STAGE 34 a turn of fate 〜ジグラル砦〜



 ジグラル山地に張っていた男達は、ライア達を見て事情を尋ねてきた。そこでアルドが平然と言う。
「僕達は、ルーレイで頼まれて来た増援です」
 男達はその言葉を疑わなかった。アルドの態度や身なりも多少なりとも影響したに違いないが、そもそも彼らは即席の討伐隊である。隊の全貌は彼らも把握しきれていないのだろう。
 ライア達が斥候でこの先の砦を見に行こうとしているという説明に、彼らは快くそこを通してくれた。凶暴な魔物が相手になるかもしれないと聞いて、砦を監視しながらも及び腰だったらしい。
「……案外、腑抜けだな」
 男達が見えなくなってから呟いたビゼスに、アルドがぼやく。
「あのねぇ、誰も彼も、君みたいなのと一緒にされたんじゃ堪らないよ」
 男達にはその場で監視を続けてもらい、敢えて同行はさせなかった。こちらの砦は討伐隊にとっての本命で無い。監視のために派遣された10人足らずでは、足手まといになる可能性すらあった。そんな彼らに、アルドは抜かりなくこう伝えた。
「これは最新の情報ですが、敵は、魔鳥に乗って移動する者もあるようです。ですが、目撃しても決して攻撃されませんよう。魔鳥は、攻撃してきた相手にだけその凶暴性を発揮するそうなのです。何かあったら、手は出さずに速やかにもう一つの砦へ伝令を走らせてください」
 隊長格の男は、感謝する、と重々しくアルドに告げた。彼はこの隊の戦力を正しく把握しているようだ。アルドも、まさか協力者に魔鳥を駆る女性がいます、とはおくびにも出さない。そんな事を伝えれば、彼らの怯えと不信を招くばかりだ。
 実際、魔鳥はその巨体のため直接の戦闘には向かないとペルラから聞いていた。彼らの方から手出しをしなければ、魔鳥から襲ってくる事はないだろう。――ただしその上に乗っているヒトについては、保証できないが。

 崩れかけた砦に接近した一行をまず迎えたのは、栗鼠のような大きな尻尾を持つ獣達だった。統率のとれたその動きは、背後に指揮する者を感じさせる。
「右に3、左に4――これは、先手必勝かな」
 アルドが冷静に述べ、
「面白い……!」
 ビゼスが凶暴な笑みを浮かべる。それが、砦の攻防への前哨戦だった。



 彼女は、この一行に加わってから、まだ一度もそれを経験していない。
 無論、彼女のような年頃の娘が、そのような事をする理由はどこにもなかったが、彼女は信じる神のため、仲間のため、そして平穏な未来のために、それをしてでも一行の力になると決めていた。
 機会ならば昨日もあった。指示に従い自分と同じ年頃の娘を罠にかけ、人の寄り付かない場所に置き去りにした。それで任務は完了だったが、遂行をより確実なものにしようと思えば、それをすればよかったのだ。が、できなかった。
 薬を嗅がされて倒れた娘は、よく見ると綺麗な顔をしていた。こんな時世でなければ、親しくなれたかもしれない。そんな考えが脳裏をかすめ、ついに手を下すことなく彼女は立ち去った。
 そして今、彼女には何にも換えて守り抜かなくてはならないものがあった。それは悲願の中核を担う機構であり、仲間であり、彼女の信念そのものでもあった。
 それらを侵そうとする人間が、ここへ近づいている。
 恐い。けれども、自分は『それ』をやらなくてはならない。
 生命を、奪うということ。
 できる。いや、やらなくてはならない。そう言い聞かせて、彼女はこれまで姉妹のように寄り添ってきた狐の魔物の毛並を撫でた。できる、わたしだって、みんなを守る。そこで彼女の心に浮かんだのは、想いを寄せる銀髪の青年だった。
 そう。ここを戦い抜いたなら、必ず言うのだ。あなたのことが好きだ、と――

「ミリー! 来たわ! あんたは外に出なくていい。けど、砦に独りで突っ込んで来たせっかちなお客さんがいるから、そいつを足止めして」
「はい!!」
 狐の魔物を伴って駆け出したポニーテールの少女は、まだ知らない。相手は羊の皮を被った死神だという事を――

 魔物を蹴散らし、砦を前にしたライア達を待っていたのは消耗戦だった。
 壊れかけとは言え、砦は砦である。立てこもる方が圧倒的に有利だ。向こうも人は少ないらしく、危険を冒して表に出てくる気配はない。ライア達は専ら、敵がけしかける魔物と、砦の中からの遠距離魔法に対応しなくてはならなかった。
 その時、見張り台に一人の若者が立った。彼は、憂いを帯びた、しかし決意した眼でライア達を見た。
 途端にウィリアの瞳が凍りつく。ビゼスはふわりと身を翻した。
(あいつが出てきたか――なら、仕方ないな)
「いいか。お前ら、自分の身は自分で守れ。人の心配などするなよ」
「え!?」
 意図が読めずにうろたえるライアを、こげ茶の瞳が睨みつけた。
「お前とリーティスに言っている」
 腹立たしげに言い残して、ビゼスは単身魔物の只中に切り込んだ。
「ビゼス!! くそっ……!」
 後を追おうにも、群がる魔物が邪魔だ。
(とにかく、こいつらを片付けて行くしか――!)
 アルドという有能な指揮官のお陰で一人抜けても態勢は崩れなかったものの、ビゼスの土壇場での独断行動は迷惑極まりなかった。
 おまけに、あんな台詞を残しておきながら、砦の入り口で常ならば苦戦するはずのない相手に時間を食っている。
(ケガ――? してないよな……?)
 今のところ敵の攻撃を受けた気配はない。そうなると、別の要因があるように思える。
 そこに背中から声がかかった。
「ライア。攻撃の手が少し緩んだ。今のうちに散開しよう」
 頷いて、ライアは円形の砦の壁に沿うように、アルド達とは逆方向へと回り込んだ。

