、後々問題にもなり兼ねない。それに何より、ライアは、自分のように『こちら側』に来ていい人間ではないと、アルドは思っていた。
(より多くを守るために、何かを犠牲にしなければならない時がある。『自分』を殺さなくては、任務を果たせない時だって。それに、目的のためなら、卑怯も、嘘を吐く事だって厭わない。そんな世界は多分、似合わないから――)
 自らの信念でここまで来た自分が後戻りできない以上、弟のような友を、同じ道に引きずり込みたくない。それにまず、生まれ持った役目というものからして、自分とライアには大きな差異がある。
 そんなライアを戦いから引き離す選択を、ノーゼに渡って来た当初なら、迷わずにできたはずだ。それなのに、なぜか今は、迷いがある。
(……ここで置いてってしまって、あの子は本当に、立ち直れる……?)
 今のライアならば、無理にアルドについて来ようとはしないだろう。逆に言えば、今こそが、引き離せる唯一のチャンスかもしれない。だが一方で、このままではこの先ずっと、アルドを刺した事を負い目として生きていくのではないかという予感があった。
 そうならずに済むためにどうすれば良いのか、アルドには何となくだが、その答えが解ってはいた。きっと、今しばらくは現状維持で、これまでと変わらない接し方をすればいい。そうすることで、ライアがあの一件によって変わってしまう必要が無いことを、頭ではなく心で理解するに至ったなら、その後で緩やかに戦いから引き離せばよい。ただ、それには相応の時間がかかると予想され、それまでアルドの近くにいるとなれば、ライアも魔族との戦いに巻き込まれる事は必至だった。
 心に傷を負わせたままでも、一騎士として次期国王の身の安全を取るのか、それとも、友人として友の心を救うのか。騎士としての自分を貫こうとしていたその意志が、今、僅かながらに揺らぎつつあった。



「――と、いう訳なんだ……」
 全員が揃ったこの場で、どうして依頼の詳細を語ろうという気になったのかは、自分でも少し不思議だった。やはり、自分には迷いがあるらしい。何か、後ろめたさのようなものをふっきるために、ここで、これから自分がやることを宣言しておきたかったのかもしれない。
「それじゃ、やっぱ、俺達は関らないほうがいいのか?」
 ――やっぱりだ。今までとは、反応が違う。成長して聞き分けがよくなったのであれば、それは歓迎すべき事なのだけれど。今は、その逆だ。どこか危うくて、不安になる。
 どう答えるべきか、僕は慎重になって考えを巡らせた。
「あの! アルド……もし、お邪魔でなければ、私にお手伝いさせてくれませんか?」
「フェリーナ?」
 意外にもフェリーナが真っ先に名乗り出て、意表を突かれたリーティスが聞き返した。
「私は、もうすぐみなさんとはお別れです。でも、それまで、少しでも、お役に立てたらって……」
 僕は、この時点で、どうするべきか、意志を固めた。
「ありがとう」
 今回の依頼に関して、僕は思うところがあり、もし、騎士でない誰かが、と言ってもこの3人しか考えつかないが――関ることになっても、できるだけ安全を確保する方法なら、実は既に考えてあった。
「人手は多いほうが助かる。お願いするよ、フェリーナ」
「は、はいっ」
 若干緊張気味だったフェリーナの表情が和らぎ、そこにリーティスが、いつも通りの淡白な口調で言った。
「え? そう。じゃ、私も行っていい?」
 リーティスの動機は、僕から見ればまだ気楽だ。じっとしているよりは、何かしているほうが、彼女の性に合うのだろう。何にせよ、僕には断る理由もなかった。そして、一番の問題は――。
「で? ライアはどーすんの?」
「俺は――……」
(ここで待ってんのが役目なら、俺はそうする。……たいして強くもないのに、我が侭言って、ついてって、またあんな事になったら、そんなの、俺、嫌だから――)
 ライアは目線を上げ、真正面から赤い瞳で僕を見た。
「アルド。もし俺が行って邪魔なようなら、はっきり言ってくれよな?」
 その視線はいつになく重く、嘘や誤魔化しが通用しない気配を感じさせた。僕が答えようかとしたその時、リーティスが白々しく目線を逸らしながら口を挟んだ。
「なぁーに、らしくない遠慮なんかしちゃってんだか」
「うっさい。俺はアルドに訊いてんだ!」
 何だか、拗ねた子供同士の喧嘩のようで、苦笑半分、微笑ましさ半分、といったところだ。しかし、笑っていい場面ではない。真剣な質問に、僕は真剣に答えた。
「一人の犠牲者が出てからこっち、今のところはずっと、何の音沙汰も無いみたいなんだ。この分なら、あまり危険はないと見ていいと思う」
 実質、関っても構わないというOKサインだ。ただし、と僕はそこに付け加えた。
「体調とか気分とかが思わしくないようなら、無理はしなくていいよ」
 ここで、ライアが自分の意志で引いてくれるのなら、それで構わない。ただ一方で、協力する意思が本人にあるのなら、それを断って、無意識の傷を更に広げてしまう真似だけは、避けたかった。
 僕は、ライアの反応を待った。
「……だったら――」

