――判らない。かれこれ十年以上、奴の成長を見てきた訳だが。
 別に、奴がこうした事に文句があるのではない。ただ、何か釈然としない。霧の中に入り込んだようで、どうにも腹立たしい。
 案外、リーティスの言うような単純な動機なのか。他にも幾つか考えてみたが、どれも想像の域を出ない。

 メロアを発つ前、宿の清掃をする雇われの男が、私に声をかけた。
「ちょいとにいさん。あんた、3日前、昼に出てった背の高っかい坊ちゃんの知り合いだろう?」
「?」
「部屋に、こんなん落としてったんだよ。ただのゴミなら普通に捨てるんだけどね、なんかそれ……人の形にも見えんかい? 下手なことして祟りでも起きたらおおごとだ。頼むから引き取ってくれんね」
 受け取った掌の上の物に、目が細まる。
 戦神ヴァルシュナーの木像。
 それを睨み付けた理由は、像が胴のところで折られていたから。剣呑な気配を察し、男がそそくさと退散する。
 私は自問する。
(像を壊す意味――昨日まで信じていた神を、捨てる? 過去の自分との決別? 戦いをやめる。闘争は罪、そう信じるなら、戦神は邪神か? だが――『これをやったのは』、『ウィーロスだ』。奴が正気でこんな事をする――どうも、考えにくいな。いや。そんなのは、私があいつの本質を見誤っていないという、仮定の上での話だ。人の心は容易く移ろう。異教の神なり宣教師なりに心酔しきっていれば、何をしでかしても不思議はない。あいつは変わったのか。変わったのだと――『知らしめたかった』? ……何を。考えすぎだな。たかが個人の改宗で、なぜその必要がある)
「……――」
 そこまで来て、私はある事を閃いた。
 そしてそれを、誰にも話さなかった。



STAGE 30 monster birds 〜山岳の魔鳥〜



 遠く広がる緑の山脈の大パノラマ。美しき湖畔の水面には、水鳥たちが遊ぶ。
 朝の空気はふわりと湿度を帯び、日中の蒸し暑さを予感させた。
「ここが――ワイスデール公国――……」
 その声はどこか硬い。彼女が負うものを知るのは、ただ一人。その魔女は、背後から両肩に手を置き、耳元で励ましの言葉を囁く。
「(大丈夫よ)」
 リーティスがわずかに頷いた。
 他の仲間は、リーティスの緊張には微塵も気付かなかった。
「あっつー……」
 ライアが襟を広げて風を送る。冬物の衣類は荷物に詰めて斜面を歩くと、汗ばむような気候だ。
 これまでいた場所からは、かなり南下してきた。加えて潮の流れと季節風の影響によりワイスデールは晩冬でも初夏のような気候であった。
 ローゼスで示された魔力の変曲点の一つが、この小国にある。
 山脈に囲まれた領土はささやかながら、豊かな水資源と山林に恵まれる。四方を山に囲まれた不便な地形から、他国から狙われる事も少なく、公国としての歴史は古い。
 ただ、近年は領地を拡大してきた近隣諸国との折り合いで、小規模な兵団の国内への駐留を認め、同盟を結ぶ事で、中立の立場を守っている。その同盟国の一つが、以前リーティス達の売られたイデハッタであった。
 リーティスがちゃっかりシヨウ王子より賜った書状のお陰で、ライア達は滞りなく入国を許可された。国土は大半が緑に覆われ、関所からの一本道を延々歩いて1時間、ようやく首都に到着した。

 山間の関所を潜った時点で魔法で首都への伝令は済んでおり、ライア達が着くと壮年の髭の兵士が待ち受けていた。
「お待ちしておりました。あなた方が、イデハッタよりお越しのご一行様ですね。ようこそ、首都カンナへ。……と言っても、我が国は、ほとんどこの首都と、南東のニアスにしか人はいませんけど。僕はニアス出身ですが、ヤギと牛ばかりの、のどかなところです。風景だけは自慢なので、日程に余裕があれば、後日、観光でもどうぞ」
 アルドが代表でそつ無く礼を言い、一行は王宮に案内された。



「あーのさぁ〜? どしてそんな面倒な仕掛け、オレ達が解かなきゃなんないワケ〜?」
 現場に向かう道すがら、ぼやくウィルに、案内兼見張りの若い王宮兵士二人のうち、一人が答える。
「規則なんです。今回だって、シュゼン公から特例でお許しが出たから特別にご案内しますが、この時期の入水は酷く危険で、固く禁じられているんです!」
 ローゼスでの解析が正しければ、魔力の流れが捻じ曲がっている座標は、正確には王宮より少し北である。アルドが借りた地図を照らし合わせたところ、毎年秋の祭典で儀式を執り行う石舞台が、丁度その辺りと判明した。
 だが神事を行う神聖な場所という事で、普段は複雑な仕掛けで閉ざしている。湖から突き出た3本の柱で同時に操作を行う事で、湖の畔に石舞台が現れるというのだ。
 ここで問題になったのが、ある時期の入水を国民に禁じる法令だった。
「『この季節は湖のヌシが人を引きずりこむ事故が偶発する』だったか。そのヌシとかいうのは、魔物なのか?」
 ビゼスの問いかけに、緊張した顔つきで兵士達が頷く。もう一人の兵士が言った。
「禁止されてはいるが、俺のじいさんの代に、違反して湖に入った人間と、助けに入ったもう一人が死亡した。調査では、肉食の水棲生物で、でかいのは全長数メートルにも及ぶそうだ。……あと、ヌシとは言うが、多分1体じゃない」
「必ず現れる訳でもないので、無事をお祈り致しますが……皆さん、本当に考え直すおつもりはないのですか。あと3ヶ月も待てば、わたくし達が代理で操作する事もできますし、安全は保証されますよ」
 アルドが丁重に、しかしきっぱりと断る。
「お気遣い、有難うございます。しかし、私達には時間が無いのです」
「……そこに、妙な術が仕掛けられてるかもしれない、って言ったな。前にあの舞台を使ったのは去年の秋だから、仕掛けるにゃそん時しかタイミングがない。祭典が終わるまで、儀式の最中を除けばあまり人も来ないだろうが、外部の者がそんな事をするのは難しいだろう。――もし、確認して何もなかったとしても、がっかりしなさんなよ?」