 物影に隠れつつ、襲ってくる相手は撃破。そうやって、じわじわと砦の壁に取り付く。
 驚く程、中は静かだ。砦の広さに対し、防衛の人数が極端に少ないのは確かなのだろう。ひょっとすると、ペルラの読み違いで、この砦には何もないのかもしれない。
 二回ほどヒトの気配を物陰でやり過ごし、ライアとウィルは東棟と西棟の間にある中庭のような空間に出た。
「上っ!」
 建物内部の暗がりを覗き込んでいたライアは、ウィルの声で慌てて空を見た。
 そこには、ペルラの乗っていたのとよく似た魔鳥がいた。背に乗った女が、早口に呪文を紡ぐ。
「!!」
 海神の振り下ろす一太刀の如く、高圧の水の刃が中庭に放たれた。ライアはウィルにかぶさるようにして砦に滑り込み、直後ドォンという轟音と共に中庭の一部が抉られていた。
 上を見ると、相手はこちらの攻撃が届かない高度に一時退避して行く。
(今のは……『外れた』?)
 ライアは、水刃の着弾点が自分達のいた場所と離れていた事に引っかかりを覚えた。中庭にいる人影は、ライアとウィルの二人だけである。
 ウィルが目聡くライアの思考を読み、ある物を見つけて紫の目を細めた。
「ライア。多分、地下だよ」
 大きく抉れた土の傍に、地下へ続く階段の入り口が見えた。恐らく、侵入者を近づけたくないものが、その先にある。
 ライア達は建物の中を通って魔鳥から逃げる振りをして、相手が退いた隙に、半壊した狭い石段を降り始めた。

 ミリーが直面したのは、地獄のような光景。動かなくなった狐の魔物は、赤い池に身を浸している。
「あ……ぁ……」
 魔物とは言え、姉妹同然に育った仲だ。四季を何度も一緒に過ごした。
 もう、動かない。ミリーを助けるように目の前の悪魔に果敢に挑み、そして殺された。
「嫌……。こんな……、うわぁあああーーッ!!」
 生まれて初めて、人を憎いと思った。こんなどす黒い感情は初めてだ。その憎悪のままに、彼女はありったけの魔力を殺意というカタチで具現化した。

(大丈夫――みんななら無事。私が、頑張らなきゃ)
 相棒とは別行動中。今一つ奮わない師は、砦の奥に消えたきりだ。
 不安になるなという方が無茶な注文だったが、彼女は平静を保っていた。
 何の身の保証もない彼女を、仲間達は信じてくれた。潔白を証明する物が無いと解って、馬上でも弁明しなかった彼女を、それでも仲間と認めてくれた。だから今は、信じる番だ。どんな事があっても、必ず戻って来ると。
 ウィリアは無理をしているのではないかと思うほど奮闘している。彼女一人で相当数の敵を仕留めた。アルドが普段通り冷静に守りと攻めを使い分ける傍ら、リーティスは剣と風の魔法で二人を助けた。
 ひそかに接近しつつあった男が間合いを詰めて剣を振りかぶったとき、リーティスは両手を下げたままだった。エメラルドの瞳が、静かな気迫と共に男を見る。
「――っ? ……ぐぅ」
 彼は大の字で地面に倒れ、幸せそうに眠りに落ちた。
 アルドが催眠魔法のタイミングを誉め、それから言う。
「あと少しだ。焦らないで行くよ」
 リーティスが頷き、ふと砦に目をやった時、東棟の屋上に見慣れた黒髪の頭が見えた。だが、あっと思う間もなく上空からそこに水の刃が放たれ、轟音と共に屋上の一角は崩れ去った。

 何か大きな物が倒壊した振動が、ず……ん、と地下にまで伝わった。
「あんま時間なさげだけど? これ、どーにかしないと生き埋め確定だね」
 魔法陣を指してウィルがコメントする。中庭から続く地下には、見覚えのあるクリスタルが安置されていた。だが、これまでの前例からクリスタルの破壊と同時に何か起きるのは覚悟しておかねばなるまい。
 ウィルが簡単に調べたところ、このクリスタルは砕かれると同時にそこに居る者を落盤に巻き込むというコンセプトで設計されているのが判明した。
 ライアは左腕に目を落として低く言った。
「……なら先に戻っててくれ。俺が残ってこれを壊す」
 どうせ長くない自分なら、という根拠だったが、ウィルは半眼で文句を言った。
「ハァ? まだ上に敵がいんのにライアの五百倍は繊ッ細で儚いオレをひとりで地上に帰すとか、それ、嫌がらせですかぁ?」
 敵なら今頃アルド達が倒してるかもしれないだろ、という言葉は飲み込んで、ライアはもう一度考え直した。時間はないが、思考しなくては策など浮かばない。
 考えたのちに、ウィルに尋ねる。
「なぁ、魔法陣って、埋めちまっていいもんなのか?」
 ここが埋まるという事は、術一式が土の下という事だ。ウィルの返答は早かった。
「壊れたモンなんて、埋まったってカンケーないんじゃ?」
 なら駄目か、とライアが思考を改めかけたところに言葉は続いた。
「けどさぁ? 大陸巻き込んで怪異起こそうなんて大掛かりな術なのに、核を壊されたら最後、修繕できないとかアホらしーよね。つか、ただのバカ」
「そしたら――」
 クリスタルを壊す不届き者と表の入り口は落盤で潰すにしても、どこかに別の入り口を用意しておくはずである。
 まるでライア達がその考えに辿りつくのを見計らったかのように、狭い隠し通路を通って長身の女が現れた。
「あっちの砦の戦況を伝えに来てみれば――まあ、絶好のタイミングだったって所かしら」
 ライア達にとっては最悪であった。