 ほんとうに、これでよかったのか。俺がいて、迷惑にならないのか。――本当の答えをくれる人間は、誰もいない。だけど、これ以上迷惑かけないためにも、俺にできることをしようって、思ったんだ。
 俺、しっかりしなきゃ。アルドみたいに、人の事まで守れるくらい、強くはないとしても。せめて、みんなに心配かけないように、頑張んないと……。しっかりしろ、俺!!

 そろそろ別れ時かな、なんて、近頃は考えてたはずなんだけど。だってさ、ほら、最近なんかちょっと色々ありすぎて、このままずるずる一緒にいたら、別れが辛くなっちゃうかな、なんて――……そんな訳、ないか。別れ際になっても、きっと、涙のひとつも出て来ないんだろうね、私。自分のことは、自分が一番よく解ってる。
 でも、こうしてみんなと知り合って、もうちょっとだけ一緒にいたいって気持ちは、本当。これがエストにいた頃なら、家に帰る日を先延ばししたいだけの、ただの我がままだって言われたかもしれないけど。戻れなくなっちゃったんだから、しょうがないでしょ?
 こうなったら、ノーゼにいる間だけでも、自分の意志でとことんやってみせる。私は、お飾りのお嬢様なんかじゃないんだから!

 私にできること。それは、戦いで傷付いた人々を、癒すこと。けがや病気で苦しんでいる人達を、救うこと。
 医師として一人前になるために、より多くの人を救えるように、私はここまで来た。目指してきた場所にも、もう、あと一歩で辿り着ける。
 ……それなのに、ここで足踏みしている私は、ただの弱虫なんでしょうか?
 あの日、初めて目覚めた、人を傷つける力。このままだと、いつか呑まれてしまいそうで、怖くて――自分の力、なのに。
 だけど、この人達といる時だけは、私でも小さな勇気を奮い起こすことができた。だから、少しだけ、あと、ほんの少しでいいんです――この怖れを乗り切れるまで、あと少しの時間だけ、貴方達の隣を歩かせて下さいね――?

 誰かを守れる人になりたい。そう思って、この道を選んだ。守りたかったのは、スロウディアという国だけじゃない。故郷の友人、家族、仲間――彼らが幸せでいてくれることはもちろん、他のところで暮らす人達にも、同じように笑顔でいて欲しかった。だから僕は、エスト大陸の騎士同盟に所属する道を選んだ。
 きっと僕は、守りたかったのだろう――人間を。
 魔族は、人々の平和を脅かす存在だ。だから、僕は戦う。絶対に、負けはしないと、自分自身と、この剣に誓って。

 こうして、騎士ではない人間を伴って来たのも、きちんと策を用意してのことだった。実を言うとアルドは、他の3人に、はっきりとした現場の場所を教えていない。湖の近く、と言っても、前に騎士が襲われたのは、見通しの悪い林の中で、そこ以外は比較的見通しが利くため、敵が現れる可能性も低い。黒の疾風は、団体ではなく、個人を指す。だから向こうも、姿を見られて援軍を呼ばれるような事態は、なるべく避けたいはずだ。
 湖に着くと、アルドは、兼ねてからの計画通り、4人で手分けして調査することを提案した。ライアは、一時間ほどで一周できる湖の外周を、フェリーナとリーティスは、2人で湿地帯の木道を、アルドは、途中まで女性二人と同行し、途中から別れて調査することになった。
 湿地組の往路は順調で、特に危険もなく、しかし同時に収穫もないまま、来た道を引き返そうというところだった。そこでアルドが、こう切り出した。
「二人は、来た道を戻りながら、何か見落としがなかったか、確認して行って欲しい。僕は、向こうの林道を回ってみることにするよ。少し遅くなるかもしれないけど、そんなに遠回りにはならないと思うから」
「わかりました。お気を付けて」
「うん。そっちもね」
 二人が来た道を戻って行くのを確認して、林道へと向かうアルドの顔には、二人の前では見せなかった、険しい表情が浮いていた。ここからが、本当の調査だ。
 前を睨んで、アルドは曲がりくねった小道を探索し始めた。――友の仇を討つ機会を、少しでもその手に引き寄せるために。



