STAGE 39 Go-go-go! 〜進撃〜



 ――その年の夏、9羽の魔鳥がヴィータ渓谷を目指し羽ばたいていた。
 背には、それぞれ1人ないし2人の人を乗せている。
 彼らは皆、血縁者だった。ミース教の教義では、家族を残して自ら死に向かうことは極めて重い罪とされる。それ故、命を落とすかもしれない任務に、男と、その娘達、長女の婿、それに男の妹とその息子達は一丸となって立ち向かおうとしていた。
 ヴィータ渓谷――通称、『悪魔の爪痕』。その細い谷の気流は読み難く、翼あるもの達の侵入すら拒み続けてきた。彼らは、まさにその難所へ挑もうとしている。
 遂に訪れた降下の時。次々と渓谷に吸い込まれていく魔鳥たちの中で、本能的危機を覚えた一羽が暴れ出し、背のヒトを振り落として逃げた。更に別の一羽、まだ10代前半ばの少女を乗せた魔鳥も乱気流に巻かれ、コントロールを失った。谷底へ消えたリーダーの男の妹。それに続いて落ちゆく少女。間近でそれを目にした義兄は、魔鳥を駆って必死に手を伸ばし、少女の腕をつかむと谷の上へと退避した。

 少女は義兄と二人きり、谷の上に残された。姉達は、父は、従兄弟達は、暗く深い悪魔の爪痕から、いまだ戻らない。
 本来、彼らもすぐ後を追わなくてはならなかったが、落下のショックから立ち直れずに泣き出した少女を連れて再降下することは、義兄には躊躇われたらしい。少女が落ち着くのを待つうちに、彼らは後追いの機を逃しつつあった。

 2日が経ち、2人とも精神的に憔悴していた。義兄は愛する人を、少女は父と姉たちの帰りをじっと待ったが、何も起こらない。谷底での作業そのものは、順調なら半日で済むものだ。
 無事にしても、渓谷の気流に邪魔されて、魔鳥の力では上がって来られないのに違いなかった。
 崖の縁で待ち続ける少女の後ろに、義兄が立つ。その意味を、少女も共有していた。
「お義兄ちゃん……パパは、お姉ちゃん達は、ちゃんと、谷の底でお仕事できたんだよね……?」
「あぁ……そうだ」
 言って、義兄が自分の魔鳥に目をやると――あろうことか、谷に向かおうと覚悟が決まったこの時になって、魔鳥は彼らから離れ、大空高く舞い上がった。
「…………」
 少女と、その細い肩を支える義兄は、ただ呆然と魔鳥の影が消えた空の彼方を見詰めるしかできない。だがその驚きの顔は、やがて、不思議な穏やかさに変わっていた。
 差し出された義兄の手を、少女が取る。
「――パパ達の、所に」
「大丈夫。一緒に、行こう」
 そうして、二つの影は渓谷に消えていった。魂だけでも、楽園に行きつく事を信じて。



 寒さが緩み始めたエスト大陸の西岸に、一隻の船が到着した。
 降りてきたのは、異国の髪や眼の色をした若者たちだ。中にはスロウディア以南で見かける青い髪やブロンドの者も混じっていたが、この時勢に外国からの観光とは珍しい。原因不明の怪異以来、被害を怖れて港を行き来する船の数も減っている。それでも船が運航しているのは、こんな時だからこそ稼ぎ時だと考える商魂たくましい人々の情熱の賜物であった。
 ここ『自治区』は、地理的にスロウディアの西端に位置するが、実質どこの国の支配も受けていない。この地区にはこの地区独特の掟があり、その中で、他国では違法となる交渉や闇取引も行なわれている。
 到着したばかりの異国の一行は、まとめ役らしき美青年に続いて、自治区の市場通りに差し掛かった。
「あ〜〜っ!」
 突如、地味なフードを被って露店の店番をしていた女が立ち上がった。
「ちょっと! そこのお兄さんっ。ねぇってば!!」
 最初、自分の事とは思わなかった青年は、女に手招きをされて怪訝そうに露天の前へ行く。近くまで来ると、女は打って変わって囁き声で尋ねた。
「ひょっとして――『アルディスさん』?」
 空色の瞳は周りを警戒して、それから小声で返す。
「そうですが……貴方は」
「きゃー! うっそ! やばい、超美男子ー! ね、なんか買ってかない? イケメンには特別値引きしてあげちゃうっ」
 何事かと、青年の周りに仲間が集う。アルドは冷静に女の意図を察して、仲間に普通の客の振りをするよう合図した。今ひとつ事情が飲めないまま品物の物色を始める仲間達の会話に紛れ、話を再開する。
「(どうして、僕の名前を?)」
「(わたしはね、『対策課』のメイナよ。話は聞いてる。その様子だと、向かう先はアリヤってとこでしょ?)」
 一方で、メイナは周囲に怪しまれないようセールストークを挟む。
「うわぉ! おねーさんも美人。どうですかー、この黄乱晶石(きらんしょうせき)、今ならオドロキのこの価格!」
「高いわね……純度Cランクってとこじゃない」
 ウィリアが、半ば本気でメイナの勧めた品物を手に取り検分する。
「(ちぇ。どーせわたしが合成したのはCランク扱いですよーっだ)」
 メイナの呟きに、魔女の声が裏返る。
「待ちなさい!? 合成したですって!?」
「(ちょ……声が大きいです、おねーさん。だから言ったじゃないですか、『対策課』って)」
 魔力を籠めるのに適した乱晶石はその大半が天然で、合成するとなると高い技術と相応の設備が必要になる。
 アルドが注意深く聞き返す。
「(待ってくれ。ローゼスの対策課は――)」
「(そーなの、こっちも内通者が出たり本部が敵襲で壊滅とかもー色々大変で。特にあんの長髪野郎! カイ姐さん捨てて寝返るたぁ、許すまじ!!)」
 その後の会話で、逃げ延びながら怪異の大元がアリヤだと突き止めた課員の面々と、各地に散らばっていた協力者がアリヤ国境付近に集いつつあると伝えられた。メイナは、アリヤ突入の日まで行商に扮し、ここ自治区を警戒する任に当たっているらしい。従って彼女はここを離れる訳に行かず、アルド達にアリヤ突入前線基地(仮)の場所を教えた。
「まいどーっ! おねーさん、いい買い物したよ!」
 そして割と本気の価格交渉の末、ウィリアに黄乱晶石1本分の値段で3本を売りつけたメイナは、去り行く一行に手を振った。原価を考えると、美形のアルドを気に入ったというのも世辞ではなかっただろう。

