『ようこそ! 当劇場へ!』







MEMORIAL STAGEU das Marchen theater 〜架空時空〜



 今宵も、西に三日月が登る時刻が参りました。
 夢と現の狭間に浮かぶこの劇場、誰が何のために作ったか、それを知る人はおりませぬ。

 お集まりの皆々様、ご機嫌麗しゅう。ボクはこの劇場の案内人、花恩でございます。

 今宵の公演は、悲劇か、喜劇か。
 繰り広げられるは、不遇のヒロインの胸を焦がすロマンスか、はたまた勇敢な少年の胸躍る大海原の冒険譚か。
 それは、幕が開いてのお楽しみ。

 さぁさぁ、これより始まる舞台から、どなた様もお目を離されませぬよう。
 ――今宵演じる役者はだあれ?



「……ここは――……」
 うつ伏せに倒れていた赤い髪の少年が、目を覚まし身を起こす。
 何があったか思い出そうとするが、まるで睡眠不足の朝のように、頭は重く思考が覚束ない。
(何を、してたんだっけ)
 全く覚えのない場所にいる。判るのは、建物の中で、差し迫った危険が無いこと。それだけと言えば、それだけ。
「ぅうー……」
 頭を押さえて呻きつつ、傍でポニーテールの少女が上体を起こした。エメラルドの瞳を見開く。
「ここ、どこ?」
 やはり、彼女も心当たりゼロらしい。
 そこには、少年達を含めて8人の人間が倒れていた。皆、目覚めたばかりで怪訝そうに周りを見ている。
 床は板張で、冷たくはない。独特の室内の匂いがする。
 暖色を帯びる灯りが照らすその場所は、舞台だった。

 短時間で把握できたのは、そこが劇場だという事。舞台上の彼らから見て正面の段上の客席は空席だった。ごく薄暗い足元確認用の灯りに浮かび上がる空席はしかし、不思議と無機質な印象ではなく、さっきまで人がいたかのような温もりを感じさせた。
「どこなんだ――ここは」
 誰もが思っている事をもう一度口にしたのは、目つきの鋭い黒髪の剣士。赤髪の少年が頭の後ろをかきながら返す。
「知らねぇよ……」
 女優顔負けのすらりとした長身美人が、警戒を篭めて呟く。
「これは――幻術?」
 スカートを広げて床にぺたんと座ったままの可憐な乙女が首を横に振った。
「判りません……」
 先ほどの美人と同じ、ストレートの銀髪を持つ若者が、困ったように言う。
「僕達、どうやってここまで来たんだっけ? 思い出せないんだけど……」
「私もよ。だから、何らかの魔法かと疑ったの」
 黒髪の剣士が、警戒を解かずに落ち着いて問う。
「ひとまず、体に変調をきたしてる者は無いか」
 空色の瞳の美丈夫が仲間の様子を確認し、やはり緊張した声で返した。
「うん……――大丈夫みたいだね」
 瞬間、スポットライトが点灯する。それは客席の中央、宙に浮いたブランコに座る小柄な影を映し出した。

 咄嗟にスポットライトに反応した赤髪の少年は、ふと仲間の様子を振り返り、うわぁ千差万別、と思った。
 ビゼスは問答無用で即、臨戦態勢(構えからして抜き付けで鉄も切断OK)。かと思えばフェリーナは座ったままのほほんとしていたり、チョー暇〜、と半眼でしゃがんでる悪ガキがいたかと思えば、その姉はなぜか爪のお手入れ中、上の弟はブランコの人を気遣って不躾な身内とスポットライトの間で視線を彷徨わせている。
(ぁ……よかった、アルドとリーティスの反応はふつーだ……。俺、間違った反応してないよな?)
 この場にいると、自分が案外世間の常識からは外れていないものだと実感する。
 そう、世の中は思った以上に変人一杯。
(俺の周りだけか??)
 とりあえず、まともな内の一人、リーティスが低く訊ねた。
「誰……?」
 妖精じみた赤い三角帽を被ったブランコの上の人は、十を越えたくらいにしか見えない。もしくは、体が大きくならなかった成人だろうか。
 ブランコに乗ったまま片手を放し、小さくお辞儀した。
「ボクはかのん――花恩って言うんだ」
 ふっくりとした頬の丸顔に、切りそろえた薄い金の前髪がかかっている。青灰の瞳はまるで硝子造りのようで、ブランコにつかまる腕と、木靴を履いた脚は小枝のように細かった。
「ここから出せ」
 子供のような相手に威圧的に言い放ったのは、ビゼス。試した訳ではないが、容易には出られないと彼は直感で悟っていた。
 花恩がブランコを漕ぎ出した。
「うん。助言ならしてあげられると思う。ただ、ボクもここがどこだか、いつからこの劇場があるのか、誰が動かしてるのか……知らないんだ。ほんとだよ」
 白々しい、とビゼスが吐き捨てた横で、フェリーナが立ち上がって懇願する。
「でしたら、お願いです。教えてください。私達が帰るにはどうしたらいいんですか?」
 にこりと笑って、花恩は歌うように紡いだ。
「哀しい話 愉しい話 今日の公演 どんな劇? ――童話、絵本、おとぎ話……誰だって、一つくらいは知ってるよね? お芝居をして、気に入られればいいんだ。どこかで視ている、劇場の『支配人』にね――」
「どういう事……?」
 ウィリアが険しい顔で言った。花恩が掌を上に向ける。
「お姉さん。言ったでしょう、ボクも誰がこうしてこの場を取り仕切っているか、知らないって。でも、ボクは見てるんだ。公演をやりきってここから出られた人を、何人も」
 ライア達は顔を見合わせた。やはり、どのような魔法でこの空間が成り立っているのか、ウィリアでも見抜けなかった。
「やるしかないようね……」
 花恩が、嬉しそうににっこり笑う。
「うん。いい答えだね」

