STAGE 19 different place, same sky 〜帰り道〜



 最初に見えたのは、遠く枯れた山肌と、空の境界。
(そうだ!! 俺――ッ)
 動けない。唐突に知って、それでも抗う。
(こ、の……っ…………動けぇーーーッ!!)

「……――私の、負けか」
 よろめきながら、彼は立ち上がった。アルドが、警戒しつつ、じっと仇を睨む。
 いかに騎士のアルドが鍛えられていると言っても、体力には限界がある。これまでの戦いで、精神力、体力、そして魔力を消耗していたが、それでも、相当な重量のある大剣の切っ先だけは、下げなかった。
 冷めた瞳で、黒の疾風が言う。
「とどめを刺せ。――ただし」
 気づけば、彼の瞳は、金ではなく焦げ茶色をしていた。
「こいつらは見逃せ」
「!?」
 予想外の申し出だった。しかし、誰より意外に思っていたのは、他ならぬ彼自身だった。
(私は、何を言っている……? ――いや、そうだったな……)
 自嘲して、それから、こげ茶の瞳が真っすぐにアルドを睨んだ。
「こいつらは『人間』だ――」
「何だって?」
 静かに聞き返したアルドと対照的に、銀髪の三人は色めきたった。だが、背後からの抗議を無視して、彼は、アルドに告げた。
「例え魔族の社会には戻れなくとも、こいつらには、生きてく道がある」
「だけど……ッ!」
 アルドが反発した。
「仮に、お前の言葉を信用するとしよう。……だとしても、彼らが軍に戻って、また人間を襲わないという保障は? もしそうだったら、僕は……っ!」
「これは取引だ」
 静かに、黒の疾風は言った。その揺るがぬ態度には、不遜とすら思える何かが見え隠れして、アルドは無視して言葉を継ぐ事ができなかった。
「私をここで殺し、こいつらを捨て置くか、今この場にいる全員が、誰一人満足な体でなくなるまで、殺し合うか、だ。……さあ、貴様ならどうする? 人間の騎士」
 アルドは、考えた。
 彼に殺された、忘れがたき友。そして、残されたその家族。
 人間と、魔族。相容れない者。
 断ち切れない、憎しみの連鎖……戦争。
 彼を殺して終わる? いや、終わらない。それでも、
(僕には――守らなくちゃいけないものがある。ライア、君と、僕らの育った故郷、故郷の家族、それに、戦う力を持たない人達全て。それらを守るのが、僕(きし)の役目……)
 黒の疾風一人を討ち取ったところで、魔族対人間の戦争には、影一つ及ぼさないかもしれない。だとしても、ここで討たなければ、生きている大事な者を失う事になる。
 ……そう、そしてこれは、黒の疾風と戦って散った、名も知らぬ多くの同胞達と、リーティスの弔い。
 アルドの空色の瞳が、決心と、死を迎える者への憐れみに染まる。
「……覚悟」
「待……よ……っ!」
 そのかすれ声に反応してしまったのは、条件反射としか言いようがない。
 幼い頃から面倒を掛けられ通しの、無謀な幼馴染の、声。

 辛うじて、ライアが立っていた。同じく、満身創痍の仲間と支え合いながら。

「……っざ、けんな……っ」
 ぜぇぜぇと肩で息をしながら、それでも、ライアは叫びきった。
「じぶんひとりで……勝手に死んで、勝手に残してって……それで、何になるってゆうんだ!? なら――変えろよ。変えてみせろよ!? ……お前が責任とって……そいつらが二度と人間に手ぇ出さない、よに……っ」
 ケホケホと咳き込むライアの意を引き継いで、アルドは、目が覚めた思いで、今度こそ迷いなく、黒の疾風を強く見据えて言葉を吐いた。
「……そうだ。お前は敗けたんだ。だったら、勝者の言う事を、大人しく聞け! お前は生きて、そいつらが、二度と人を襲わないように、一生をかけて見届けろ。――それが負けを認めた、お前の義務だ」
 ……ふ、と黒の疾風は微笑した。
「――甘いな」
 彼は、刃をかえして鍔に近い部分を自らの首に当てた。
「私が死ななくては、取引にはなるまい?」
 彼が首筋の剣を引く瞬間に、閃光が――いや、雷が轟いた。