 自治区到着より2日。アルド達はスロウディア領最南端の町、ラベットを訪れていた。国境を越えれば、そこにアリヤ領の森が広っており、その先にアリヤの中枢たる水の都がある。地図上の距離だけを見れば、旅人の足で半日もあればラベットから徒歩で都に行ける計算である。
「問題は、そこが幻惑の森と呼ばれていて、どういった原理か、迷いなくアリヤを目指す者だけが森を抜けられるという点なんです」
 課員の中でも比較的大柄なリストは、落ち着いた口調でそう説明した。そのように原理が明されない神秘は、世界にまだ多数存在した。スロウディア領、月眠りの森もその一つである。
 対策課が勝手に前線基地認定をしたラベットには、ライア達と面識のあるメリルやカイといった他の課員の姿もあった。
 カーラの前例があるため、当初こそ、再会した彼らに気を許さないアルドだったが、アリヤ側に抱き込まれた数名の課員の誘導でローゼスの本部が襲撃され、乗っ取られたというリストの説明に矛盾はなく、大都ルーレイで接触したカーラのような一部の者だけが寝返ったものと今は納得している。蜘蛛の怪物を倒した後に通信用の石版が爆発したのも、恐らく本部を強襲した者達の仕業だ。
「まあ、逆に言えばその幻惑の森のお陰で、陸路からはアリヤに外敵が入り込む余地がなく、これまで武力を持たずとも争いは避けられてきた訳ですが……」
 リストが複雑な面持ちで述べた。
 アリヤはエスト大陸の南端と近隣の諸島から成る国だ。領内の島ひとつひとつならともかく、都のある南沿岸は切り立った山脈に囲まれており、実質、幻惑の森だけがアリヤの玄関口と言える。
 しかし、事情を知るペルラはこう言った。
「海から出入りしようと思えば、不可能ではないけどね。一昨年の秋、スロウディアであった魔族による襲撃騒ぎ、あれなんかは――」
「読めたわ。丁度あの頃、私達もエストに居たのだけど。あれはノーゼからの魔族の侵攻なんかじゃない。アリヤを出立した誰かさんが、魔族軍を装ってスロウディアの東海岸に上陸したっていうのね」
 ペルラは関心したように目を見開いた。
「良い読みね。そう、きっと、あの時にスロウディア・セーミズの国境付近に、怪異の核となる何かを仕掛けたのよ」
 ペルラは、当時ウィリア達が魔族の軍にいた事など知らない。
 そしてそんなウィリア達の過去は勿論のこと、ペルラから聞いたアリヤに魔族の血を引く者が暮らしている事実なども、この場では口外できない。対策課のサポートが得られるのはありがたいが、各々、言動に注意を払わなくてはならなかった。
 課員のメリルが、その場をこう締めくくった。
「ともかく、3日後までにここに集まれたメンバーで、森を突破します。それまでに、各自、万全の準備を」

 準備といっても、アルド達のやることは、せいぜい武器の手入れと体調管理くらいのものだ。
 すぐそこに決戦を控えているのに、ラベットでの滞在は驚くほど穏やかな空気に包まれていた。それは、この土地にある、どこか懐かしいような、故郷を思わせる雰囲気も一役買っていたに違いない。
「ここが、スロウディア――か」
 エストへ偵察に来たことがある三姉弟とは違い、ビゼスは初めてスロウディアの地を踏んだ。
 戦乱の中で育った者には知ることもでなきかった、ありきたりの平和が、そこにはあった。
「はい。私と、アルドと、それからライアの、生まれた国です」
「そうだったな」
 よくよく考えると、3人の出身地はいずれも被害の大きい北東部で、家族は未だ怪異の中だ。母国に戻った安心感はあっても、帰るべき故郷はまだ遠い。
 その時、畑の上をかけすが横切った。風は、かすかに花の匂いを運んでくる。
「春が、近いんですね」
「ああ」
 大陸に本格的な春が訪れたその頃、自分達はどうしているのか。目の前に横たわる物のスケールが大きすぎて、まるで見当もつかない二人であった。

「お待たせしました!」
 出発の朝、メリルはその晴れやかな表情とは裏腹に、くっきりと目の下に隈を作っていた。ウィリアが呆れる。
「その様子で……行くのはよした方がいいんじゃない?」
 しかし課員たちにとっては想定の内だったらしく、リストがさらりと答えた。
「大丈夫です、彼女は、森の手前で待機するチームに組み込まれてますから」
「ええ。だから、今日のために徹夜で、同期できるように調整しました。みなさん、……これを」
 メリルが取り出したのは、同じ形をした5つの腕輪だ。そのいずれにも、空色と乳白色が溶け合ったような楕円の石が一つ、はめ込まれている。それは自治区の露店でメイナが販売していた黄乱晶石の実に5倍に相当する魔力許容量を持つ、天然の白乱晶石(はくらんしょうせき)だった。
「これを持っていけば、魔力的な妨害がない限り、遠くにいても肉声を届けられます」
 文字でなく、音声を直接伝えられる道具で、しかも携帯式のものとなると、世界初かもしれない。それだけ画期的なものだった。
「ただ、乱晶石に籠めた魔力の消費も激しいので、使えるのは3〜4回、一度に連続して送受信できる時間は、長くて40秒程度と考えてください」
 腕輪を持つ一人が発信すれば、範囲内にある腕輪すべてが受信し共鳴する。受信先の選別はできず、会話できる時間は合わせて2分程度。ここぞというタイミングで使う必要があった。
 受信側には操作が必要ないが、発信のための操作には魔力の相性が関係しており、メリルが用意した、調整していないダミーの白乱晶石への反応を調べた結果、発信適性が高かったのは、課員ではメリルとリスト、協力者のユーシュ、そしてフェリーナ、ペルラの5人だった。
 彼らが1つずつ腕輪を受け取ると、一同は国境を越え、ついに幻惑の森を前にしたのだった。

「ここでしばらくお別れですね――みなさん、幸運を祈ります」
 メリルを含む、非戦闘員2人とその護衛2人が、森の入り口で離脱した。
「それじゃ、私も先に行くわ」
 そう言って、ペルラはレイドにまたがる。彼女だけは、空から都を目指す。反旗を翻した彼女は既にアリヤから目を付けられており、空路は妨害により命を落とす危険も高かった。だが、手段は選んでいられない。幻惑の森を誰一人突破できなかった場合、逆にペルラが希望の星となる可能性もあり得る。
「これで……必ず終わりにしよう」
 アルドが、道中を共にした戦友達に誓い、
「行きましょう」
 カイが、先陣を切って課員と協力者達を率いた。