(あの男……っ、大した実力もないのに飛び込んできた鴨と思えば……とんだ食わせ物だった!)
 魔鳥に乗って仲間を援護し、刻々と変わる戦況を空から監視していた彼女は舌打ちした。
 当初、敵の剣士が味方から離れて砦に向かって来た時には、誰もが警戒した。だが、応戦してみるとその手並みは二流なのである。だから、すぐに片が付くものとそちらには人数を裂かなかった。
 孤立した剣士は拙いながらにしぶとく逃げ回ったため、砦に誘い込んで挟撃してやろうと、わざと入り口を空けた。
 だが、それこそが過ちであった。砦に押し込まれる段になって、剣士はその牙を剥いた。屋内の狭い空間では、多人数対一人の優位が充分に活かせない。気付いた時には被害は拡大し、本性をむき出しにした剣士を前に、砦の三階にあたる屋上までの進撃を許してしまった。
 その凶刃に倒れた同志の中には、彼らの妹分も含まれた。
(許さない――!)
 屋上の一部ごと消し去るつもりで、彼女は先刻中庭を削ったのと同じ魔法を、限界まで増幅して憎き標的へ叩きつけた。
 その瞬間を目撃したのは、剣士に斬られ瀕死だった者達や砦の外のリーティスばかりではない。
「――!!」
 『彼』の視力は、剣士が紙一重で直撃を免れたのを捉えたが、直後にそれは崩落に呑まれて消えた。
 西棟で『最後の仕事』を終えていた彼は堪らずに、東棟の現場へと駆け出した。



 隠し通路を通って現れた一筋縄で行きそうにない女傑の後ろには、彼女の部下が続いていた。
 その時だ。ウィルが、狂ったような勢いで女に氷結の魔法を放ったのは。
「な――!?」
 狭い空間で攻撃を避けようとした女が一歩後退し、その足元に着弾した魔法は、みるみるうちに氷の壁に成長する。隠し通路と言うだけあって、通路も出入口も狭いのが幸いした。女が後退したせいで、その後ろに続いた者達も通路から出ることができなかった。ウィルが、その隙を与えなかった。
「ライア!!」
 ウィルの言わんとする事は知れた。頷いて、クリスタルに手を伸ばす。
 パキン
 炎が灯った部分が割れ、そこからビシビシと全体にひびが広がる。
 ――これで、よかったのだろう。ウィルの氷壁がいつまで通路を塞いでおけるか判らないし、通路の敵全員がこちらに雪崩れ込んだ後では、二人きりで勝てる望みは薄い。
 パン!!
 クリスタルが砕け散った瞬間、辺りは揺れ出し、落盤が発生した。

「くそっ」
 氷の壁を剣で切り崩そうと躍起になっていた彼らは、大きな揺れに一度手を止めた。恐らく術が破壊されたのだろう。向こうは崩落した模様だが、通路側では、ぱらぱらと少量の土砂が降っただけた。
(……。)
 氷壁はそう厚くもない。これを貫通するような衝撃を与える事は可能だったが、その衝撃で脆くなっている付近の岩盤まで崩してしまっては、元も子もない。
(既に術は壊された。ならば急いでも仕方ない)
「戻るぞ!! 今は、地上に戻り戦力となるのが優先だ!」
 部下達にそう告げると、彼女は後退を始めた。充分な広さがない通路であるから、ここまで先頭だった彼女はしんがりを務めることになる。
 その時、部下の一人ががくりと膝を折った。
「……? おい、どうし――」
 部下は、そのまま力を失って倒れる。すると、また別の一人が倒れた。困惑する彼女の前で、次々と部下達は倒れていった。
(しまった、ガス、か――……?)
 クリスタルの破壊に伴う落盤は、地中のガス溜まりへの亀裂を発生させていた。
 そうして、彼らは永遠にその通路で眠りに就いた。

 魔法陣の周囲には、ぐるりと八方に一つずつ炎を宿したごく低い蜀台が置かれている。
 ウィルの推測通り、術を仕掛けた何者かは、魔法陣そのものを埋めるつもりはなかったらしい。クリスタルのあった場所と中庭からの石段は完全に土砂に塞がれたが、すぐさま魔法陣の周辺に退避した二人はけがもなかった。
(けど、完っ全に閉じ込められたよな……。今更氷を溶いて、通路の奴全員倒して進むとか――ビゼスなら出来たかもしんねぇけど……)
 いくらウィルの援護があるといっても、いささか無謀だ。通路にはあの女隊長を筆頭に複数の敵がいる。しかもその先はもう一つの砦に通じていて、不特定多数の敵が待つはずなのだ。
 八方手塞がりの状況で、足元の蜀台の炎が、油は切れていないはずなのに勢いを弱めた。
 ――嫌な予感がした。