「ウィル……」
 驚いたように弟を見て、銀髪の若者が呟いた。
 小柄な体が全力で放った魔法は、少年が唯一、敬意を払うその人を撃った。
「はーっ、はーっ……」
 息切れする銀髪の少年が睨む目の前で、黒髪の魔族は崩れ落ちた。片刃の剣は、わずか首の皮一枚を傷つけただけで、主の手を離れて地面に投げ出されていた。
「……んだよ……っ!!」
 吐き捨てるように、銀髪の少年は叫んだ。
「オレ等が人間だから、何だ!? オレだって、魔族の戦士だ!! だいたい……っ、生きる事に無関心なオレを、いつだって、なんも言わないで、何度も引きずり戻したのは、アンタじゃないか!? アンタは誰より、強かった――だから、オレは、アンタの背中だけ見てきた……っ!! なのに……なんでそのアンタが、オレより先に逝くんだよッ!?」
 激昂のあまり泣きながら喚く弟の華奢な体を、兄が、暴れないように後ろから抱きすくめた。
 いつのまにか彼らの前に出ていた銀髪の美女は、こう言った。
「……完敗ね」
 苦笑しながら、彼女はさりげなく、剣を納めていないアルドと、弟達との間に立っていた。
 姉としての強さも、魔性も、どちらも彼女の一面だった。妖艶に微笑むばかりだった紫の瞳は、今は違って真っすぐにアルドを見ていた。
「私達は、『この人』の言葉に従って、今後は一切、貴方達人間に手は出さないと誓うわ。だから、このまま剣を引いて頂戴。それでもし、貴方が不足と言うなら、『銀髪の魔女(わたし)』だけを殺しなさい――」
「っ、姉さん!?」
 疲れきってぐったりした弟を抱えながら、銀髪の若者が声を上げた。
 2秒間、アルドは動かずに沈黙した。
「…………」
「アルド……ッ」
 後方からライアに訴えられるまでもなく、アルドは、『4人』のまとめ役として、意思決定をした。
「――どこへでも去れ。ただし、忘れるな」
 アルドは目を伏せた。
「生きていようと、死のうと、人を傷つけたその罪は、消えない――」
「……ええ。……ありがとう」
 その時初めて表情を緩めた銀髪の美女は、赤髪の少年と肩を貸し合って自分を睨んでいた少女に、ふと、目を留めた。
「――約束、守りなさいよ……っ!?」
 疑り深く念を押す少女に、どこか愉快そうに笑いながら、美女は返す。
「必ずね」
 上の弟に失神している黒の疾風を担がせると、兄の脚の治療で魔力を使って疲れたとぶーたれる下の弟を無理やり立たせながら、行くわよ、と言って、魔女は決戦の舞台を去った。

「…………」
「…………」
 後ろ姿が見えなくなって、黒の疾風の雷でボロボロだった剣士二人は、しばし、放心していた。
「……勝った、の?」
「……、だよな」
 きっかり、3秒の後。
「やったー! 生きてんぜ、俺達っ」
「もう、ホント……死んじゃうかと思ったぁあ!」
 緊張の糸が切れた二人は、息もぴったりに生還を歓び合った。
「そうだっ、フェリーナは!?」
 慌てて確認したライアに、フェリーナの様子を診ていたアルドは答えた。
「うん……大丈夫。多大な魔力消費で、気を失っただけだ。できるだけ早く、シュネギアに戻ろう」
 林を包んでいた霧は晴れ、頂点から少し傾いた太陽が、冬の空を照らしていた。



「報告致します」
 ダークブロンドに空色の瞳の持ち主は、シュネギアの砦に戻ると、事の顛末を告げた。

「――すると、黒の疾風ならびに、銀髪の魔女は……!!」
「ええ。恐らく、二度と私達の前に現れる事は無いかと。……僕が倒したのが、本物であれば、のお話ですが……。残念ながら、確証はないのです。申し訳ございません」
「――いや、構わん。ただ……すまんね。本来は、君の手柄として大々的に発表したいところだが、話の内容が、内容だ。下手をすると、功績は一切公表されない可能性もありうる――。ぁあ、その代わりにだ、これから向かわせる調査で、君の話の真偽さえ確かめられたなら、出来る限りの、どんな報償でもやろう。すまんが、それで勘弁してくれんか」
 アルドが承諾し、相手は、ほっと胸を撫で下ろしながら、重々しく頷いた。
「おお! そうだった。良い報せが、一つ、な。お主らは丁度いなかったから、知らんだろ。実はだな――」
「?」
 彼は、まだ知らない。そこで語られる情報が、何より、彼の望むものであった事を。



 彼とて、激闘の後で相当の疲労が溜まっていたはずだが、雪道を踏むアルドの足取りは、自然と急ぎ足になった。
「おや、お帰り。外は寒かったろう?」
 宿の提供者への会釈もそこそこに、アルドは、仲間達の待つ居間へ入った。
「ぁ――……」
 アルドはつい、気の抜けた声を漏らしてしまった。
 ソファーに寝かされたフェリーナは、今も眠り続けている。
 その近くのカーペットに、壁にもたれて座る少年と少女。彼らは、宿に着いて即刻へたり込んだその場所に、そっくりそのままでいた。
「――君達も、本当に今回はよく頑張ってくれた」
 言いながら、アルドは歩み寄った。返事がないのは知っている。
 激戦を潜り抜けた剣士達は、二人して、座ったまま眠り込んでいた。
「お陰で、僕もこうして生きて帰って来れたよ。……感謝してる」
 アルドは、くかー、と寝こけているライアが起きるのを待ちきれず、微笑みながら呟いた。
「……帰れるよ、僕達――」



 朝が来た。
 多少の疲労感はあったが、どうと言う事はない。魔族の魔法を喰らった後遺症というのも、特にはないらしい。
「よっと」
 昨夜は前後不覚に眠りに落ちてしまい、いつ部屋に戻ったかも覚えていないが、彼は身も軽くベッドから降り立つと、激闘で汚れて擦り切れた服を着替えた。

