自室で荷物を纏めるリーティスの左手が、ふと左の鎖骨の下辺りで止まった。ここ数日は、丁度その辺り、服と金属性の胸当ての間に差してあったものが消えていた。しかし、堅く引き結ばれたその口元は動かない。
 町外れの森の中では、しおれかけた四つ葉が、泥にまみれ、冷たい雨に打たれていた。
『四つ葉は、古くから幸運の印と言われます。どうかこの先、あなた方の旅に、ご加護がありますように』――…………






STAGE 4 SHIROGANE #1 〜 白銀 #1 〜



 ふつふつと腹の底から湧き上がって来る怒りは冷めやらず、ライアは丸椅子に腰掛けて俯いたまま、沈黙していた。
 悲しくて悔しくて、腹が立ってどうしようもなかった。受けた衝撃は、思ったよりもずっと大きくて、それだけリーティスの事を信用し始めていたんだと嫌でも自覚させられ、ライアは、少しでもあんな人間を信じてしまった自分を、心底蔑んでいた。



「出て行け……!!」
「言われなくても」
 それからは、お互い、相手の姿を視界に入れることすらしなかった。
「ああ、これでせいせいする! じゃあね。――短い間だったけど」
「…………」
 扉とは反対側に顔を背け、無言でいたライアは、扉が開き、閉まる音で、リーティスが出て行ったことを確認した。そして、決して扉の方は向かずに、そのままゆっくりと目を閉じた。
(違うだろ――……?)
 こんなのは、違う。心のどこかでそう叫ぶ声を、ライアは、一度首を激しく振って否定した。

 一方、閉じた戸の裏側で。

 扉を後ろ手で閉め、取っ手から左手を離したリーティスの額には、乾きかけの雨水に混じり、薄く汗が滲んでいた。



「ライ、ア……」
 怖い顔のまま床を睨んでいたライアは、その声にびくりとした。見ると、フェリーナが、ベッドに寝たまま首だけを曲げて、海を思わせる青い瞳でこちらを見ている。
「フェリーナ!? あの――」
 ライアが言いかけた時、フェリーナの口から衝撃的な一言が飛び出した。
「ごめん、なさい……今……の……、聞いて、しまっ……て」
「!!」
 途切れがちのその声は、後悔と、申し訳なさに満ちていた。
「少し、前から……ぼんやりと、意識は、あったん、です……でも、体が……言うことをきか、なくて……」
 その言葉に、ライアは軽い衝撃を受けたが、すぐに気を取り直した。
「いつから――いや、いい! ……今は喋んな。何があったか知らないけど、魔力を消耗してて、苦しいはずだろ……!?」
 押し止めるライアに逆らって、フェリーナは続けた。
「ライア……ーティスさん、を……止め、て……!」
「何であんな奴!! ……あ――」
 反射的に口走ってしまい、ライアは、気まずい場を取り繕うように、それから静かに言い直した。
「止める必要、ねーよ……。だって、あいつが自分で出て行くっつったんだ。それに――聞いちゃった、んだろ?」
 フェリーナは、懸命な眼差しでライアを見詰めている。
「……あんなこと、言う奴だったんだ……けど、気にすんなよ? フェリーナは、全然悪くないんだ」
「違い……ます……。何か、きっと、理由、が……」
 その言葉に困惑するライアの脳裏に、フェリーナを罵った時のリーティスが思い出され、カッと頭が熱くなった。
(フェリーナは、人がよすぎなんだ……!! だって、現にリーティスはああ言ったじゃないか!? それなのに、信じる理由なんて、俺にはもう……)
 思ったが、口には出さず、ライアがやんわりとフェリーナの考えを否定しようとした時、フェリーナが、泣きそうな笑顔でこう言った。
「リーティス、さんは……多分、あんな、ひとじゃ、ない、です……」
 その言葉が、表情が、ライアの胸に突き刺さった。
(フェリーナ……。どうして、そこまで――)
 これ以上、弱っているフェリーナを喋らせるのはライアの本意ではなかったので、大人しくフェリーナの言葉に従おうと決めながら、最後に一つだけ、ライアは確認した。
「でもさ、もし……もし本当に、あいつの言った通りで――そん時は――」
 言い淀みながら、ライアは、それを恐れているのは自分の方ではないか、と思ってはっとした。
「その時は、その時……です」
 弱ったかすれ声は、頼りない響きとは裏腹に、不思議と芯の強さを滲ませて微笑む乙女の口から紡がれた。
 強さと安らぎを併せ持つ、神々しさすら感じさせるフェリーナの表情に、ライアの首は、自然と縦に動いた。
「――分かった。やってみるよ。止めるだけ、あいつを止めてみる」
 ほっとしたように頷いたかと思うと、フェリーナは、ふっと目を閉じた。
 安らかに眠るフェリーナの横顔を見て、ライアは、込み上げてきた想いに胸が熱くなった。
(フェリーナが、こんなになっても、まだ信じてるってのに――これでもし、やっぱ俺が思ったような奴なら……絶っ対、許さねぇ……!)