 最初の挑戦者はアルド。未知だらけのこの空間で、リーダーとして先陣を切った形だ。
 ブランコの上の花恩が問う。
「演目は?」
「赤ずきん」
「ちょい待ってー」
 挙手したのはウィル。
「この勝負〜、何人まで参加できんの?」
 花恩が呆れる。
「『勝負』じゃないよ? それで、一回の参加人数に制限はない。良いかな?」
 それを聞いたウィルは、自らも最初の挑戦者に名乗りを挙げた。



 瞬時に視界が替わる。
「!?」
 気付くとライア達は客席に並んで座っていた。アルドとウィルの姿は無い。見上げると、客席の中央に下がっていた舞台装置のブランコは天上に引っ込み、無人だった。
 正面の舞台に下りた巨大なスクリーンに光が広がり、物語のプロローグが流れた。

 一方、スクリーンに映し出された側の世界。
「…………」
 まず見えたのは、自分の肘から先。ごわごわした白い麻布の袖だった。ダサい舞台衣装のセンスに多大な文句があったが、銀髪の赤ずきんは冷静に状況を確かめた。
 そこは既に舞台ではなく、本物の世界が目の前に広がっていた。
(ふぅん……ここで芝居やれっての?)
 四角い布のかかった籐のバスケットを腕に掛けると、頭巾の内で、愛らしいはずの主役があるまじき凶悪な笑みを浮かべた。
(……ま、好きなようにやったるケド――?)
 ――狼さん、逃げて。

 足取り軽く、悪ずきん(あくずきん)は、おばあさんの家に辿り着きました。
「ばあちゃーん? 生きてるー?」
 ……。ええ、口は悪いけど、優しい子なんです、本当、信じて。
「赤ずきんかい?」
 声がしたベッドには、おばあさんの服を着て、おばあさんのキャップを被り、おばあさんの老眼鏡を掛けた半魚人が寝ていました。どうみても半魚人です。なんだか皮膚が美しいマリンカラーの鱗に覆われて、ぬめっとしていました。ぬめっと。
 ウィルずきんが言います。
「んー、おかーさんに頼まれてケーキとぶどう酒持ってきたんだけどぉー、ひょっとしてそのお腹、メタボ?」
 確かに、毛布の下のお腹はぷっくり膨れていました。人ひとり分くらい。
「ん? んんー、そうかもねぇ。ばあちゃんも歳だからねぇ――ああ、でも心配いらないよぉ。まだ充分にお腹は空いてるからね」
「そ? でも、メタボでケーキはだめっしょ? 代わりに食べちゃうかんね」
(だァあ! ケーキなどイランわ! 早く喰ワセロ……思ったヨリやせっぽちなのが難だガ……この腹ん中のババアよりは若くテ美味に違いナイ……クケケッ)
 おばあさんを覗き込んで、ウィルずきんが言います。
「なんか青くない? カゼ?」
 というか、自分の祖母に鱗ついてる時点でおかしいと思いませんか、ウィルや。
「うう……そうなんだよ、寒くてねぇ――後生だから、この布団は退けないでおくれ」
「……。いーけどー……」
 そう言って、片手に持つはぶどう酒の瓶。
「なら、コレ飲んで体あっためなよばあちゃん」
「どべぁ!?」
 ウィルずきん、豪快に瓶を逆さにし半魚人の口へ。
「(うー! むぅー! 息が……がぼっ)」
 何か、お腹の中から声がした気が。ダメ、やめたげて。本物のおばあちゃん溺れちゃう。
「げほっ、げはっ……」
(こっ――この糞ガキャぁあ!! もぉ食っタるわ!!)
「あ〜かぁず〜き〜んん〜」
「!」
 大きくばっくりと口を開いたマリンカラーのおばあさんに、小柄な赤ずきんはあっという間にひと呑みにされてしまいました。
「ふゥー。生意気な赤ずきんも、これデ黙らせてやっタ! ギャハハッ、……ハッ?」
 小屋の外に、人の気配がします。半魚人はいそいそと、おばあさんのベッドに潜り込みました。傍から見ると、メタボ度大増量中。
 萌黄色の帽子を被り、弓を携えた美しい若者が外に立っていました。
「おや、今、人の声がしなかったろうか。……ここは、お体の悪いご老人の家だったな。どれ、お変わりないか訪ねてみよう」
 戸を叩き、若い猟師は張りのある声で呼びかけます。
「おばあさん、こんにちは」
「誰かい? ……すまんが静かに寝かせてくれんかね……ムニャ……」
 どうやら、空腹が満たされたのとぶどう酒のせいで、本当に眠くなってしまった様子です。
「ああすみません。もしや、お加減を悪くされていたらと思ったもので――」
「ああ、心配、要らないよ…………ぐぅ。」
 どうやら、本格的に眠ってしまったようです。
(よかった、杞憂だったか……。狩りに戻ろう)
 踵を返した猟師ですが、ふと、大きな鼾に足を止めました。
(どうしたのだろう。やはり、どこかお加減が悪いのでは……?)
 あまりに大きな鼾なので、心配になります。そこで、老人を起こさないよう、そっと家に入ってみる事にしました。
 だらしなく涎を垂らし、ベッドで鼾をかいていたのは――半魚人でした。
「なんてメタボな半魚人なんだ……」
 呟きつつ、足音を立てないよう、慎重にベッドに近付いた猟師は、落ちていた赤い頭巾を拾い上げました。
「これは――」
 哀れな赤ずきんが呑まれるとき、その頭から落ちたものでした。
 猟師は、鼾をたてて眠る半魚人を睨みます。この家のおばあさんには元気な孫がいて、いつも赤い頭巾を被っていたのを、猟師はきちんと覚えていました。
(さてはこいつめ、赤ずきんを食べたな? もしかすると、ご老人も食べられてしまったのかも知れない――)
 そこで猟師は弓を床に置き、腰の剣を抜きました。そっと毛布をめくり上げると、でっぷりと膨らんで呼吸と共に上下する腹が現れます。何だか、てらっと光っています。
 もし、猟師が無知で剣を無闇に突き立てていれば、毒液が噴出して、あっけなく彼は死んでしまったでしょう。しかし、猟師は知っていました。この半魚人の血には毒がある事を。
 剣を片手に、猟師はじっと上下する腹を見据えていました。そして、
「そこだッ!」
 一閃。まるでスタン○ッジの掛け声ですね。
 次の瞬間、血の一滴も垂らさずに、半魚人の腹がぱっくり割れました。
 多分、痛みも無いのでしょう。半魚人は気付かず眠ったままです。
「故あって王宮を追放され、今は猟師をしているが、御前での武闘大会で連覇を果たして消えた伝説の剣豪――それが僕だ」
 そんな設定だったんですか。
「う〜、ナニこの液ベッタベタ。気っ持ち悪るぅ……」
 半魚人の腹から飛び出したのは、ウィルずきん、そして――
「うっ、ぅう……」
 気を失った長い髪の娘でした。
「どなたー?」
「どなたって君、今まで一緒に入っていたんじゃ……ってそれより! 大丈夫ですか?」
 狩人に介抱され、娘は目を開けた。
「ありがとうございます、狩人さん……それに、悪ずきん」
「エー、何、その呼び名であってんの? いーケド」
「私は、悪ずきん、あなたの姉です。荒野の魔女に強力な呪いをかけられ、あなたが物心付く前から、老婆として隠れて生きてきたのです」
 それ、どこの動く城。
「実の妹にぶどう酒をぶっかけられなくては解けない呪いだったのです――もう一度言うわ、ありがとう」
 狩人が半眼でずきんに問います。
「――何、君そんな事したの」
「んー知んないけど成り行きで? てかさ、この半魚人ほっといていの?」
「いや、非常にまずいね、ウィルずきん。お腹に何か重しになる物を詰めて、懲らしめよう。――行けるかい」
「んー、じゃ遠慮なくー」
 悪ずきんが両手を突き出すと、巨大な氷塊が生成しました。そしておばあさんに変えられていたお姉さんの裁縫道具で、赤ずきんが器用にちくちくお腹を縫い直すと、彼らはそっと家を後にしました。
 赤ずきんのお姉さんが言います。
「ありがとうございました、勇敢な狩人さん……私、あなたが好きになってしまいました。結婚してください……っ」
「え? は、はぁ――……」
 唐突な展開に言葉を失う若者ですが、どうやらハッピーエンドのようですね。
 赤ずきん達を食べようとした悪い半魚人は、咽が渇いて重たいお腹を抱え川へ行き、水を飲もうとして溺れてしまいましたとさ。めでたし、めでたし。