 アルドは、森に入ってすぐ、横を歩くのがフェリーナひとりになっているのを知った。
 彼女は青い瞳でしっかりとアルドを見返して言う。
「やっぱり――この場所には、大きな魔力が働いています。それも、リィドの塔のように人工のものではなくて、天然の、とてつもなく大きな……」
 言葉の途中で、霧のようにふわりと人影が現れる。それは、若い娘の形をとった。
『この先へ――行くのですか』
 彼女は問いかける。喋る際に彼女の口は動かず、声は、辺りの空間全体から響いてくるようだった。
『でも……あなたは迷ってる。例え間違いを犯している相手でも、それを力で押さえつけて良いのかと』
 娘は、じっとフェリーナを見ていた。
『優しいひと。だから、この先へ行く決意は揺らぐのでしょう』
「そんなこと……ッ、ティスは、おばあさまは……この先へ行かなきゃ、助けられないんです……!」
『そうですか? あなたでなくても、それを成してくれる人はいるのでしょう? あなたが行くことはありません。さあ、お戻りなさい――』
 何か、抗えない超自然的な力が、フェリーナの足を止めてしまった。いや、本当は、その足を縛るのは彼女自身の心にある迷いだ。
 娘は次に、アルドを見た。
『あなたは、この先で何かを成し遂げようとする、強い意思を持っている』
 おかしい。アルドは思う。脚が、それ以上前に進まない。
『だけど――、彼女を不幸にしてしまうことに、まだ躊躇いがある』
「そんなのは……僕の、傲慢だ……ッ」
 気力で、その足を進めようとする。僅かに、半歩、やっとの事で前進する。
『愛を誓い合ったそのひとと、あなたの隣にいる彼女。そのどちらも悲しませたくないのは、あなたの本心でしょう。この場所で、己への嘘や誤魔化しは通用しません』
 アルドは悔しげに娘を見据えるが、それ以上、脚が、動かない。

 いつの間にか3人だけで行動していたカイ達の前に、中年の女の姿が現れた。
『どこへゆくの』
「どいてちょうだい」
 つれなく返したカイに、女は不気味な笑みのようなものを浮べた。
『お嬢さん、あなたが求めるものは、この先にない』
「どいてったら!!」
 カイは、女に向かって攻撃魔法を放つ。――しかしそれは、まやかしに過ぎない体を素通りした。
 カイの表情が焦りに歪む。ウィリアは、その訳を知らない。リストは――気づいていた。自分が報われぬ思いを抱くそのひとの、カイの、本当の気持ちに。
『当たり処を間違ってるよ、お嬢さん。本当に当たるべきものなら、ほら……目の前にあるじゃない』
「それ以上の侮辱はよせッ」
 リストが、カイを庇うように前に出る。しかし女は、不気味な笑みを貼り付けたままだ。
『ああ……あんた、知ってるんだね。なら、簡単だよ。お嬢さんの代わりに、してあげればいいでしょう』
「それは……っ」
『どうにも、それを成さないことには、気がかりでこの先に進めないようだわ。いいのよ、選んで――何も言わずに引き返すか、ここでそれをして、先を目指すのか――』
 女は、冷たく微笑んでいた。
 リストが視線を向けた先は、ウィリア。愛するひとの、たった一人の弟を奪った――銀髪の魔女。

 彼は、一人で森を進んでいた。そこに霧が噴出したように初老の男の姿が浮かび上がる。
(幻覚――か)
 至極冷静に判断する彼の前で、老人は口を動かさずに声だけを響かせる。
『珍しいものだ……ぬし自身、この先の土地へ強い執着は持たぬというに、進むことへの迷いがない』
「この先で、馬鹿をやらかすのがいるかも知れんからな。それを止めるだけだ。用が済んだら、すぐ出て行く」
 彼の言う馬鹿とは、無駄死にの事だ。ビゼスには到底理解し難い思考だが、仲間のうち幾人かは、いざとなれば命と引き換えてでも怪異を止めようとするだろう。それは、ビゼスに言わせれば実に下らない事だった。
 怪異を消す英雄になろうとは思わない。ノーゼにまで怪異を起こされるのは迷惑かつ可能なら防ぎたいとは思うが、それよりも大事なものがある。
 この場で、建前は通用しない。それを直感して、ビゼスは本音を曝け出した。
「怪異の事はどう転ぶか判らんが、手の届く者くらい守らせろ」
 すると、引き結ばれていた老人の口元が愉しそうに緩んだ。

 気づくと兄と二人だけ、そして前方には一人の青年の姿が現れていた。
『迷いがあるね』
 声がするが、青年の口元は動かない。
「この先へ、行かせてほしい」
 兄の言葉に、青年は哀しい顔をした。
『その願いを叶えるのは、僕じゃない、君自身なんだ。ここで枷となるのは、君達の心そのもの……それだけだ』
 ウィルは考える。迷いがあるのは、兄か、自分か。いや、わかっている。
(オレは……)
 その思考を、兄の告白が遮った。
「僕は、確かにミース教の理想に惹かれました。アリヤには、魔族と人間が共存できる場所があるんだ……って。でも」
『残念だけど、頭で解ってはいても、君自身の心がまだ納得しきれていない。それが、決定的なところで君の拳を迷わせるよ。悪いことは言わない。引き返すんだ。――それに、君』
 びくりと、ウィルは身を竦ませる。
『足手まといになる――……それが真実でなかったとしても、君自身がその不安を拭えない限り、恐らくこの森は越えられないだろうね』
 恐かった。魔力が戻っていない自分が同行することで、兄や、周りの者を死に追いやる結果になるのではないかと。
「ウィル……」
 兄が、ウィルの背を支える。
 虚勢が通用しないこの場所で、ウィルはぽつりと弱音を吐く。
「ははっ……やっぱオレ、兄貴とかみたいにココロが強くねーんだって」
 猫のような紫の瞳が、すっ、と兄を見上げた。
「行ってきてよ」
 オレの分まで。
その想いは伝わったが、ウィーロスはそれでも自身の脚が動かないのを悟って、潔く言い放った。
「……帰ろう」
「な!?」
 青年は黙っている。
「これではっきりした。ここを通ってアリヤにたどり着けた人は、何かしら信念を持っていて、それを疑わない人達だ。多分、この先に待ってるのは力と力の争いでなくて、信念同士のぶつかり合いなんだと思う。それなら、僕が行っても大した力になれないよ」
「でも、兄貴――っ」
「代わりに、森の手前で待機している人や、アリヤから戻って来たみんなを助けることならできる。だから、ウィル」
 兄ならば本当は先へ行けるのではという歯痒さ、そして兄を頼り早々に諦めてしまった自身の不甲斐なさ、ここまで来て引き返すことへの悔しさが混じった表情で、ウィルは差し出された手をじっと見詰め、それから最後に、短い悪態と共に兄の手を取った。
 それも勇気ある一つの選択であることは理解すると共に、ウィルは胸の内で更に強くなることを誓う。
(次は、ぜってぇ……!)