 『彼』は、そこに辿りつくまでにいくつもの同志の死体を見た。それらは皆、自分のよく知った兄の仕業に相違なかった。
 小さく黙祷して彼らの冥福を祈りながらも、脚は止めない。
 彼が疾走をやめたのは、そこへたどり着いた時だった。
 東棟の屋上は床が大きく抜け、二階部分に多量の瓦礫が散乱していた。彼は迷わず屋上の大穴に身を投じた。一階分とはいえ、構造上なかなかの高さだ。普通の人間なら足でも挫くところを、彼は“気”を上手く使い瓦礫だらけの不安定な足場に降り立った。
「!」
 唐突にそれが目に入る。すぐ側に転がっていたのは少女の肢体だった。髪を留めていたリボンは解け、血を失いつつある肌は白い。
 彼は込上げる感情を堪え、ここに落ちたはずの別の人物を捜す。辺りに散在する亡骸の中に、その姿はあった。
 瓦礫に半分身を埋めるようにして、首を垂れ、打ち捨てられた人形のようになった剣士。同志達の、仇。しかしそれ以前に、弱かったかつての自分を守り、鍛えてくれた兄だ。
 自分より先に逝くなんて、想像もできなかった。ただ、目の前の現実に立ち尽くすしかできない。
 友を裏切り、家族を傷付け、信条を偽った代償が、これだというのか。
「兄さん……」
 自分の決めた道だ。何を失うことだって覚悟していたはずなのに、どうして、涙が止められない。
 俯き、立ち尽くす彼の耳に、その言葉は届いた。
「泣き虫は、なおらんな」
 若草の瞳が、きょとんと瞬いた。

 その頃、上空では決闘が行われていた。
「ペルラ……! この裏切り者!!」
 襲い来るかつての同僚にペルラは応戦する。石造りの屋上を微塵に砕く魔法を操る元同僚は、十年に一人とまで言われた逸材だ。純粋な魔法勝負ではペルラに勝ち目はない。けれども、魔鳥の敏捷性だけならレイドが上だ。
 最終的に機動力が明暗を分けた。ペルラの攻撃が決まって墜落する彼女は、憎悪の視線を投げた。レイドも飛び続けているため、視線が交わったのはほんの一瞬。
 空での戦いは、その経過に関心などないかのように、刹那に過ぎ去っていく。

 瓦礫からビゼスを助け起こしたウィーロスは少女の声に振り向いた。
「うぃー、ろす……」
 満身創痍の少女がふらふらと立ち上がり、熱に浮かされたように呟く。
「わたしが、そいつ倒してやるの……。見て、て――」
 最後の力を振り絞って床に立ち、仇のビゼスを見据えて魔力を溜める。
 その胸を、細い水柱が貫いた。
「かっ……」
 血を吐きながら倒れる少女を、疾風のように駆け寄ったウィーロスが抱き止めた。既に、瞳に光は無い。
 突如、大きなが揺れが襲った。地下でクリスタルが破壊され、もとから崩れかけの上に損傷の激しい東塔は、全てを巻き込んで崩れ落ちようとしていた。
 ビゼスは上を見る。少女を討ったのは、そこにいた魔鳥の騎手だ。
 魔鳥がビゼス目掛けて降下する。目の前に鍵爪が迫ったとき、不思議と彼はどうすべきかを悟った。
 魔鳥が降下したただ一度のチャンスに、その足首をつかむ。そのまま魔鳥はふわりと大空へ舞い上がった。手を離せば落下して命を落とすが、魔鳥は脚に取り付いたヒトを振り払いはしなかった。
 レイドは、一度背に乗せたビゼスを覚えていたのだ。もとより攻撃の意思はなく、ビゼスがあのまま動かずにいれば、鍵爪は頭の前を素通りしたであろう。
 崩れ落ちる砦から、魔鳥はみるみる遠ざかる。
 ビゼスは、少女の亡骸を抱くウィーロスから目を離さなかった。ウィーロスもまた、崩壊する砦からビゼスを見ていた。――自らの運命を受け入れた眼だった。