 そこで劇場ではスクリーンの手前に緞帳が下りた。
「あ、ぁあ……」
 ライアが、隣で拳を震わすフェリーナに気付き引きつった声を出す。
(フェリーナが恐い、恐いよぉっ……)
 ガタブル。逆隣のリーティスまでもが恐慌状態に陥っている。残る3人は。
「「「 ………… 」」」
 流石年長のウィリアは動じない。ビゼスも動じない。ウィーロスは気付いていない。
 そこで再び幕が開いた。
 もとの服を着たアルドとウィルが、自分達の居場所を確かめるように辺りを見渡した。
「舞台――戻って来たのか……」
 アルドの呟きと同時、ライア達の頭上で拍手が聞こえた。スポットライトが客席の中央に浮いたブランコを照らす。
「ブラボー! 二人は支配人に合格をもらったみたいだよ。舞台の袖に、出口が見えるでしょう?」
 ウィルとアルドが、ライア達から見て左の舞台下手を見る。うっすらと光差す出口に、ウィルとアルドは白抜きでEXITと示された緑のサインと、外の景色を見て取る事ができた。
 ビゼスの動きを察した花恩は、先行して、あくまで前を見たまま軽やかに歌った。
「客席の皆さんは、どう頑張ってもあっち側には行けないよ。ごめんね。ボクにはどうにもできないんだ。さぁ、お二人さん。素晴らしい劇をありがとう! さようなら!」
 そしてスポットライトは消え、花恩のブランコは上に巻き上げられる。
「…………」
 花恩の退場の様子を目で追って、アルドは意を決して述べた。
「先に行っているよ」
 頷き、代表してライアが返す。
「ああ、すぐ行く。待っててくれ」

 ウィルとアルドの退場と同時、ライア達は舞台に立っていた。
「またか……」
 ビゼスが苛立たしげに呟く。彼にとって、訳の解らない術に翻弄されるのは不快以外の何物でもない。
 舞台袖は上手も下手も生温かい闇に包まれており、フェリーナがこわごわと呟く。
「やっぱり、出口はありませんね……」
「客席の後ろの扉……あれも、やっぱ開かないんだろうな? よっと!」
 ライアが舞台からひらりと飛び降りた瞬間、
「うぇあ!?」
「ぎゃーっ!?」
 一同が振り返ると、ライアとリーティスがもつれ合って転んでいた。
「いったあ……どーして後ろから降ってくんの!? 信じらんない! 非常識ッ!!」
「お……俺だってわかんねーよ!? だっ、殴るなっ」
 ふう、と息を吐いてウィリア。
「どうやら、舞台と客席は別の空間みたいね」
「という事は、だ――」
 呟きながら、ビゼスが下手の闇に歩き出す。
「あっ……!」
 リーティスが止める間もなく、ビゼスは闇に吸い込まれ、
「こういう事か。」
 上手の闇から戻って来た。それを、とても複雑な顔でリーティスが見る。
「じゃあ……さっきライアが降ってきたのも、そことそこがループしてるって事?」
「恐らくな」



