――俺の名は、カシール=ファイ=セーミズ。姉が一人いる。



 俺は――……姉上(あのひと)が、大嫌いだ……



BONUS STAGE 4 月影清かに



「この度、お嫁に行く事が決まりましたの。カシール、いずれお父様の後を継ぐ者として、しっかりね」
「…………」
 正直、姉上がどこへ行こうと興味は持てない。むしろ嫁ぎ先であるシュトルーデルと良好な関係が築かれる事の方が、俺にとっては余程に大事だった。
 感慨も何も無かったため、すぐには言葉が出なかったが、少し考えて、どうにか月並みな言葉を口にする。
「そうですか。姉上もお元気で」
 無論、姉の顔など見ない。見なくたって判る。今、どんな顔をしているのか。
(笑ってるんだ。……これから、海を渡って、全然知らない土地で、顔も知らない人達の中で暮らすってのに。――姉上には、それだけの力がある。厄なんて跳ね返してしまうような、太陽の光みたいな力。……俺には、無い力)
 小さい時から、身に染みて知っている。だから、それ以上は考えない。

 ……俺の『意思』は、どこへ行った?



「ねぇ聞いてよ。シェーン様、いよいよ、婚礼のために出立なされるんですって!」
 廊下を8割方ぴかぴかに磨き終えて、モップを手に持ったまま、侍女達が噂話に花を咲かせている。
「えっ? お相手って、前にノーゼから来てた、お堅そーなあの殿方?」
「ウッソー!? シェーン様なら、もっとこう、華のある……テディス隊長みたいな方じゃないと!」
「ちょっと。それ、貴女の趣味じゃない、セティ」
「何よぅ。悪い?」
「はぁ……どうせ、あたしらにゃ縁遠い、やんごとなき方々のお話だけどね――」
「ね、ここだけの話だけど……」
 急に、彼女達の声のトーンが下がる。
「カシール様?」
「そうそう。きっと、内心ではほっとされてるでしょうね」
「解るわぁ。だって、幼少の頃から、ずっとそこにシェーン様がいたんですもの」
「しょうがないわよね。あんなに出来る方、言っちゃ悪いけど、宮廷の男性にだってほとんどいないもの」
「はぁ……シェーン様が男なら、あたし絶っ対、専属の付き人になってたのに……そして二人は身分違いの愛を……きゃ〜!」
「セティ、落ち着きな。あんたの王子様は妄想の中にしかいないから」
「ひどーい、ルーゼ。あっ、そうだ。今度調理場に、可愛い子入ったの! 名前はまだ聞いてないけど、今から唾付けとかないと……」
「はぁ……、もういい、勝手にしな……」

 姉上を妬む?
「ひそひそ……(誰も彼も、カシール様とシェーン様を比べて、シェーン様を褒めなさる。さぞ、妬ましいでしょうな、カシール様は――)」
 姉上が恐い?
「シェーン様の知性と機転には、このわしでも頭が下がる。男にさえ生まれていたなら、歴代のどんな将より素晴らしい名将におなり遊ばせたろうに――おお、なんという神の悪戯か!」
 姉上と、立場が逆なら幸せだった?
「なぁ、さっき裏庭で王子見かけたんだけど、隠れてべそかきそうなカオしてたぜ」
「仕方ないだろ、まだ9歳だ。それに男なら、人前で泣く訳にもいかんだろ」
「王子ってさ、頭は良いし、あの御歳で既に貴族の鑑じゃあるんだけど、お姉様に比べてどーも影が薄いってか――カシール様が姫さんで、シェーン様が王子なら、ありゃ、セーミズ王家が誇る最高の兄妹だったぜ、きっと」
 ――そうだ、あの頃から、昔っから、そうなんだ。
 俺は、何も言ってない。一言も発する前から、いつだって俺の思う事は、先回りして皆の評判になってる。
 だからそれが、本当に自分の意思だったのか、人が言い出した事だったか、だんだん自信が持てなくなってしまう。いや、いいんだ、そんなの。どうでもいい。

 俺は、執務室として利用しているその部屋で、久々に静かな昼下がりを過ごしていた。
 部屋にいるのは、長年の付き合いで信用の置ける侍女のエーディだけ。
 そこで俺は、17の誕生日に贈られた祝いの品々を検分していた。見ていくと、内訳は、公式の場で使えそうな服飾・宝飾品の類が4割、次期国王に相応しい煌びやかで非実用的な武具が2割、残る4割は、全く趣味でない使えない美術品その他が占めた。つまり俺は、その中から使える物と、使えない物をより分ける必要があったのだ。
 俺が無造作に趣味の悪い純金の置物を部屋の隅に投げても、エーディーは咎めない。後日、どこかに密告する事もないだろう。俺が彼女を買っている最大の理由は、女子にしては珍しい、この口の固さだった。二十歳にしては落ち着いているが、婚約者が居て結婚も決まっているためであろうか。
 1時間かかってようやく仕分も完了に近付き、俺は、ある鍛冶師から贈られた小振りの剣を、儀礼用の宝刀やら訓練に使う刀剣やらと同列の棚にそれを置き、椅子にどっかり腰を下ろした。
 エーディーは見計らったように、俺の前にコーヒーを置く。
 一息入れながら、俺は、エーディーの声を聞くともなしに聞いていた。
「姉上様がノーゼに行かれると、寂しくなりますわね。でも、カシール様はここからが踏ん張り時ですね。皆、表立っては口にされませんが、カシール様の才能に、とても期待されていますよ」
「そうかな。俺は、至って普通の貴族だけど。たまたま、王家に生まれついただけっていう」
「そんな事ありませんわ。カシール様は、農学と外交に卓越した才をお持ちです。きっと、よく民を纏める、よき国王になりますわ」
 そうか。いい王様か。周りが言うなら、そうなんだろう。俺は、いい国王になろう。
 それで良い。

 ――所詮、この狭い世界に、『俺の意思』なんて、どこにもありゃしない。



 ……だから、まさかこの俺があんな事を強行するなんて、思ってもみなかった。『彼女』に出遭うまでは――



 俺の驚きの人生の転機から、遡ること4ヶ月。
 あまり好きでない姉上だったけれど、大海原を越えた彼方の地に送り出す身として、餞別を贈ろうという心はあった。
「姉上、あちらに渡るに当たって、欲しいものはありますか」
「そぉねぇ――」
 顎に手を当てて考え込んだそのひとの返答は、俺の度肝を抜くには充分だった。