 寒い夜だった。
 ジグラル山地の麓に位置する町。山を挟んだ大都ルーレイのような華やかさこそなかったが、都まで馬車で行き来できる距離とあって、地方の農村部より洗練されている。
 旅の宿に、7人連れの客が泊まっていた。他にもルーレイに用のある小商人と二組の旅人が泊まっていたが、7人連れの中の少年少女だけが、遅い時間に戸口に立ち、なかなか屋内に入ろうとしなかった。
 白い息を吐きながら、少女が言う。
「寒いでしょ。戻ったら?」
 言葉とは裏腹に愛想の欠片もなかったが、鼻をすすって言われた方も無愛想に返す。
「寒みーよ。当たり前だろ」
 二人とも互いの顔など見ていない。壁に寄りかかる少年とががみ込んだ少女は、一様に遠くを――ジグラルの方を見ていた。見入っているというより、ぼうっと見ているといった方が正しい。上の空で、途方に暮れているようにも見えた。
 ただ、手先足先に寒さが染みても、屋内に引っ込む原動力にはまだ足らなかった。
「……戻って来ないかな」
「――俺達は、戻れないしな」
 ジグラルやルーレイにはまだどれだけの残存勢力があるか知れない。だから、様子見に戻りたくても、彼らのリーダーがそれを許さなかった。アルドとて、ウィーロスの生存の可能性を全く考えなかったはずはない。だが、一人の捜索とパーティー全体の安全とを秤にかけ、彼は選択を誤らなかった。
 ウィーロスが敵に回ったときは、それなりにショックだった。だが、もう二度と会えないとなると、ショックというより今一つ実感が湧かない。こうして待っていれば、ひょっこり戻ってくるような気がしている。
 ライアもあと一歩で帰らぬ人となっていたが、地下に不燃性のガスが充満して気を失うより早く、酸欠で炎が弱まったのが幸いした。辺りが暗くなった事で、崩れかけた天上の穴から光が差しているのを発見し、そこを切り崩して間一髪、ウィルと生還したのだった。
 ビゼスは、砦を離れてから事の次第を明かした。不調と見せかけたのは敵の油断を誘うためだった事。これについては、薄々アルドは気付いていたらしい。そして、恐らくウィーロスに敵対の意思がなかった事。こちらは推論だったが、ビゼスの説明に矛盾は見当たらなかった。彼は何らかの経緯でミース教と怪異の関連を疑い、敬虔な信者となる事で情報をつかんだ。だが帰還を前に、砦と命運を共にした。
 現在、弟は塞ぎ込み、姉は砦での奮戦が祟って寝込んでいる。彼女は目を離すと起き上がろうとするため、ビゼスが付き添ってとどめていた。
 自分達がこうして外で待つのは、彼らの代行のようにも思えた。何もできない今、待つだけでもしていないと、気がすまない。
 リーティスが気の無い質問をする。
「ねぇ、いつまで待つの」
「……夜明けまで」
 嘘か本気かは、当人にも判らなかった。とにかく、今は待ちぼうけをやめるきっかけが見つけられずにいる。
 その時、暗い空を大きな鳥の影が横切った。
「――あれ!」
「あぁ……」
 信じられない面持ちで、ライアも頷く。あの大きさは、魔鳥だ。それも、町の近くに降りてくる。
 アルドに報せに行くべきか。だが、空を見てもその一羽以外は確認できない。
 二人は、町の外れに急いだ。

 現場に着くなり、リーティスは予想外の光景に目を見張った。
(レ……レイドが襲われてるっ!?)
 妖艶な紫の鶏冠を持つ薄茶の巨体が物凄い勢いでレイドへと迫り――
「やめなさい! ミディー! ミディってば! ってあんた、レイドじゃない!?」
 慌ててその背がから飛び降りた小柄な赤毛の女性が、愛鳥を必死で止めていた。
「あの!!」
 駆けつけながらライアが声を発すると、女性はこちらを見て、次いでかなり動転した様子で悲鳴を上げながら炎を放った。
「きゃー!!」
 しかし、それは術者の動揺を反映して大きく上に外れる。
「ご、ごめん! こんな時間に人がいたと思わなくて……じゃなくて、いやあの、違うの! これね、ニワトリの卵と思って育ててたらこんなに……ジグラルにいる悪党なんて噂、一切関係ないから! 違うから!」
 唖然としてライア達は立ち止まった。背はライアより頭一つ低く二十代に見える女性の後ろで、安眠を妨げられたレイドが別の意味で猛烈なアタックを受けている。彼は擦り寄ってくる一回り大きな巨体にかなり迷惑顔だ。
 混乱を極めるこの場において、リーティスが一言。
「えっと…………。まず、話を聞かせてください」
「エ? 驚かないのね……。丁度よかった。男の子の力が欲しかったの。悪いけど、このけが人を町まで連れてってくれないかな?」
 そう言って、彼女は魔鳥の背に乗る負傷者にかぶせていた毛布を取り払った。

「もーっ! どういうことなの、説明してッ」
 宿に乗り込んだ女性は、灯りの下で見ると、髪だけでなく瞳も紅色をしていた。
「わかったわかった。説明するけど、エリーゼ、なんでここにいる訳?」
「それはこっちの台詞よ! ジグラルに魔物を操るならず者がいるって噂が広まってね……とんだとばっちりだったから、真相確かめるためにジグラルに乗り込んだのよ……そうしたら、人がいっぱい死んでて……ねぇペルラ? あれって私達と同じ国の……よね?」
 ペルラは、恐い目をしたまま黙った。それで答えが解ったらしく、エリーゼはしゅんとなる。だが、ペルラの次の一言でそれは一転する。
「その噂ね、流したの、私。」
 ごつ!といい音がして、エリーゼの拳が額にクリーンヒットした。

 疲労でやっと眠りに落ちたウィリアは、真夜中の人の出入りする気配に目を覚ました。
 そこにはライア、リーティス、アルド、ビゼス、ウィルの他、エリーゼに発見・救出されて別室で介抱を受けたばかりの彼がいた。
「――――!」
 その顔を見た瞬間、魔女は泣き崩れた。
「鬼の目にも涙ってね?」
 ウィルが茶化すが、それは自分が先に再会を済ませていたが故の余裕である。
 姉の顔を見て彼の方も気が緩んだのか、それまで堪えていた弱音を吐いた。
「あのまま……僕も埋まってしまえばよかった……」
 ウィリアは、ビゼスに斬られ、ペルラが楽にしてやった少女の存在など知らない。だが姉としての本能が、弟の苦悩を見抜いた。ビゼス達が名も知らぬあの少女に、ウィーロスは少なくとも好意を抱いていたのであろう。
 彼女はただ、弟の頭に手をやり、こう言った。
「辛かったわね――」
 そして次の瞬間、ウィリアは静かに気を失った。