 ――第二幕。ウィリアが指定したそれは、エストでは聞かない奇妙なおとぎ話で、参加を表明したのは、ウィーロス、ウィリア、ビゼス。



 ウィーロスは、お姉さんと昼下がりの木陰で本を読んでいました。
 逆光で顔がよく見えませんが、お姉さんは、弟のウィーロスに微笑みかけます。
 ウィーロスは、しばらくは大人しく本と向かい合っていたのですが、挿絵もなく文字ばかりの本は、ウィーロスには酷く退屈です。
 ぼんやりし始めたウィーロスの視界に、白いものが過ぎりました。
「……え?」
 見ると、着込んだチョッキの下に丸い尻尾を持つ白い動物が、一目散に駆けていくではありませんか。
 ウィーロスはお姉さんの様子を伺いましたが、読書に集中して、顔を上げる気配はありません。無断で行くのは悪いな、と思いながらも、好奇心に負けたウィーロスは、少しの間だけ、と言い聞かせて動物の後を追いました。ウィーロスは、姉想いのとても良い子だったのです。さっきの悪ずきんとは大違いですね。本当に彼らは血を分けた兄弟なんでしょうか?
 動物を追って穴に落ちたウィーロスは、摩訶不思議な世界に迷い込んでしまいました。
 そこでは、体が大きくなったり縮んだり、あまりに奇妙な出来事ばかり続くものですから、ウィーロスは覚えている詩を暗唱してみようとしました。けれども、口をついて出てくるのは、奇妙な節ばかりなのです。自分はおかしくなってしまったんだ、と、ウィーロスは悲しくなりました。
 不思議の国には、ハートの女王が住んでいました。
 ウィーロスが奇妙奇天烈な不思議の国の住人に翻弄されている頃、女王のお城の庭師たちは、輪になって頭を抱えていました。
「困った……」
「うーむ、困った……」
 彼らは、揃いのサーコートのような物を纏っていました。サーコートとは、騎士達が鎧の上から着る袖のないあれですね。庭師たちの纏うそれは白色で、黒いスペード模様の数だけが、それぞれ2つ、5つ、7つと違っていました。2と5の庭師は特にこれと言って特徴のない顔をしていますが、さっきから黙っている7だけは妙に鋭い気配を放っています。その手に持った鋏は、ひょっとして武器ですか?
 彼らが困っている理由は、目の前の薔薇の木にありました。ハートの女王は赤い薔薇を植えよと命じましたが、咲いたのは何と白い薔薇だったのです。
(女王に見つかる前に、何とかしなくては――……)
 そう庭師達は考えましたが、運の悪い事に、ハートの女王が、キングとジャック、以下家来を伴ってそこに訪れてしまったのです。
「これはどういう事じゃ!」
 女王は、カンカンになって怒鳴りました。
「こいつらの首を刎ねよ!!」
 震え上がる庭師達を、兵士達が取り押さえます。――が。
「お主、このわらわに逆らうつもりか!」
 スペードの7が、剪定鋏で兵士を返り討ちにしました。とても涼しい表情をしています。手に持つ鋏は、やっぱりどう見ても剪定鋏です。それでも、その鋏捌きは見事なものでした。
「えぇい、かかれ! こやつの首を刎ねい!!」
 女王の命令でダイヤとクラブの兵士が槍を点き込みますが、やはり7を捉えられません。女王はますます怒って、ついに全ての兵士を突撃させました。
(く……数が多すぎる……!)
 7の腕から、電撃が走りました。間近にいたトランプの兵は服が焼け焦げ、あっけなく倒れます。
 さっきまで茶色かった7の瞳は、金色をしていました。

「な――!?」
 客席のライアは、思わず腰を浮かせた。画面一杯に広がった黒い嵐がスペードの7を包み込み、捕えてしまった。深い眠りに落とされた彼は、ぴくりとも動かず、城の最深部にある暗い地下室に封じられてしまった。
「――危険とみなされたのでしょうね」
 上から花恩の声が降って来た。スポットは点いていない。見ると、スクリーンの光の反射を受け、花恩が今までにない硬い表情でスクリーンを見入っていた。ビゼスの暴走を目にした花恩は、スクリーンに釘付けになったまま言う。
「なんですか、あの力は。というか、あれでは物語の世界を壊しかねない。そう判断した支配人が介入して、あの黒い嵐を起こしたのだと思います」
「そんな……!」
 フェリーナが口元を押さえて叫んだ。

 不思議の国のウィーロスは、姿の消える猫に導かれて、三月兎のお茶会に辿りつきました。そしてそこには、いかれ帽子屋と山鼠も招かれていたのです。
(おかしな人は、もう沢山だよ……)
 ウィーロスはそう思っていたので、帽子屋ではなく三月兎を訪ねたのですが、人生そう上手くは行かないものです。出会ってしまったのです。帽子屋という群を抜いた奇人変人に。
 帽子屋は、子豚も隠せそうなアンバランスに大きな青の帽子に、黒と黄色のチェッカー柄のチョッキを着込み、艶やかな青のビロードの背広という左右非対象の珍妙な服を完璧に着こなして、足を組んで優雅にお茶を嗜んでいます。
(ああぁぁ……)
 帽子屋の顔を見たウィーロスは、更に疲れた気分になりました。これからの受難を予想して。
「さぁワインをどうぞ」
 そう言って三月兎が差し出すカップには、何も入っていません。
(空じゃないか……)
 カップからカップへ、高い所からお茶を移して弄びながら帽子屋が言います。
「おやまあ、君は招かれもしないのにそこに座っているのかね?」
「いや、まぁそうですけど……こんなに大きなテーブルで、3人だけのお茶会ですか?」
 3人、とは言ってみたものの、ウィーロスには自信はありませんでした。だって、山鼠は始終寝こけているんですもの。
 質問には答えず、唐突に、高らかに帽子屋は言います。
「君は髪を切るべきだ」
 ぎょっとして、頭を庇うように押さえて声を裏返らせるウィーロス。
「いえお構いなく僕には散髪とかすごく得意な器用な弟がいますんでっっ」
 きっと、ウィーロスはこの帽子屋に髪を切られた事があるんでしょうね。小さい頃とかに。
「あぁらそう……」
 つまらなさそうに言って引っ込む帽子屋。それから、訳の解らない謎かけだとか、壊れた時計にバターを塗り込んで直らないだの嘆いたりだとか、散々意味不明の乱痴気騒ぎを繰り広げ、すっかり嫌になってしまったウィーロスは、お茶会を後にしました。
 一度だけ振り返ってみると、二人は山鼠をお茶のポットに押し込めようと悪戦苦闘しています。
(もう、何がしたいのかさっぱりだ……)
 ウィーロスは思いました。

