「ご報告致します!!」
 伝達兵が、王座の前で跪く。
「現在、魔族達を西の山脈地帯に追いやることに成功! 残存勢力は、残り数百と推定。奴らは現在、山脈地帯に潜伏し、反撃の機会を窺っている模様です。いかが致しましょう? 陛下」
 四十近くになる赤毛の女王は、威厳ある声で答えた。
「魔族との戦争に加担はしない。しかし、我が国の領土を土足で踏み荒らされたのでは、この地の平和を守り続けて来た先代の者達に、申し訳がつかぬ。今回の事は正当防衛として、ただちに、セーミズの部隊と連携を図り、魔族の封じ込めを行ないなさい!」
「はっ! 仰せのままに」
 伝達兵が下がり、女王は思った。
(ふぅ――……こっちの問題は、思ったよりも早く片付きそうね。残るは……うちの王子様、ってとこかしら。あんの馬鹿息子、無事でなかったら、ただじゃおかないんだから!!)
 エスト大陸東岸に位置する国、スロウディアの現女王、ルネット=セルソン=スロウディアは、不在の王子に向けた予行練習として、拳を固めた。

「……、妙ですね――」
 王子逃亡に加担した疑いで、謹慎処分を受けていた男は、ひとりごちた。
「数百の寡兵にて、援軍も望めない地帯に、自分達からわざわざ逃げ込むなどということが、あるのでしょうか? 念の為、東側の海にも防衛線を張っていましたね。そちらには、何の音沙汰もない。となれば、わが国を挟み撃ちにする気でもないようだ。一体、何を考えて――?」

 一方、城内の別の場所で。
「おかしい……」
 赤毛の男は、あと一歩で無精髭といった顎に手をやりながら、考えた。
「この冬場に、山地に潜伏。冬季でも使用可能な数少ない道を通って進行してきた敵兵を、ゲリラ攻撃で迎え撃つには最適かもしれん。だが、やがて食料も兵も尽きて、持久戦で敗れる。こんなのは、捨て身の特攻隊がしかける行動だ。なぜ、わざわざ、スロウディアとセーミズの間に入り込む必要が?」
 一呼吸置いて、彼は自問した。
「あの山脈に、何がある……?」
 国の地理、そして歴史にも精通した彼が導き出した結論は、一つ。
(いや、何もない。今回のことは、やはり、奇襲により、魔族はいつでもエスト大陸を狙えるのだ、という、脅しが目的だったか……)



STAGE 14 out of the natural low 〜停止した谷〜



(違う――……)
「…………」
「やっぱり、そうなんだね……?」
 答えない。確かに責任とか、そんな気持ちはある。だけど、医院に行けない理由は、そんなんじゃない。
「俺…………」
 言いかけたところで、何も言えないまま口を閉ざす。
「誰も、ライアの判断を責めていないよ。――明日、行っといで。リーティスだって、きっとその方が、嬉しいよ」
 おやすみ、と言って、アルドは自分の部屋に戻った。ライアはしばらく、足の間に両手をついた姿勢で椅子に座ったまま、じっと床を睨んでいた。
(……違う。ただ、俺は――。けど、言えるかよ!? こんな、理由……っ!)
 言ったら、それこそ、現実になってしまいそうで。

 『あの場面』が、よみがえる。
 寝台に横たわった、人形のように動かない少女。
 ほんの、2、3歩の距離が、あまりに遠かった。

 ただ俺は、
 ――怖かった。

 ……目の前の少女は、本当はもう、そこには居ないんじゃないか、って……。



「ふー……」
 アリシアは、窓辺に手を置き、その上に顎を乗せて、やや首を傾げながら、降り続く外の雨を見ていた。
 この深い谷の底にも、雨は降り注ぐ。今は昼間なので、町全体を覆う防衛システムも、作動していない。これが夜になると、ドーム状のシステム全体がバリアーに転換されるため、雨だろうが、魔物だろうが、外からの侵入は防がれる。
 去年の誕生日も、確か、こんな雨の日だった。

 これだけ生きていると、誕生日など、どうでもよくなる。
 そんな事を言う人間がいる一方で、彼女の叔父だけは、毎年忘れずに、アリシアを祝いに、家を訪ねて来てくれた。
 もうお祝いなんていいよ、という半分嘘吐きな気持ちと、密かな期待を胸に、去年の雨の日も、アリシアは、少し珍妙で素敵な贈り物を手にやって来る、その来客を待っていた。
 例年、この日になると、午前9時を過ぎた頃に、やたらとテンションの高い客人が訪ねて来る。自分の誕生日くらい好きな時間まで寝かせてくれ、という人間もいるだろうが、アリシアは割と規則正しい生活を送っているため、夜更かしをして寝坊をすることはあまりない。対して、母や叔父は学者体質というのか、割とフレキシブルな生活を送っている。だから、母が料理担当の日でも起きて来ない時は、アリシアが朝食を作る。

 ところが、その日は、10時を回っても、誰も現れなかった。

 もうすぐ正午になろうかという頃、台所から、野菜スープの香りと、パンケーキを焼く匂いが漂い始めた。娘の密かな失望を知っていた母親は、気を紛らわせるように、いつもの調子で台所から声を投げた。
「ほら、そろそろお昼の準備ができるから、テーブルにお皿出しといて!」
「……は〜い……」
 アリシアが、のろのろと立ち上がりかけた時、玄関のチャイムが鳴った。