 バサリと羽音をさせ、幻惑の森の『アリヤ側に』若葉色の風切り羽を持つ魔鳥が降り立つ。
「…………」
 魔鳥の背に乗った女性は、そのままの姿勢で、しばし森の方を眺めていた。
 しばらくして、森から出てきたのは黒髪の男だった。
 彼は女性の姿を認めるなり、警戒で目を細めた。
「『上』では、何もなかったのか」
 女性は、文句を言いたげな眼でふて腐れたように言う。
「その通りよ。どうして私を素通りさせたのか、全くもって意図がつかめないけどね」
 アリヤ側にとって、神殿内部の構造を知り尽くすペルラを侵入させてしまうことは好ましくないはずだ。だが、妨害して来なかったというのは、来たところで何もできないと見ているのか、対空の見張りを置く余裕がないのか、さもなくば――
「お前は、敵か?」
「そンな訳ナイでしょウ!?」
 曰く、自分がアリヤの間諜なら、もっと早い段階で正体を晒し、始末をつけている、との事だ。
 ペルラの証言を鵜呑みにするでもなく、変に邪推するでもなく、中立の見地のまま、ビゼスはそんなもんか、とだけ呟いた。
 その時、ペルラがしていた腕輪から、やや不明瞭な音声が響いた。
『聞こえますか。こちら、ユーシュ、ロットン。先行して神殿に潜入しました。これより、怪異の発生源を探りつつ上階を目指します。続ける者は、援護をお願いします。以上』
「気の早い連中もいたものだな」
「むしろ、このままここで待っても誰も来ないかもね。行きましょう」
 そうして、二人と一羽も穏やかな空を背景に調和する美しい神殿を目指した。



 どんなに言葉を重ねたところで、フェリーナを不幸にしたくないという意志はアルドの心の一部を占め、動きはしない。
(ここまで来て……僕には降りるしか道がないのか……!?)
 無論、エストの怪異を打ち消して故郷の家族と恋人を取り戻したい気持ちも、ノーゼの怪異を阻止したい気持ちも、どれも本物だ。だが、フェリーナへ対する情もまた本物である以上、この森を抜けられない。
 フェリーナも、アルドも、それ以上前に進めず、万策尽きたかというとき、場に一人の人間が乱入した。
「……!」
「どうして――……」
 驚き言葉を失う二人の瞳にはしかし、歓喜の色も見える。
『あなたは、どうしてもここを通りたいようですね』
 まっすぐに見返す瞳は、肯定の意。
『お行きなさい』
 道は開かれ、唯一通行を許された乱入者は、一度だけ振り返る。
「今、森の入り口で戦闘になってんだ。悪いけどそっち、頼む」
 そして前を向き、進めない二人に言う。
「行って来る」

 3人の間に異様な空気が流れる。その様を、実体のない女が眺める。
 最初に行動を起こしたのは積年の恨みに拳を震わせるカイ――ではなく、リスト。
「……――っ!?」
 咄嗟に、ウィリアが半歩身を引く。不穏な気配を察した彼女は、突進してきたリストに牽制の氷魔法を放つ。地面に着弾したそれは、リストの足元を凍りつかせるはずだった。
「……許してください」
 大きく踏み込んで牽制の一撃をかわし、そのまま防御を省みずに飛び込んだリストは、謝罪しながら懐のナイフを突き出した。
 刃が、魔女の血に塗れる。
 リストは、端から『殺すつもりだった』。謝ったのはその事ではない。殺人の罪は最初から自分が背負うつもりでいた。許しを請うたのは、魔女が最初は本気で来ないことを予想して、その甘さに付け込んだことだ。
 彼には、それしかなかった。人並み以下の魔力で、愛するひとに代わって復讐を遂げるには、それしか方法がなかったのだ。
「――ッつああ!?」
「リスト!」
 魔女は、せめてもの反撃に氷の塊を出現させてリストを突き離した。しかし氷塊は丸みを帯び、リストは肋骨くらいは折れたかもしれないが、無事だった。
 カイは、迷った。同僚が、一人の男として、自らの危険を顧みずに作ったチャンスだ。魔女は血を流し、弱っている。今ならば、長期戦に持ち込めば、勝つのは自分だ。あるいは自分が手を出さなければ、リストが命を賭してそれをやってのけるだろう。
 カイが、震える手で弟の仇に魔法を放とうとしたその時、
「やめなさい!」
 その一声が、カイの、そしてリストの凶行を止めた。
「……お姫サマ?」
 その姿を認めたカイが、気の抜けた声を発した。



「ねぇ、もう壊れちゃったけど、あの人達を送ったこの装置って、EVっていうんでしょ?」
「ああそれ〜? 略称だよ、うん。開発者がつけた正式名称は、エレ・ヴェータ。時代の先端を思わせる、素晴らしいネーミングだよねっ」
「…………うん」