「――あら、終わり?」
 ウィーロスが不思議の国での冒険を終え、お姉さんの横で目を覚ました所で、ウィリアも劇場の舞台に戻った。
「あれ……兄さん?」
 ウィーロスがビゼスの不在に気付くが、ライア達が何か言う前に、ブランコの上でスポットに照らされた花恩が明るく声を張った。
「登場した場面が違ったから、時間差があるんだ。お二人は合格。素晴らしいファンタジーをありがとう! さようなら!」

 ウィリア達が退場し、ライアが静かに目を開くと、やはり舞台の上だった。
「……ビゼスはどうなったんだ」
 静かに、だが圧力を込めて訊ねる。
 神妙な顔で、キィ、と小さくブランコを漕ぐ花恩。
「……。こうなったのは、ボクが来てから初めての事だ。でも、これだけは言える。さっきの二人に本当の事を伝えて舞台に残らせたところで、何も解決しない。あの物語の世界に介入できるのは、ここに残っている皆さんだけなんだ。―― 一度公演を終えた者はあの世界には戻れない。あのお姉さん達も……ボクも。」
「じゃあ、もとは外から……?」
 リーティスの質問に、花恩は酷く沈んだ顔をしたが、やがて、暗い顔のまま、思い出したように小さく笑った。
「……うん。演じたのは『家なき子』。大好きなお母さんとも引き離されて、旅の途中でとっても辛い目に合うんだけれど、最後まで挫けずに正直な男の子でいたレミは、最後に、本当の家族に会えるんだ」
 そう言った花恩の頬には、ほんの僅かにだが紅が差した。
「演じ終わって舞台袖に出口が見えた時、ボクは嫌になったよ。帰ったって、痛いだけなんだ。怒鳴られるし、寝る床も、井戸の水も、すごく冷たいんだ。帰りたくない……そう思って、誰も居ない客席に叫んだんだ。ボクをこのまま居させて!お願い、帰さないで!!って! それから、ずっとボクはここに居る……」
 ライア達は黙ってしまった。しかし、やらなければいけない事がある。フェリーナが顔を上げた。
「わかりました――次は、私がやります……! 演目は『白雪姫』。」
 瞳に案内者としての光が戻った花恩が頷き返す。スポットライトが消え、ブランコは上に巻き取られて行った。

 客席には、ライアとリーティスの二人だけ。二人はじっと、スクリーンに光が灯るのを待った。
「『白雪姫』……、大丈夫なのか……?」
 ライアが呟く。リーティスも不安を拭えない。
「ぅん……」
 二人は話を知っている。毒林檎をかじった姫君は、林檎の欠片が取れるまで、昏々と眠り続けるのだ。
 スクリーンに白い光が溢れた。温かい湯気の立つ調理場で、フェリーナが小鳥の囀りのように澄んだ声を紡ぐ。
『ここは不思議の国の森の小国。南へ行くと、ハートの女王のお城があるわ』
「そっか、もしかして……!」
「フェリーナ……!」
 二人にも、フェリーナのしようとしている事が判った。彼女は、ビゼスの囚われた世界と、今いる世界に『繋がり』を作ろうとしているのだ。エプロン姿のフェリーナは、鍋の前でくるくると踊る。
『だけど、そんな事はどうでもいいの。私の気がかりは、あの白雪姫だけ。ああどうすれば、私は世界一の美女に戻れるの……。ああ、二番じゃだめ、一番よ。そうね、それにはあの白雪姫を――』
「「 ………… 」」
 スクリーンの光の反射を受けながら二人は絶句した。鍋の中身は蝙蝠の羽と何かの手首から先とぎょろりと愛嬌のある目玉が煮られていた。フェリーナお手製、異界のごった煮。

 輝く汗をふぅ、と拭うと、お妃さまはそれはそれは愛らしい笑顔で至極物騒な台詞を吐きました。
「さぁ、この毒を林檎に塗って、白雪姫のいる森へ行きましょう!」
 訪ねて来たのが変装したお妃さまとは気付かずに、純粋無垢な白雪姫は、毒林檎を口にして倒れてしまいました。してやったとばかりに、お妃さまは、うきうきと森の道を帰ります。
 変装のフードが取れそうに軽い足取りで、踊りながらお妃さまは言いました。
「やったわ! これで世界で一番美しいのはこのわたくし! 誰もが白雪姫を、死んでしまったと思うでしょうね! そのまま埋葬してしまえば良いのだわ」
 あまりに嬉しかったので、お妃さまはうっかり秘密を口走ります。だっていいじゃない、誰も聞いてないんだから。
「毒の林檎を吐き出せば、生き返るかもしれないけれど……あら、そこにあるのはハシバミね。金に光る枝なんて、まあどうして不吉な暗示なの!」
 そこにはへーゼルナッツの木――セイヨウハシバミがありました。お后さまの台詞に合わせて、一本だけ、光る枝が出現します。
「黄金の枝、ハシバミの枝……魔を払う強い力があるわ。千年の眠りに落ちた者でも、枝に触れれば忽ち目を覚ましてしまう……でも大丈夫。白雪姫と暮らす小人達は、そんな事は知らないですもの」
 そうです、知りやしないのです。知っているのは、客席に座る二人だけ。
 物語は進み、白雪姫はめでたく王子と結ばれ、悪いお妃は処刑されてしまいます。けれども、王妃さまは隠れて微笑みました。他でもない、後を託す二人に向けて――