 俺は、とある鍛冶師に注文を言い渡し、早足に城に戻るところだった。
(記念に欲しいものが、剣だ? やはり姉上は、生まれる性別を間違えたな――いや、それを言うなら俺もそうなるか?)
 笑えてくる。性別なんて、今更どうにもなるまいに。
 いずれにせよ、俺は国王の嫡子としての責務を忘れる事はなかった。誇り高きセーミズ貴族を束ねる者として、恥ずかしくない男児たろうと思う。あと一週間で、姉も去る。身の引き締まる思いだ。

 背もたれの高い重厚な椅子に鎮座した俺は、使いの者が届けに来たその品を、不服な面で検分していた。
(――なんだ、これは)
 俺は、先の誕生祝いの中にあった一振りの剣とほぼ同一のものを造らせたはずだった。
(本物を知らない富豪どもの目を欺くならともかく――これは、なまくらだ)
 俺は遣いの者を睨んだ。彼は震え上がり、震え声でまくし立てた。
「しっ、シェーン様の美しさを引き立てる最高の剣でございましょう! 装飾も、王子のご注文通り、忠実に再現致した次第であります。ごっ、『ご婦人でも危険のない配慮』がなされた一品にございます」
 なんだ、故意か。そうすると、主犯は鍛冶師の方でなくて、この遣いの男や、他の貴族どもかもしれないな。
「…………」
 俺は、わざと手の中でそれを弄んで改めて検分する振りをした。そして、意地の悪い笑顔を作って高飛車に突き返す。
「こんなものを姉上に渡せと言うのか。茶番だ。打ち直せ」
「はっ……!? し、しかし、出立は4日後の……」
「なんだ、あと3日もある。総出で徹夜すれば可能であろう? 余を誰と心得る。カシール=ファイ=セーミズの命ぞ」
「そっ、それは……しかし……」
「なんだ、まだ何かあるか?」
「い、いえいぇえ〜!」
 小心な遣いを追い返すと、俺は、ふっ、とため息を付いた。
 姉上に献上する剣は、完璧でなくてはならない。身を飾るための最高の宝飾ではなく、闘いの芸術とも呼べる最高の剣でなくてはならないのだ。そう、これは、俺からの、最後にして最大の、姉上への皮肉だ。

「カシール様。大変お待たせを致しました。どうかお納めください」
 出立の前夜、今度は遣いだけでなく鍛冶師本人もやってきて、頭を垂れながら俺に細い箱を差し出した。
 蓋を開け、中を見る。
「…………」
 蓋を閉じた。
「いいだろう。これを、姉上へ」
「はっ!」

 箱の中身を見たのは一瞬だが、その光景は、今でも鮮明に思い出せる。
 今度こそ、刀身も研ぎ澄まされた完全なる名剣……に、見えただろう。素人目には。

 あれから4ヶ月。俺のもとには、姉上から近況を知らせる2回目の文が届いていた。
 大陸を渡って嫁いでも変わらぬ調子の文面に、苦笑いと共に、俺は読み終わったそれを、封筒ごと長方形の箱の上に投げ出した。
 細長く、シンプルに見えて美しい箱。それはあの日、姉上の手に渡るはずだった箱だ。中身もあの日のままだった。
 ふと、ある種の懐かしさと共に、立ち上がってその蓋を開けてみる。そこには、確かな一級品でありながら、実戦では最高級とまでは呼べない剣が納まっている。
 俺はふざけて、それを腰に差してみた。――と、なかなか見栄えは良い。
 なぜこの剣が手元に残ったかと言えば、簡単な話だ。姉上の最後の見送りを目前に、俺はこっそり箱を積み荷から降ろしてもらった。そして、俺が17の祝いに贈られたオリジナルの方を何食わぬ顔で持参し、布に包んだだけの状態で姉上に手渡した、それだけの事。
 慌しい別れ際、布に包んだだけの粗末な外装とあっては、誰も俺のした事に気付けなかっただろう。
 最後の餞別を受け取った姉の、清清しい笑顔。思い出すと、少し悔しくもあり、腹立たしくもあった。
(姉上。やっぱり、俺はあんたに一生勝てないかもしれない――……)
 立派な王になるには、姉を越えなくてはならない。解っていながら、俺という人間は、あれだけの才人に負けるのであれば――と、心のどこかでほろ苦い敗北を受け入れてもいた。

 そして、俺を強く動かすその事件は起きる。

 ここ最近、民の平穏を脅かしている盗賊(シーフ)の一団を討伐すべく、騎士団が動き、俺もそこに参加が決まった。
 騎士達の士気を上げる、半ばお飾りのようなものだが、王子として無様な姿は見せられないので気を緩めはしない。
 但し、俺がどんなに周到に剣を磨き、得意の馬術の見せ所を窺ったところで、
「では、ここから先の林は我々が先行して調査します。カシール様には、本陣の留守をお願いしとう存じます」
「わかった」
 ……こうなる訳だ。