 朝一番に会った宿の主に、ライアは礼儀正しく頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう。あんた達がいなくなると、ウチも寂しくなるねぇ……」
「……って、え?」
「ほら、さっさと食いな」
「え、あ、はい……」
 ぼそぼそしたライ麦のパンとスープの朝食を口に運びながら、ライアはぼけーっと仲間を待った。
 ややしばらくして、
「ぉはよ……」
 例によって瞼の重いリーティスと、
「おはよ。よく眠れた?」
 続いてアルドが入ってきた。

 席に着いたリーティスは早速、うつらうつらした。
「ZZZ……」
「リーティス! おい、だいじょぶか!?」
 スープの皿に顔面を突っ込まないように、横から慌ててライアが肩をつかむ。
「ぅ……だいじょーぶ……」
(……。大丈夫じゃねぇ……)
 リーティスの反応に突っ込みを入れながら、ライアは、アルドの方を見た。
「アルドも。体へーきなのかよ?」
「うーん。流石に疲れてはいるけどね。これでも、いつもよりは寝てるから」
 睡眠が少なく済む人が羨ましい、と思いながら、冬眠中の獣よろしく冬場によく眠る体質のライアは、この歳で俺って寝すぎかなぁ、と胸中で呟いた。
「フェリーナの様子はどうだい?」
 朝食に手をつけながら、アルドが、同室のリーティスに尋ねた。
「うん、問題なし。――よく寝てた」
 激しい魔力消費でフェリーナはずっと寝たままだったが、リーティスが目覚めなかった時のように、一刻を争う状態ではなかった。
「そうか。だったら、彼女には後で伝えるとして、ひとまず君達だけには伝えておかないとね」
 意味ありげな言い回しに、ライアは首を捻った。
「――はぁ。何か知らないけど、時間なら嫌って程あんだろ? 急ぎじゃなきゃ、大事な話は、フェリーナが起きてからだっていんじゃないのか。いつになったらここを動けるか、今のとこ見当もついてねんだし……」
 しかし、アルドが否定した事で、ライア達の顔に若干の緊張が走った。
「昨夜聞いたばかりの情報だ。――コホン。エストに攻め込んだ魔族だけどね……」
 もしや、この短期間でエスト大陸が落とされたと言うなら、悪い冗談だ。海を挟んだ東側と、まさに交戦中の西側とで、人間勢は挟み打ちにされる。そうなれば、昨日の激闘で勝ち取った勝利など、あまりに小さくかすんでしまう。
「ようやく、駆逐されたみたいなんだ」
「本当!?」
 リーティスが身を乗り出して、アルドが笑った。
「目は覚めた?」
「それじゃ――てか、すぐ出発とか言わねぇよな!?」
 せめて、フェリーナが回復するまでは待って欲しい。それが本音だ。
「うん……そうだね。僕も、砦の方で手続きとかあるし、一週間以内に発てればと思ってる。リーティスも、そのつもりでいてくれるかい」
「……うん」
「? みょーにすんなりしてんな? あんだけ、帰るの嫌がってたってのに」
「悪・か・っ・た・わ・ね! ……私だって、セーミズのみんなに、大変な時に迷惑かけちゃったって……少しは思ってるんだから……」
 珍しい事もあるものだ、とライアは思った。すると、顔に出たのか、緑の瞳がぎろりと睨んだ。
「……何?」
「……別に。ごちそうさまっ!」
 食事を終えて立ち上がりながら、ライアは、昨日までとは違う、これからに想いを馳せた。



「……ん……ここは――」
 彼女は、実に2日ぶりに目を覚ました。首周りには青く波打つ髪が広がって、重たげに開かれた瞳は、深い海の青色をしていた。
 すぐ側に、金髪の華奢な少女がいた。
「おはよ」
 素っ気なく言った少女の顔をよくよく見て、彼女は気付く。
「リーティス……? 何か良くない事が――?」
「えっ? ううん、そうじゃなくて!」
 心から心配してくれている様子のフェリーナに、慌てて、リーティスが否定した。言われてみて、自分がどんな顔をしていたのか見当がついて、リーティスは困惑した。
「かっ、悲しいとかそういうんじゃないけど――ただ、ちょっと寂しいな、って思わなくも……。あっ、ごめん! 起きたばっかで、状況判らないよね」
 リーティスは、戦いの顛末と、エストの近況報告を伝えた。
「そうですか……じゃあ、みんな無事で……。本当に、よかった――」
 フェリーナはベッドに横になったまま、安堵した表情を見せた。
 リーティスは、躊躇いがちに、口を開いた。
「……、それでね――」
 それは、リーティス本人が思うところの、『この上なくちゃちな』言葉だった。
「もう、会えなくても……――友達でいてくれる?」