 物語の上では処刑されてしまったフェリーナも、無事、劇を終えると無傷で舞台に現れ、元の世界へ続く扉を潜った。
 そしていよいよ、ライアかリーティスの行く番だった。先に行く者が成功すれば、後の者の負担を軽くできるが、もし万が一、ビゼスと同じようになってしまえば、後の者の足を引っ張る事になる。
 ライアは、花恩に体の正面を向けたまま、左を見て斜め下に腕を伸ばした。
 左にいたリーティスが、右手でその手を握る。
 二人の決意を見て取ると、花恩は訊ねた。
「――題目は?」
 ライアが毅然と答える。
「『新訳・ヘンゼルとグレーテル』」



 ここは、不思議の国の森の奥。4人の親子が暮らしていました。
 ある時、生活が苦しくなったお父さんとお母さんは、子供達を森に捨ててしまう算段をします。森に置いて行かれた子供達。初めの晩は、知恵を使って光る小石を頼りに家に帰り着くことができました。
 ところが、それを知ったお母さんは、今度は小石を拾えないよう、夜に兄妹の部屋に鍵をかけてしまったのです。
 再び森に置き去りにされたヘンゼルとグレーテル。今度こそ、帰る道が判りません。
「――泣くなよグレーテル。きっと、帰れるから」
「違うわ……居眠りをして、うっかり部屋に鍵なんか掛けられた間抜けな兄さんが不甲斐なくて、涙が……」
「……。」
 まだ幾分元気そうですが、夜の森に子供が二人きりです。渡された小さなパンの欠片は平らげてしまったし、すっかり夜は更けていました。
「ともかく、歩こう。どうにかして家に帰るんだ」
 二人が歩いて行くと、どこまでも同じような森が続きます。これじゃあ、帰る道なんて判りっこありません。
「ねぇ兄さん、あの木は何と言うの?」
 グレーテルの質問に、兄は周りを見回しますが、ふと意図に気付いて返しました。
「ハシバミだよ、グレーテル。あそこの枝が光ってる。灯り代わりに折って行こう」
「……危険だわ、兄さん」
「大丈夫。待っていてグレーテル」
 ヘンゼルは、金に輝く枝に手を伸ばしました。枝を折ると光は弱まりましたが、ほのかに夜道を照らします。明かりを頼りに、二人はまた歩きます。
「ねえ、俺達は、どっちに歩いて来たのかな」
「きっと南よ。だって樹木の苔が、みんなこっちを向いているんですもの」
 そのうち、二人の前に大きなお城が現れました。むかぁしむかし、ハートの女王が住んでたお城です。でも今は、住む人もなく、まるでお化け屋敷のようでした。
 ごくりと唾を飲み込んで、枝を持ったヘンゼルは妹の前に立ちました。
「……行こう。屋根があるだけ、休める場所があるかも知れない」
 お城へ入ると、奇跡のように、明かりのついた部屋が見つかりました。
 覗いてみると、大きなテーブルの上には二人の大好きなお菓子が並んでいたのです。
 二人は歩き疲れてお腹がぺこぺこでした。枝を懐にしまったヘンゼルも、誰のご馳走かしらと最初は気にしたグレーテルも、そのうち夢中で食べ始めました。
 ところが、お城の廃墟の住人は、子供を捕えて食べてしまう、恐ろしい魔女だったのです。
 お腹が一杯になった兄妹は、そのまま暖炉の前で眠ってしまいました。
 朝になり、ヘンゼルは檻の中で目を覚ましました。檻の外に、魔女と、悲しそうな顔のグレーテルが立っています。
「けぇっけっけ……可愛い子達だねぇ。だけどちょっぴりやせっぽちだから、まず、太らしてやんないとねぇ。ほら、お前はぼさっとしてないで、あたしを手伝うんだよ、グレーテル」
 悲しそうな目で兄を見ながら、魔女に手をつかまれてグレーテルは連れて行かれてしまいます。ただの子供では、魔女の前にはあまりに無力でした。
 それから毎日、グレーテルは魔女にこき使われました。ヘンゼルは、丸々と太るように三食ご馳走を与えられます。
 ある日、牢にご馳走を運んできたグレーテルは、酷く落ち込んでいました。
「今日は、私が魔女のご飯を調理してやったの……。でも、魔女は高齢で味覚音痴で、味がよく判らなかったみたい……」
「そっか――強敵だな。」
 心から同調するヘンゼル。グレーテルは、決意に瞳を燃やして言いました。
「ねぇ兄さん、これ以上太らないように、明日は私が料理を作ってくる!」
「やめっ……死ぬ! 俺が死ぬから!!」
 目の悪い魔女は、ヘンゼルの太り具合を確かめるのに、いつも指を差し出しなと言います。そんな時、ヘンゼルは決まってハシバミの枝を差し出すのです。今のところ、それが枝だとばれてはいません。
 一方、魔女にいいように使われているグレーテルですが、頭の良い子でしたから、お城に何か逃げ出す手がかりが無いか、こっそりと探っていました。……そしてある日、見つけたのです。地下深くに続く階段の先、暗くて気味の悪い石造りの部屋に、凶暴な怪物が封じられているのを。
 グレーテルはすぐに、その事を兄に知らせました。
「これを持ってお行き、グレーテル」
 ハシバミの枝を手渡され、グレーテルは大げさに嘆きます。
「だめよ! もうすぐ魔女がここに来る時間よ。それを手放したら、兄さんの体重が、ここに来て5kgも増えたって指を触ってばれてしまうわ!」
「なぁ、俺そんなに太ってねんだけど……」
 檻の中から手を伸ばし、妹の金髪を励ますように撫でるヘンゼルは、一瞬だけ『ライア』の顔に戻って呟くのです。
「……頼むよ」
 グレーテルは、勇気を出して、もう一度、地の底まで続きそうな暗い階段を下ります。手にはハシバミの枝。馬鹿だと思う時もあるけれど、いざとなったら助けてくれる兄は居ません。一人きりです。
 泣きそうになりながら、グレーテルは一人、闇の底を目指しました。
 同じ頃、檻の中のヘンゼルは魔女に指を触られていました。