 周りに木々しか見えないキャンプに、日焼けした40過ぎのオッサン(彼はこう見えて中佐だ)と二人残されても、何も面白くはない。こう時間ばかりが無駄にあると、
(そうだ、いっそ、女性も騎士になれる法案を作って、多少無理をしてでも通すのはいかがなものだろう?)
 などと、思考もおかしな方向に飛ぶ。この場に同席するのが、若い女性であったらという想いは切ではあったが。
 その時、繋いでいた馬が啼いた。
「失礼。わたくしが見て参ります。王子は油断なさらず待機を」
 俺が頷くと、中佐は一礼をして馬の方へ向かった。彼は、程なくして戻って来た。
「どうやら、本隊の包囲が完璧でなかったようです。シーフの中に逃げ出した者がいるようなので、見失う前にわたくしが追跡に回ります。本隊がすぐに戻りますので、王子はここでお待ちください」
 そう言って、彼は馬に跨って去った。
「…………」
(ほんとうに、する事がないな。)
 かと言って、俺がここを動けばまた面倒な事になるので、仕方なしに時間を潰そうとした。その時。
 本陣に近付いて来た女と、はっと目が合った。
 鮮やかな若葉の相貌。木漏れ日を反射して輝く、腰まで伸びた金髪。
(あ――)
 俺は一瞬、言うべき言葉を見失ってしまった。
 人がいると思わなかったのか、俺を見て目を丸くした彼女は、さっと背を向けて走り去ろうとした。
「ま、待ってくれ!」
 自分でもよくわからないが、俺は反射的に彼女の後を追った。
 彼女の身のこなしは女性とも思えない程軽やかで、さながら野を駆ける若鹿だ。それでも体力で男には及ばず、追いつくことに成功した。
(っ! 手負いだったのか……)
 近くに来て気付いた事だが、彼女は肩から血を流していた。思わず追いかけたのは、助けなければという直感が働いたせいかもしれない。
(それにしても……これだけ動ける女性が居るのなら、女性騎士の採用はあながち不可能でも――って、いや、そんな場合じゃない)
 俺はなるべく彼女を刺激しないよう言った。
「脅かしてしまって、すまない。俺は騎士です。何か助けられる事があるかもしれません」
 そう言って彼女の腕を取った瞬間、若干抵抗された。
「い、いえ結構です。放してください」
「いや、でも怪我……」
「大丈夫です、これくらい。家はすぐなんで」
 彼女が顔を背けるもので、横顔は長い金髪に隠されてしまう。そんなに俺は下心満載に見えたのだろうか。そうだとしたら、由由しき事である。
「あのですね……実は今、周辺にシーフが潜んでいる可能性があるのです。女性の一人歩きは危険です。せめて、安全な所まで送らせてください」
「……結構です」
「……そう言わないでください。負傷されたご婦人を独りで行かせるなんて、セーミズ男児の名折れです」
 すると、突然彼女が強い瞳でこちらを見た。時が止まったように感じたのは、俺が見とれてしまった証拠だろう。
「なら、アタイを連行するんだ?」
(――連行?)
 俺の思考が及ぶ前に、眼つきの危ない男が二人、近づいて来た。
(ッ!! こいつら、シーフか!)
 一人は手斧を、一人はボウガンを構え、俺は矢の狙う先を見て取った。
「危ない!」
 覆い被さるように女性を押し倒すと、丁度彼女の頭があった辺りの空気を裂いて矢が走り抜けていった。
 俺が瞠目したのは女性の行動だった。素早く俺の下から這い出すと、ボウガンを持った男の腕目掛けて勇ましく風の魔法を放った。
「っあ!!」
 慌てて引っ込めようとしたその腕を刃が裂き、男が怯む。その隙に、俺は手斧を持つシーフへ斬りかかった。手負いの婦人を襲う相手だ。手加減してやる道理はない。
「むん」
 男が気勢と共に振った斧の一撃は重く、当たれば重傷必至だ。剣で受ければ、最悪折れたか、良くて酷く腕が痺れたろう。
 俺は攻撃を避けつつ、間合いを探った。
「死ネ!」
 今のは魔法で腕をやられた男の声だ。
(しまった、彼女が――)
 ボウガンの狙いはまたも彼女だった。それで俺にも隙ができた。ニヤリと笑った手斧の男が、俺に最速の一撃を繰り出してくる。
「くそ!」
 悪態を吐きながら体を守るべく止む無く剣を当てる。
 キン!!
 耳を突く音がして、重い衝撃に剣を取り落としていた。
「城の騎士も大したことねぇな」
 次の瞬間こそ、終わりと思われた。そしてそれこそが、男の油断だった。
 男が余裕でとどめを刺すより、俺が予備の剣を抜き付ける方が早かった。
 確かに胴を斬りつけた感触があった。しかし。
(浅い……っ!)
 男が達人でない事が幸いしたが、強靭な精神力を持つ相手ならばこれに耐えただろう。おふざけで差した剣をそのままにしていた自身の迂闊さを呪いながらも、この剣を姉上に渡さなくて良かったと痛感したのもまた事実だ。
 男が持ち直す前に、今度は力を篭めて剣を振るう。実のところ剣の握りをやたらと強くするのは問題だが、刃そのものの切れ味が鈍いので仕様がない。
 手斧の男を下して俺が見ると、ボウガンの男も同様に倒されていた。驚くべき事に、彼女一人でやったのだ。
 次の瞬間、俺に頭部目掛けて一本の小さなナイフが飛んだ。
「……つっ」
 間一髪左手で弾いたが、手の甲を掠めて赤い筋を作った。
(毒でも塗ってあるんじゃないだろうな?)
 豹変した女性を伺いつつも傷口の血を吸い出し、地面に吐く。
「――どういう事ですか? 俺は、騎士を騙って貴女を騙すつもりなど毛頭ありません。本物の城の騎士です」
「何? だから、アタイを追ってきたんでしょう」
「……。待ってくれ。話が見えない」
 呆れ顔で彼女が吐く。
「それ、本気で言ってる――? アタイがレトラの長だよ」
 レトラ。今回の任務で討つべき盗賊団の名だ。以前は悪徳商人や不正を行う貴族だけをターゲットとしていたが、近年は手段を問わず、相手を問わずと犯行が悪質化したため、捨て置けなくなった。
「嘘だろう」
 俺はしっかりと言った。
「今あなたを襲ったこいつ等こそレトラの一味だ。その証拠に、右上腕に蝙蝠の刺青がある」
 女性がじっと俺を睨んだ。逃げようとしないのは、まだ俺の風魔法の射程距離内に居るからだ。
 彼女が右肩をこらに向け、服の裾で滴る血を拭った。
「納得した?」
 薄笑いを浮かべる彼女の上腕に、男達と同じ蝙蝠の痣が見えた。馬鹿な。
 彼女は両手を広げて見せた。
「さあ! 手負いの女一人、簡単に捕まえてみせさいよ、騎士のお坊ちゃん?」
 肩から流れ出る血は、見る間に刺青を覆い隠してしまった。彼女の挑発も、虚勢に見えて。だから。
「薬だ。それで、もう行ってくれ」
 支給品のポーチから小瓶と包帯を取り出して、彼女に投げやった。
「なっ! 馬鹿にしてんのかい!?」
 殺人に手を染めている人間には、独特の気配がある。俺は、それを彼女に見出す事ができなかった。
「わからない。ただ、あなたが人を殺すような悪党には見えない」
「くっ……」
 彼女は一瞬怒った顔をして、それから踵を返すと若鹿の疾走で林に消えた。
「ふぅ…………」
 残された俺は、それはそれは深くため息をついた。