「おい、聞いたか?」
「あぁー、あれ、ほんとにほんとなんだな!?」
「……らしいぜー……やるねぇ、あの金髪の兄ちゃん」
 砦の食堂で、よく言えば逞しく長身の、率直に言えばむさくるしい男衆5人が、テーブルを挟んで顔を突き合わせていた。
「客員騎士にここまでやられて、こりゃ、シュネギアの騎士の底力も見せてやんないと、まずいんじゃねぇの?」
 そうだそうだ、と口々に同意する。なまじ、噂の青年騎士は容姿も優れるだけに、良くも悪くも取り沙汰されている。
 彼らの中では小柄、と言っても世の平均から言えば十分屈強な若者が、人差し指を立てて得意そうに言った。
「へっへー、それなら、オレ達だって、頑張ってるもんねー」
「へーぇ?」
 訳知り顔の騎士が、にやにやした。
「こないだ、散々手を焼いてた魔族、クシャーを追い詰めたって、あれかい? そーいやぁ、お前も参加してたっけな?」
「ぉうよ! ――見よ、この栄誉の傷!」
 そう言って、腕をまくった。
「はいはい、監視役でとばっちり御苦労さん。ヤツを追い詰めたのは、別動体だろうが。なんにせよ、あっちの方も、囲い込みには成功したって言うから、長くて10日以内にゃ、決着つくだろうな。それよりもよ―― …… 」
 話題は再び注目の青年騎士に戻り、腕の傷を披露した騎士は、いじけた。
「んじゃあ、死体は見つかんなかったんだな?」
「あぁ、『銀髪の魔女』のほうな。黒の疾風は、あの兄さんの証言じゃあ、ヴィータ渓谷に落ちたってゆーから、見つからなくって当然だろうけど」
「壮絶な最期だったんだな……」
「いや、谷に落ちてお陀仏じゃ、むしろあっけないだろう?」
「んでさ、魔女の話だけど、調査隊の奴らに聞いたら、ちょーど、西の方に去ってく巨鳥類の魔物の群れを見たんだってさ。奴らに貪られて骨まで巣にお持ち帰りされたんじゃ、いっっくら呪われた地獄の魔女でも、あの世から舞い戻って来れやしないだろ」
「むごいが、当然の報いだな」
「それよりさ、魔女退治の一番の功労者って誰か、聞いたか?」
「聞いた聞いた!」
「いや。俺知らない」
「わたしもだ。もったいぶってないで、教えろ」
「そ〜れがなぁ〜……?」
 影の功労者の存在に、初めて聞く者は、耳を疑った。
「嘘だろォ!?」
「信じ難いな……」
「いやさ、それがあの子、見かけによらず、すっごい魔法使うんだってよ!」
「そーかぁ……てか、あんな美少女と旅してんなんて、どんだけ羨ましいんだよ! あの客員騎士!!」
 うっかり話が脱線して、騎士達の本音が飛び交った。話の焦点はズレにズレて、最終的に、一緒にいた少女剣士もけっこう可愛いだの、赤毛の少年剣士と、彼女達のどちらかはできてるのかなどと、上司が通りかかれば『弛んどる!』と渇が入る内容へと発展した。
「けどよ」
 そこで、一人の騎士が、しんみりと言った。
「そーなると、魔女の方は深手を負ったまま行方不明って、ある意味よかったのかもな」
「どして」
「考えてみろよ! あんな可憐なお嬢さんに、極悪の魔女とはいえ、ヒトひとりを――」
「ああ、そっか」
「そんな罪は、どう考えても、あのお嬢さんには似合わないな」
「……ったく、妙なもんだな、騎士ってのも。民間人がやったら罪になる殺人を、悪いやつをやった!って、逆に持てはやされちゃうんだからさ」
「それ言っちゃ終しまいだろ。俺たちは、悪い事はしてない。市民の安全を守るために、意思貫き通して、戦ってんだ」
「だな。ああいう娘さんが、いらんもの抱え込まなくていいように、俺達騎士が戦うってんだ」
「揃いも揃って、恥っずかしい台詞吐くなよ、って。カッコつけんなバーカ」
「ぅーっし、んじゃ、仕事戻るか、仕事っ」
 こうして、井戸端会議in食堂の面々は、ばらばらと各持ち場に散った。



 そこは、ローゼスと呼ばれる町だった。
 赤いレンガ造りの家々が軒を連ね、落ち着いた雰囲気の街並みを、名医を訪ねて遠方から遥々訪れた人々や、研修生達が歩いて行く。この町の独特の雰囲気は、医学の修得、あるいは病の治療にかける金銭的余裕のある中流以上の市民達で人口が占められるが故である。
 町の一画に、医療の育成に熱意を傾けるスポンサーとしての貴族は住んでいるが、彼らは華美な装飾を必要とせず、広々とした屋敷に、金に苦労する研修生を住まわせる事さえあった。
 教授クラスの医者や若い助手が、対魔族の毒薬研究や軍医に駆り出される事は当然あるのだが、表面化しない部分が大きく、戦火の大陸にあって、ローゼスはいささか浮世離れして見えた。
 しかし、一枚皮を剥けば、戦争の危機感はそこにある。
「知ってるかい? この間占領したばかりのアスルタ北部の砦が、また魔族の手に奪い返されちまったって」
「いやだねぇ……」
 忙しい医師達の身の回りの世話をする奥さま方が話し込む隣で、大通りに、今、一台の馬車が止まった。
 幌馬車を降りた若者の風貌を見て、思わず、片方の奥さまは、頬を染めてぽかんとしながら、隣の奥さまの袖を引っ張った。
 若者にエスコートされて降り立ったのは、一人の清楚な服装の乙女だ。
 その時、レポート片手に、ああでもないこうでもないと議論しながら通りを歩いていた二人の研修生の青年は、彼女を見て、ひゅう、と口笛を鳴らした。
 更に後から降りて来た少年少女とひとしきり言葉を交わしたあと、青い髪の乙女は、深々とおじぎをした。
「私、この町で頑張ります。みなさん……お元気で」
 彼女は、共に乗って来た3人がまた馬車に乗り込んで、その影が見えなくなるまでずっと、通りに立ったまま見送った。