 湿地組の復路は、のんびりとしたものだった。天気も良く、二人は、湿地の上に延々と続く板でできた足場の上を、散歩気分でてくてくと歩いていく。
 そんな中、リーティスの心の平穏を突然襲って困惑に突き落としたのは、他愛もない会話から派生した、フェリーナのこんな告白だった。
「私、アルドのことが――」
 フェリーナは、俯き加減に、乙女らしく頬を染めた。
「あ、えと、うん、そーだったんだ」
 何となく気付いていた癖に、と胸中で自分に毒づきながら、リーティスは、ぎこちない返事しかできなかった。
(や、そりゃ私だって応援したいけど……っ。でも、前にライアが言ってた様子じゃ、アルドには恋人がいるかもって――これって、横恋慕になるのかなぁ? でもフェリーナはすごくいい子だし、アルドがフリーなら別に何も全然問題なくて、お似合いだとは思うけど……うう〜……)
 そこでリーティスは、はたと気付いた。
(あれ? でもライアって、フェリーナのこと気になってるんだよね?)
 いっそ、アルドの事は諦めてもらって、ライアと両想いにさせてしまう手もあったが、見たところ、募らせたフェリーナの想いはなかなかに深そうだ。故郷を発つ時に見せた、あの意外な頑固さを発揮されてしまうと、さしもリーティスでも手が出せない。
(けど、知らないフリして応援しちゃうってのは、何か罪悪感――……問題は、アルドがどう応えるかで……。あれ? もし上手くいったとしても、今度はライアの恋路を邪魔した事になっちゃうのかぁ……うーん、『好き』って複雑……)
 青空の下、こうして乙女は、自分以外の恋愛事情に、ひとり、頭を悩ませるのだった。



 こちらは殺気すら漂わせてすらいるというのに、そのような時に限って、目的の相手は現れないものだった。
(話では、この辺りで彼が殺されたはず――……)
 しかし、敵はとっくに姿を晦ました後で、決着を付けたくとも、仇を捕まえることすら出来ないもどかしさに、アルドは焦れた。
 と、その時、アルドの視界に、何か光るものが映った。
(あれは――?)
 近寄ってみると、それは、千切れた細い銀の鎖の断片と、鎖の先端に繋がれていたものと思しき十字の形をした金属片だった。アルドはそれを拾うと、付いていた泥を指で拭った。十字架の裏には、文字が彫り付けてあった。
(……ジンガ……エリス…………)
 アルドの知らない3つ目の名は、恐らく、二人の子供の名前だろう。ペンダントの残骸を持つアルドの指に、震えるほどの力が篭った。
(黒の疾風……必ずお前を見つけ出して、絶対に……僕が、倒す――!)



 それはつい、この間のことだ。彼は、伝令の指示通りに、指定された場所に身を潜めていた。最初から姿を晒していたのでは、先方が約束を守らずに軍を引き連れてきた場合、対処のしようがなくなるからだ。
 程なくして、一人の騎士が現れた。彼は周辺に他に隠れている者の気配が無いことをよくよく確認した上で、騎士の前に姿を見せた。
「……本当に、一人で来たのだな」
 騎士は答えなかった。口を開けば、そこに少しでも隙を作ることになる。
 彼は小さく嘆息し、続けた。
「私は、お前が一人で現れたなら、始末しろと、そう言われている」
 やはり騎士は答えず、繭一つ動かす気配もなかった。いつでも斬りかかれるよう、構えを解かずに、じっと彼のことを見据えている。
(やれやれ……)
 彼は、相手をどのようにしておびき出したのかは知らされていない。情報操作は、彼の管轄ではなかった。
(だがまあ、何となく予想はつく――)
 確たる信念も持たず、人間関係も希薄な者ならばともかく、卑怯を嫌う騎士であり、家族持ちともなれば、そこにいくらでも付け込みようはあった。
「悪いが、消えてもらう」
「消えるのはお前だ……!! 黒の疾風!!」
 そこで初めて、騎士が言葉を発し、それがそのまま激闘の幕開けとなった。