 それは、半月以上前のこと――

「ッ……まだ、行けるよな……?」
「ぜ、はぁ……っ、誰に向かって、言ってんの……?」
 二人の若者は、遠い陽の光が照らす悪路をひたすら目的の方角に向かって前進する。
 まだ暗いうちに出発した二人だったが、日照時間の短いこの場所で、再び暗黒の世界に閉ざされる前に帰還するためには、かなり過酷なペース配分が必要だった。
 同じ頃、集落では二人を行かせた大人達に真っ向から反発する少女がいた。
「どうして!『あの乗り物』なら、現場まで一時間もかからないのに!」
「落ち着きなさい、アリシア」
「お母さん! 何であの人達を助けようと思わないの!? ねぇ、先生! 今からでも追いかけて――セネルさん! ……オー博士!」
 少女はすがるように順繰りに視線を向けるが、皆、気まずそうに俯いたり目を逸らしたりするばかりだ。
「どうして……」
「アリシア君」
 落ち着いた渋みのあるその声は、この場の最高責任者たる署長が発したものだった。
「彼らと我らの間には、まだ越えられぬ壁が存在する。『アルカディアの真実』を伝えた後ならよいが、今の時点でお客人にあれだけの技術をお見せする訳にいかん」
 それは、二人が秘密を知らないまま『上』に戻れる可能性を示唆している。
 必ず賛同者は現れると信じていたアリシアは、裏切られた気持ちで訥々と紡いだ。
「なら――ここに戻って来るための携帯ランプくらい、渡してあげたってよかったじゃないですか……」
 レイモンドが、なだめるように姪の肩に手を置く。
「う〜ん、このドームの中なら、あれくらいの機器の貸し出しは問題にならないんだけどねっ。アルカディアの外ってなっちゃうと、色々と問題があるんだよっ」
 それは、万が一機器を紛失した場合、それが何らかの不確定要素によって地上に運ばれてしまうのを怖れているという事だ。
 アリシアからすれば、実に下らない理由だ。人命と、このアルカディアの技術を外に出さない事の、どちらが優先なのか。その点において、アリシアと大人達の意見は真っ向から対立していた。
「あのね、アリシアちゃん……」
 眼つきがキツめの美人が、言葉を選びながら話しかける。
「実を言うとね、ここに集まった私達……これから、彼らのために、一つの禁忌を犯そうとしているの。でも、私達は人間であって神じゃない。残念だけど、二つも三つも同時には背負えないわ」
「レナおばさん……」
 今の話、逆手に取れば、アリシアに一人で罪を背負える覚悟があるのなら、今からだって『あの乗り物』を持ち出せばいい。運転ならアリシアにだってできる。今から彼らに追いついて、現場まで送って……
 ――そこでもし、危険があったら?
 あの二人は、何かに襲われたとして、自分の身は守れるだろう。しかしアリシアは、『老いない』だけで、非力な少女だ。武器の扱いに長けるでも、魔法に秀でるでもない。
 ――危険がなかったとして、途中で乗り物が壊れたら?
 修理不能で徒歩で移動する事になれば、アリシアはお荷物でしかない。
 一人で罪を背負うというのは、そういった不測の事態全ての責任を一身に負うのと同義だ。
「――――……」
 アリシアは、のろのろと椅子から腰を上げた。
「お母さん……台所貸して」
 こうなったら、あの二人が帰って来た時のために、とびきり滋養の付く特製スープを作ってやる。
 たぶん、それ位なのだ。『ただの人間』にできるのは。
 すごいのは道具の性能であって、人間本体ではない。自分達は人間、決しておごってはならないというアルカディアの訓戒を、今身に染みて感じていた。
 アリシアがとぼとぼと退場してしまうと、レナは永遠の宿敵に流し目を送った。
「……まったく、親(だれかさん)に似ない、よく出来た子じゃないのよ?」
「そりゃあ、貴女みたいな周りの大人を見て育ったから、反面教師で学習したに決まってるわ」
「オホン。それで皆の衆、EVの稼動に異存はなかろうか?」
 署長の言葉に、セインが、ゴランが、クロードが応える。
「あったり前じゃないですか、『長老』?」
「EVは『あやつら』の置き土産だ。きっちり最後の仕事をさせて、眠らせてやろう」
「あー……1回だけっつっても強度大丈夫かなぁ……って、そのために俺達がいるんすよねっ、あははっ! ハァ、徹夜か……」
 そして、精神年齢は永遠の十代、この男が場を締める。
「さ〜、やろっかぁ! 一世一代の大仕事! 一度限りの掟破りをねっ」



 アリヤ神殿まで、200メートルに迫ったかという所。ペルラは徒歩をやめて愛鳥にまたがった。
「つかまって!」
「お、おい……上空で狙い撃ちにされたら敵わんだろう!?」
「そうね。でも、多分来ない。行って、レイド!」
 連れの意見を無視して彼女は愛鳥を駆る。目指すは神殿の第3区画――つまり、神殿の3層目への突入だった。第3区画東の庭園ならば、レイドが着地できる十分な場所がある。
 アリヤ神殿の地上6層は、それぞれ第1区画から第6区画と呼ばれる。一般市民や信者たちが祈りに訪れる第1区画。巫女と神官の居住区を兼ねた第2区画。そこから東西に分離する第3区画。西側は3層止まりで、東側は最上部の第6層まで続く構造だ。おそらくは、実質アリヤを束ねる当代の巫女姫がいるのは、東の第6区画である。

 即行が功を奏したか、それとも単なる偶然か、レイドは攻撃されることなく第3区画東の庭園に着地した。
「……。先に行って」
 レイドの首に触れながら振り向かずに言ったペルラの目が据わっていた事に、ビゼスは無言で警戒する。
 視界の端にいるビゼスが動かないので、ペルラは念を押した。
「これは、『私たちの問題』――」
 まるで、自身に言い聞かせるように。
「……ッ! おい!?」
 ペルラは『自らの手で育てた愛鳥に』、いきなり水魔法による攻撃を見舞った。しかし、一瞬早くレイドは羽音をさせて飛び立つ。
 距離を取りつつもビゼスが庭園に留まったのを知って、苛立たしげにペルラはぼやく。
「……レイドはね、この神殿で育った。姫様達の魔鳥だって、他の魔鳥たちだって、みんなこの子の親きょうだいよ。――ここにレイドを残していれば、必然的に家族と戦うことになるわ。人間の勝手な都合で、そんなことはさせられない」
「だからといって、お前の手で葬るというのか……?」
 レイドはまだ、その場で滞空している。ペルラは、しっかりとした口調で答えた。
「この子には、選ぶ権利がある。裏切り者の私の手で殺されるか、それとも」
 反逆者(ペルラ)を倒し、仲間(かぞく)のもとへ帰還するか。
「馬鹿なことを……!!」
「――そうかもね」
(でも、これが私なりのけじめ)
 ペルラは寂しげに笑って、それからレイドに向き直った。それが、決闘前の最後の言葉だった。
 ペルラがレイドに向けて水魔法を放つ。デラス山で判っていた通り、魔鳥の弱点は水だ。
 だが、レイドも負けていない。上級魔法では詠唱が長くなるのに加えて、主人の癖を弁えているためか、巨体を繰って一進一退の攻防を繰り広げている。
 傍から見れば示し合わせたのではないかと思う程、互いにぎりぎりのところで攻撃が決まらない。
 降下しながらのレイドの嘴が直前までペルラの居た空間を走りぬけ、振り向き様にペルラの水球が多角度からレイドを狙い撃つ。レイドは空中で反転してそれらをかわし、次のペルラの一手を封じるべく、動きを読まれないよう不規則な軌道を描きながら襲い掛かった。
 両者一歩も譲らない攻防が続いたところで、一撃必殺の勝負に出たのは、ペルラだった。気配を察したレイドは詠唱を妨害せんと急降下する。
清き流れよ 集束せよ 我が命において 牙を剥け!
 翼に命中すれば、再起不能の中級魔法だ。レイドの速攻は、間に合わなかった。
(――ッ!?)
 だがしかし、レイドは絶妙のタイミングで体を回転させ、髪一発それを避けた。
 コンマ数秒の間もなく、風のようにレイドの巨体がペルラの視界を埋め尽くす。

 ブチンッ!