 黒の疾風と銀髪の魔女を倒した見返りとして報酬を受け取っていたライア達は、旅費を稼ぐ時間を取られずに、さして大きな事件にも巻き込まれず、順調に帰路についていた。
 シュネギアから出された報奨金は、命を張った代償としては少なすぎるくらいだが、騎士の最たる誉れは悪を討った名誉そのものであるという考えのもと、あながち相場から外れてはいない。
 食と宿に贅沢さえ言わなければ、フェリーナをローゼスに送り届けた後、3人でエストに帰り着くには十分な路銀を持っていた。
「あ。あれ、うまそー」
 花より団子なお年頃の連れが、通りがかった露店の串焼きに目を奪われても、
「だーめ。夕飯まですぐだから、我慢する」
「ちぇー……」
 財布の紐を管理するしっかり者のお父さんが健在の限り、所持金が底を尽く心配はなさそうだ。
 長旅で節約は重要だ。とは言え、育ち盛りに制限ばかりでは可愛そうなので、適度な間食は認めつつ、アルドは上手くやりくりしていた。だから、ライアも必要以上に不満は言わなかったし、リーティスにしても、野宿する事があっても、文句は言わなかった。

 そうして、彼らはノーゼ東海岸の港に着いた。
 渡航手続きには少々手間取り、審査に2日がかかってしまったが、船旅自体は順調だった。

 水平線にエスト西岸のシルエットが浮かび、明日の早朝にでもポルタに着こうという午後、ライアとリーティスは甲板で潮風に吹かれていた。
「長かったなー」
「うん……」
 魔族の脅威を逃れてノーゼに渡った時は、まだ秋の初頭だった。それが今や、ここより少し緯度の高い地域は流氷で航路が閉ざされてしまう極寒の季節だ。
 こうして、故郷を臨んでしみじみ感慨に耽る事ができるのも、エストから魔族を追い払った人々の努力があって、自分達が生きていてこそだった。
「それにしてもさ、世話んなったあの屋敷の人達、面白い人ばっかだったよな」
「う……ぅん」
 リーティスはつい2週間ほど前の逗留を思い出し、微妙な表情をした。ライアの言う彼らは、個性は強いが基本的に気のいい兄弟だ。しかし、如何せん、リーティスには個人的に確執のある人間もいた。
 ひと騒動起こして逃げ出すように去ってからまだ半年も経たない、因縁のシュトルーデルが近づいた時、船着き場まで大きく迂回するより、何食わぬ顔でシュトルーデルを通過してしまえばいい、と提案したのは、アルドだ。
 ライアとアルドがシュトルーデルの通りに潜伏している間に、リーティスは、以前世話になった屋敷の裏口を、恐る恐る叩いた。
「あれ。君――」
 顔を出したのは、ウエーブがかった金髪の長身の青年だった。一見しただけでは、誰も、彼が極度のナルシストとは思うまい。
 小声で用件を告げた『妹』を椅子のあるロビーのような場所に通して、ミルトンはその人に取り次ぐために去った。
 その間、あまり人が通らないはずの廊下を、たまたま二人の男が通りがかった。
「あー、おっかえりー」
 フェリーナを逃がした罪で、自分やアルドは捕まるのではないかと危惧していたリーティスは、不意にかけられた声にびくりと身を竦ませた。
「えー、何々、戻ってたの。水臭いんじゃない?」
 彼らが親しげに近づいてきても、リーティスは警戒を緩めなかった。シュトルーデル城直轄の騎士でないとは言え、彼らの所にも、あの一件の捜査協力の要請くらい来ているだろう。
 こころを病んだ王の言葉を馬鹿正直に守って、身内のリーティスを城に差し出す真似はしなくとも、あの逃亡の主犯であるアルドの存在を勘づかれては、城の騎士と協力関係にある彼らは、どう出るか判らない。
 それ以前に、勝手に屋敷を飛び出してしまった疾しさも、彼らと気易く話せない壁となった。
 リーティスが応対に窮していたところへ、黒髪の若者を伴ってミルトンが戻った。
「よ。元気だったか」
 深緑の目を持つ黒髪の若者は、妹にだか弟にだか判別し兼ねる豪快な調子で、リーティスの頭を上からわしわし撫でた。
 ミルトンがこの若者と戻って来たことで、リーティスは救われた気分だった。

