03- その男



「ねぇ、知ってるかい? この間の事件――北の方で、あの凶悪犯、破壊の天竜が出て、好き放題暴れたって噂だよ。怖いねぇ……」
「やだねぇ、デマだよ、デマ。本物だったら、町が丸ごと消えちまってるところさ。それよりもねぇ……ここだけの話だよ。声を落としとくれ」
「あんたの声が大きいんじゃないかい! 奥さん」
「しっ。あのねぇ、近頃、『西』との緊張が高まってるじゃないかい? それでねぇ、西の領主のモリス様、『あの』滅亡の地竜と裏で取引して、仲間に引き込んじまったんだって!」
「まぁあ……世も末だわね。旦那の事はともかく、子供たちだけでも連れて、西に移るが吉かねぇ」

 八百屋の店先で、立ち話をする奥様方。その横を、一人の青年が通り過ぎて行った。

 青年は、角を曲がり、狭い路地に張られた紐に、ところ狭しと干された洗濯物の下をくぐって、そのまま歩き続けた。
 汚れた服を着た子供達が、地面に描いた丸を踏みながら、はしゃいでいる。
 青年とすれ違ったトラ猫が、無関心そうに、にゃーと鳴いた。

 そのまま、入り組んだ道を迷わず歩くと、青年は、先程商店が並んでいた場所よりも、より一層薄汚れた建物が並ぶ通りへ出た。
 すぐそこの角に、じっと座り込んで動かない、焼けて色の黒い年老いた物乞いがいる。
 通りに御座をしき、その上に寝そべっている者もあった。

 建物にしても、壁と屋根がまともなら、まあ良い方だと言えるだろう。
 中には、屋根や壁に穴が空き、そこにボロ布を当てて、そのまま人が暮らす家もあった。

 スラム街。それが、彼の住む処。


 スラムでは一等地と呼んで差し支えない『高級住宅』の1つに、青年の影は消えた。




 慣れた匂いの平屋に戻ると、彼はぱたんと戸を閉めた。
 戸の間からは隙間風が吹き込むが、出入り口に、まともに機能する戸がある時点で、スラムでは十分に『上等』だ。

 ただいま。
 彼の口から、その言葉は出なかった。

 返事が返されないのに、それを言うのは虚しいと気づいた時点で、彼はその慣習をぱったりやめた。

 部屋は冷たかった。温度がない。
 去年の冬は、このボロ屋で、ちっとも寒いだなんて、感じやしなかったのに。

 ――違った。寒いのではない。冷たい感じがする。

 机も、椅子も、壁に掛かった、カラカラに干からびた、古いドライフラワーも。
 自分以外に触れる者のない、その全てが、温度を持っていないように感じられた。

(みんな――)
 誰も居ない部屋で、彼は一人、うな垂れた。


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