 死んだ人間の体は、もうそこにはなかった。シュネルギアから派遣された騎士達が、彼の遺体を回収し、弔ってやったのだろう。
 こんなところをうろついて、危険はないのかと言えば、大いにあった。しかし彼には、最悪、死地を脱するための能力が備わっていた。最も、その力を使う事は任務の途中放棄になるので、最終手段ではある。しかし、生命がかかった場面でなら、彼は、逃げ帰ることだって躊躇いはしない。
 予想はしていたが、この前の一件により、相手方はかなり警戒を強めている様子だ。
(偵察は、これくらいにしておくか……。この分では、しばらくは、目立つ動きをしない方がよいらしい――)
 しばらくはどこかに身を潜め、適当な頃合になったら、仕事を再開させればよい。急いては、事を仕損じる。
 かくして、彼は湖の方面へ歩き出した。徹底的に人を避ける選択もありだが、相手方が警戒している以上、あまり意味は無いと彼は踏んでいた。なれば、人通りに関係なく、近い道を行くまでだ。その方が、付き纏う危険は少なくて済む。
 彼は、半ば無意識の域で気配を断つことができた。余計な事に意識を傾けずに済む分、彼の全神経は、周囲の気配を読み取ることに集中していた。
 まばらに木々の生えた湖畔の一帯に差し掛かったところで、彼は気配を察知した。
(――っ!)
 振り向くと、巨大な猪のような魔物が見えた。まだ距離はあるが、鼻息荒く、低い咆哮を放つその魔物は、確実にこちらに向かってきている。
(アサルトファングか……。厄介な――!)
 突き出た鼻の左右には獰猛な牙が突き出ており、高い殺傷能力を有する。その戦闘能力は、ドラゴン族の魔物も匹敵すると言われていた。ドラゴンのように強固な鱗を持っていないこと、そして広範囲のブレス攻撃をして来ないことが救いではあったが、気性が激しく、繁殖期ともなれば、とても人の手には負えない。幼体ならばまだしも、この大きさの成体になると、少なくとも数年は実戦経験のある騎士が、3人がかりで挑むレベルだった。
 魔物は、既に彼のことを標的として捉えている。近くに注意を逸らせそうな別の生き物の気配もない。
(仕方ない。やるか……)
 片刃の剣を二刀に構えた彼は、直後、腕に引き攣るようなかすかな痛みを感じた。先日、騎士とやりあった時の傷だ。彼は戦いに勝利したが、その時の傷が、まだ完治していなかった。
 体重なら裕に彼の5倍はある巨体が、彼目掛けて突進して来る。
 若干腑に落ちない自分がいることを自覚しながら、しかし、確実に勝利を得るために、彼は『諸刃の』魔力開放を選んだ。



(――雷?)
 湖の周辺を調査していたライアの耳に雷鳴が届き、ライアは不思議そうに空を仰いだが、その目に、それらしき雲は映らなかった。
 そこで引き返せば、結果はまた変わっていたはずだ。しかし、湖の外周を4分の3まで来たところで、わざわざ逆回りをして戻る理由が、ライアには無かった。
 気付いた時には、踏み込んでいた。そこが危ない場所だと、立ち入ってはいけなかったのだと、気付けないままに。
(なっ……!?)
 訳が分からない。
 人? いや、誰がどう見ても、人と呼べる形はしている。それなのに。
(こ、いつ……っ)
 ライアが見たもの、それは、

 金 の 目 を し た、 獣 だ っ た。

 逃げろ。その命令だけで、脳はパンクしそうな程なのに、背を向けて全力で走ること以外、何も考えられないはずなのに、その感覚は容赦なく、ライアの意識に割り込んできた。
 斬られた衝撃と、追って、痛み。
 走り続けることの叶わなくなった体は、前へつんのめる。金属製の胸当ての背中側、そのすぐ下あたりを、斜めにばっさりと斬られたライアの上に、『本物の』晴天の霹靂が降りかかった。