 息を吐く。
 『あれから』、気付くとぼんやりとしている事が多い。公務の時などはいつも通りだが、一人になると、ついため息が洩れる。
 そして自分でも無自覚に、左の手の甲を見ていた。シーフ討伐作戦の後、単独行動のお咎めを受け、戦線から遠ざられた原因の一つである、かすり傷。

「ねぇねぇ、聞いたあ?」
 声を潜めつつも、内にある興奮と期待を抑えきれていない。
 侍女達が休憩室として利用するこの小部屋は、更衣室としても使われる。丁度、勤めを終えた五人の侍女が濃紺のエプロンドレスから解放されていた。
「ああ、来週から中庭と庭園の花壇を総入れ替えするって件かい?」
 クセっ気ツインテール侍女のセティは、着替えの手すら止めて下着姿のまま、信じられない!と両拳を首の横で握った。
「違うわよ、ぜんっぜん! カシール様、最近様子がちょっとヘンって……」
 長身の侍女ルーゼは、少し妙な顔をして、そうだったね、と言った。別の侍女が口を挟む。
「でも、お体を悪くされた訳でないって言うしー、ねぇ?」
「ふっふっふ……」
 不気味な笑いに、気の強そうな金髪美人のサラが着替えながら身を引く。
「な、何、セティ? 気持ちの悪い声出して――」
「恋よ!!」
「「「 はぁ?? 」」」
 三人の声が重なる。その場で反応しなかったのは僅かに一名。12、3であろう可愛らしいそばかす娘の彼女は、至極マイペースに、着々と着替えを終えて服を畳んでいた。
「それじゃあ先輩! お先に失礼します」
 彼女は礼儀正しく頭を下げると、更衣室を出て行った。
「「「「 ………… 」」」」
(相変わらずしっかりしてるわーv シェーラちゃん)
(ぶっちゃけ、年下のあの子よりしっかりしてないウチらって、どうよ――?)
 彼女達がそう言い合うのも常だ。
 そしてなぜかセティは親指と人差し指を立てて顎の下に当て、悪い笑顔をしていた。
「おこちゃまにはまだ早かったかしらねぇ……」
 いいから服着ろ。読者に見えないからサービスにもならんし。
「えー? で、何よ。もったいぶってないで教えなさいっ」
「『あの』カシール様のお相手……誰? 誰!?」
「好きだねぇ、アンタ達も――」
「ぶー、だったら先帰ればいいでしょー、ルーゼぇ」
 やたら秘密めかして(そしてこの瞬間においてもまだ下着姿である)セティがその名を明らかにする。無論ルーゼもしっかり聞き耳を立てていた。
 直後、黄色い歓声。
「「 キャー!! 」」
 ルーゼ以外の二人はすっかり熱狂状態だった。
「ウソ〜!?」
「何……? そんな事って……ポッ」
「嘘じゃないわぁ……だってあたし聞いたんだから! 作戦の間、ずーっと中佐と二人っきりだったって……」
「いや〜ん」
「そ、それは看過できないわ……!」
 そこへ、赤ら顔で伏し目がちにルーゼが突っ込む。
「れ、冷静になろうよ――相手は妻子あるおっさん? いくらなんでも突飛すぎ――」
 セティがビシリと人差し指を突きつける。もう片方の手でやっと着衣を始めながら。
「わかってな〜いっ! 身分も性別すらも越えた禁断の愛だからこそ、燃え上がるってもんよ!」
「はぁ……。もう、勝手にしとくれ。あたしゃ先に上がるよ」
 そう言って荷物を取り退室しようとしたルーゼを、きょとんとしながらセティが指差す。
「ルーゼ、それあたしの」
 彼女が誰より動揺していた。



 そんな噂を立てられているとは露知らず、当人は
(どうかしてる――)
 落ち込みながら、大きく息を吐いていた。
 左腕には羊皮紙の束。王子ともあろう者がこのような姿でいるのは珍妙であったが、カシール=ファイ=セーミズはそういった所に無頓着であった。今しがた、セーミズ西方の領地問題の会議に出席したのだが、彼はその適性を遺憾なく発揮した。通例、王族は決議の概要と結果だけを聞き、最終的に承認のサインをするのが仕事だが、彼の場合、若い自分には勉強が必要だからと、自らも参加し、尚且つ素晴らしい手腕を毎度発揮している。当初こそ、会議の場における王子という存在を煙たがっていた周りの者達も、今では畏敬の念すら抱いているのだが、それでいて、本人は全く持って自身の才に無自覚だった。カシール王子とは、そいういう男だった。
 本日の会議とて、彼の発案でより多くの民の納得を得られる結果にまとまった。しかし、彼はため息をつく。
 あの日以来、ふとした瞬間に彼の頭を占めるのは、あの日接触した娘の事だった。
(本当に、レトラの長だと言うのか……? だとしたら、なぜ、仲間に襲われていたんだ。それに、あの作戦で取り逃したレトラの残党がまだ居る――)
 作戦中無断で単独行動を取った対価として、二度と作戦には関わらせてもらえないだろうが、彼の中で、この問題は『終わっていない』。
(もう一度、彼女と会う事ができれば――)
 そう思っていた矢先、決して喜ばしくない形でその機は訪れた。