 しばし時が経過し、2階の廊下から階段を下りたすぐ横で張り込んでいたライアは、ついに目標の人物が下りてきたのを認めて、壁に背をもたれて腕を組み、仏頂面のままで呼び止めた。
「待てよ」
 宣言通り出て行こうとしたところを呼び止められ、何、と一瞥するリーティスと、睨むライアの視線が交錯して火花を散らした。
 リーティスの髪はまだ生乾きだったが、合わせになっている部分から覗く左手だけを残して、上半身のほとんどを覆うケープは濡れていない。
 間があって、それからふいと立ち去ろうとしたリーティスを、ライアが呼び止める。
「おい――!」
「……何の用?」
 振り返らず、リーティスは周囲に響かない程度に声を潜め、感情を抑えながら言った。
「出て行くんだから、文句ないでしょ!?」
 ライアは、紅い瞳でまっすぐにリーティスを見据えた。
「ああ、文句はねぇ。けど、フェリーナが……フェリーナはなぁ! あんなことお前に言われても、まだ、お前を止めろって、俺に頼んだんだよ!!」
 ロビーにいた客何人かは、何事かと、ライア達のほうをちらちらと窺っている。
「へぇ。だから?」
 あの話をフェリーナに聞かれていたと知って、少しは動揺するのかと思いきや、リーティスはあっさりそう言ってのけた。その態度は癇に障ったが、むっとしただけで、ライアは怒鳴り返さなかった。フェリーナの懇願と、あれから少し時間を置いてる事で、少しは頭が冷えている。
 息を吐き、それからライアは尋ねた。
「一度だけ訊いておく。フェリーナに言ったあれ、全部本当なのか?」
「本当」
 無感情に短くそれだけ言うと、リーティスは早足にその場を抜けようとした。
「あっ、待てって!」
 咄嗟に、ライアはケープの下の右手をつかんだ。
「い……っつ!」
 後ろから追いかけたライアには、小さく悲鳴を上げたリーティスの表情の変化が見えなかった。
「離してッ!!」
 振り返ったリーティスの眼差しには、鬼気迫るものがあって、さしもライアでも気圧されそうな勢いだった。だが、寸でのところで逃げられそうになるのを、ライアは右手首を強く握り直して捕まえた。途端に、リーティスが顔を歪め、歯を食い縛った。
「う、くぅっ――」
「! ……お前、まさか……!?」
 あのリーティスが、僅かとはいえ、目の端に涙を浮かべていた。只事ではない。
「やっ!? ちょっと、離してよ! 離してってばっ、あ――」
 リーティスの抗議と抵抗を無視して、ライアは、かかっていたケープを剥がした。
「……っ!!」
(ひでぇ――)
 それは、思わず目を背けたくなるような有り様だった。
 いつもは両手にしている、肘まである長手袋は着用せず、手首と肘の下、2箇所に巻いた布の間から、素肌がさらされている。しかしその色は見るも痛々しい赤紫で、うっ血して、ぶよぶよと腫れていた。
(折れてる……?)
 リーティスが自分で施したのだろう。肘から下を細い木の棒と一緒に布で巻いて、添え木していたことからも、骨折は疑いようがなかった。
「どうしたんだよ、これ……!?」
 恐る恐る、その手首を動かさないように支え持ち、しかし離してしまうことのないよう慎重に力を加減しながら、ライアは複雑な表情で、リーティスの顔を見た。
 リーティスは、歯を食い縛り、悔しげに斜め下を睨んでいた。このまま何も言わずに手を離せば、彼女はこのままスロウディアの地を去り、二度とライア達の前には姿を現さないことだろう。そしてそれこそが、リーティスの願った、一縷の望みでもあった。
「……逃げんなよ?」
 しかし無慈悲にも、その願いを打ち砕くように、ライアは低くそう言って釘を刺した。
(このまんま消えられたら……いくらなんでも、気分悪すぎだ!!)
 思い返せば、リーティスが宿に戻って来た際、何も出来ずにいた自分への苛立ちから、勢いに任せてかなり酷い言葉もぶつけた気がする。
「……さっきは、俺も悪かったよ……今度はちゃんと、話、聞くからさ。な――?」
 ライアが非を認めたところで、リーティスは目を合わせようともしない。かと言って、手を振り解こうとする気配もなかったが、こうして大人しくしているのは、往生際悪く、今も機を見て逃げ出そうとしているからだと、ライアには何となく察しがついた。
 ため息をひとつ吐くと、ライアは仕方なく、リーティスの左肘をがっちりと抱え込むようにして捕まえて、強攻策に出た。
「……! 〜〜!! ――っ!!」
 他の客を憚ってか、大声は出さず、もがいて抵抗を試みるリーティスを、半ば引きずるように、ライアは腕ずくで自分の部屋まで連れて行った。そして、部屋の内向きに開く戸をばたりと閉めて、戸に背中と両手をついて張り付いたような姿勢のまま数センチずり落ち、ライアは、自分のほうが気疲れした気分で、深く息を吐いた。