 3本の柱を操作するのは、ライア、ウィリア、リーティス。岸から一番遠い柱をライアが担当するのは話し合いで決めたが、人選自体は、公平にじゃんけんで決めた。
 拳骨と鋏と紙に定められし神聖不可侵なる勝負の輪から、姉がさりげなくウィルを外した件について、ライアは事情を知っている。
 幼い頃、川で遊んでいて足を取られ、流されかけた経験があるそうだ。以来、ウィルは水が駄目になった。当時、自身も幼かったウィーロスは、膝まで浸かるのも怖くて川原で遊んでいて、弟の危機に、泣いて助けを求める事しかできなかった。その苦い経験から、必死で泳ぎを練習した、という話を、以前ウィーロスから聞いていた。
 それとは別に、ライアは勝負に臨む親友の目がかなりマジであった事について、彼の尊厳のため、誓って口外はしなかった。
(そだ。確か泳げねーんだ……。勝ち逃げてくれてよかったけど――)
「えー!? どうして私なの??」
 負けたリーティスは不平を述べたが、代わってやろうと名乗り出るナイトは、残念ながら無い。
「残るメンバーは橋の上で待機。何かあった時のサポートも重要だろ?」
「むぅ……。そうだけど」
 親友の名誉のためフォローを入れた後で、ライアは最初に勝ち抜けて知らん顔のビゼスを見た。
「――なぁ。さっきから全然喋んねぇけど……泳げないとか?」
 即行で睨まれた。が、すぐに興味なさげに視線を逸らす。
「…………」
 思うところはあったが、ライアは追求を断念した。下らないと思う事は徹底してだんまりを決め込むビゼスである。
 ……何より、この話題を長く続けると、親友の立場が危うい。

 岸から見て、縦に長い楕円形の湖が広がっている。その長手方向を3等分した手前側に、横一直線に欄干の無い橋がかけられている。水面からの高さは3メートルほど。橋のすぐ手前、岸からは15メートルほどの所に、左右一本ずつの柱が立っている。更に、橋を潜った先、湖の中心地付近に3本目の柱があり、3本を結ぶと正三角形が描ける。
 いずれの柱も橋から飛び込めば近いが、帰りは自力で岸まで泳ぐしかない。中央の柱担当のライアが、一番リスクが高いのは言うまでもない。
 かくして――
「いいかーっ? 俺たちが手を下げる瞬間に、その柱の凹みを押し込むんだ! 一人でもずれると途中で止まっちまうからな〜!?」
「準備はいいですかー? 行きますよー!」
 ライアの方を向いた兵士と、橋の手前側に向かって手を振る兵士に、柱に辿りついた3人が声を投げ返す。
「おっけーだー!」
「いつでも行けるわー!」
「早くしてー! いつまでレディを水浸しにしとくつもり〜!?」
 橋の両側を向いて立つ二人の兵士は、目で合図を送り、同時に手を下げた。

「! 見て下さい!」
 フェリーナが対岸の変化に気づいて声を上げる。出現した横に長い長方形の石舞台は、橋の上からでも、かなりの広さがある事が知れた。
「あれが……、――っ!?」
 石舞台に目を奪われていたアルドは、水面で大きな魚が跳ねるような、ばしゃりという音に気付き、橋の逆側を覗き込んだ。
「リーティス!!」
 アルドの警告と同時、ウィルが珍しく青ざめてリーティスの近くを指した。
「そこ! 何か居るって!!」
「え!?」
 咄嗟に、水から離れようと柱につかまり、少しでも上がろうとする。だが、
 ずるっ。
 何かが、リーティスの腹に巻きついた。そのまま、ぐいと引っぱられる。
「〜〜〜っ!! いやぁーーッ!!」
 無我夢中で柱にしがみつくも、藻に覆われた柱の表面は、あっけなく彼女を水中に放した。
「リーティス!? くそっ」
 向こうでライアが自分の居た柱を蹴り出す。
 が、剣は橋の上。しかも水上では、生半可な炎は通用しない。アルドが鋭く警告する。
「ライア!! 君はそこから動くなっ! 『来れ 神速の使者』……!」
 もがくリーティスと、暴れる獲物を押さえんとのたうつ触手が飛沫を立て、子細がよく見えない。確認できるのは、とんがった魔物の頭の先くらいだ。フェリーナが橋の上から悲痛な声を送る。
「リーティス! 聞こえますか!? もう少しだけ頑張って!! きゃあっ!」
 いきなり横にかっさらわれたフェリーナが、小さく悲鳴を上げた。次の瞬間、魔物の吹いた墨が一面にばしゃりと散った。
「っ……」
 跳ねた墨がスカートの裾にまだらを作ったが、ビゼスが強引にさらわねば、頭からつま先まで真っ黒になっていたところだ。
 ウィルのバリアによって、アルドは詠唱を中断されずそこに立っていた。今まさに発動せんとしているのは、人間であるリーティスには効きにくい、光属性の中級攻撃魔法。
「… 白き翼で舞い その刃で敵を討て――!」
 飛沫の中心へと、魔力の刃が舞い乱れる。
「やったかっ!?」
 そう言って、兵士が不安そうに覗き込む。そこには、攻撃を受けて動かなくなった、巨大なイカの魔物がぷかりと浮いていた。
 飛沫は治まり、後に残るは小波だけ。
「え――」
 ウィルが、恐る恐る声を発する。
「…んな――リーティス、上がって来ない……」
 助けないと。解っているのに、水への恐怖が四肢と思考を縛りつける。
「わ……私が行きます!」
 意を決して飛び込もうとするフェリーナに、ずい、と一対の剣が押し付けられる。
「持ってろ」
 言った本人は、脱ぎ捨てた靴だけを残し、橋の縁から落下して、控えめな水飛沫を作った。
 皆が瞬きもせず見守る中、程なくして、水面から黒髪の頭が浮上した。腕に、気絶したリーティスを捕まえて。丁度、ライアもそこに追いついた。
 立ち泳ぎの状態で、ビゼスが上へ叫ぶ。
「おい! とにかく岸に戻る。そこから見て、他に化け物の姿は無いな?」
 辺りを見渡して、アルドが肯定を返す。アルドと兵の一人が残り、他の者は既に岸に向かって移動を始めていた。向こうの柱に居たウィリアも、事態の収束を見届け、一足早く岸へ向かっている。
 先に行け、とライアに顎をしゃくると、ビゼスは肘をリーティスの首に引っ掛け背泳ぎで岸まで戻った。