 拉致されて、嬉しい人間など普通いない。

 鷹狩りの最中、供と離れた所を俺は狙われた。
 ただ、幸運だとは思った。嗅がされた薬が切れて目が覚めた時、そこにあった顔が彼女だったからだ。
「おはよう?」
 この前見た、負傷して弱った姿でなく、今ならばレトラの女長と言われてそう思えなくもない。
 後ろ手に縛って転がされた俺の咽元に短剣を突きつけて、彼女は笑う。
「この前はどうも。お陰で、傷は治ったよ。けど……あの薬、薬草の生育が悪くて高騰している今時期に、一介の兵にまで支給なんてされないね。だから、お前に目をつけたんだ」
 彼女は俺の返事を待つように間を空けた。
 俺が黙っていると、彼女は苦々しく吐き捨てた。
「調べさせてもらったよ。まさか……カシール王子だったなんてね」
 まあ、ばれていて不思議はない。言ってしまえば、盗賊の長をやっていながら、初見で気付かなかった彼女の方が抜けているというか。
「それで……俺に何の用だ」
「頭悪いの?」
 彼女が呆れる。俺は、逆に心当たりが多すぎて判らなかった。俺を手中に収めて彼女が何を要求できるか、ざっと考えただけで10以上。彼女が口にしたのは、その一つ。
「仲間を解放してもらうよ」
「!? ……あなたを襲った相手をか?」
 念のため問う。仲間の解放も考えた内の一つではあったが、現実性は低いと見ていた。
「違う」
 彼女は低く言い切った。
「あの裏切り者についてった屑共じゃない。騎士団がやって来たとき、最後までアタシを逃がそうとしてくれた、アイツらの事さ……。ばっくれたって無駄だ。まだ皆は地下牢にいるんだろ……!」
「…………」
 今この瞬間にも彼女は俺の咽を突けるというのに、俺は思わず眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。
(『裏切者』。レトラ内部で抗争があったと見ていい。じゃあ、あの時もうちの騎士でなく、裏切った仲間に襲われて負傷していたのか)
「まず、誤解のないようレトラの内情を教えてくれ。それなしに城の者と交渉を始めるなら、俺にとってもあなたにとっても不幸な結果になる」
「何それ。自分の置かれた状況判ってる?」
「親切で言っているんだ。それに、状況なら判っているさ。ここに助けは来ない。だけど、あなたは人質である俺を殺せない」
 俺が連れ込まれたのは、どこかの廃屋か、今の季節は使われない小屋か何かだろう。或いは、もとからレトラが使ってた拠点の一つかもしれない。いずれにせよ、彼女が焦ってない所を見ると、どこかに仲間もいて、すぐには人に知れない場所だと判る。
 馬鹿にされたと思ったのか、彼女は獰猛に歯を見せて俺を組み敷いた。お陰で背中に回した手が痛んだが、きつく縛られているのでどうにもならない。
「そうだね、殺せない」
 怒りで若葉色の瞳を燃やしながら、俺に乗った姿勢で彼女は続けた。
「けど、これからどうするか判る? 例えば今からあんたに毒を盛る。すぐには効かない、だけど城じゃ絶対に中和できない毒。助かりたりゃ、アタイの言いなりになるしかないんだよ……。アタイが死ねば、中和剤を持つ仲間の場所を、あんた達は永遠に知る事ができない」
 笑えない内容ではあっても許容範囲ではある。とても口にできない拷問をするとか、人質(俺の事だ)の指や耳を削いで脅しをかけるとかそういった発想がない時点で、悪党らしからぬ潔さすら感じた。
(やっぱり、このひとを悪人として見る事はできない――)
 拉致されて尚、こんな事を言っている俺は相当ヘンなのだろうが。でもそう、初めて目を合わせた時から、とっくに変ではあったんだ。これまで自分は、男児の中でも誘惑には流されにくい方だと自負していた。なのに、彼女の匂いがする至近距離で、目の前に胸元があってはおかしな気分になる。
 更に今は困った事態だった。彼女が俺の上で動くものだから、擦れてムズムズした。意図的でないにしろ。
 彼女が気付かなければどんなに良かったか。
 彼女は偶然脚が触れ、違和感を覚えたらしい。手で探る。
 ヤメテ。お願い。そして訪れた、俺にとってブリザード級に凍てつく沈黙。
「…………あら」
「…………あの。」
 俺が子供だったなら、情けない声で叫ぶか、泣いていた。
 若草の瞳で瞬いて、それから彼女は邪気のない声で言い放った。
「この際、王子殿下を骨抜きにしてみるのも面白いかな――」
 俺は、毛並みの綺麗な虎に組み敷かれた哀れな食料になった気分だった。

「気は……済んだか――……」
 空白の10分、何があったかは訊かないで欲しい。俺の沽券に関わるからして。
 ただ、決して無駄にはならなかった。彼女から訊き出した断片的な情報から、おおよその状況を把握できた。概要は、こうだ。
 レトラでは、ナンバー2の男が彼女のやり方に反感を抱いていた。『おれたちゃ法に縛られない盗賊だ。カネは、奪える所から奪えばいい。』その考えに、彼女は見向きもしなかった。『アタイ達の敵は、汚い手段で私服を肥やしてるような奴らさ。汗水垂らして働いてる堅気のモンには手ェ出すんじゃないよ……!』
 しかし、彼女の預かり知らぬ場所で男は着実に勢力を伸ばしていった。事実、今よりも実入りが増えるという目先の利益に囚われる者も多かったのだ。そして、遂には彼女に従わず、レトラの名を名乗りながらも独断で強盗を働くまでなった。その頃には、団員の実に半数近くが、男の側についていた。
 最終的に、男は彼女の抹殺を図るため、騎士団にレトラの拠点をばらし、彼女と彼女に付く者全員が捕らわれるよう仕向けたのだった。
 しかし、彼女も伊達に先代から長を引き継いではいない。少ない味方と団結し、偽の情報を流す事で、男の一味も騎士団に遭遇するよう巧妙に仕組んだ。今回、騎士団が大捕り物に成功したのは、漁夫の利であったのだ。ナンバー2の男に靡かず、総員が彼女についていたなら簡単に騎士に捕まりはしなかったろうし、そもそも、レトラが危険視されて騎士団が討伐に乗り出す事もなかった。
「アタイの要求には従う気になった?」
「イエス。とっくに俺に毒は仕込んだんだろう」
 端から返事に興味はなかった。最初から彼女には協力する気でいたし、毒が回っているかいないかはこの際問題でない。掛かっているのが国民でなく、自身の命でさえあるなら、俺に憚るものなど無いのだ、正直。
「考えがある。ただ、その策を実行するにはあなたの信用が不可欠だ」
 彼女が俺を信用するなら、やりようはあった。ただ、それには彼女の正体を隠し通す事が不可欠で、正体を暴かれたが最後、彼女は処刑台に上がる運命だ。
「アタイを単独で城に潜入させる――? そんな危険な条件、アタイが飲むとでも?」
「これが一番の方法なんだ。信じて欲しい。俺は、全力で貴女を守る」
 咳払いをして言い直す。
「……らなきゃ、ならない。解毒してもらわないとまずいからな」
 体を張った甲斐(?)があったのか、最終的に、俺はどうにか彼女を説得せしめた。