 砦の陥落は討伐隊を通じてその日のうちに広まり、巷ではちょっとした騒ぎになっていた。主力となったはずの7人はいずこかへ姿を消しており、人々は砦の制圧が討伐隊によるものと信じて疑わなかった。
 同じ頃、ルーレイでは納屋に閉じ込められていた一人の男性が救出され、目の下に隈を作った彼は介抱の手を跳ねつけて、もう一つの砦に急いだ。
 やってきた彼に、砦の指揮官は素っ気無く応じた。
「ここはもう引き払う」
「それなら、次こそはお役に立ちますよ。ねぇ、今度こそ、最先端の魔法技術の力を――」
 熱心に語る男性を、哀れみの混じった目が見ていた。だが、男性はそれに気付かない。
 程なくして、男性は物言わぬ躯に変じていた。
「……よかったのですか」
「ああ。こやつは我等が先進の魔法技術力につられ、こちらについた。いとも簡単にな――。使えるかと思い手元に置いたが、このような性質の者は、またいつ寝返るとも判らぬ」
 一度言葉を切り、男性の躯から視線を外して言う。
「真に信用に値するのは、志し清く高潔なる者、我らが同志、敬虔なる神の子らのみよ――」



 彼女が目を覚ました時、窓からは燦々と日光が注いでいた。
「あ――おはよう!」
 そうだ、昨夜はこの娘と同室だった。旅をしていると毎日場所が変わるから、寝起きはここがどこだか判らなくなる事がある。彼女は目をこすって尋ねる。
「貴女が起きてるってことは……もう昼ね?」
「う――ぅん。そろそろ、正午……」
 その声に重なり、戸を叩く音がした。
「生きてるか。いつまで寝てる気だ」
 間違いなく、言い間違いなどではなく意図的だ。慌てて扉に駆け寄る少女の背中を眺めつつ、彼女はまだ重い頭で昨夜の事を考えた。
(あれは……夢だった?)
 明け方に、何度も夢を見た。結局、どれが本当だったか――弟が瓦礫の下でうめいている声を聞いたのも、ひょっこり元気な姿で現れたのも、けがをして帰って来たのも、どれも現実ではなかったかもしれない。
 扉のところで短いやりとりがあって、それから彼女に声が投げられた。
「ウィリア。動けるな? 悪いが歩けるようならすぐに発つ」
「待ってよ、まだそんな――」
「わかったわ」
「ウィリア!!」
「心配してくれるのは嬉しいわ。でも、ここは危険ってことでしょう? 平気よ、休めるところに着いたら、ちゃんと休むから」
 まだ何か言いたそうな少女に彼は言う。
「リーティス。アルディスも馬鹿じゃない。少しは信用しろ」
 成程アルドの決定ならば、その先の休息も考えての事だろう。
「むぅ……だけど、ウィーロスだって完治してないのに……」
「そうだ。だから、その分お前がしっかりしろ。期待してるぞ」
 そうしてビゼスは去ったが、リーティスが一瞬挙動不審だった。照れたらしい。
(あらま。あのコの扱いが上手いこと。にしても……)
「どうして貴女はそう可愛いの〜っ」
「ぎゃーっ!?」
 久々に不意打ちで抱きつかれて妹分は悲鳴を上げた。

「ごめん。昨日は床に寝かせちゃって……」
「いーって。それより早く、けが治せよ」
 赤目赤髪は陽光に映え、いかにも快活な印象だったが、その左腕には今も銀の腕輪が嵌まっている。
 姉とリーティスの誘拐騒動、ライアが受けた呪い、フェリーナの決断。ウィーロスは今朝になって同室のウィルとライアから粗方の事情を聞いていた。
 腕輪に視線を落として、彼は遺憾そうに目を細めた。
「……大変なときに、抜けちゃってたみたいだね」
「何言ってんだよ? そっちのが、色々大変だったろ。その――向こうでだって、『仲間』はいたんだろ……?」
 潜入のためとは言え、行動を共にすれば人間、情も湧く。耳の不自由な少女やジグラルで散った彼らは、皆ウィーロスとは面識のある人々だった。性根の優しいウィーロスにとって、それは酷である。
「うん。でも、何があってもやり通すって決めたんだ」
 昨夜こそ傷ついて弱気な姿を見せたものの、その鋼のような意思の強さは、やはり長い間戦地に身を置いた人間のものだとライアは実感した。兵士として育てられた彼は、これまで幾度も、人命が失われる場面に立ち会ってきたのだろう。
「ほうこーく」
 そこに、アルドから伝達を受けたウィルが戻ってきた。
「お昼には発つってさ。兄貴、ケガ平気?」