 陸に上がって水を吐かせると、意識の戻ったリーティスが、ぼんやりと訊ねた。
「助、かっ、た……?」
 濡れた金髪を無造作にぐしぐし撫でた手は、ビゼス。表情こそ真顔としか表現のしようがないが、この弟子を気に入っているのは違いなかった。
 無事を確認して気が緩んだところで、ライアは言った。
「つか、泳げたんだな! いでッ!?」
 ライアは引き続いて無言・無表情のビゼスに殴られた。やはり、どうも表情は読めない。
「かーっ、怒ることねーだろ……本気で痛ぇし……」
「その程度は避けろ」
「な!? 今の完っ全に不意打ちだったろ!?」
 そこに、兵士が言った。
「皆さんはこのまま石舞台を調査されるかもしれませんが、お嬢さんは休まれた方がよいでしょう。王宮までお送りします」
「でしたら、僕も行きます。彼女が心配なので」
 紳士的なアルドの振る舞いに、さしもリーティスもどきりとしたが、すぐに冷静になった。
(うん。まだ、ワイスデールの人達全員が、白と決まった訳じゃないもんね)
「ええ、解りました。では、参りましょうか」
 嫌悪感は見せず、兵士は物腰柔らかに応じた。



 通されたのは、窓から光を一杯に取り込む造りの一室。窓の外には、生垣に囲まれたごく小さな庭のような空間がある。豪華絢爛な装飾こそ無かったが、落ち着いた洗練された雰囲気が、王宮の応接間に相応しい。
 リーティスの持つ書状のため、今回、ライア達はシュゼン公の客人という扱いだ。
 当初、消耗しているリーティスを先に寝室へ、と勧められたのだが、本人が丁重に断った。しかしその疲労は目に見えていたので、同席する兵士への無礼を承知で、アルドは応接間のソファで彼女を休ませてくれるよう願い出た。

 広いソファの左側にアルドが座り、右側に腰掛けたリーティスは、そのまま上体を右に倒して肘掛を枕にする形で仮眠している。濡れた服は着替え、生乾きの金髪の下にはタオルを敷き、肩から薄い毛布がかけられていた。
 低い机を挟んだ対面に、リーティスの様子を伺いつつそろりと腰を下ろした兵士が、苦笑する。
「用心深いですね。貴方も――お嬢さんも」
 彼は今しがた、タオルと毛布を運んで来た小間使いに飲み物を注文していた。
「すみません。……失礼は承知で」
「いえ、構いません。まあ――目の前で淑女が眠るというこの状況で、わたくしの品性を疑われなければ良いのですが。それだけです」
 肩を竦めた兵に、アルドは畏まって頭を下げ、語気を緩めつつ言った。
「流石に、出て行って欲しいとまでは言えません。貴方も仕事でしょうから」
 やや経って、マホガニーの扉がノックされ、二人分の紅茶を運ばれてきた。
 小間使いが退室し、紅茶に口を付けようとした兵士は、アルドが手を伸ばさないのを見てカップを置き直す。
「心配性なんですね」
 なるべく相手の気を害さないよう、アルドは笑顔を造って返す。
「自分でも、そう思います」
 兵士が、掌を上にして机の上を撫でるように動かした。
「……では、どうでしょう。貴方のお好きな方を取っていただいて構いませんよ。残った方を、わたくしが先に飲みましょう」
 アルドが、頭を振る。
「ええ。ですが、あなたが先に中和剤を含んでいれば、話は別でしょう」
「……はぁ。そこまで徹底していると、いっそ感心します」
 その時、小さな寝息が聞こえてきた。途中まで狸寝入りだった可能性はあるが、やはり、疲れはピークに達していたようだ。
 思う所があるようにそちらを見て、兵士は言った。
「貴方は、その方がどなたかご存知ですか」
「リーティスが? どういう意味ですか」
「――いえ。聞き方が悪かったですね。彼女が、我々にとってどのような存在か、というお話です」
 兵士は続けた。
「セーミズの一貴族のご令嬢。それが、王族とも縁のある上級貴族の娘ともなれば、我々のような小国には、到底手は出せません。セーミズ本土は怪異で多大な被害を受けたと言いますが、かの国には、ゼークやクライスの後ろ盾もある。彼等は、ノーゼ大陸に多くの同胞を持ちます。万一、我々の中に貴方がたの敵がいるとして、少なくとも、今この時点で手出しする利点は無いと思いますよ」
 大貴族とは、少々意外だった。申し訳ないが、気軽に家出をしてきた娘という偏見で、辺境の一貴族と思い込んでいたのだ。
(――いや。考えてみれば、ライアの例がある……。世の中、甘く見ない方がいいのかな……)
 一方で、アルドは下世話な想像をしてしまう。表面上、喧嘩の絶えない二人の事を、実は上手く行くんじゃないかとアルドは思っている。だが、怪異を打ち破り、国が元に戻れば二人は永遠に結ばれない。セーミズ王家を代表する姫君とライアの縁談がお流れになっている以上、傍系から妻を娶る事は叶うまい。例え分家でも、権力が絡むと完璧な味方とは言い切れず、現在の王家がスロウディアの抱きこみに焦っていない以上、直系以外の娘が嫁ぐのは避けたいはずだ。アルドの読みでは、次は恐らくライアの子供の代で、セーミズは直系の女児を送り込んで来る。
 思考を現実に戻し、アルドは冷静に、自分の前に置かれた紅茶に手を伸ばした。
「――そうまで言われて、いただかないのもマナーに反しますね」
 もうじきに、石舞台を調査中の仲間も戻るだろう。