 その後、俺は鷹狩りの途中で姿を眩ました理由をでっちあげ、滞りなく城の者達には説明責任を果たした。
 そして今、顔を隠したフードの連れと、滅多に立ち入らない牢獄に来ていた。牢の中には据わった眼の男どもが押し込められている。俺を見て唾を吐きかける者や喚く者もあったが、大概は無関心を装うか黙っているだけだ。その中の数人を指差して、フードの連れが俺に耳打ちをする。同じ事を女性の囚人の前でもやると、俺達は牢獄を出た。

 俺が取り調べ室に喚んだのは5人。一人が女性で、あとは男。武器を隠せない簡素な袖なし囚人服を着せられ、仲良く縄で繋がれた彼らは、いずれも右上腕に蝙蝠の刺青があった。
 俺は、ひとりで彼らと対峙した。あくまで密談なので、護衛は部屋の外に置いている。
「何かと思えば……王子殿下自ら、事情聴取ですかい?」
「うそー……」
 黒髪の女性が呆けた声を出す。濃い目の化粧で威厳を繕ってはいるが、実は結構若いだろう。
「いや、そうじゃない。俺も裏でおたくのリーダーに命を握られたりなんかしててな――」
 リーダー、と聞いた瞬間、5人の顔つきが変化した。
「ここに呼んだのは、事情聴取ではなく、お互いの身の安全を確保するためだ」
 驚き半分、好奇半分といった様子で彼らは俺の話を聞いた。
 そして、粗方話し終えた所で、俺は自嘲した。
「……一方的な押し付けではあるな。特に、彼女の今後については俺の独善だ。だけど、あなた方にとっても全く利のない話じゃないと思う」
 俺が手を拱いていれば、5人は間違いなく牢獄で一生を過ごすか、悪くすれば処刑だ。5人の中で最も年かさに見える30後半の大男が、静かに目を伏せた。
「――姐さん(あねさん)が率いてたからこそ、あっし達は盗賊を名乗りながらも義賊でいられやした。例え解放されても、姐さんが抜けるのがどれだけの痛手か、お解かりになりやすね」
 俺は頷く。
「けれど、こちらだってただで貴方達を逃がせはしない。いくら王子の命令と言っても限度がある。上手くやるつもりだが、俺もリスクを背負う以上、それなりの対価が必要だ」
 紅一点のリズが言う。
「それが、解毒と――レティカをカシール様に差し出して、私達が二度と会わないこと……なのね。わかったわ」
「リズ!!」
 血気盛んな隣の若者が声を荒げる。リズは強い瞳でこちらを見ていた。
「私達は今後活動を続けても、『善良な市民を』傷付けない限り、騎士は動かさないし、レティカの安全は保証してくださる。カシール様はそう言ったわ。レティカをゼッタイ不幸にしない、それだけ守ってもらえるなら、私は異存は無いわ」
「待てよ。そんな簡単に言いなりになんな! よく考えろ――既に王子は毒にやられてるかもって自分で言ってんだぜ!? 対価はその命――それだけで充分なはずだっ!」
 そこに、穏やかに年長の男が言う。
「だが――殿下にとって、ご自分のお命に大した意味はないようだ」
 俺の落ち着きぶりを見て、彼は言い当てた。俺は答える。
「確かに。命惜しさに脅しに屈してしまうのでは、王族失格だ。俺がいなければ、次の王に、叔父でも、従兄弟でも、引っ張ってくればいい。……そんなもんさ」
 血気盛んな彼だけは、信じるものか、という反抗的な眼つきをしていたが、他はほとんど驚いた目をしている。何がそんなに不思議か?
 リズが笑い出す。
「あはははは、こりゃ傑作ぅー。ほーんと、カシール様がこんな天然だったなんて聞いてないって!」
 彼女の隣の青年が、若干青ざめてリズの腕を小突く。
「おい。失礼じゃないか。仮にも王子殿下だぞ。ぼそぼそ……(お前のせいで王子の気が変わったらどうすんだ!)」
「だぁって、ヴィール。強権な国王殿の多いセーミズ史上、珍しく人気が高くて慕われてる王子殿下が、他の高慢ちきな親族と自分を比べなさって変わらないなんて言うんですもの! もーおかしくって……ッ」
「ああ、何しろ俺は『お姫様』らしいからな。姉上のような才はないが、人気取りにはなるかもしれ――、……??」
 皮肉を篭めたつもりが、リズは腹を抱えて笑った。更には、ぽかんとしていた他の者まで吹き出す始末。俺にはその理由が解らない。
 結果的に彼らは俺の要求に従ってくれたので何でも良いが。
「最後に一つ、いい事教えときやすぜ、旦那」
 対談後、年長の男は言い添えた。
「姐さんがそんな物騒な毒持ち出すとすれば、それは掟を破った裏切り者相手か、鼻持ちならん貴族相手の時だけですぜ。あっしらには、カシールの旦那を心配する理由が見当たりやせん……」

 かくして、『彼女』には全て秘密のまま、時が過ぎた。
 俺の体調は一向に変化せず――結局のところ、あのトカという男の言った通り、毒は盛られていなかった。

 そして、彼女――レティカは、牢で指名した5人を処刑しない事を条件に、俺のものになった。
 結果的に、半分騙したようなものだった。これは俺の欺瞞で、俺の罪だ。そして同時に、俺が、生まれて始めて『自らの意思で』選び取った、たった一つの事。



