02- 雪道の記憶



 はっ はっ はっ



 途切れ途切れの息。とても、とても体重の軽そうな足音。いまにも降り出しそうな、重い灰色の空。ある、寒い冬の日。
 ――それらは皆、過去の記憶。



(――逃げなきゃ。)

 少女は、走っていた。髪は乱れ、走りにくそうなキルトのスカートから除く細い足には、小さな擦り傷が幾つも見られた。ここまで来る間、草で切ったのだろう。疲労に足がもつれて、転んだこともあったのかもしれない。
 少女の顔色は青白い。それは、もとからの血色でもないようだ。顔面には、疲労が色濃く滲んでいる。
 それなのに、誰も、彼女に手を差し伸べる者はいない。

 それもそのはず、少女は追われる身で、意図して人を避けていた。

(――誰っ!?)
 振り向いた彼女の目に、金髪の少年の姿が飛び込んだ。向こうもはっとした様子で、青い瞳が、少女を見ていた。

 止まった動きを再開するのは、少年の方が早かった。後ろを警戒するように振り向きながら、少女を誘導するように背を押す。見たところ、少年のほうが5つばかり年上で、十台半ばのようだ。
「こっちだ」
「ちょ、ちょっと! ねえ、貴方!!」
 少女の叫びが聞こえていないかのように、状況の割には緊迫感のない顔で、少年は少女の手を引いて走った。

「離してっ!」
 分岐路で、たまたま少年の歩調が緩んだところを、少女は渾身の力を持ってその手を振り解いた。
「…………」
 しばらくきょとんとしていた少年は、それから、気まずそうに頭をかいた。
「ごめん……」
 この少年、どこか反応がずれている、というか、鈍い。
 少女は両手を腰に当て、呆れたように息を吐いた。彼女は、いきなり手を引かれて連れて行かれたことを怒っていたのではない。むしろ、少年の事が心配なのだった。
「貴方、どこの誰?」
「僕? 僕は――」
 答えを待たずに、はなから聞くつもりもなかったので、少女は矢継ぎ早に続けた。
「ここは危険よ。というか、わたしがいるから、危険なの。さようなら」

 年端も行かぬ少女の言葉としては、いささか滑稽であった。

「待って」
 駆け出そうとしていた足を止め、睨み付けるように振り返った少女は、どこか緊迫感に欠ける表情ながらに、少年の瞳が真剣であったことに気がついた。のんびりとして見えてしまうのは、もとからそういう顔立ちだからなのかもしれない。
「僕も、実は理由があって追われているんだ」

 咄嗟の作り話にしては、出来が悪すぎる。
 よほど頭の悪いお人好しでなければ、普通、こんな嘘は吐かない。

 では、嘘でないとするなら、この少年が追われている理由は、一体何なのか。

「君は、そこの下水道を使って逃げて。ずっと南に下るように地下を行けば、この街の包囲網を抜けられるはずだ」
「え?」
 いきなり暗がりに突き飛ばされ、少女は、転げるように階段を落ちた。体を打った衝撃による痛みを堪え、うつ伏せの状態から肘を付いて必死に身を起こしながら、少女は外の光に向かって叫んだ。
「どうして!! どうして、貴方は私を助けようとするの!?」
(わたしは、災いを呼ぶ者なのに――!)
「……え? ……だって、君みたいな小さい女の子を囮にして、自分だけ逃げるようじゃ、かっこ悪いだろ?」
 少年の足音が遠ざかる。やがて、どこかで『いたぞ!』と声が上がった。そして、大勢の人間の声と足音が、少女のいる暗闇から次第に遠ざかっていくのが判った。

(また、わたしは巻き込んだ……)
 ふらりと立ち上がると、少女は、一人の人間を不幸にしてしまった後悔とやるせなさと失意のうちに、のろのろと、異臭のする暗い地下道を歩き始めた。


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