「え――? もしかして、はずれ……?」
 起き抜けのリーティスが言い、
「魔方陣は、なかったのかい?」
 アルドが問う。ウィリアが、憤慨しながらそれに答える。
「あったわ――あったわよ!!」
「……ビゼス、何で彼女は荒れてるんだい?」
 事情を解っているはずのビゼスは、さあな、という動作を見せただけで、フェリーナが代返する。
「前と、同じでした――ラースの時と。核となるクリスタルを壊せれば、術は消えるみたいです。ただ――」
「クリスタルが、離れたとこに隠されてるみたいなんだ。ウィルとウィリアが魔方陣読んで、方角までは判ったけど……」
 アルド達と同席していた色白の兵士が言う。
「だったら、案内して差し上げればよかったのだろう、ゼク」
「いや、それがさ……方角って、南で。南って、デラス山なんだよ、ハク」
 ゼクと呼ばれた浅黒い肌の兵士が答える。ハクが、息を飲む。
「デラス山――……すみません、皆さん。少々、厄介なお話になるかもしれません」
「どうしてですか?」
 アルドの問いに、ゼクが困ったように肩を竦めた。
「フツーじゃ入れないんだよ。頂上に近付くにつれて濃いガスが吹き出てて、人間は、10分と持たずに意識消失、そのまんまおっ死んじまう」
 そんな所に、本当にクリスタルが在るというのだろうか。
 雲行きの怪しさに、ライア達はこぞって顔を見合わせた。



「いかん。あれは、国の貴重な財産じゃ。そなたらの責務がどれだけ重大であろうと、貸し出す事は許可できまいよ」
「しかし、シュゼン公」
「慎め、ゼク。公にはお立場がある」
 振り返ったゼクは、情けない顔で、ハクを見た。
 白髭のシュゼン公は、試すような眼つきでライア達を一瞥した。
「お客人よ。その2人から聞き及んだようだが、ワイスデールには、あの山のガスを中和するマスクが、確かに2つある。しかしな、あれが造られたのは、110年も昔。当時天才と呼ばれた技師が作り上げ、彼の弟子達も、歴代の技師も、決して、同じ物は造れんかった」
 もうお分かりじゃな、と瞳で訴えて、シュゼン公は息を吐く。
「どうにか補修を繰り返し、使い繋いでいる状況じゃ。扱いには細心の注意を払っとるが、この百年で4つのうち2つが失われた――最も、片方は破損でなく盗難と記録にはあるがの。あの山には、民の生活に欠かせない薬草も生えておる。故に、どんな事情があろうと、貸し出しは許可できんよ」
「……シュゼン公。それは、ここにいる彼等が、『山から戻らない』可能性を考えての事ですか」
 最も、と、公が重々しくハクに頷く。ライア達の方を向いて、ハクが言う。
「デラスには、とんでもなく凶暴な魔鳥がいます。公は、盗難や破損についてあなた方を疑っているのでなく、山に入ったところで魔鳥に襲われ、貴重なマスク共々戻らない事態を、何より怖れられているのです」
 負けじと、リーティスが食って掛かる。
「でも、公はさっき仰られましたよね? 薬草が採れるって。それなら、毎年山に入って帰って来ているという事じゃないのですか?」
「……………」
 痛いところを突かれた顔の、公がいた。

 渋るシュゼン公を何とか説得せしめた一行は、薬草を採りに入った経験のあるワイスデールの兵士と、ゼクから、詳細な説明を受けていた。
「いいか? このマスクは、効果がせいぜい持って1時間半だ。それを過ぎると、一度戻って調整してからでなきゃ、使い物になんない。よく覚えとけ」
 次に、一際大きく頑丈な金属の盾を持った兵士が、登山パーティーのライアとフェリーナに言う。
「我々は、山に入るときは必ず、空からの攻撃に備えてこのシールドを持ちます。強靭な爪と嘴の攻撃にも耐えられるのです。……と言っても、お嬢さんには無理ですね……」
 盾の中でもかなり特異な部類である事を心配したアルドが、真剣に尋ねる。
「ライア。カイトシールドを使った経験は?」
 予想通り、ライアは首を横に振った。普通の盾なら、訓練も実戦も経験している。
「それじゃ駄目だ」
 言い切ったのはアルド。アルド自身は、多少なりとも扱いの心得があるが、攻撃されてから盾で防ぐより、牽制の方が効果が高いと睨んで、魔鳥が苦手とする水の魔法を使うフェリーナを推している。また、例によってクリスタルの捜索と破壊が目的なので、ライアもパーティーから外せない。
(結局、この二人で行かせるしかないのか――……)
 悩みながらも、アルドは自分でなくフェリーナを送り出す苦渋の決断をした。
「あの……お兄さんまでシールドをお持ちにならないとは、本気ですか? 確かに、お嬢さんが強力な水魔法を使えるのであれば、ヤツ等が寄って来る危険はかなり低くはなりますが――……」
「はい。彼も、慣れない装備では実力を出し切れないでしょうから。何でもすぐに使いこなす程、器用でもないもので」
「うっせぇ」
 アルドの擁護にライアが突っ込んだところで、物凄く不服そうに、ビゼスが片方の剣を外して腕を突き出した。
「不本意だが、貸してやる。持って行け」
(ん。あれ……、は? 今、なんと?)
 意外すぎて思考が空回りしたライアに、不機嫌極まりない声が言う。
「貴様が余りに不甲斐ないのでな……! フェリーナを護るのは当然として、それは必ず、お前自身の手で返せ。いいな……?」
 何か軽く殺気すら纏っておいでで。そんなに大事なら何も別にお貸しいただかなくても。
「う……。それ、ぜってー餞別とかじゃないだろ。逆にプレッシャー掛けられてる気がする――」
 こんなん持たされて、どうせよと。これから試合に臨むのに、傷を付けてはならない硝子の武具を与えられたようなものだ。……使えるか、そんなん。
(いや、大丈夫だ、大丈夫。もとから抜く機会なんてないだろうし――……)
 断ればそれも殺されそうな気配なので、ライアは恐る恐る(ありがたく)剣を受け取り、ベルトで腰に固定した。