 合流地点では、先に二人が待っていた。
「戻ってない……?」
(――おかしい。僕の方は、明らかに遠回りをして来たんだ。途中で、何かあったのか……?)
 そう思ってからの行動は素早かった。
「二人は、あっち回りで。僕は、こっちから捜していくから、向こう側で落ち合おう」
「はい」
「も〜、一体何、手間取ってんだか……」
 アルドは、湖の外周をリーティス達とは逆向きに歩き出した。
 ――まったく、手のかかる弟だとは思う。けれども、それはそれで嫌じゃない。
 もし、ライアが先の一件を契機に、大人しく戦線から離れた場所で保護されてくれるのなら、それが一番なのだが、どうも、部屋の中で大人しく待っているよりは、少々やんちゃが過ぎて、擦り傷を作って帰ってくるくらいの方が、ライアらしくて安心できる気がした。
 とは言え、ライアの立場上、本当にけがをされては堪ったものではない。アルドは複雑だった。
 ……これが、親心というものだろうか。

 しばらく歩いてみると、明らかに異様な場所に遭遇した。その近くにだけ、雷に打たれたように焼けた木が集中しており、さらに、こと切れた黒焦げの魔物の死体がそこに横たわっていた。
(アサルト、ファング……)
 ノーゼ大陸に来て初めて見た魔物だったが、名前と習性くらいの知識はある。アルドは、どこの地方に行った時でも、注意すべき魔物の情報は、最低限、頭に入れていた。
(……!!)
 辺りを見回して初めて、アルドは倒れていた人の存在に気がついた。急いで駆け寄るが、あと数歩のところで、アルドは慎重になって立ち止まった。
(罠、か……?)
 見ただけでは、見当がつかない。不審な点はいくつかあったが、今、それに構っていては、処置が間に合わなくなる可能性がある。
(よし――)
 アルドは覚悟を決めると、うつぶせに倒れた人間に近づいた。何も起こらない。それを確かめて、地面に片膝をついたアルドは、その肩に触れた。
「う――」
 気絶はしているが、息はある。アルドはさっと目を走らせ、血に濡れたマントをはがして、致命傷と見られる背中の刀傷のすぐ上、触れるか触れないかぎりぎりの高さに、手をかざした。
 目を閉じて、意識を集中する。この系統の魔法を使うのは久しぶりだ。
「ふぅ……」
 目を開けて、傷口を確認する。薄皮が張った程度だが、止血としては充分だろう。
(僕のちからじゃ、この辺りが限界かな……)
 魔法が得意な者でも、系統による向き不向きは、通常、誰にでもある。フェリーナには及ばないが、アルドも、応急処置程度の治癒魔法なら使えた。
 目覚めないライアを負ぶうと、アルドはフェリーナ達と合流する為に歩き出した。

 出発地点から、もうすぐ湖を半周するかというところで、背中のライアが気が付いた。
「アルド……?」
「気が付いたかい。歩けるようなら降ろすけど、無理はしないで」
 背中で、頷く気配。出血の程度と状況からして、おおよその見当をつけていたアルドは、そのまま何も言わずに歩き続けた。すると、予想通り、肩に乗っていた頭が、またぐったりと重くなった。
(早く、リーティス達と合流できるといいけど――)
 流石に、この状態で剣を抜いて戦うには無理がある。背に負った人間に意識が無いのでは、尚更だ。
 しかし、アルドの心配は杞憂に終わった。
「え!? ライア!?」
「どうしたんですか!?」
 ほぼ同時に二人が驚きの声を上げ、アルドは安心させるために、こう答えた。
「心配しなくていいよ。今は、眠っているだけだから」
 しかし、そこでうっかりアルドの背中側を覗き込んでしまったリーティスは、ひっ、と息を飲んだ。それもそのはず、いくら魔法で傷が塞がろうと、流れ出した血までは消えない。元は緑色をしたマントに、黒ずんだ大きな染みができていた。
「大丈夫、止血は済ませた。でも……」
 言いながら、アルドはリーティスの手を借りて、気絶しているライアを降ろした。
「一応、看てやってくれるかな、フェリーナ」
「はい、任せてください」
 フェリーナの診察では、失血以外は、特に心配は無い、という事だった。
「脇の方は、だいぶ深かったみたいです。でも、幸い、背骨の神経には達していなかったみたいで、安心しました。本当に、よかったです」
「まったく、何やってんだか……」
 ほっとした反動からか、リーティスが、寝ている人間に対して、嫌味混じりに呟いた。