「何があったんだよ?」
 リーティスは、左手で右の肘を押さえながら、黙って右斜め下を睨んでいる。
 ここに来てなお、口を割ろうとしないリーティスに、ライアは語気を強めた。
「なぁ!? そんな腕じゃ、ほっといたら剣も握れなくなっちまう――……!!」
「構わないでよ!!」
 その言葉を遮るように、左手を耳に当て、頭を抱え込むようにしながら、リーティスは言った。
「いいの! 家に帰ったら、召使いたちが、何だって私の代わりにしてくれるもの!! 私は、何もしなくたって……例え両手両足が使えなくなったって、不自由なんてしやしないんだからっ!」
「いー加減にしろ!!」
 べしっ
 近付いたライアが、リーティスの頬をはたいた。
 リーティスは泣き出しそうな顔で、歯を食い縛り、壮絶な眼差しでぎろりとライアを睨んだ。だが、既に怒りも冷めやり、冷静になっているライアは、その程度のことでは動じない。
「意地張んのも、たいがいにしとけよ――? 何でもいいから、早くどうにかまともな治療しとけっつってんだよ!?」
 ふと、ライアは扉越しに背後に立つ気配を感じた。
「あの、ライア、居ますか……」
 扉の向こうで響いた声に、二人は一瞬、動きを止めた。リーティスの反応は特に顕著で、声にびくりとしたかと思うと、そのまま凍り付いた。
「ああ。今開ける。待ってくれ」
 青ざめているリーティスに視線を送ると、ライアは少しだけ戸を開けて、その隙間から身を乗り出すようにしながら、ちょこんと廊下に立っていたフェリーナと言葉を交わした。
「起きて、平気なのか……? ……ああ。今引っ張ってきて、話聞いてるとこで――……ん。ちょっと待っててくれるか?」
 小声で会話が交わされている間、生きた心地もしなかったリーティスは、一度は、本気で窓を開けて逃走しようかと考えた。雨は止む気配もなく、利き手は使えず、ここが2階であると解ってはいたのだが。
「……リーティス」
 部屋の中に向けてライアの声が響き、リーティスは身を竦ませた。
「ぁ――……だから、……」
 怯えるように身を引きながら、リーティスが必死に自らの内の混乱を鎮めようとしているうちに、フェリーナが、半ば強引に戸の隙間に身を潜り込ませた。
「のぉわ!?」
「失礼します」
 小柄な彼女は、するりと、簡単にライアの脇の下をすり抜けて部屋に侵入した。
「フェリーナ……」
 色の抜け落ちたような瞳で、リーティスは愕然とフェリーナの顔を見た。
 意外なところで発揮されたフェリーナの積極性に内心では驚きながら、ライアは開きっぱなしだった扉を静かに閉めた。
「何があったのか、教えて下さい」
 そのしっかりとした口調は、先程まで寝込んでいた人間のものとは思えない。フェリーナは、優しく諭すでも、咎めるでもなく、ただ真摯にリーティスの瞳を見て尋ねた。
 リーティスが口ごもり、フェリーナが小さく声を上げた。
「あっ……」
「……え?」
 一瞬頭に疑問符を浮かべたリーティスは、右腕が隠れていない事に気が付いて、慌てて隠したが、もう遅い。
 ライアが止める間もなく、普段の彼女らしからぬ気配を纏ったフェリーナは、つかつかとリーティスに歩み寄った。そう言えば、最初に会った時、けが人の治療に臨んでいた時も、こんな感じだったっけな、と、ライアは呑気に思い返していた。
「診せて下さい!!」
「やっ……!? 駄目だって! ライア馬鹿とめてよ!?」
(……って俺、どうすりゃいいんだ?)
 どちらも必死で、止めるべきなのかライアが悩んでいると、リーティスが叫んだ。
「こんな状態で魔法なんて使ったら――!」
(やべっ!? 忘れてた――!)
 ライアは、言われてようやく、リーティスの抵抗の意味を理解した。フェリーナがあまりに毅然としているのでライアは忘れかけていたのだが、彼女のほうこそ、今は絶対安静の身だ。出会ってからこれまでのフェリーナの動向を見るにつけ、自分を犠牲にしてでも他人を助けてしまうのではないか、という不安が二人にはあった。
「使いません」
 しかし、フェリーナがきっぱりと宣言したことで、ぴたりと悶着は途絶えた。
(――? ……ううん、そうだよね。いくらけが人て言ったって、私、あれだけ酷いこと言ったんだから……そんな相手を魔法で治してあげようなんて、普通、考えないよ……)
 リーティスが息を吐き、肩の力を抜いたかと思ったその隙に、フェリーナは魔法のような手際であっという間に邪魔なケープを払い除け、添え木を外していた。リーティスがはっと息を飲む頃には、フェリーナは臆せずにじっと、酷い状態の患部と睨み合っているところだった。
「――ライア。冷たい水か氷水を、金属のボウルに貰ってきて下さい。それと、できたら患部を固定できるような清潔な布も一緒に、お願いします」
「分かった」