 何かが千切れる音。
「……、っは……!?」
 詰めていた息を再開し、反射的に瞑っていた目を見開いたペルラは、レイドが、鍵爪に彼女の体から引き千切ったそれをぶら下げているのを目にした。
 戦利品をつかんだまま、レイドはその場を二周くるりと旋回し――
 ――バサッ
 あっさりと主人に別れを告げた。
 空を呆然と見詰めたままへたり込むペルラにビゼスが近付き、ぼそりと訊ねた。
「……何が入ってたんだ、あれ」
「兎の、肉」
 魂の抜けたような声が返ってきた。
 レイドは最後に好物の入ったペルラの荷物を強奪して逃走した。結局、決着を付ける事なく飛び去ったのだった。
「『これで手打ちにしてやる』……そんなところか?」
「…………」
 ペルラとしては複雑だろう。育てた主人に何の未練もなく去り、あまつさえ最後はペルラの存在価値を餌としか見ていない行動で締め括ったのだ。それでいて、攻撃してきた主人を害することなく、仲間のもとに帰るでもなく、外界で生きることを選んだ。そのどこに真意があったのか、それは、レイドにしか判らない。



 ユーシュは、スロウディア育ちの娘だ。赤い髪に、浅黒い肌。自治区近郊で育ったためか、十代の頃には危険な稼業に手をつけた時期もあった。おかげで、はったりや脅しを含む交渉術や身を守る術には長け、今は女だてらに旅人や商売人の護衛を生業として生きている。此度の怪異に身内が巻き込まれて立ち上がった一人だ。
 共に神殿に潜入したロットンは、ルーガ=シス=クライス治めるゼークの出である。そのがっしりとした巨躯と強面に似つかず、私学の教授を務めていた。"気"を使った自衛の手段を持つ彼は、その頭脳を買われ、国の命令で怪異の調査に乗り出し、その過程でユーシュや対策課と巡り会った。
 神殿に潜入した彼らは、第2区画で衛兵と巫女らに出くわした。実質、相手方の戦力は衛兵の2人だけであり、実力差でユーシュ達が押し切った。
 昏倒させた衛兵をユーシュが厳重に縛る傍ら、非武装の巫女二人を後ろ手で縛ってロットンは言う。
「……すまんな」
 彼女達はその場で降伏したが、それでも念のために拘束した。助けを呼ばれると面倒だからだ。少数精鋭での突入ゆえに、できるだけ時間は稼ぎたい。
 作業を終えたユーシュ達が上層を目指して去ってしまうと、柱に拘束されたはずの長い髪の乙女と眼鏡をかけた娘の姿は、いつの間にかするりと消え去っていた。

「ああ! そっちも無事だったみたいだね」
 ユーシュが、第3区画の先客二人に快活に声をかける。続いて、ロットンがその渋い声を響かせた。
「すぐ下の層で、衛兵とやり合った。あまり、悠長にはしていられん」
 そこに、第2区画から人が上がってくる気配があった。
 相手の姿を認めるや否や、問答無用で斬りかかったのはビゼス。
「ちョっト!?」
 ビゼスの速攻にペルラが声を裏返らせ、ユーシュが確認する。
「敵!?」
 相手は一人。ビゼスを援護しようとしたユーシュとロットンを、ペルラは慌ててとどめた。
「エ?? あノ、チょっとマッ……じゃなくて待って!!」
 エスト語で言い直して、ペルラは叫んだ。
「ビゼス、どういうつもり!?」