―― a few minutes before ――

「はぁ、はぁっ……!」
 片手で胸の辺りを鷲づかみにし、荒い息をつきながら、彼は、前のめりになっていた姿勢をのろのろと正した。
 別に、一時的に記憶が飛んでいたからといって、不思議はない。ただ、
「……!?」
 近くに血を流して倒れていた人間が、彼を驚愕させた。死体ならば、別に驚きはしなかっただろう。彼の驚きは、その少年が、まだ息をしていたからに他ならない。
 自分が『あの』状態から戻った時、息をする者がそこにいる事自体、おかしい。
 無事、とは言い難い状態だったが、周囲の状況からして、この少年は少なくとも一撃は、自分の雷を喰らっている。それなのに、まだしぶとく息をしている。魔法に対してよほどの耐性が無ければ、人間で、あれは耐えられない。  彼の使う雷は、『不完全』だ。雷の力に目覚めたきっかけが無理矢理であった所為もあるだろうが、生まれ持った属性に即して魔法を発現するのではなく、魔力そのものの性質――彼の場合魔族であるから、『闇』の属性――を残した、不完全な雷を使う。だが皮肉にも、魔族の戦士として生きるには、逆にその不完全さこそがアドバンテージとなった。魔族が持つ魔力そのものは、魔族には効果を与えにくいが、人間にはその威力を増大する。故に、彼の操る雷をまともに受けて立っていられる人間は、ほとんど存在しなかった。
 まだ、片手には剣を握っていた。倒れた少年の首筋に切先を向け、彼はふと思った。
(……いや、この傷では、助かるまい)
 剣の血を払い、流れるような動作で鞘に納める。去り際に、僅かに口元に笑みが浮いたのは、予想外の出来事に出くわして、それが『愉しい』と感じたからだろうか。
 自分は、この人間が例外になる事を望んでいる?
 どうでもいい。
 きっと、この人間だって例外にはならない。



「これで、二度目か……」
 難しい顔をしてため息を吐いたアルドに、ライアは間の抜けた声を返した。
「へ? 『二度目』……?」
 フェリーナが心配したような痺れもなく、ただの貧血の症状だけで、今は普通に話もできる。
「だってライア、橋が流された時のこと、覚えていないのかい?」
 その時ライアが遭遇したのが、『黒の疾風』だとされている。そして、今回かち合った相手も、同一人物であった可能性が強いという。しかし、ライアは即答した。
「――違う。あん時の奴じゃない」
 一度目は、恐怖のため、体のみならず思考まで硬直してしまい、二度目は、相手の姿もろくに確認せずに、背を向けて逃げることだけで精一杯だった。それでも、両者の間にある、何か決定的な違いを、ライアは本能的に感じ取っていた。
(容姿とか、細かいとこは、はっきり言ってそこまで覚えてない。でも……!)
 最初に会った相手は、どんなに威圧的な空気をまとっていようと、ライアにもちゃんと人として知覚できた。しかし、今回出くわした相手に関しては、未だに、人であったとは到底信じられなかった。そして、それを抜きにしても、自分の中で引っ掛っている何かをライアは感じていた。
(……眼? あの化け物の目、金色してた。前の奴は――どうだったっけ? やっぱ、細かいとこは覚えてねーや……つったって、仕方ないよなぁ!? あの時だって、もうちょっとで俺、殺されるとこだったかもしんないんだし……)
 こうして、2度も命の危機に直面しながら無事でいること。これはもう、王家の加護なんたらではなく、よほどの悪運の持ち主であるとしか言いようがない。その事実を受け、アルドは今回の調査依頼をこう振り返った。
(はぁ……と言っても、流石に3度目はないだろうな――。今回のことは、僕の危機管理が甘かったせいだ。やっぱり、この辺で遠ざけるべきなんだ。少しは、元気出たみたいだしね?)
 ところが、実のところ、ライアの精神状態に大きな変化はなかった。周りに心配をかけていられないと意識するようになった、ただそれだけのことだ。こういう変なところに限って、父譲りのポーカーフェイスを発揮してくれるのは、ある意味困り者だ。付き合いの長いアルドですら、ライアが立ち直りかけていると勘違いしたのだから、相当だろう。
 ……いや、ここに一人、勘付いている者はいる。彼女自身、普段素直に感情を表に出さないせいだろうか。似たように、本心を隠す者に対しては敏感だった。しかし、残念ながら、気付いてはいても、他の二人の仲間のように、気遣いができるような器用さを、彼女は持ち合わせていないのだった。

 魔族と人間が混在するこの大陸で、彼らは少しずつ、だが着実に、黒の疾風という、人々の恐怖の対象との距離を縮めつつあった。


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