 俺は彼女の身元を偽るため、没落寸前の貴族の男に頼み込んだ。彼女に貴族令嬢としての教育を施してやってくれ、と。
 50を過ぎたその男は、家名を継ぐ最後の一人であった。俺の母方の遠い親戚にあたるのだが、変人で、生涯寄り添う女性もなく、唯一の肉親であった姪が亡くなると、いよいよ彼は孤立した。
 一人で住むには大きすぎる館に残ったのは、二匹の犬と、老年の男の召使いと、器量に恵まれない中年の女中であった。
 根回しの上でレティカを連れて行った当日、彼は好奇の目を向けた。
「……老いたりしとは言え、わたくしが男である事をお忘れになってはおりませんかな? カシール殿。あれは家の面倒をよく見てくれますが、夜になると家に帰ってしまいましてね。執事のジムは最近は耳が遠く、この広い館で、滅多なことでは咎められませんて」
 俺を試しているようだ。だが、これしきのことで動じない。
「彼女が嫌がらないなら、好きにしていい。――最も、俺の時は縛られて上に乗られたから、老骨には堪えるだろう」
 かくしてこの遠縁の男は瞠目した。妙に関心した声音で言う。
「いやはや、そんなご趣味が――うおっほん! それより『あの』カシール様のお手が早いとは、意外でしたなぁ……」

 彼のところで2ヶ月の修練を終え、まがりなりにも貴族を演じられるようになったレティカを、俺は妃に迎えた。彼女の肩書きは、最近俄かに判明した変わり者の貴族の隠し子という事で、家が取り潰し寸前だったあの男にとっても、悪い話でなかった。
 彼の口ぶりだと、レティカは館での2ヶ月間、持ち前の奔放さを発揮したようだったが、思わぬ所で成長を見せ、それが、変人・偏屈と称され人と隔絶された日々を送ってきた男に良い刺激となったようだ。
 彼女を送り出した後、たった2ヶ月の仮初の養父でしかなかったはずの彼は、本物の花嫁の父のように目元を拭った。

 当然だが、突然振って湧いたようなレティカに、周りの貴族女性達の目は冷たかった。特に妃の座を狙っていた大貴族の娘達は言うに及ばずだった。それでも、彼女は粛々と教えられた通りに貴族の娘を演じ続けた。
 一方で、彼女は密かに牢に居るはずの仲間との接触の機会を窺っていた。そうとは知らない俺の外出中に、彼女は見てしまったのだった。
 牢には、彼女が助けるよう懇願した5人などもはや居ない事を。

「――どうして!?」
 彼女は、俺と二人きりになるなり、つかみ掛からん勢いで迫った。
 俺は、答えなかった。俺が正直に答えたなら、今度は逃がした彼らと接触を試みるかもしれない。ただでさえ過去に秘密を持つ彼女が、盗賊団と繋がりがあると知れた日には、どうなるか目に見えていたからだ。
「約束……っ、したのに……。騙したのね、あなた……!」
 床に座り込み、涙を流す彼女の若草の瞳は怒りに燃えていた。俺は、生きていると判って二度と会えない苦痛より、死んでしまったと思う事の方が楽だと信じた。だから、本当の事を明かさなかった。
 それ以降、俺と彼女の間には深い溝が横たわった。それでも、彼女は自害などという馬鹿な真似はしなかった。彼女の腹には、俺達の子供がいた。
 床に爪を立て、俯きながら、彼女は憎しみを込めてこう吐き捨てた。
「あなたはずるい……この世で一番の卑怯者よ……!」
 どうか、好きなだけ恨んでくれ。こんな俺の事だけだったら、いくらでも。

 子供が3歳になる頃、レティカはすっかり大人しくなっていた。夫に従順な、セーミズではまさに理想とされる妻。俺がそんなのを望んでいないのを知って、彼女はわざとそうやっている節もあったが仕方がない。彼女にとって、俺は恨んでも恨みきれない憎き男なのだから。
 そうやって仮面夫婦を続ける間に、彼女の関心は、俺よりも、我が子や、その他の事に向くようになったのか、以前ほど俺と話すのも苦痛でなくなってきたようだ。
 学は無かったが飲み込みが早く、城の内情にも詳しくなってきた彼女は、ある時俺を問い詰めた。
「――聞いたわ。新年の改正案、それに、昨年の嘆願書や北の治水工事の事も、全部あなたの手柄だって言うじゃない!? なのに、どうして自分がやったと言わないの!? 今じゃ、これらはあなたとは全然関係のない貴族達の手柄にされて、彼らの議会での票集めの道具にまでなってるわ!! おかしいじゃない!」
「俺が、彼らの名を借りてやったことだ。彼らの面目を潰す訳にいかない」
「どうして――あなたにはそれだけの才能があるのに、それを誇示しないの? おまけに、被るものといったら、反対に濡れ衣ばかり……」
 俺は肩を竦めた。
「結局、国を上手く回すためには、そうするのが一番なんだ。才能豊かな若い家臣が、つまらぬ覇権争いで一つの失敗に足をすくわれて潰されてしまうより、俺のせいってして穏便に済ませた方が、よっぽど国の未来のためになる」
「…………ッ」
 彼女が肩を怒らせた。眉尻は反対に下げながら。
 理解してもらえなかったようで残念だが、考え方は人それぞれだ。そう考えていると、いきなり首っ玉に抱きつかれた。彼女は、俺の背に強く指を食い込ませながら、背を震わせた。泣いているのだろう。
 最初こそ呆然としたが、やがて思い当たって訊ねた。
「泣いてくれてるのか……? 俺の代わりに」
 彼女は顔を上げてきっ、と俺を睨んだ。
「バカ!」
 声と同時、俺の頬に平手打ちを残し、彼女は猛然と部屋を出て行った。

 そんな事があった季節も終わる頃、俺の書斎にある絶対に開けてはならないと言ってあった絹張りの箱が、彼女によってこじ開けられていた。
 こちらに背を向けて箱の前に立ち尽くした彼女の肩を乱暴につかみ、いつぞやとは逆に、俺が彼女を問い詰めていた。
「どうしてそれをッ!!」
 振り向かせた彼女は、強い瞳で俺を見返してきた。
 彼女が握りしめた5枚の紙切れには、拙い字で言葉が綴られている。

『 つらかったら もどってこい  シーサ 』
『 たまのこし、おぬでと。 ほんとはちょつと、やいてる。  う゛ぃーる 』
『 しあわせになれよ 』
『 これからは なをかえて かつどうする  しんぱい すんな  トカ 』
『 れてぃか、 げんきでね !  りず 』