 複雑な表情をしているリーティスに、ライアは出がけに視線でこう訴えかけた。
(もういい加減、諦めて、任せちまえよ)
 ライアが1階に降りていく足音が聞こえ、フェリーナはリーティスをベッドに腰掛けさせると、自分はそこに跪いて、うっ血している部分にそっと手を触れながら言った。
「リーティスさんは、私の事、嫌いですか」
「えっ……」
 腫れた皮膚の表面を、親指でかなり慎重に軽く押さえていっただけなので、リーティスに触られたことによる痛みはほとんどなく、寧ろフェリーナの冷たい指先は、熱を持ってずくんずくんと痛む肌に心地よかった。
「嫌いでも、構いません」
 喋りながら、フェリーナはリーティスの肘を支え、少しだけ腕の角度を変えた。途端に、鋭い痛みが走って、リーティスは、いっ!と小さく悲鳴を洩らした。あまり腕を動かさずに済むよう、自分の頭の方を動かして診察を続けながら、フェリーナは言った。
「でも、治療はちゃんと受けて下さいね? こうなった以上、リーティスさんは私の患者さんです。きちんと治すまで、逃がしませんよ?」
「…………」
 フェリーナは、骨折の状態を診つつ、しっかりと自分の言葉に対するリーティスの顔色や反応も覗っていた。そして、今までの反応から、フェリーナが確かめたかったそのことについては、ほぼ確証を得ている。
(やっぱり……あの言葉は嘘、ですね?)
 フェリーナは、努めて淡々と述べた。
「私もライアも、あなたが黙って出て行こうとするのを、みすみす逃すつもりはありません。それだけは、覚悟しておいて下さい」
 ライアがいないこの場が、最後のチャンスかもしれない――そんな思いを見透かされたかのように念を押され、リーティスはうっ、と詰まった。外は豪雨で、しかも夜だ。今日中にどこかへ逃れられはしないことくらい、冷静になってみれば、リーティスでなくともすぐに解る事だった。
 フェリーナは、もう、と可愛らしくむくれっ面をしながら、とどめにこう言った。
「そんなことをしたら、町中に迷子のお報せをかけて、シエラさんのところに即、連行しちゃいますから。言っておきますが、あの人、言うこと聞かずに逃げ出そうとする患者さんなんて、きっと平気で縛り付けちゃいますよ?」
「ごっ……ごめんなさい!」
 リーティスの負けだった。
 おそるおそる、リーティスが顔を上げる。態度は平静でも、実はものすごく怒っているのではないか。いや、怒らせて当然のことを、自分は言った。
(――へ?)
「やっと、観念してくれましたね?」
 そこには、悪口を言う前と変わらない微笑みを向けるフェリーナがいた。
「言えないことがあるなら、言わなくて構いません。でも、できたら、何があったのか、遠慮なく喋っちゃって下さい」
「ごめん……ほんとにごめん……!」
 リーティスには、ただ謝るしかできなかった。思いのほか、強い信念と心を持ち合わせていたフェリーナ相手に、これ以上、リーティスの嘘は通用しようにない。
「大丈夫です。怒ってなんか、いませんから……」
 そこへ、ライアが戻って来た。リーティスは慌てて、熱くなりかけていた目頭を、瞬きをして冷ました。
「よかったな。たまたま、ここの厨房に入って修行してる見習いさんが、氷の護属性持ちで。セーミズじゃどうだか知らないけど、スロウディアじゃ、珍しいんだからな?」
 言いながら、ライアは、氷の浮いた水を手近な台にのせ、腕にかけていた大きめの布をベッドの上に置いた。
「さぁ、大人しくしてて下さいね。触ると痛いでしょうが、我慢して下さい」
「あう……りょ、了解……」
 慣れた手つきで、フェリーナは骨を正しい状態に合わせて添え木で固定し、くるくると上から包帯を巻いた。その上で、ライアに借りてきてもらった大きな布を三角になるよう二つ折りたたんで、右手を首から吊り下げる形で留めた。
「はい。できました」
「……ありがと」
 リーティスは複雑な気分だった。本人が起きていると思わなかったとは言え、さっきあれだけ罵った相手に治療を受けることになるなんて、妙な気分だ。
(あーあ。どうしてこうなっちゃたんだろ? 本当なら今頃、セーミズに帰るために、あれこれ手配してるところだったのに……)
 後悔しているのか、ほっとしているのか、それはリーティス自身にもよく解らなかった。
「あとは、これですね。はい、中の水をこぼさないように注意して、患部を冷やしてあげて下さい。……本来なら、もっと早い処置が望ましかったんですよ?」
「はい……」
 治療がひと段落つくと、フェリーナは立ち上がった。と、その足元がふらついて、横からライアが肩を支えながら言った。
「おい、大丈夫か? 休んだほうが――」
「はい、ちょっと……無理、しちゃいました、ね……」
 フェリーナは、きまりが悪そうに微笑んだ。