 焦茶色の瞳と目が合った瞬間、放たれたのは容赦のない殺気。
(ッ!!)
 足が竦んだ。咽は一気に干上がり、辛うじて身を守るための本能が剣を抜かせた。震え出さないだけ、よく自分も成長したものだと思う。
 次の瞬間襲ってきた電光石火の攻撃を、それ以上ない集中でどうにか見切り、ぎりぎりのところで全ていなし切った。ペルラの声が飛ぶが、どうやら聞く耳持たない様子。
 ――なんか、本物(ほんにん)なら勝てないって判ってたんだけど。
 次撃が来る前に両腕を下げて脱力し、俺ほんと頭おかしいよなとか極限状態で思いながら、脳天目掛けて降る剣を、歯を食いしばって見届ける。
 止まった。そこで剣が止まらなければ、俺はこの世にいなかった。
「貴様なぜここに居る?」
「って襲う前に訊けよ!?」
 俺は吼えた。死ぬかと思った。本当に。
「信じるかどーかは勝手だけど、俺達、えれべーたとか言う装置で地上まで送ってもらったんだ。もちろん、リレーコアはちゃんと壊した!」
 それから、そこに集った面子を見渡して言う。
「リーティスは……来て、ないな」
 幻惑の森で引っかかったか。それとも、別の場所で足止めを喰らったか。
 ビゼスが面倒臭そうに尋ねる。
「リーティスもなのか。お前たち、どこから来た? 幻惑の森から来れば、メリルから一言あっていいはずだが?」
 それでいきなり斬りかかってきた訳か。俺は納得する。
「……会った。けど――」
 面識の無い二人が居るこの場で言って良いものか迷う。これを伝えれば、大幅な士気低下にもつながり兼ねない。
「言え」
(だからお前が言うなっつーの!)
 ビゼスの脅迫に、頭をかきながら俺は半ば投げ槍に吐露する。
「俺達が着いた時には、戦闘になってたんだ。魔鳥もいた。メリルさん達を襲ってたのは、確実にアリヤの奴らだ」
 そう言って、赤毛の女性と大男を盗み見る。顔を見合わせる彼らは、驚いたようではあったが、取り乱す様子はない。大丈夫そうなので、俺は先を続けた。
「メリルさん達は、俺と、リーティスを先に行かせてくれた。森でリーティスとは離れちまったけど、途中でフェリーナとアルドには会った。そこで進めたのは俺だけだったから、二人には戻るよう伝えてある」
「お前にしては上出来だ」
 そこにペルラが真剣な表情で口を挟む。
「ちょっといい? ここで長話をしてる時間はないわ」
 促されて、俺達は一つ上の層に足を進めた。階段を上りながら、協力者だという二人とは、簡単な自己紹介を済ませた。
「? 随分と狭いな」
 ビゼスの疑念は最もだ。第4区画は、四方を隙間無く壁に囲まれた小さなフロアだった。下の層の感じからして、この5〜6倍の広さはあってもおかしくない。
「この壁の外、ぐるっと魔術の研究用設備があるのよ。だけど、そっちに行くには厳重な仕掛けを解除しなきゃならないし、私達に用はないわ」
 そこであっさり素通りし、続く第5区画。第4区画と比べると、かなり広い。そして、今しがた上がってきた中央階段から見て、右奥の壁と、左奥の壁に一つずつ、ぽっかりと空いた入り口が見えた。
「……、どっち行きゃいいんだ?」
 ペルラに確認する。彼女は顎に手をやり、菫色の瞳で気難しく言う。
「左は迷路よ。もう幾代も前の巫女姫様が、魔術フェチでね。常に道筋が変化するの。……まあ、伝えられている限り最長は3日で、出て来れなかった人は居ないそうだから、運がよければ今日中に第6区画に着くんじゃない? 因みに、あれを最速12分で抜けた女の子の名前は、奇跡の体現者として今に伝えられてるわ」
「……。右はどうなんだ」
 ビゼスが問うと、ああ、そっち、とペルラは冷めた目で右奥の入り口を見遣った。
「あれが、正式な第6区画への階段。つまり、姫様達が上にいるなら、簡単に私たちを通すはずのない場所。私の予想では――不死のガーディアンが邪魔して来るでしょうね」
 今まで戦ってきたガーディアンでさえ強敵揃いなのに、ここへ来て不死という不穏な単語が飛び出した。
 その時、ビゼスとユーシュが揃って下層の方を鋭く睨んだ。
「くっ、こんな時に!」
 言いながらユーシュが臨戦態勢に移行し、ロットンが呟きを洩らす。
「むぅ、思ったより早いな。追手がかかるのはもう少し後かと思ったが」
 ペルラが舌打ちする。
「説明してる時間が無くなったわね……」
「おい、洒落にならんぞ、この人数……」
 ビゼスが半眼で睨む。第5区画に雪崩れ込んできたのは、見たところ、持久戦を見越しての防衛に特化した衛兵の一団のようだ。人数からしても、簡単に突破させてくれそうにはない。その上、早くも後衛の術師が詠唱を始めていた。
「ライア、走って!」
 一番昇り階段に近かった俺に、ペルラが叫んだ。俺は左右に視線を彷徨わせ、あっちか?と眼で問う。
 ペルラが頷くのを確認して、俺は全速力で左の入り口に走った。

 あと半歩でも遅れたら、ライアは巻き込まれていただろう。
 私は内装から神殿の内部と判る、見覚えのない空間を見渡して言う。
「ここは――第2区画か?」
「の、ようだ。どうやら、第5区画には強制転送の基盤となる仕掛けも仕組まれていたのだな」
 見た目にそぐわずインテリの大男、ロットンが返す。私自身、空間跳躍の魔法を使った経験はあるが、他人に飛ばされたのは初めてだ。
 第2区画はホールのような広い廊下が続いていたが、四方は既に衛兵に固められつつある。拳に“気”をまとわせ始めるロットンの傍らには、ユーシュとかいう赤毛の娘とペルラの姿もある。
「……気をつけて。彼らは防御に特化した兵よ。あまり派手に消耗すると、こっちがやられる」
 ペルラの警告に、各自警戒しながら臨戦態勢を取る。そんな中、少しだけ嬉しそうにペルラが独りごちた。
「でも、左を選んで幸いだったわね。逆にライアが衛兵に追いつかれる確率は、少しでも減るもの」
 常に変化する道。かかる追手。どうやら、後は奴の強運頼みという事らしい。

 第2区画へ衛兵が集い、ビゼス達が飛ばされてくるより少し前、彼女は第2区画を通り過ぎていた。第3区画の庭園を通り、単独、第4区画を駆け抜ける。
(何? ここ――)
 続く第5区画。そこは動く人の姿はなく、不穏に静まり返っていた。
 まるで、ついさっきまでここに沢山の人がいたのに、忽然と姿を消してしまったかのような気配だ。
「…………」
 彼女の立つ場所からは、上に向かう入り口が二つ見えた。左は薄暗く、もやがかかったように奥の様子が視認できない。右には上に続く階(きざはし)の一端がのぞいていた。
 意を決した彼女は、右の入り口へと飛び込んだ。

「ここまで来たってことは、オレの敵ってことだよね? お姉さん」
「……!」
 青髪、青目の少年は、階の途中の踊り場で、白く光る虎を従えて憂鬱そうに呟いた。その気だるそうな雰囲気とは裏腹に、四肢には若さが満ち、見たところ十代半ばに達しているかどうかといった所だ。
 彼が従える白い燐光をまとう虎は、酷く現実味に欠けた。侵入者に対して威嚇しないばかりか、呼吸や体温すらも希薄だ。まるで、幽霊のようだった。
 それを裏付けるように、少年は言う。
「お姉さん、言っとくけど勝ち目はない。ヘレナを倒す方法はないよ――本当はもう、ずっと昔に『死んでるんだ』。生まれつき欠陥があったこいつが冷たくなったとき、同じ名前の亡くなった母上の霊魂が乗り移ったんだ。だから、誰にも、どうやっても殺せない」
 いかにも大事そうに、少年は虎の首もとを愛撫した。もの言わぬ冷たい虎は、しかし、少年にとっての母であり、幼少期の友である。
「お願い、通して」
 彼女の懇願に少年は首を横に振る。まだ虎の首は捕まえたまま、けしかけてくる様子はない。
「できないよ。いくら別々に育てられたからといって、姉上は姉上だ。みすみす殺させる訳にいかない」
「お姉さん? じゃあ、あなたは……」
 少年が彼女を睨んだ。
「アリヤの中枢は代々、女子が継ぐんだ。オレは、どこの身分にも属さない中途半端な神官ってとこ」
「…………」
 少年の言動から、微妙な気配を鋭く察して彼女は問う。
「ねぇ――ひとつだけ、聞かせて。お姉さん達じゃなくて、あなた自身は、怪異を起こすことが、本当に正しいと思ってる?」
 即答せず、少年は聞き返した。
「どうして、そんなこと訊くの? お姉さんは――誰?」
 それまでの達観した表情ではなく、かすかな警戒と、それを上回る歳相応の驚きと好奇心をのぞかせた少年が、そこに在った。