 町を出たライア達は、まずレイドを迎えに行った。
「レイド……疲れてる?」
 リーティスの言葉に、ペルラが答える。
「ああ、この子前からエリーゼのとこのミディに好かれてるから」
 昨夜現場を目撃しているライアとリーティスには理解できたが、他の者は疑問符を浮べた。ライアが訊く。
「てか、レイドって雄なんだよな?」
「ええそう。で、ミディは男の子」
 間。
 ライアがリーティスを振り返る。
「……なあ、今なんか文脈おかしくなかったか?」
 リーティスは頷く。二人してペルラを見ると、彼女はもう一度言った。
「だから、男の子。魔鳥は専門家でも雄雌の見分けが難しいから、判らなくて無理ないけどね」
 思考が丸一周空転したのち、ライアはぽんと手を打った。
「そっか、仲が良い兄弟なんだな?」
「そんな訳ないでしょう。鶏冠とか風切り羽の色、全然違うじゃない。彼(ミディ)は、魔鳥界を代表する列記としたオネェよ」
 ……さいですか。ここに来て初めてレイドの疲労を正しく理解した二人だった。
 レイドの体調確認と手綱の装着にとりかかるペルラに、リーティスが訊く。
「そう言えば昨日の女の人、夜中のうちに帰っちゃったんでしょ?」
「ああ、それは魔鳥を飛ばすのに暗いほうが人目に付かないから。本当ならね、エリーゼなら炎も使えるし、事情話して一緒に来てもらってもよかったんだけれど――戦うのは専門じゃないしね。おめでたなんて聞いたら、こんな戦いには巻き込めない、って」
 遠い目をしたペルラに、アルドが訊ねる。
「ご友人、なんですよね」
「そう。じゃなきゃ、もっと冷徹に割り切れたんだけど――」
 彼女なりに葛藤があるようだ。ライアの呪いがいつ深刻化するか判らない今、炎を使える味方はのどから手が出る程欲しい。怪異を止められなければ、この地だってどうなるか知れたものではないのだ。だからと言って、友の目の前の幸せを踏みにじれる程、ペルラは冷血でもなかった。
 点検を終えてレイドに跨るとペルラは行き先を告げた。
「それじゃ、一足先に行ってるわ。嵐でもないのに着かなかったら、その時はどこかでやれれたものと諦めてね」
「待って!」
「何かしら、魔女さん?」
 ペルラはウィリアの前歴を知らないが、そう呼ぶことがあった。高い魔法の才もさることながら、どちらかというと美しい外見と魔性の女という意味で言っているようだ。
「途中、ラタ高原の上空を通るわね。少しだけ迂回して、アス湾の港に寄ることは可能かしら?」
「? ええ。様子見に立ち寄るくらいなら。天候が荒れてたり、近くに敵の気配があれば、それはできない相談だけど」
「もし寄れたらでいいわ。ひとつ、確かめておいて欲しいの」
「メイスの近況だな?」
 ライアだけでなく、他の仲間も気付いていた。
「めいす……?」
 レイドの背で首を傾げたペルラに、アルドが補足する。
「地図に載らないくらいの小さな町なんだ。少し前に疫病が蔓延したって聞いて気になっていてね。すまないけど、港町で様子を聞いてみてくれないかい」
「ヨク判らないけど、それくらいハお安い御用! メイすって町のこと聞けバいいのネ? それジャ」
 ペルラはそう言い残し、レイドが翼を広げて大空へ飛翔した。
 遠ざかる影を見詰めながら、アルドがごく小さい声で呟く。
「……できれば、悪い報告なら聞きたくはないけれど――」
 らしからぬ弱気な発言に、リーティスが自信を持って宣言する。
「大丈夫! フェリーナだもん」
「そうよ。あの娘がそう簡単に折れて堪るもんですか」
 アルドは微笑み、こう続けた。
「よし。僕らは、僕らの旅を続けよう」



 年季の入った木の机に伏したまま、彼女は眠り込んでいた。悪い夢でも見ているのか、その顔は寝苦しそうである。
 机の上には、何やらインクで書き付けたメモが数枚重ねてある。条件を書き込んではそれを試し、効果が現れずにまた新しい条件を書き付け……と繰り返した形跡がそこには残されていた。
 背後の机には幾つかのシャーレが乗っており、それぞれに小さな染みのような黒い点があった。彼女は連日、その点を大きくしようと腐心しているのだが、なかなか兆候は表れない。

 夢で、彼女は不思議な少女と対峙していた。その瞳はどこまでも深く、同時に、どこを見ているのか判然としない。
 その姿を見ていると悲しくなる。罪悪感で胸が押しつぶされそうだ。けれども彼女は、金縛りのように視線すら動かせずにいた。
 彼女が罪を犯したあの日から、少女は時折夢に現れる。
(あなたは、私を罰しに来ているんですね……)
 彼女は思う。当然の報いだった。
(ごめんなさい――)
 謝ることしかできない。それを声に出すことすら、動けない彼女にはままならない。
『 どうして? 』
 少女が語りかける。
『 あなたは どうして ああしたの? 』
 やはり、これは夢だ。現実の少女は口が利けないはずである。いや、それ以前にもうこの世にいないはずだった。
(それは――……)
 彼女は胸の内で弁明する。
 少女の瞳には、哀しさも、怒りも、叱責もない。ただ不思議そうに、自分を刺した理由を訊いてくる。
(――助けたい、仲間がいたんです)
 それは言い逃れでなく、紛れもなく本心だ。届かないと判っても、彼女はもう一度心の中で謝った。
(ごめんなさい……)
『 …… 』
 少女は、しばらく彼女を見ていた。
 その先が続く夢は、これが初めてだった。
『 わたしは こんなからだに 生まれた。 あなたは ちゃんとした からだ。 あなたは なにをするの。 なにが できるの――? 』
 少女は少しだけ羨むような表情をのぞかせたように思えた。彼女は答える。
(――救います。この命の限り、できる限りの人を。)
 それでも、目の前の少女を殺めたのは自分なのだ。あなたには救えなかったと言われれば、否定することはできない。
 少女は、もう何も言わなかった。徐々にその輪郭がぼやけていく。こんな風に消えていくのも初めてだ。いつもなら、少女の手が彼女に触れようとするところで、汗びっしょりになって目が覚めるところだ。