「それじゃあ、くれぐれも気を付けてね。僕達はもう一度、あの石舞台に行って、もう少し詳しく調べてみる事にするよ」
「ああ。また後でな」
「行ってきます」
 そうやって、表面上はあっさり別れた。しかし、送った側の心境は決して穏やかでない。
 2つだけのマスク。そのために2人で行かせたのは致し方ない。だが、術を仕掛けた何者かは、わざわざ魔鳥の潜む山へ出向いて核を設置したばかりか、魔法陣そのものを石舞台に隠す念の入れようだ。他に、どんな罠を張っているかも判らなかった。
(二人とも、どうか無事で……)
「アルド〜? 眉間に皺寄ってっけどぉ?」
 石舞台の調査に向かう最中、ウィルが言う。アルドは、かぶりを振った。
「ごめんね。やっぱり、心配で」
 同じく、心配はしているであろうウィリアが、苦笑しながら言う。
「だぁいじょうぶよ。それより、早く行きましょ。どうも引っかかるの。あの魔法陣、ざっと見ただけだけど、どこか前のと違う気もするのよ」
「気のせいじゃ〜?」
 昼を過ぎ、気温と湿度はピークに達しており、末の弟は完全にダレていた。

 『彼女』が王宮に残った意味。それは、貴重なマスクと引き換える人質のようでいて、実質は『保護』だった。
 ハクが問う。
「よろしかったのですか。あのお2人、貴女の大事な方たちなのでは」
「――……赤毛のほうに関しては、全面否定します」
「……はぁ。」
「危険と判ったところで、やるしか、無いのです。私達は。あの山へ行くのが、私自身だったとしても、他の誰だったとしても。だから……待ちます」
(なら、どうして、そんなに壊れそうに張り詰めた顔をしますか。待つのは、貴女の本意でないのでしょう?)
 そこで、空気を変えるように、いきなり話題を振る。
「あのですね、私とゼク、双子なんですよ。気が付かれました?」
「え!? はぁ、そうだったんですか……」
 肌の焼け方や雰囲気こそ異なるが、言われて見れば、造作がよく似ている。
「父親は、平凡な羊飼いでした。長男で、憧れていた兵士になれなかった執念からか、父は私とゼクに、王宮の兵士になる事を強要したんです。……まったく、いい迷惑ですよ」
 ハク自身は、平凡な羊飼いとして生涯を送るのも悪くないと思っていた。
「それに引き換え、ゼクは単純でしたからね。父親から聞かされた、王宮の兵士はヒーローなんだって話をすっかり信じきって、私まで巻き込んで特訓に明け暮れましたよ。生まれてこの方、兄には振り回されっぱなしです。お陰で、大分鍛えられましたが。……と、すみません。こんな話をするつもりはなかったのですが……」
 ハクは立ち上がり、手を差し伸べた。
「貴女は、多分兄と同じです。自分が何かしていないと、本当は気が済まないのでしょう? 流石に、デラスにはお連れできませんが……調査現場なら、喜んでお供しましょう」
「……シュゼン公のお許しは?」
 ハクが、困った顔をする。
「弱りましたね。どうやら私達は、お忍びで出かけなくてはならないようです、姫君」

「……あら? 貴女、体は平気なの? 水中って、本人が思ってるより消耗するものよ。まして、襲われてよけいな体力使ってるんだから、休んでいなきゃ駄目でしょう」
「ごめん、やっぱり、気になっちゃって」
 リーティスの到着に気付いたビゼスが言う。
「なんだ、来たのか」
「うん、ちょっと様子見に。……って、もしかしてやる事無い?」
「まあ――そうだな」
 要は魔法陣の解析なので、ビゼスも手持ち無沙汰らしかった。同じく待機中のゼクが、ハクが来た事に純粋な疑問を洩らす。
「あれ――ハク。どしたの」
「コホン。ちゃんと皆さんの案内を務められてるか、心配だったので」
「えぇー!? ぁ……」
「どうしましたか?」
 ゼクが見る先に、石柱の上に立つ、白い石像があった。翼を生やし、長衣をまとった静謐なる女神の像で、神聖なる儀式の場に相応しい。舞台正面から見て対称な左右の柱に、一体ずつ設置されている。
「あれ?? あんなん、昔っからあったっけ……」
「あったんじゃないですか? 最近増えた気はしませんね」
「う〜ん、そっかぁ……。どうして俺、ハクみたく記憶力よくないんだろ……」
 哀れみと叱責の入り混じった眼差しで、ハク。
「好き嫌いして、魚を食べないからです」