 ミハエルの案内で、リーティスはすぐに、夫人と面会する事ができた。
「誰が、返しなさいと言いましたか」
 剣の返却を、夫人は笑顔で叱った。
「いいのですよ。勝手に持ち出したのは、ヨーゼフ(あのこ)でしょう。その分は、ちゃあんと叱りつけてありますから。あなたが責任を感じる事は、ありません」
 自分はもう剣を持てない体だから、あなたが持ちなさい、と夫人は言った。
 本音を言えば、屋敷を勝手に出た事と、剣の事が心残りで訪ねたのであって、リーティスは、長居するつもりはなかった。
 謝罪と礼を終えて、そそくさと退散しようとしたリーティスを、屋敷の者達が引き止めた。どうにかお茶を濁そうと努力はしたが、口の達者な数人の兄達に丸め込まれて、気が付けば、同行者共々、二日のあいだ厄介になる事が決まっていた。
 最初はアルド達も心配したが、シュトルーデル城の王が亡くなっていた事を知り、当主の保護のもと、屋敷に泊めてもらうことを承諾した。
 銀髪の魔女と疑われ城に幽閉されていた娘達は、王亡き後、徐々に解放されつつあると言う。後継者を中心とした城の新たな体制造りのために、初日は城に泊り込みで顔を合せなかった当主、もといファーザーが戻る頃には、リーティス達は、あらかたの事情を騎士達から聞いていた。
 かつてリーティスを苛めた侍女達は解雇されなかったようだが、ライアかアルド、それに兄弟の誰かが常に偶然にも周りを固めていたので、手出しはされなかった。そもそも、彼女達はリーティスがすぐに出て行くことを承知していたので、陥れる必要自体がなかったのだろう。
 一方、リーティスが最も会いたくないその人物は、他の兄弟達のように自ら関わって来る様子も無く、相変わらず無口で、食卓ではいつも不機嫌に隅の方で食事を取っていた。
 事情を解っている騎士達に、アルドを告発する理由など無かった。そして、流石に王族なので礼儀を弁え、素直で、出された食事は気持ち良く平らげるライアは、結構な兄馬鹿のリーティスの『兄弟』達にも気に入られたようだ。本人の自覚は無いままに、ライアは、弟分としての素質があるらしい。将来国を率いる者がそれでいいのか、という話はさておき。

「いいよな。俺、一人っ子だから。昔、一人でいいから兄ちゃんが欲しくてさ」
 波に揺られて、黄色に染まり始めた空を眺めやりながら、ライアは語った。
「兄なんて、いても面倒なだけ」
 つい本音が出たリーティスに、ライアは返した。
「そっか、そういや、兄ちゃん居るって言ってたな」
(きっと、すんごい心配してんだろうな――)
 兄の話でどこかしら不機嫌になったリーティスの手前、口にはしなかったが、ライアは思った。
 兄妹ではないが、ライアには、2歳になる従妹がいる。その可愛さを思えば、リーティスの実の兄が、どれだけ彼女の不在に心を痛めているかは、容易に想像がついた。リーティスも、口ではああ言うが、本心で兄を嫌ってるのではないだろう。
 もどかしい速度で近づく陸をいつまでも見ていたい気持ちはあったが、そろそろ日が落ちる。
「冷えて来たな。よしっ! そろそろ戻るか」
 明日には、念願のエストの土を踏める。その期待の高まりは、船室で酔いに悩まされる仲間だって、同じはずだ。



 エストに上陸して、5日。
 スロウディア城の北から西を囲み、そこから南にのびて更に西へと続く山脈の北側へ抜けられる道と、山脈の南側を通るライア達の帰路とが交わる街道で、彼らは別れを迎えた。
 アルド達は、もっとセーミズの近くまで送ろうかと申し出たが、リーティスが、ここでいいと言ったのだ。
「さっき、街道の休憩所で、白地に青い紋章の騎士が3人居たでしょ? さっきは言わなかったけど、あれ、セーミズ王宮騎士団の制服なの。合流すれば、安全に帰れると思う。だから、ここでお別れ」
 名残惜しくはあっても、家出を終わらせる事に関して、未練はないようだった。
 少しだけ心配になって尋ねたライアに、リーティスは、明るく答えたのだった。
「会ってみて、ほんっとに嫌な相手だったら、その人を殴り倒してでも、お父様達に結婚破棄、認めさせてやるんだから!」
「おっけ。その意気で!」
 ふっ切った友を力付けるように親指を立てて、ライアはにやりと笑った。

 念のため、彼女が騎士達と合流する様を遠くから見届けながら、ライアはアルドと他愛のない話をして出発を待った。
 制服を着た三人の騎士の騎馬のうち、一人の後ろに同乗したリーティスは、馬が北に頭を向けると、最後にこちらを向いて、大きく手を振った。

「……さてと。あとは、君を送り届けて、ようやく任務完了だ」
 そう言って笑ったアルドは、まったく手のかかる弟だ、と言っているようだった。
 二人になって、懐かしいような、寂しいような、複雑な心境が絡んで、ライアは苦笑した。

 どこかで別れよう、というライアの提案を、アルドは頑として聞き入れなかった。
 その態度に、ライアは焦れた。
「判ってんだろ!?」
 自分にも予測がつくのだ。アルドは当然、ライア以上にどうなるかを理解している。
「だめだよ。僕は、君と一緒に城下まで行く」
 城下まで、ということは、即ち御前までを意味する。なぜなら、アルドはエスト大陸騎士団所属の騎士という肩書と責任を負う立場だからだ。
 最後までライアと同行すれば、必ず事情を問いただされる。最悪の場合、王子誘拐の嫌疑だって掛けられ兼ねない。
 しかし、アルドはどうしても同行すると言って聞かなかった。
「行って、ちゃんと説明したいんだ。……ちょっと、面倒な手順を踏む事になるかも知れないけれどね。それは、承知の上だから」
 2日、3日の拘留は厭わない、という事か。本人はそれで納得しても、ライアが納得できるはずがない。
「……俺、ちゃんと母さんに掛け合ってみるから――」
 こうして無事に国に帰りつけるのは、親友の知恵と保護があってこそだ。恩人を容疑者扱いさせるのは、王子としてのプライドが許さない。
「うん」
 アルドがそれだけ答え、しばらく会話が途絶えた。ライアにも、帰郷に際して色々と思うところがある。
 天候にさえ恵まれたなら、城下まで急げば3日だ。