 急遽、話し合いの場はフェリーナの個室に移された。ベッドには、フェリーナが仰向けに体を横たえている。きつかったら眠っていいんだぞ、というライアの言葉に、大丈夫です、と言葉が返された。
「じゃ、聞かせてもらうからな」
 椅子は怪我人に譲って、ライアは備え付けの台に寄りかかりながら言った。
 リーティスは、右腕を冷やしながら、神妙な面持ちで頷くと、語り始めた。
 宿にライアを残して一方的に飛び出してから、リーティスは、フェリーナに縁がありそうなところ、と、直感的に診療所の門を叩き、それが当りだった。
 診療所の中から出てきた女性は、リーティスにこう話した。
「フェリーナ? そぅねぇ、ちょっと遅い気もするけど。私ね、急患で手が離せなくて、西の森までお使い頼んじゃったのよ。でも、あの子ならここの土地にも慣れてるし、心配することないと思うわ」
「そうですか。分かりました」
 何食わぬ顔で返事をしておきながら、リーティスはそれから真っ先に、夕暮れ時の森に向かった。
 そして、そこで信じられない出来事に出くわした。
「――なんだよそいつ!? 素手で剣叩き折ったなんて、嘘だろッ!?」
 話の途中で、ライアは素っ頓狂な声を上げた。ライアは、リーティスの剣が実戦で振るわれるのを見ているし、それが玩具などではなく、正真正銘、鋼製であることを知っている。
「ほんとなんだって! ……見たいなら、私の荷物の中にあるから、後で見せてあげるよ……」
 らしくない様子で弱々しく言ったリーティスに、ライアは、それ以上疑うこともできなかった。
(一体――2人に、何があったって言うんだ――?)
 まだフェリーナの話は聞いていないので、その辺りの関連は謎だったが、リーティスの話が本当なら、何か、とてつもないことに巻き込まれたのではないかという予感がする。
 外では、一旦は弱まった雨足が再び強くなり、風が吹き荒れ始めていた。