「まぁだこんなもんかい。だけどね、あたしゃ気が短いんだよ! もう我慢の限界だわい。待っていな、すぐに支度して、お前を食べてやるからのぉ……ヒヒッ」
 状況は悪くなるばかりでした。支度をさせようとグレーテルを捜す魔女は、彼女が地下深くへ通じる階段に居たのを見つけてしまうのです。
「なんて娘だい! 勝手に人のうちをこそこそ嗅ぎ回って。もう怒ったよ! お前を先に食べてやる」
 魔女は、僕としてグールを何体か飼っていました。グールとは、ちょっと公表できないグロテスクなブツから造った人形で、頭はからっぽですが、とても力仕事に向いていました。僕として使う為に防腐処理されているのですが、やはり原料が原料なので、不快な臭いがします。
 グールに檻から連行されてきたヘンゼルが見たのは、煮えたぎった湯を湛える巨大な釜と、その下で燃え盛る薪、そして、釜の上に突き出た板の上に乗ったグレーテルと、彼女を突き落とさんとする魔女でした。
「ふざけるな! 先に食うのは俺だろっ!? グレーテルを返せッ!!」
 ヘンゼルは叫びますが、魔女は狂喜してまじないの呪文を唱え、杖を振りかざし、謎の粉を振りまいてニヤニヤするばかりです。この怪しげな儀式が終わった時、グレーテルが突き落とされるのは明白でした。
 グレーテルはじっと耐えていました。下からの湯気と熱気で髪は頬に張り付き、ぽたりと汗が落ちます。それでも、涙だけは流しませんでした。
 下に居る兄が死に物狂いであがきますが、脇に立つグールの豪腕に阻止されて身動きが取れません。
「ふざけんな……」
 ヘンゼルが低く呟きます。自分の魔力全てを解き放つつもりでした。自分も軽い火傷じゃ済まないでしょうが、少なくとも腕を縛る縄と、脇のグールの腕くらいは焼ききってやるつもりでした。
 その時、ヘンゼルは背後からの低い囁きに、ぴたりと静止しました。
 ヘンゼルの真後ろのグールは、周りのグールと同じように酷い臭いを発しています。まるで頭から生ゴミを被ったようでした。頭の前面にはインスタント麺のような物が垂れ、3日経った焼き魚のような、酸っぱいような絶妙のかほりを醸し出しています。周りのグールとどこか違う気がしますが、目の悪い魔女は気づきようがありません。そして、そのグールは言ったのです。
「縄は切った……お前はグレーテル(妹)の所に走れ」
 魔女の呪文は最高潮に達し、遂に儀式が終わります。ヘンゼルは油断していた脇のグールを出し抜き、後ろなど振り返らず弾かれたように走りました。
「グレーテル!!」
 釜の上を横切るように跳躍したヘンゼルが、落ちてきた妹をしっかりキャッチ。次の瞬間、
 ばっしゃあぁっ!!
 盛大な水飛沫と共に、熱湯の中に人影が消えました。
「キィエーーーーッ!!」
 魔女の断末魔の叫び声。熱湯の飛沫を背に浴びながらも、妹を救ったヘンゼルが後ろを振り向きます。
 釜の上の板に立ち、不敵に見下ろすのは……
「貴様には打ってつけの湯加減だったようだな」
 あのグールでした。ヘンゼルがグレーテルの所に走り出す瞬間、グールは迷わず魔女の方へ駆け上がったのです。頭から麺は垂れたままですが、跳ねた湯が体を洗い流し、服の模様が見えるようになっていました。白地に、スペードが7つ。
 少し、時は戻ります。城の奥深くに通じる階段で、グレーテルは魔女に見つかってしまいますが、彼女は『上がって』来たところでした。
 暗い地下室で、グレーテルは眠り続ける怪物に近付き、その頭をハシバミの枝で撫でました。
「私が魔女を引き付けるから……お願い、兄さんを助けて――」
 怪物が永い眠りから覚醒しようとしている間に、グレーテルは早口に告げます。
「階段を上りきったら、左手に地下牢に通じる階段があるわ。兄さんは、そこにいる」
 何て一方的なお願いでしょう。寝起きにこんな事言われてちゃんと記憶してその通りに動いてくれる人物が、果たしているんでしょうか。――居ないですよね、普通。
 千年も眠らされていた怪物は、寝ぼけ眼で思います。
(ここは……どこだ? 左の階段が……『兄』だ……?)
 既に地下室にグレーテルの姿はありません。しかし、上からの声で、怪物ははっきりと覚醒しました。しわがれたその声は、明らかに怒っています。続いて、放してと叫ぶ少女の声。
 怪物は、長い上への階段を睨みました。
 彼は、怪物と呼ばれるに相応しい力を持っていましたが、見た目はそんなに怪物っぽくありません。階段を上りきって、近くの部屋で魔女の声がしたので様子を見ます。
「お前はこの鍵を持って檻からヘンゼルを連れてきな! そっちのはお湯を沸かすんだ! この子を煮て食べてやる。……今すぐにだよ!!」
 何か嫌な臭いがします。覗き見ると、魔女はグール達に命令していました。頭がからっぽなので、こなせる命令は、一度に一つみたいです。
 怪物は素早く無人の調理場に忍び込みました。在るのは変哲のない調理器ばかりで、魔女が子供を食べるのに使うのはここではないようです。代わりに生ゴミの集積所を見つけました。ついでに、グール一体を昏倒させられそうな調理器具(凶器とも言う)を幾つか拝借。
 1分後、檻の鍵を持たされたグールは廊下の隅で伸びていました。後ろからさっくりやられたようです。そして、少し違和感のある別のグールが檻の所にいました。
 何度か魔女のグールを目にしているヘンゼルは恐がりこそしませんでしたが、生臭い手で背中で腕を縛られて、口で息をしながら言いました。
「触んなよ……自分で歩ける」
「……」
 口調が反抗的だったので、縛った手首を思い切り捻り上げます。おや、おかしいですね。グールは知能が低いはずなのに。
「いだだだだッ!」
 それは全く情け容赦がありませんでした。