 騒ぎにならないよう、城下町の人ごみにまぎれて、フードを被ったライアと、顔を晒しているアルドは、スロウディア城の跳ね橋まで来た。
 アルドは何度か城を訪れているため、大陸騎士同盟の身元の確かな者として、特に怪しまれずに謁見を許可された。ただし、覆面の妙な連れがいるという事で、入城にあたり兵士が一人付いた。
 三十過ぎの赤髪の兵士は、敢えて怪しい連れの事には触れずに、アルドと適当に言葉を交わしながら、彼らを誘導した。
 どうも、もう一人の足が進まないのを見て取ったアルドが、足を止めた。
「どうしたの」
「ぅう……みょ〜にきんちょーする……」
 それは、久しく会っていない者達のすぐ側を通りながら、向こうが気づいていない落ち着かなさと、家出の後で親に謝りに行く、きまりの悪さによるものだ。
 腹を据えているアルドのほうが、ここが家であるはずのライアより、よほどに落ち着いていている始末だった。
「はぁ……あのねぇ……」
 ため息をついたところで、兵士の視線を感じて、アルドはやんわりと、田舎者なので緊張しているらしいのです、と断った。
 すると突然、兵士はふいと顔を向こうに向けて歩き出した。扉や柱の前にぽつりぽつりと配置された衛兵の間を、調理係や掃除担当が抜けていく広間で、アルドとライアは目を見合わせ、首を傾げながら、早足になった兵士を追った。
 階を上がって御前が近い辺りまで来ると、廊下の幅が狭くなり、人の気配がぐんと減った。
 先を行く兵士が立ち止まった。そのタイミングで、ライアが呟いた。
「もう……ここまで来たらいいよな」
 覆面が窮屈だったらしいライアが、フードとマフラーを外し、兵士の名を呼ぶ。
「スルト。ここまででいい。ご苦労だっ…た――」
 言いかけて、振り返った赤毛の兵士が、怒り顔のままぼろぼろ涙していた事に、ライアはぎょっとした。
「貴方って人は!! どんだけ心配させたら気が済むんですッ!? 夏まで、あんなにお元気だったのに!! ――それが顔も見せない程衰弱してしまわれたなんて、一体どのようなご病気かと、我々がどんな想いでこの冬を過ごしたか貴方はお解りになって」
「判った! 判ったからっ!!」
「何事です。騒々しい」
(げ。)
 予想はしていた。近くの部屋から、かすかだが、甲高い子供の声がしていたのだ。
 この区域で幼子と言えば、一人しかいない。姿を見せたのが小さな姫君の母親だとして、何の不思議があろうか。
「は、はは……その――『ご無沙汰して』おります、伯母上」
 そこには、なぜだか女王より女王らしく、姉の5倍は威厳にあふれる、ライアの最も頭の上がらない人間が立っていた。

 玉座に座した第7代国王ルネットを前に、赤毛とダークブロンド、二人の若者が跪いていた。
「――話は理解しました。その者を、連れて行きなさい」
「ははう――女王陛下!」
 ライアの抗議を認めず、ルネット=セルソン=スロウディアは、アルドを別室に連行するよう顎で促した。特に抵抗もしないでアルドが出て行った後で、女王は立ち上がり、ゆっくりと段を降りた。
「…………」
 ライアは跪いたまま、目の前まで来た無言の彼女を見上げた。
 女王の手が振り上げられた瞬間、ライアは俯き加減に、歯を食いしばった。
「!」
 次に感じたのは、予期した頬の痛みではなく、息苦しさだった。
「何やってたの! 何も言わないで出てくなんて、この親不孝者っ……! ちゃんとご飯食べてハンカチはいつもポケット入れてパンツは毎日替えて寝る前はしっかり歯磨いてたんでしょーね!?」
 母親の白い腕に問答無用に締め付けられながら、ライアは、これが夢ではなく、帰って来たのだと実感した。



「この手で肥やしにしてやれなくて残念だ」
 そう言って、ファルドは近日中に謹慎を解かれるであろう家庭教師に向かって鞘に収まった剣をちらつかせた。
「折角、これを入念に手入れしておいたというのに」
「おや、女王のナイトたるもの、常日ごろから剣の手入れは行き届いておいででしょう。私ごときのためになどと、めっそうもない」
「……ッく! やっぱり、その口だけは黙らせておきたいものだな……」
 犬歯を見せるファルドと、微笑で受け流す家庭教師の間で壮絶な空気が流れていたのは、中庭に咲く花のみぞ知る話である。