 彼は、影のようにただそこに立っていた。夕映えの森にその姿は溶け込み、或いは、普通の旅人がすぐ近くを通りすがったとしても、彼の存在には気付けなかったかもしれない。
 ふと、彼の耳は、遠くで落ち葉を踏み分ける、かすかな物音を察知した。獣のそれとは違い、二足で歩くものの足音。足音の軽さからして、ライカンロープ(獣人)やギガント(巨人)のような魔物や、体格の大きな人間ではない――と、そこまでを彼は一瞬にして読み取った。
 正直、あまり、乗り気ではなかった。しかし、行かなくてはならない。
 次の瞬間、彼は風のようにその場から移動していた。
「だ――誰っ!?」
 音もなく地面に降り立ったかのように、振り向くとそこに居た彼に、少女は身構えた。
(成る程。剣士の端くれだったか。道理で鋭い)
 武道の心得でもなければ、目深に被ったフードを不審に思いこそすれ、彼はいつからそこに居たのだろうと、首を傾げるに過ぎなかったろう。しかし、目の前の少女は、風のように現れた彼の力量を推し量ってか、かなり警戒した様子を見せている。
 フードの影になった萌黄色の瞳で、少女を見ながら彼は言った。
「今、この森に入ってはいけない――」
 その声は波の無い水面の如く静かで、子供ではなく、かと言って、歳をとっているようでもない。背は、リーティスより頭一つは高い、長身だった。
 少女は、目の前の存在が纏った気配に戦慄しながら、気丈に言い返した。
「あ……貴方は、ここで何をしているんですか? ご忠告、痛み入りますが、捜さなくちゃいけない人が、今この森にいるんです!」
「だめだ」
 その声は、揺ぎ無い。
「――人捜しなら、もうしばらくしてから来るといい」
 少女は息を飲み、それからじっと彼を睨んだ。
「もう一度だけ警告する。すぐに、この森から立ち去るんだ」
 それが、最終宣告だった。
 それが判った少女は、意を決すると、シャッ!と鋭い音を立て、腰の剣を抜き放った。
(そう来るか――本意じゃない。けど……)
「残念だ……」
 ぽつりと独り言を洩らし、彼はフードを押さえながら少女に迫った。その動作は、驚くほど自然で、速い。
「!!」
 いきなり突き込まれた拳を避けるようにして、少女は体をずらした。
 そこからは、彼はもう、一言も言葉を発さなかった。この程度の打撃なら、無言のうちに、いくらでも繰り出すことができる。戦士として育てられた彼には、もはや体に刷り込まれた動作だった。
 息つく間も与えられず、防一戦だった少女は、いつの間にか道から外れ、相手の意のままに誘導されていることに焦りを覚えた。
 そのうちに、戦いの場は、人気のない、樹木のまばらなやや開けた場所へと移った。
 ここならば、無関係の者を巻き込む恐れは少ない。同時に、余程の事が無い限り、目撃者は皆無だ。
「ねぇ! 一体何が目的で、こんな――」
 言いかけて、少女は口をつぐんだ。相手は、静かに自分を見据え、構えを取ったまま動かない。自分には、口を利いている余裕などない。それだけ力量に開きがあることを、冷や汗混じりに、少女は自覚していた。
 少女が、切先の延長線上を相手の咽元に向ける剣の構えをとり、場に一瞬の静止状態が訪れた。
 彼が地を蹴る。間合いを縮めるのは、一瞬だった。
 少女の剣が閃き、次の瞬間、勝負は決していた。
 ギィイン!!
 金属の破断する耳障りな音と共に、何が起きたのかを、少女は理解することが出来なかった。
「あうっ!」
 うつぶせに倒され、背中に圧し掛かる体重に、肺の空気が押し出された。
「くっ……」
 抵抗しようと試みても、無駄だった。乗っていたのは片膝だったが、背が高く、筋骨逞しい彼は、どう見ても少女の倍近く体重がありそうだった。
 先程、剣を真っ二つに両断した際、手刀に込めた力――“気”を用いたなら、骨を砕くどころか、腕を落としてしまうことすら可能だった。
「ああああっ!!」
 ぼきりと、嫌な音と共に、少女の悲鳴が上がった。
 気を失う直前、少女が最後に見たものは、フードが外れて去りゆくその背に零れ落ちた、一筋の白銀だった。
 そして、完全に気を失った少女の上に、ぽつりぽつりと、雨粒が落ち始める――……