「ん……」
 連日、ろくに体を休めていない彼女は、それでも鞭打って身を起こした。
 振り返ると、昨日自分が仕掛けたシャーレが並んでいる。奇妙な夢は終わり、現実に戻ってきた。
「!」
 シャーレのうち半分には、申し訳程度に点のようなカビが見えるだけだったが、別の条件で試した残り半分に、大きな円がいくつもできていた。
「先生。起きてますか」
 彼女があまり休めていないことを承知で、控えめに声をかけにきた手伝いの者は、部屋に入るなり、メモを手にした彼女の勢いに圧倒されて目を丸くした。
「お願いします! すぐに、ここに書いた方法で株を増やしてください! それと、精製の方にも何人かいただければ」
 メモを受け取りながら、手伝いの者はただ頷くしかなかった。



「おい――何の冗談……」
 低く呟きかけた彼は、本当に周囲に人がいないのを察して言葉を止める。
 少し冷えるが森林浴には絶好の環境だ。昼の陽射しに雪は少し溶け、落ち葉をたっぷりと含んだ腐葉土を湿らせている。
 林の向こうに見える茂みを、野うさぎの親子が跳ねていった。
 長閑過ぎる。だが、こんな所で仲間とはぐれた自分は、如何に間抜けだったろう。
「――……」
 彼はしばし思考する。太陽を見れば、方角の見当はついた。目的地は判っているので、森を抜けて合流することなら可能だろう。
 しかしそこへ、思いもよらない障害が立ち塞がった。
 気配に振り向いたのは、初老の男。若かりし頃は燃え立つような赤毛であったろうその頭は、白く侵食されつつある。
 死人に近しい無気力なこげ茶色の瞳とは対照的に、体つきには一切の隙も無駄もない。自律してただ殺戮だけを続ける兵器があるとしたら、きっとこの男のようになるのだろう。
「魔族か――……?」
 落胆したような諦めたようなその声は、見た目から想像したより遙かに張りがあった。
「…………」
 言葉すら返せない。ただ全力で、この男から逃れる術を脳内で探る。
 次の瞬間、初老の男が剣を抜き飛びかかった。
(――ッ!! この男……!?)
 普通では考えられない速さだった。若い魔族であればこれだけの動きをする者もいただろうが、この男のものとしては異常以外の何物でもない。
 抜き付けで一刀目を防ぐが、瞬く間に二撃目が続く。
 間近で交錯する視線に、疾風迅雷で名を馳せた黒の疾風が息を詰めた。

「おーいっ!」
 呼べども返ってくるのは木霊ばかり――と思いきや、存外早く仲間の一人と合流できた。
「ねぇ……どうなってる訳……?」
 聞かれても、答えられるはずがなかった。
「俺に聞くなよ……」
 その口からため息が漏れる。リーティスと合流できたのは良いが、他の仲間は忽然と姿を消してしまった。
 緑豊かな美しい森である。こんな状況でなければ、散策気分で楽しめたことだろう。
「とにかく、捜すしかない、か……」
 しばらく歩いてみたものの、一向に人の気配は感じない。魔物も出てこないのは幸いであったが、どうしてこうなったのか、どちらも思い出せないでいる。
(俺、夢でも見てんのか……? にしたって、どーして夢で一緒なのがこいつなんだよ)
 相棒としては申し分ない。ただ、夢で気持ちよく散歩を楽しむなら、フェリーナのような優しい女性が良いに決まっている。でなければ、祭りの夜に現れた精霊アリアのような可愛い妹分でも構わない。どの道、リーティスと二人というのは余計な事を考えてしまい落ち着かなかった。反面、その存在が酷く心強い時もあるので不思議だ。
 そこでリーティスがぴたりと足を止めた。ライアの目も真剣味を帯びる。
「――聞こえた?」
「……ああ」
 聞き違えようがない、二人にとっては、背筋が凍るようなその音。
 あの雷鳴を最初に聞いたのは、何時だったか。湖畔の散策中、ライアは雷をその身に受けた。ライア以外の人間であれば命を落としていただろう。しかし本当の恐ろしさは、雷の殺傷力もさることながら、術者本人の暴走にある。
 リーティスが無言でライアの腕を取り、力を篭めた。気持ちは解る。だが。
「行くぞ」
「……え?」
 リーティスが拍子抜けしたように顔を上げる。ライアの歩き出した方向は、彼女の予想と逆だった。
「近付き過ぎなきゃどーにかなるだろ。それに、相手が全滅してれば正気に戻ってるかもしれないし」
 リーティスは本来の表情に戻ると、頷いてライアの後に続いた。


   →戻る

inserted by FC2 system