「アルド!」
 帰還から半日、あれから強制的に風呂に入れられ、城内での服に着替えたライアが、部屋を出てきたアルドに駆け寄った。
「ラーハネット様! 先程申しつけられたばかりでしょう!? 走らないで下さいっ!」
 後ろから追って来た小間使いの少年が叫んだ。
 女王から言い渡された条件は、3つ。まず、城の中でもしばらくは動き回る範囲を限定する。次に、城の中でも廊下をむやみに走ったり、階段を掛け上がったりしない。最後に、部屋を出る時はなるべく供を付ける事。不在を病気と偽って隠していたが故の処置だが、今のライアの元気な姿を見れば、無駄とも思えた。それでも、こういった制約の煩わしさが大嫌いなライアへの家出の罰にはなろう。
 駆け寄ったライアの心配そうな顔を見て、アルドが先回りした。
「簡単な事情聴取だけだよ。大丈夫、変な扱いは受けてない。明日もう一度、詳細な報告をして、問題がなければ、僕はまた、大陸騎士同盟の仕事に戻れる」
「本当だな?」
 アルドが頷くのを確認して、ライアは、小間使いの少年を下がらせた。
「なぁ、ちょっとアルドと話あるから、その辺で休んでてくれるか」
「畏まりました」

「でも――無理矢理にでも連れ戻そうとした僕が言うのも変だけど、本当によかったのかい?」
「んー……」
 手すりに手を掛けたまま上体を後ろに引いて、そだな、とライアは呟いた。
「やっぱさ、思ったんだよ。戦争って、俺一人で止められるもんじゃない。ノーゼにも行って、戦火の大きさを見て、それはよく解った」
(……ライア、君は――……)
 城を出た時の無鉄砲さを無くしたのは、果たして良い事なのか。アルドは不意に、不安になった。
 自分は、守るべきものを守るために、規制の中に身を置き、組織の一員としての制約の中で、自分の手が届くところと届かない領分を弁え、いわば、諦めも覚えて大人になった。きまり無くして、組織というものは立ち行かない。それは、騎士団でなくとも同じである。
 今回の事が、ライアの心理にどう影響したのか、それが心配だった。
 結果論だが、世界の広さを目にするのは、次期後継者として悪い事ではない。しかし、周囲に広がる広大な世界に、縮こまってしまい、自分の国と、自身の限界に線を引いてしまったのでは、悪影響と言わざるを得ない。
 それに、ライアには、諦めを知った自分とは違う道を歩んで欲しい、という想いがそこには存在した。
(わかってる。これは、僕の我儘だ。僕が全部背負えたら、守れたら――君も、そのままで良かったのかもしれない。けど、それが出来ないのは、誰より、この僕自身が判ってるんだ――)
 誰だって、大人になる。ライアの変化を、成長として素直に喜べない自分がいて、アルドはやるせい思いだった。
 そんな彼の心境などお構いなしに、隣のお気楽王子殿は言った。
「だからさ、そのー……うまく行く保障はないけど、まず、国内の事から初めてみようと思うんだ」
 予想していなかった流れに、アルドは目を見張った。
「旅して解ったけど、スロウディアも、今が平和だからって、これからも争いが起こらないとは言えない。城下ほど識字率が高くない地域があるのも判ったし、閉鎖的な村とか、あまり豊かでない地域では、争いの火種も発生し易いと思うんだ。だから、小さな集落なんかは孤立しないように、道や橋の整備を進めて、食糧に関しても、生産と分配の仕組みを上手く回るようにしてやって――やる事は一杯だけど、そうやって、スロウディアを今よりももっと良い国にして、戦争をしない世界一の国だ!って自慢できるようになれば、外から来る人や、スロウディアから旅立って行く人達を通じて、少しでも、戦火を縮小する方向に感化していけるんじゃないかって――今は、そう思ってんだ」
「ライア……」
 希望的観測を含むとしても、その考え方に、アルドは関心した。予想外の弟分の成長を、誇りに思える。
 ライアは、苦笑して呟いた。
「……これから、勉強だな」
 苦手を自覚して、ライアは諦めのため息と共に、言葉を吐き出した。
「経済とか、情勢とか、さぼってた教科、もっかいフォルワード先生に、きっちり教え直してもらわないと」
 外はまだ、寒い。しかし、もうすぐスロウディアにも、春が訪れようとしている。



『 おばあさま、私は、元気でやっています。
  今年は、冬の間も薬草を切らさずに済みそうですか。
  秋に少ししか手に入らなかったものがあるので、少し心配です。…… … 』
 手紙を書く手を止めたフェリーナは、誘われるように、窓の外を見上げた。



 久しく袖を通していなかった、滑らかな絹のドレスは、少し窮屈で、どこか懐かしかった。
 今のリーティスは、どこに出しても恥ずかしくない、上流階級の娘だった。
 外に目をやると、このところ飽きもせずに降り続いた一面の雪がきらめいて、目が眩んだ。眩しさから逃れるように視線を上にやると、そこには、一週間ぶりの青空があった。



「雨、上がったな」
 アルドの見送りに屋内から出たライアは、空を見て言った。
 地面は濡れているが、上空には、綺麗な青空が広がっている。



 この広い世界で、二度と会う事はなくても。
 その空は、どこかで繋がっている。

 同じ世界の、違う場所で
 ――彼らの明日は、始まる。


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