 ―― intermission ――

「へぇー? やっさしいじゃん。殺さなかったんだ」
 それは少年の声だったが、最後の一言は、まるで感情を感じさせない、ぞっとするような声色だった。
「戦う手段は奪った。充分だろう」
「そう? オレだったら、ずたずたに切り裂いて、もっといたぶって鳴かせてやってから、とどめ刺してるとこだけど。ま、いいや。撤収だってさ」

 ――They still out of the stage ....





 痛みに目を覚ました少女は、立ち上がると、雨に濡れながらふらふらと町のほうへ向かって歩き出した。
 少女がうつぶせに倒れていた場所に、幸運をもたらすというひとひらの葉が、誰知ることなく、置き去られていた。



「……無茶苦茶だな……」
 実際に折れた剣を見せられて、ライアはぼやいた。リーティスの使っていた鋼の剣は、刃の柄に近い部分で、ぽっきりと二つに断たれていた。
(リーティスが見た限り、相手は素手だったって言うけど……どうやったらこんな風になるんだ? 魔法――だとしたら、地の魔法辺りか? 高温の炎だったら、熱で変形するからこんな断面にはならないし、風や氷の刃でも、多分、こんなことをするのは無理だ――いや待て。“気”……?)
 ライアは昔、教養の一貫として、補足程度に説明されたその記憶を呼び覚ました。
(魔力を魔法として具現化するんじゃなくって、直接魔力を“気”として纏って、うんたらかんたら……あーっ、ちくしょう! やっぱちゃんと先生に話きいとけばよかったっ)
 とは言え、魔法には造詣の深いライアの恩師とて、“気”については専門外であったろう。逆に、城の兵舎辺りなら、知識のある者を一人や二人、見つけられたかもしれない。“気”を操るのは、魔法使いとして修行を積んだ者ではなく、武道家としてその真髄に達した者であるという。習得した者も珍しければ、研究されることも滅多に無く、詳しい事は解明されていない。
「それで、さ――……」
 ライアが考え込んでいるところへ、リーティスが言いにくそうに切り出した。
「私、もうこの町でお別れしようと思ってる」



 その言葉を聞いた時、ライアは一瞬、思考が停止した。
(別、れ……!?)
「なんでだよ!?」
 子供じゃあるまいし。そう自覚しながらも、ライアは考えるより先に叫んでいた。
「フェリーナがどうこうって、あれは全部、嘘だったんだろ!? フェリーナも、リーティスのことはもう許してんだし、何が問題で――」
「……戦えないから」
 すとんと、何かがあるべきところにはまったように疑問が解消すると同時に、ライアは、何と声をかけたらいいのか、それが分からなくなった。
「右手がこんなんじゃ、しばらく何も出来ないし。それに、ね」
 リーティスの視線は、折られた剣のほうに向けられていた。豆腐しか切れないなまくらならともかく、それなりの剣を手に入れるには、やはりそれなりの金が必要となる。加えて、この町はあくまで宿屋町であり、あまり質のいい武具は期待出来ない。良い剣を手に入れるには、城下のような大都市や、交易が盛んな街、あるいは鉄鋼業と鍛冶が盛んで、武器防具、その他の金物を売ることで外から金を得ているような町でないと厳しい。もちろん、質の良いものほど値は張るが、魔物との戦いでは命を預けることになるものだけに、変な妥協は許されなかった。
「心配しなくても、怪我はちゃんと治して帰る。フェリーナにも釘刺されちゃったし」
「……いいのか?」
 引き止めるのは無粋だと分かっていながら、しかし自分が城を飛び出すのにどれだけの決心が必要だったかを思い出し、ライアは尋ねた。
「ほんとうに、このまま帰っちゃって、後悔はしないんだな?」
 リーティスは、歯を食い縛って、言葉を飲み込んだ。今この状況では、どの道、見破られる嘘しか答えれそうになかった。
「帰るって、決めたの」
 ライアの質問には答えず、ただ、リーティスは胸に決めたその言葉だけを辛うじて口にした。
「……そんな顔したまま、家に戻るつもりかよ?」
 まるで、聞き分けの悪い、ふて腐れた子供だ。皮肉を吐きながら、ライアは自分でそう思った。自己嫌悪が手伝って、リーティスの顔をまともに見ることが出来ない。
 引き止めたのは、リーティスの気持ちがどうこうよりも、単に、ライア自身、別れが辛いだけなのではないか。本人が家に帰ろうと決めているのだから、本来、自分に引き止める権利なんてない。
 ふと、拳を固めたリーティスが、隣の部屋にも聞こえるであろう大声で叫んだ。
「っ!! だいたい、ライアが止めるからいけないのっ!!」
(な!? 逆ギレかよ!?)
「余計なことしてくれなきゃ……あのまま普通に、帰ることが出来たのに……」
 ぶつくさと、床を睨みながら、リーティスは文句を言った。
「なっ……それって八つ当たりなんじゃ――」
 言いかけて、ライアははっと思い当たった。
「ってまさか!! わざと追い出される為に、フェリーナの悪口言ったなんて言うんじゃないだろうな!?」
 ぎっ、と、下目遣いにリーティスがライアを睨む。
「そーよ!! 悪い!? 何か文句ある!?」
「〜っ!?」
 あっさりとリーティスが本音を暴露し、そこからはもう、お互い、虚言も駆け引きもほっぽり出し、言い合いになった。
「悪いに決まってるだろ!! 文句大有りだ! ちゃんとフェリーナに謝れよ!」
「謝ったわよ!」
「本当か? どーやって謝ったか言ってみろ」
「そんなの……ああもう! それだったらフェリーナに直接訊いて確かめればいいじゃない!?」
「こんな衰弱してる女の子に、喋らせられっかよ!? 誰かさんと違って、フェリーナは繊細なんだからな!?」
「あのぅ……もうちょっとお静かに……他のお客さんに、迷惑ですから……」
「ほら。言われちゃったぁ」
 リーティスは、まるでライア一人に非があるかのように言った。まどろみかけていたフェリーナは、言い争う2人の声で、意識が引き戻されてしまった様子だ。
 だがライアも、甘んじてそれを受けるほど大人ではなかった。
「何だっ? そっちの声のがでかいだろ」
 こそこそとトーンダウンしてゆきながら、しかし争いは一向に収まる気配がない。
「出てくんなら、ふつーに帰るって説明して出てきゃいいんだよ! フェリーナを巻き込むな!」
「何よっ、最初に、私がやったんでしょみたいなこと言ってきたのは、ライアのほうだったじゃない!?」
 フェリーナに注意されてからこっち、小声で叫び合っている姿は少々滑稽だ。
「うっ……あれは――けっ、けど、そっちだって否定しなかったろ!?」
「否定したって信じないって顔してた」
 リーティスの減らず口に、ライアは所詮、男は女子に口で勝とうとしたって無駄だとう、いつかどこかで聞いたどうでもいい真理を思い出していた。
 無い知恵を絞り、ライアはどうにか話題を逸らそうとする。
「でも、関係ないフェリーナを傷つけたのは事実だろ!?」
「ああでもしなきゃ、未練が残っちゃうじゃない!」
「だったら、まだ帰らなきゃいいだけの話だろ!?」
「だから、それが出来たら苦労しないって言うの!!」
「〜〜!!」
「……、――!!」