 星空の中を、歩いていた。
 見えないけれど、確かに足元に道はあって、その道の外を、時折流星のような光が流れて消えていく。
 現世とも思えぬ回廊は、正常な時の感覚を奪った。だから、どの位かかったのか正確には判らない。主観では、数十分。たどり着いた出口の先、待っていたのは――

 そこは、巨大なドーム状の噴水をそのまま天井にしたかのような、水のカーテン越しに空が見える石造りの神殿だった。左右対称に整然と立ち並ぶ白い石の柱には、濃い緑の蔦が生い茂っている。
「とうとう、ここまで来ましたか」
 肩の上まである青い髪の巫女が、警戒した堅い声を響かせた。その隣に立つ長く青い髪の巫女が、揺るがぬ決意の瞳を憂いに染めた。
「来てしまったのですね――」
 彼女は恐れず自然体のまま、帯剣した侵入者と向き合った。
「私達は、アリヤを統べ、守る者」
「そして、世界の平穏を望む者」
「私は、ステラ」
 髪の長い巫女が言う。
「私は、ミーナ」
 髪の短い、瓜二つの巫女が言う。
「……俺は、ライア。もう一つの名前は、ラーハネット」
 姓は名乗らなかった。でも、それで全て伝わったようだった。
 何かを受け止めたように小さく嘆息して、ステラが言う。
「スロウディアの件は、貴方の方にこそ正統な言い分がありましょう」
「ですが、私達には大義があります。解ってくれとは言いません。どうか、ここは平和を切望する民と、私達ミースの教義に従う者の悲願に免じて身をお引きください」
 ミーナの口調は強く、だけどその威嚇の裏に怯えが見えた気がした。それよりも、冷静な態度を崩さないステラの方が、揺ぎ無いものを感じさせる。
 アリヤの姫巫女が、代々真の平和を願って活動してきたことは、ペルラから聞いている。だけど、だったら尚更。
「どうして、このやり方なんだ」
 怪異は、結局思い通りにならない人達を排斥してしまう行為だ。『ヒトを殺さない』としたって、力で押さえつけているのは武力と何ら変わりない。
「私達で、終わらせます」
 凛として真っ直ぐに、ステラが声を響かせた。どうやらこちらが妹らしいミーナは、そんな姉を、はらはらした瞳で見守っている。
「よもや、ここへ来て私達が武力を用いなかったなどと、申し開きは致しません。既に、怪異にまつわる活動のために多くの血が流され、その責任は全てその中枢たる私にあります。でも、そのような事は私で最後――これ以上、血は流させない」
「私達と理想を共にする者たちが集い、この地上から争いを断つためなら――私達は、鬼にだってなる!!」
 そう言って両手を広げたミーナが、彼女達の肩ほどの高さの円柱の前に立ちはだかった。その表面は磨かれた黒曜石のようで、全面に細かな呪文のようなものがびっしりと刻まれている。
 これが、何なのか。問わずともミーナ当人が喋った。
「この石柱が壊されない限り、エストの停止した時はあと4、5年は保たれます。その間に、私達は何としてもリレーコアを再生し、エスト、ノーゼ、全ての戦場を時の眠りによって戦争から開放してみせる……!!」
 必死で立ちはだかるミーナにステラが寄り添い、こちらに強い瞳を向けた。
「私達は、決してここを動きません。永いあいだ受け継がれた私達の意思を、民の想いを知ってなお、対立を辞さないというのであれば――私達を打ち破り、私達ごとこの石を燃やしなさい」
 なんで――こうなるんだ。
「わかるよ……俺だって、仮にも国をまとめる者の後継者だ。裏切れない人々(みんな)の気持ちがあるってのも、やり方はおかしいけど本気で平和を願ってるって事も……」
 我欲に走る支配者もいる中で、彼女達は純粋な気持ちでこの国を統べている。だからこそ……この2人は、簡単な言葉では揺るがない。
「けど、だから、やめてくれないか。今は、魔族と人間って対立が確かにある。でもいつかその溝が埋まるように、スロウディアも尽力は惜しまない」
「待ちました……」
 両手を横に広げたまま俯くミーナの頬からは、はらはらと、涙が零れていた。
「貴方は、ご存知ないかもしれない。ですが、このアリヤでは、1000年の昔から、地上から無益な争いがなくなるよう、水面下でノーゼ、エスト各国に信仰と外交によるアプローチを続けてきたのです」
 1000年、も。たかが建国150年かそこらのスロウディアから見れば気の遠くなる話だ。一世紀に渡って続けられた努力。だけど、愚かなヒトは、彼女達の言葉に耳を貸さず、ついに争いを止めなかった。
「結局、魔族と人間が手を取り合えたのはこのアリヤの中だけ。だからもう、これしか……!」
 そう言ったミーナの膝は震えていた。彼女は、死にたくないんだろう。それに殺したくもない。だけど、彼女個人でなくアリヤの巫女姫として、決してここを譲らない。
 本当は、言ってやりたかった。俺達は、魔族とか人間とか、関係なくやって来れた、って。だけど、それは――ごく限られた環境の中、限られた関係の中でのことであって、少なくとも今の世界では広く通用しないことを、俺自身、頭のどこかで認めてしまっている。
「っ……」
 直接対決に踏み出せない俺の猶予は、次のステラの言葉によって断たれた。
「来なさい。私達は引きません。そして、貴方が来ないというのであれば――ここで、理想の障害となる貴方を排除します」
 前方に突き出した腕に、ステラが魔力を集中する。続き、ミーナが薄く目を伏せて同じく魔力を集中し始めた。直感で、それが長い詠唱を必要とする高威力の水魔法だと悟る。剣を振るって今から阻止しようにも、二人のうちどちらかが防御に回る。非力な巫女でも、魔法に優れる彼女達なら圧縮した水の盾で身を守ることくらい簡単にできるはずだ。その間に詠唱が完成するか、極めて高威力の魔法にだけ伴う衝撃波が俺を襲うだろう。
(これしか、ないって言うのかよ……!?)
 願っているものは、本質的には同じはずなのに。どうして。
「なんで……っ、こうなんだよぉおおッ!」
 後悔を叫び、それでも、俺は『負けないために』詠唱の最初の一節を思い浮べる。ここで死んだら、俺自身と、俺をここまで連れてきた沢山の想いは、全部無かった事になんだ。それでもいい、なんて俺は言えないから――
 15の誕生日、王家の歌と共に授かったもう一つの魔法を今、ここで使う。


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