「フェリーナ、大丈夫か?」
「はい」
 岩場で手を伸ばし、フェリーナを引き上げながら、ライアは頂の方を見た。
 風が強く、空は晴れている。
 魔鳥とはこれまで二度遭遇し、一度目は窪みに伏せてやり過ごし、二度目はフェリーナの魔法で首尾よく撃退した。
 登山道自体は大きな問題もないものの、マスクをしている分、若干息苦しい。
(つっても、暑いとか息つらいとか、文句言ってられる場合じゃないしな――)
 今のところマスクは正常に機能しており、魔法陣から丁度南にあたる東の斜面を、二人は少しずつ探索していた。
「ここまで、20分、ってところでしょうか――……」
 さして高くない山だが、マスクが機能する制限時間を考えると、あまりうかうかしていられない。帰り道を考えると、麓まで戻ればガスが薄い事を考慮しても、進むのはあと30分が限度だろう。
(見晴らしの良い場所なら、クリスタルも見つけやすい。けど、そんだけ魔鳥に見つかる確率も――いや、時間がねぇんだ。いちかばちかでやるしか……!)
 ライアは、開けた場所に出る手前で、フェリーナに告げた。
「ここで待機してくれ。もし、魔鳥の姿が見えたら、援護を頼む」
 青い瞳が、小さな不安と強い緊張に染まる。
「解りました。――気をつけて」
 ライアは颯爽と岩場を抜け、開けた高台へと顔を出した。
(どこだ? まだ上か? それとも……、! あの、上の方の茂みで光を反射した、オレンジっぽいやつ、もしかすると――)
 シギャア!
 鳴き声に、ライアは上空を見た。そこにあったのは――
「!!」
 力強く羽ばたく、薄茶色の翼。今までの魔鳥より一回り大きく、頭部の様相も異なる。待機していたフェリーナが、慌てて水の龍を出現させる。
 魔鳥はくるりと見事な旋回を見せ、それをかわした。まるで、優秀な騎手のついた駿馬の動きだ。
(――――!!)
 そのとき、ライアの眼は最悪の物を捉えた。旋回した魔鳥の後ろを、一回り小さい影が横切り、魔法を使って所在がばれたフェリーナを補足した。
「フェリーナ! こっちはいい!! そっちに――!!」
「え……っ」
 間に合わない。

 非情にも、鋭い嘴がフェリーナ目掛けて急降下した。直後、ばしゃりと辺りに散ったその色は――赤、ではない。
 ギャァアッ!
 降下を邪魔された魔鳥が、激しく鳴きながらよろよろと退散する。水の魔法で翼を撃たれ、上手く飛べなくなったのだ。
(な――ひ、人!?)
 ライアは信じられない光景を見た。最初に現れた魔鳥、その背に、女が乗っていた。彼女が、今しがた魔法を放ったのだった。
(いや人な訳ない! 種類は違うっつっても、あっちも魔鳥だろ!?)
「どうなってんだ……?」
 魔鳥を操るダークブロンドの女性は、黙ったまま、じっと菫色の瞳で二人を見た。そして、ふいと魔鳥を方向転換させた。
「ま、待てっ!」
 人ではなく言葉が通じないのか、魔鳥は速度を上げ、ぐんぐん遠ざかって行った。

「ごめん……俺が下手に離れたりしたから、怖い思いさせちまった」
 首を横に振るフェリーナは、ショックから泣き出しそうな顔をしている。震えるその白い手を、ライアは力強く握った。
「あそこから、クリスタルっぽいのが見えたんだ。そんなに遠くない。行こう。……次は、絶対守る」
 程なくして彼らの眼前に現れたのは、見覚えのあるクリスタルだった。例によってライアが炎を当てると、それは粉々に崩壊した。
「これで、術は消えたはずだな。戻ろう」
 帰り際、フェリーナが何かを見つけた。近寄ってみると、それは白骨化しかけた死体と巨大な鳥の骨だった。
「……行こう」
 先を促すライアに、簡単な埋葬だけでもさせてくれとフェリーナは言い、怖れず白骨死体の腕を胸の前で組ませ、仏の前で手を合わせた。
「ごめんなさい。お待たせしました」
「いや、大丈夫だ。まだマスクの効果が切れるまで時間があるしな」
 下山は順調だった。そして、最後の最後、一合目に差し掛かかろうという時だ。
「しつこいな!!」
 またも行く手を阻む魔鳥に、フェリーナが意識を集中させ、水の魔法を放つ。しかしかわされ、鋭い爪がフェリーナを狙った。ライアが前に出て、剣でいなす。
「くうっ!?」
 魔鳥の頑強な爪は、ライアの剣をがっちりつかんで離さなかった。そのまま強引に上昇し、ライアの爪先が宙に浮く。上空で振り落とされればひとたまりもない。咄嗟の判断で剣から手を離した。
 魔鳥は滞空中に無造作に剣を放し、再び地上のライア達に向かって来た。フェリーナの次撃まで、僅かに時間が足りない。
(ちくしょうっ!!)
 ガキン!!
 抜き放った片刃の剣は、魔鳥の爪を防ぐと同時、先が折れて弾け飛んだ。
 そこにフェリーナの魔法が完成し、撃たれた魔鳥は悲鳴を上げて彼方に飛び去った。
 ライアの剣はおよその落下地点に見当をつけていたので回収できたが、片刃の剣の切っ先は、深い草に紛れ、とうとう見つける事ができなかった。
(……俺、帰ったら本気で処刑かも……)
 お先真っ暗。しかしマスクの使用限界も迫っており、留まる事は不可能だった。
 山を降りると、空気がおかしい。石舞台の方で、何かが暴れていた。
 ライアは手早くマスクを外してフェリーナに手渡し、言付けた。
「フェリーナ! すぐに王宮に知らせてくれ。頼んだ!」
「はいっ! ライア、どうか気をつけて――」

 少し前の事。姉弟が魔法陣と睨み合っていた。
 ラースで記録した陣の写しと微妙に異なっている一部分を、ウィルが指でなぞる。
「ねー姉貴? やっぱこの術、どっかに連結してない?」
「そうなのよ……問題は、『何に』繋がってるのかなのよ……! あぁもうっ、そこだけやたら珍しい組み込み方してあるから、読めないじゃないのよッ!?」
 デラス山でライアがクリスタルが破壊した、まさにその瞬間だった。
 女神像の慈愛に満ちた瞳が、白く光った。まだこの時点で、気付いている者はない。徐々に女神像へ魔力が集まり、ライア達が山を下りる頃――
「ん?」
 気配を感じて振り返ったゼクが、緊迫した声で叫んだ。
「おいッ、あれ!!」
 空中に2体の女神像が浮いていた――否、像ではない。像に擬態していた魔物だ。クリスタルの破壊をきっかけに、動力となる魔力を与えられ、眠りから覚めたらしい。
 翼をはためかせ、空中から無表情で彼等を見下ろしていた2体の女神は、次の瞬間、死の舞を始めた。