 そして、最終的に。

 眠っているのか覚醒しているのかよく判らない状態で、しかし一応は意識のあったフェリーナと、長きに渡る論争の果てにすっかり疲れた、二人の姿があった。
 こちらの隅では、ライアが疲れきったようにしゃがみ込んで頭を抱えており、あちらでは、リーティスが赤い目元を擦りながら、鼻をかんでいた。
「もう……今日はここまでにしよーぜ……」
 げんなりと、ライアが先に終戦を申し出た。
「家に帰るかどーかなんて、俺達が発つ日までに決めりゃいいことだろ……」
 フェリーナもこのような状態であるし、リーティスがパーティーを離れるにしろ、残るにしろ、どうせライア達は2、3日は動けない。リーティスはリーティスで、骨折の療養に努める約束をしているので、同様にこの町に留まる事になるだろう。
 リーティスが、『まだ帰りたくなんかないけど、帰ることは決めた』という主張を最後まで曲げなかったせいで、結局、議論は平行線のまま打ち切りになった。
 心なしふらふらと、ライアは一足早く自分の部屋に戻って行った。あの様子だと、そのままベッドに直行で、明日の朝にはしゃっきり目覚めて、きっと、今日のわだかまりのことなど、きれいさっぱり忘れているに違いない。そんな底なしの能天気さが、リーティスには少しだけ羨ましくもあり、恨めしくもあった。
 普段ならば到底、人前で涙など見せられないリーティスだったが、最後にはもうただの口喧嘩と化した口論のどさくさで泣くことができて、少しはすっきりしたのかも知れなかった。
 涙もすっかり枯れ果て、ちり紙をくずかごに捨ててから、リーティスが小さくおやすみ、と言うと、返事はなく、すやすやと小さな寝息だけが返ってきた。
 すっかり氷の溶けてしまった水の容器は、片手での持ち運びも不便なのでそこに置かせてもらい、灯りを消すと、リーティスはそっと部屋を去った。


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