 筆跡は3種。字の書けない二人に代わって、トカが代筆している。……知っていた。それを受け取っておきながら隠し続けたのは、他ならぬ俺だから。
 彼女は俺に、その紙を無言で突きつけた。俺は失意の念と共に吐き出す。
「開けるなと……言ったはずだ――!」
 全ては、彼女の身を守るためにした事。あの5人を解放する際、彼らは一言ずつ紙に書き残して行ったが、妻の過去を隠し通す為、俺は永久に封じておくつもりだった。
 全てが水泡に帰した脱力感に苛まれながらも、俺は、もはや言い逃れできない真実を白状した。その時の俺からは、感情というものが一切抜け落ちていただろう。
 語り終えて、感情の無いまま考えた。ああ、彼女に殺される、と。白い腕が伸びて、俺の咽を刺し、レティカは再び外の自由な世界に舞い戻っていく――そんな所まで、ありありと想像できた。そして、ほんの少し、思った。
(――死にたくない、な)
 自分の命なんて惜しいもんじゃないと思っていたけれど、息子も生まれて、俺は変わったのだろうか。
「みんなは、生きてる……。あたし、独りになったんじゃ、なかったんだ……」
 目の前で、レティカが少女の顔に戻って泣いた。俺は、彼女に腕を伸ばす事もできずに無気力に立ち尽くした。
 後戻りはできない。彼女は彼らともう一度会いたいという欲求を抑えられないだろう。そうしたら、俺は――

 結論から言おう。彼女は、俺を殺さなかった。そして、彼らともう一度会おうなどという、浅はかな真似もしなかった。
 俺はもう、何もかも失った心境だったから、あの後、彼女を無理矢理妃にしたのが、人生でたった一度の自身の意思による我侭だった事も、全て告白した。そして、その答えが――翌年の、二人目の我が子の誕生だった。



 やっと本当の夫婦になれたのも束の間、下の子がまだ7つの時、妻は旅立った。
 完全に、俺の過失だ。俺がしっかりしていれば……いや、そもそも俺が彼女を妃になんて考えなければ……こんな事にはならなかった。
 レティカは、生まれてきた子供達のために、かつての仲間達との交友は金輪際諦めてくれた。ただ、潔い彼女は権謀術数の貴族社会にはどうしても溶け込めず、こっそりと民間の団体を支援していた。それに全く気付けず、安穏と過ごしていたのが俺の人生最大の過ちだ。
 妻はそんな秘密裏の支援活動の最中、命を狙われた別人を庇ってその身に呪いを受けた。彼女はあくまで俺に民間との関わり合いを伏せ、倒れた時には、既に手の打ちようがないまで呪いは進行していた。初期であれば、問題なく解呪できていたというのに……。
 表向き、彼女の事は、苦労の耐えない立場から病に倒れ、急逝した若く美しい妃、と半ば伝説化されており、呪殺と知るのは俺を含むほんの一部の者だけだった。
 ただ、王宮での気苦労が絶えなかったのもまた事実で、妻が亡くなった時、俺は子供達に頭を下げた。すまなかった、許してくれ。こんな父さんと一緒になったから、母様は王宮で不自由な生活を強いられ、人生の大半を奪われたのだ、と。
 すると、11の息子から思わぬ力強い返答があった。
「父様、それは違います」
 妻ゆずりの強気な瞳と気高さを持って、息子は言った。
「強く気高い父様が父で、慈悲深く美しい母様は母であった事、それは俺にとって、最大の誇りです。俺もすぐに大きくなって、父様をお助けします。――リーティス、母様はちょっと遠いところへ行ってしまったけど、お前の事は、この兄様が守る。だから、母様が離れてても、頑張れるな」
 引っ込み思案な下の子は、兄の後ろに隠れるようにしてついて来たが、兄の言葉におずおずと頷いた。
「父様は、何も悪くないと思う……だから、もう謝らないで――」
 右腕に息子を、左腕に娘を抱きしめて、この時ばかりは大の男が、泣いた。



 ――姉上という太陽が去っても、この国ではまた新しいひかりが生まれる。だから、俺は月でいい。太陽が留守のとき、束の間の夜道を照らし出す、夜の月で。



 ――俺の名は、カシール=ファイ=セーミズ。妻に先立たれ、二人の子がいる。
 お姫様みたいだなんて、今はもう、言わせない。






―おまけ―

「父上、その剣(けん)は?」
「これか? ――レプリカだ。ずっとこの城にあった」
「初めて拝見したように思いますが」
「無理もない。なにせ、お前が生まれてからの20年は、ずっと倉庫の中だったからな」
「? それをどうして今更。レプリカとおっしゃいましたが、そんなに価値のある品なのですか。――拝見しても?」
「ああ」
 受け取った剣を検分して、若き王子は言う。
「非常に細やかな意匠が施されていますね。実際に使われた事もあったかも知れませんが、保存状態も良い。芸術品としてなら、相当な値打ちがありそうだ」
 それを聞き、王は嬉しそうに笑った。
「では、こちらはどうだ」
「……それは?」
 王が取り出したのは、もう一振りの剣。
「クレイアに少しの間と言って借りた。どうだ、そっくりだろう」
「……明らかに使用した形跡があります。これでは、芸術品としては……」
 言葉を濁しながらも王子が刀身の輝きから目を離せないのを知りつつ、王はわざとらしく言う。
「ほぅ?」
 剣を鞘に収め、王子は悔しげに白状した。
「いえ、実用としては最高級でしょう。非常によく手入も行き届いている。……素晴らしい剣です」
 国で一番の剣を与えられている自分のと同じくらい、とは言わずともそのしかめっ面から想像できた。



〜あとがき〜

 お陰様で無事、外伝も4作目まで来られました。
 今回の主人公は『地味に凄いヤツ』です。本編進行中も地味に国政で活躍してる凄い人なんですが、出番がありません。第一部では、ライアに自分の娘を嫁がせよーとした張本人様ですね。でも出番はないです。第二部では、真面目にお城でお仕事をしていたため、漏れなく怪異に巻き込まれました。無念。
 ところでこの話、原型考えたのは遙か昔小学校の頃……どんだけ前だ。
(2013/4/21 翠【SuI】) 
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