 女神には、剣、魔法、一切の攻撃が無効だった。そのくせ自由に空を飛び回り、風の刃による遠距離攻撃を次々と繰り出してくる。
 当初は善戦していたアルド達も、傷つき、敗北の色が濃くなりつつあった。
「うあぁあっ」
「ゼク!? 何を――離れなさい!」
 降下してきた一体の女神に、ゼクが組み付いた。女神は、ゼクを振りほどこうと容赦ない魔法攻撃を浴びせる。しかし、ゼクは離さない。
「ハクーーーッ!! レバーをっ!!」
(『レバー』……? !! まさか……っ)
 言いたい事は解った。だから、その方法が納得できなくても、レバーの前に駆けつける。
 この石舞台には、いくつか仕掛けがあった。そのうち一つを、彼等は新兵だった時分に暴いている。
(くっ……!)
 納得いかない。だが、好期は今だ。ハクはレバーを握る両手に力を込めた。
 ガコンッ!
 もつれ合う女神とゼクの姿が、地中に消えた。否。石床に出現した2メートル四方の穴に落下した。
「すみません……私が穴に飛び込んだら、すぐにレバーを逆に倒して下さい。決して、その後は動かさぬように……」
 返事は待たず、ハクは追いかけるように穴に飛び込んだ。アルド達に穴の下を確認している余裕はない。もう一体の女神が空中から猛攻を仕掛ける中、ハクの言った通りにレバーを戻して穴を塞ぎ、二人の勇敢なる犠牲のもと、一方の女神を封じるのがやっとだった。
「ぐ……はぁ、はぁ……」
(せめて、右足が動いてくれたなら――!)
 戦い慣れしたアルドでさえ、後衛の仲間を庇って右足に深手を負い、攻撃を捌くために力を使って、呼吸が乱れている。
 そうするうちに、残った女神が、一人を倒し、二人を倒し――動けなくなった彼等を守ろうとした仲間までもを、次々戦闘不能に追い込んだ。
 ――軽症で済んでいるのは、僅かに2人。
「ぅ、あ……っ」
 歳若くして地獄を見てきたはずの紫の瞳が、初めて『恐怖に』染まっていた。
 いつだって、自分は狩る側だった。狩られる側の経験など無い。だが、今はどうだ。『攻撃の効かない』『殺し方の判らないモノ』相手に、『自分が消されようとしている』。
 抗う気力を失くし、膝を付いたウィルに、冷たく声が放たれる。
「何をやっている。立て」
「も、ぃ…よ……みんなも、オレも……全員ここで殺されるんだっ!!」
 そんな彼に見切りを付けたか、それとも別の理由だったか、ビゼスは滞空中の女神を見据えつつ、静かに言った。
「そこで見ていろ」
(見る……? 何を? 兄ちゃんが、アルドや姉貴やリーティスと同じに、血ィ流して倒れてく様を? いやだ……そんなのいらないッ!!)

(勝つ)
 勝算などなかった。だが、その時はそれだけ考えていた。
 後方より、走り寄る足音。私は上空の女神の動向だけを全力で注視していた。
「みんなっ!!」
「遅い!」
 振り返る事なく私は罵倒する。けれども同時に確信していた。この馬鹿が来たからには、勝てる、と。
 傍まで来たライアが息を飲む。何を思ったかは、単純だから想像がつく。だから言った。
「安心しろ。まだ誰も死んでない」
「そっか――よし……!」
 腹の決まったライアに対し、ウィルは理解できない顔で立ち尽くしている。
(どして……なんでだよ!? なんでそーやって……弱いクセに――クソ馬鹿ライアのクセに……っ!)
 恐怖は誰にでもある。それは恥じる事ではない。私は、今のウィルを戦力外と見なし、指示を出す。
「ウィル、そこを動くな。あれは私が討つ。ライア、貴様は囮になれ――くるぞ!」
 ライアに目配せを一つくれてやり、私は女神に向かって走り出した。

(!?)
 最後に意味深な視線を投げられた。その意味は、考えても思い浮かばない。
 しかし何より、今は、目の前に迫る敵だ。俺は炎を放って敵の気を引く。
「こっちだ、このやろっ!」
 だが――
「なぁっ!?」
 魔法は効かず、敵はビゼスに襲い掛かった。相手はかなり素早い。
「…んのっ!」
 何とか追いついて剣を振るうが、寸でのところでするりと上空に舞い上がってしまう。
 敵の二撃目は、またもビゼスを狙っていた。俺の存在は完璧無視だ。
(舐めやがって……! ……?)
 唐突に気付く。ビゼスは、さっきから攻撃に出ようとしない。剣一本では心許ないという事だろうか。……違う。
 ビゼスは、かわす事だけに専念してるように見えた。まるで踊っているかのようだ。目元に余裕すら浮かべて。
(ああ言って……わざと自分に引き付けたのか……?)
 敵が人語を解するとすれば、それもあり得る。とにかく、やるしかない。隙を突いて、俺がとどめを刺さないと。
 一度。二度。失敗して避けられる。そして、次。
(次は――……)
「逃がさねぇっ!!」
 狙い通りのタイミングで、背後から左の羽を落とすように剣を振るった。鈍い衝撃。
「っつ!!」
 本物の石像を斬りつけたかのように、刃が通らず、手が痺れた。同時に、ビゼスの声。
「――勝負あったな」
「……!」
 俺が斬り付けたのと全く同じタイミングで、ビゼスが蹴りのフェイントと剣による斬撃を繰り出し、その剣が敵の頭部をかち割っていた。体の一部を一時的に鋼のようにする事はできても、全身を硬化させる事はできなかったようだ。
 そう、敵が使っていたのは、"気"。ビゼスは途中でそこに気付いていた。
 実際、動かなくなった敵を確認すると、その体は石などでなく、紙のように軽い何かでできていた。必要に応じて体を硬化し、風の魔法で自在に宙を舞っていたのだ。