「ぷっ……あはははっ……」
 気付くと、花恩の口からは笑いが洩れていた。前代未聞の、はちゃめちゃな劇だ。しかも、前の演目の登場人物まで引きずり出して、最後には大団円を迎えてしまった。
 舞台の幕が上がり、そこにはもとの服の3人が立っていた。
「あはははっ……まさか、あんな風に仕立てちゃうなんてね。すごいよ!」
 花恩は笑いながら賞賛の拍手を送った。
「さて――皆さんにも、支配人から許可が下りたみたいだね! ほら、出口が見えるでしょう? 素晴らしい劇をありがとう! さようなら!」
 もう二度と来るか、とばかりに出口へ向かうビゼスに、小さく会釈したリーティスが続く。
「――なぁ」
 出口に向かおうとする二人の後ろで、ライアが足を止めて訊いた。
「ここから出るヒントをくれて、助かったよ。余計な世話かもしんないけど――外に出ようとは、思わないのか」
 花恩は穏やかな顔で答えた。
「うん……。ここに来てからね、ボクはずっとこの姿なんだ。どれだけ時間が過ぎたか判らないから、外に出たら、ボクが来た時の世界そのままかもしれないし、それよりずっと先の何百年後になってるかも知れない。でも、どっちにしろ――帰ろうとは、思わない」
 そこには、明確な意思表示があった。花恩が顔を上げてライアを見る。
「それにほら、ここにいれば、こうやって迷い込んだ人が帰るお手伝いだってできるし」
「……そっか。俺達は行くよ、ありがとう、花恩」
 ブランコの上、花恩はにこりと笑った。



「んん……あれ。ごめん、僕まで寝ちゃってたみたいだ……」
 林道で昼食後の休憩を取っていたアルドが、目を覚まして言う。近くでライアが起き上がり、リーティスが目をこすった。
「ううん……よく寝た気がするけど、何か見てた変な夢が思い出せない――」
 若干寝癖のウィリアが、ビゼスに言う。
「あら……珍しいじゃない、貴方まで眠ってたなんて」
「? あぁ……」
 フェリーナはすぅすぅと幸せそうに眠っている。ウィルとウィーロスは、眠りから覚めて身を起こすところだった。

 キャンプを畳んでしばらく行くと、小さな墓地があった。二十歳そこそこの一人の女性が立っている。
 彼女は、ライア達に気付くと微笑んだ。
「こんにちは」
 何となしに墓標に目をやった彼らは、没年が書かれていない事に気が付いた。墓碑銘は、Kanon。
 つい最近、どこかで聞いたような気がして、しかし思い出せなくて彼らは首を捻った。
「あの――」
 尋ねて良いものかと、おずおずとそちらを指差すライアを見て、女性が答えた。
「幼馴染なんです。10年も前に居なくなってしまって……。家が貧しくて、よく親戚のおじさんやおばさんに怒鳴られてました。家から閉め出されているのを見たのも、一度や二度じゃありません」
 女性はもう一度、墓に向かって手を合わせた。
「けど、もうその親戚達は家を引き払ってしまいました。いつか、あの子が戻って来ないかなんて思う時もあるんですけど――あ、すみません、こんな話でお引止めしてしまって」
「いえ。それよりも、僕達も手を合わせていって構いませんか?」
「ええ。――どうぞ」
 常ならばここで不躾な言葉の一つも吐くウィルが静かにしており、ビゼスも大人しい。ライアとリーティス、それに残りの者達は、アルドに倣って仏前で手を合わせた。何となく、そうしておきたい気分だったのだ。理由はよく判らない。
 そよ風が吹き、午後の空は、穏やかに晴れていた。

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〜あとがき〜

 塵も積もった奇跡で『月光のつるぎ』6000hits達成、ありがとうございます。
 記念ステージ恒例、ファンタジー要素強めの物語となりました。

 ウィル頭巾、個人的に描いてて楽しかったです。アルドとウィル、正義と悪で本質が対極のはずなんですが、協力関係になってからの日常では意外に絡ませ易かったりします。
 第二幕アリスはうろ覚えだったので、原書買いました。って、翠は英語読めないじゃん!!と気付き(反省)、訳付きのやつで。原書だと帽子屋が急に髪切るとか言い出すんですよね。ウィリアの散髪が壊滅的というのは未使用のエピソードで考えていたので、この機会に消化しました。
 第三幕、フェリーナまさかの悪役。本作は二人の魔女が登場しますが、ウィリアが魔法陣とか妖しい呪文とか研究してそうな典型的魔女であるのに対して、フェリーナはどこにでもいる魔女(薬草とか煎じてるおばあちゃん)のイメージです。
 最後はフリーダム兄妹の話になりましたが、主役(ライア)と準主役(リティ・ビゼ)はいつも通りでしたね。普段からあんな感じですよ、多分。
 あと、最後に弁明しとくと『支配人』は翠ではありません。NEEDFIREに関しては既にライアとして介入してるので、作者自身っぽいものは今後も作中には登場しません。

 本編が亀ペースのNEEDFIREですが、ただ今絶賛多忙中、ペンギンの本気走りペースでどうにか準備を進めておりますので、皆様今後ともよろしくお願い致します。
(2013/3/3 6000hits記念 翠【SuI】) 
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