「姉貴!」
 気絶した姉の耳元でウィルが怒鳴り、倒れているアルドを見下ろしてビゼスが言う。
「生きてるか」
「つ――随分だね……。みんなは?」
 顎をしゃくってビゼスが示した先で、ライアがリーティスを助け起こす所だった。
(僕達は、助かったのか……でも、あの兵士の二人は……)
 レバーをもう一度倒し、残る敵を討つ。それは、この惨状で途方もない事に思えた。
「皆さん、ご無事ですか!!」
 そこに王宮からの救援が到着した。フェリーナの報せが届いたようだ。
 敵襲と、ゼクとハクの話を聞くと、壮年の隊長は目を伏せた。
(あの仕掛けを知っていたとは、悪ガキどもめ。いや、大方、ゼクが主犯か。今回はそれが幸いしたようだが――……。願わくば、地下迷宮の仕掛けも熟知して、上手くやってくれてるとよいが)
 隊長は、真摯な瞳でライア達に告げた。
「その抜け穴は、王宮の地下通路に通じるものです。皆様、くれぐれもご内密に。そういう事情ですから、二人の安否を確認するには、王宮側から確認した方が早いでしょう」

 王宮に戻ると、待っていたフェリーナが、けがを見て泣きそうな声で怒った。
「もう、こんな無茶はしないでください……」
 女性陣を先に手当てすると、最後にアルドの治療にかかった。部屋には、二人きりだ。
「山で、魔鳥に乗った女の人がいたんです……」
 治療の傍ら、フェリーナは自分達の見聞きしたものを余さず語った。
「……。そのひとは、君達を助け、去っていった――何とも言い難い話だね」
 フェリーナは、決心して細い鎖に繋がれた銀製のアミュレットを取り出した。表面には、どこかの家紋にも見える紋様が彫られている。
「――これは?」
「山を、降りる時に――」
 アミュレットの持ち主である白骨死体と、巨鳥の骨の事。人の衣服に傷はなく、隣の巨鳥にやられたというよりは寧ろ一緒に毒ガスでやられたようであった事。それを聞いたアルドは、考え、そして尋ねた。
「フェリーナ。どうして、これを拾ってきたんだい?」
 彼女は視線を泳がせ、開きかけた口を閉ざした。そこで、アルドは思考する。
(あんまり、こういうずるい手は使いたくないんだけど――)
 アルドはフェリーナの頬にそっと手を伸ばし、愛しい人に語りかけるように、労りを持った声で囁きかけた。
「教えて。とても大事な事かもしれない。大丈夫、他の誰にも言わないよ――」
 頬を染めた困り顔のフェリーナは逡巡し、それから躊躇いがちに口を開いた。
「似てた、気がしたんです……。着ている物の、雰囲気とか……レイヤの洞窟で、襲って来た人達に……」
(……!!)
「で、でも、思い違いかもしれないんです。だから、お願いです、どうか忘れてください……」
 これは、とんでもなく重要なパズルのピースかもしれない。
 一方で、早合点しないよう、アルドは逸る自分自身の心をを諌めた。
「解った。この事は、僕の心だけに留めておく。話してくれて、ありがとう」
 温かな口調とは裏腹に、穏やかならざる心境のアルドだった。

「まったく……なんて顔してるんですか、ゼク……」
 うっすらと目を開けたところ、泣きそうな仔犬みたいな顔をした兄弟が自分を覗き込んでいた。
「だって……」
 ゼクは至るところに包帯を巻き、治療したばかりの傷跡も生々しい。痩せ型で筋肉質のこの青年は、だが何より、その表情が痛々しかった。
 そんなゼクを一瞥して、ベッドから起き上がらないまま、ハクは逆を向いた。
「いつも、そうだ……ゼクに振り回されて、怪我ばかりして。僕は兵士なんか向いてないのに――」
 俯き、ゼクは一切、否定しなかった。
「……ごめん……。もう、巻き込まない……あのさ、聞いてくれよ。あの女神像の化け物を上手く誘導して、地下迷宮の仕掛けを使って閉じ込めた功績を、シュゼン様が認めてくださったんだ。もう、ハクは戦わなくていい。階級が一つ上がる。だから、現場に出ない職に移れるんだ」
 ハクが、驚いてゼクを見る。
(公が……? それにしたって、今回の一件だけで、階級ひとつ分は――)
 ゼクは、目を見開いてまじまじとゼクを見た。
「お前……。まさか――」
 ゼクは、困ったように頭をかいて笑った。
「本当は、二人に相当の報酬出す、って言われたけど。俺、そういうの要らないし。ハクが生きてたから、それでいいや。だから代わりに、ハクを戦略課に移してくださいって頼んだんだ。ハク、頭いーもんな! そっちのが、ずっと活躍できるだろ?」
「……ッ」
 寝たまま、ハクが目元を腕で隠した。途端に、ゼクは心配そうな顔になる。
「どした? 具合悪いのか?」
「うっさい、このバカ……出てけっ!」
「ぇえぇ!?」
 ゼクの不満声が、病室に響いた。



 ワイスデールの奥地。木々に紛れ、薄茶色の巨鳥が羽を休めていた。風切り羽が輝く春の若葉の色をしている。
 先刻まで、あれだけ鮮やかに魔鳥を駆っていた乗り手は、かなりふらふらになっていた。
「uu……nan、nano? guragra…ite、kimochiga、w…ru――」
 軽く毒ガスを吸った影響で、それからしばらく目を回し続ける彼女であった。


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