 ピンポーン♪

 アリシアは、はっきり言って、この仕掛けは無駄だと思っている。用があるなら、表から声をかけるか、戸を叩きさえすればいいことだ。だいたい、住民も固定化したこの町で、不審者など訪れようがなかった。
(『インターフォン』。これは、確か……そっか、セネルさんの開発したやつだっけ。じゃあ、無下にもできないかなぁ)
 そう思いつつも、外と会話が出来る受話器は素通りして、アリシアは玄関に直行した。
「どもー」
 敬礼する時のような手を、顔の横に持ってきて挨拶しながら、外見年齢二十台の男は、子供のように、にへら、と笑って、そこに立っていた。

「や。元気してたっ? アリシアは、少し、背ぇ伸びたかなっ」
「んもー。そんなはず、ないでしょ?」
 入って、と言おうとしたアリシアは、きょとんとした。
「?? なんで、髪濡れてんの? ちょっと、お母さん! タオル、タオルっ」
 玄関から叫んだアリシアに、火を扱う台所から返された声は、素っ気なかった。
「アリシアちゃんが取ってきてー。っていうか、レイでしょ? 自分で取りに行かせなさーい?」
「ああもう……」
 文句を言いながら、結局、アリシアがタオルを取りに行った。
「いやいやぁー、ごめんねっ。近いから、走ればいいかなーって」
 相変わらず、子供のような発想の、この男。しかし彼は、アルカディアの先端技術を担う研究者の一人であった。同じく研究者である母親と並ぶ頭脳の持ち主だという事は、アリシアも承知している。
「貴方のお陰で、追加の分を焼かなくちゃならなくなったわ」
 枚数の増えたパンケーキの乗った皿を、テーブルの中央にどん、と置きながら、彼女は、弟に向かって宣言した。
「食後の食器洗いは、レイの担当ね」
 レイモンドは、苦笑した。しかし、何だかんだ言って、姉弟である。姉として、弟を心配していないでもない。
「今日は、遅かったじゃない。何か?」
「んー……」
 レイモンドは、凝った肩をほぐすように、伸びをした。
「今日に限って、研究中の術が、暴走しちゃってね。何とか事を治めるのに、明け方から5時間もかかっちゃったよ」
 呆れたように、彼女は言った。
「はぁ……。なんだったかしら、この間の――『高枝挟みを使わずに、樹木の手入れをする魔法』の術式確立?」
「いやいや、そっちの方は、クロードに、先越されちゃってね」
 いい歳をして、大人達が、下らない魔法の開発競争をしている。それはアルカディアの日常茶飯事で、生きるために、なくてはならない競争だった。――そう、それは、退屈という名の、死へ誘う悪魔に抗うための、手段の一つだった。
 『下らない開発競争』の中で、あくまで傍観者の立場を貫いている賢明な姉上殿は、ひきつった笑い顔で言った。
「……じゃあ、何? まさか、あれ? 『台風を利用して、人間は傘で空を飛べるか!?』ってテーマ……下らない研究も、程ほどにしなさい、レイ」
 姉の目線は、ひたすらに冷たい。
「やだなぁー、姉さん! 少年の夢を理解してないんだから〜。んん、そのテーマも、候補としては、イイ線いってたんだけどね?」
 そこで、レイモンドは、それまで置いてけぼりだったアリシアに視線を移した。最も、アリシア自身は、置いてけぼりとは思っていない。どちらかというと、母と叔父の会話を聞いて楽しんでいる節がある。
「ああ! そぉーだ。もし、アリシアがお望みなら、さっき言った傘のテーマ、僕が来年の今日までに、張り切って開発しちゃうけど?」
「ううん……遠慮しとく」
「そぉかぁ〜。残念」
 からからとレイモンドは笑い、今朝暴走した術について、姉と議論を始めた。

 回想を止めて、アリシアは再び、窓の外の雨に目をやった。
 アリシアは知っている。この町の総力を結集して、真面目にプロジェクトを立ち上げたなら、数年とかからずに、空を自由に行き来する乗り物が完成してしまうだろう、という事を。
 だが、彼らは、空を封印した。アルカディアの技術を、谷の外に洩らすべきではない、と、彼らは考えている。それは、決して、独占欲などではなく、自分達は、この谷で完結するべきなのだ、という強い信念によるものだった。
 実際に口にするは珍しいが、この町の研究者は、稀に、自分たちのことをアウトローと称す。神々の法を無視して生きる者。そういった意味合いだ。無論、アリシアもその一人だった。

 アリシアは、現在もこの町に暮らしている住人達の中の、『最後の子供』だった。
 ある魔法の研究が成功して、アルカディアの住民全てが、二者択一の道を迫られていた過渡期の頃。自分がこの実験を受けることに同意したがために、母親が随分と辛い思いをした事を、アリシアは今でも覚えている。
 実験の反対者達は、研究者だったアリシアの母親を、口々に罵った。
「自分だけならともかく、実の子にまで、あんなことを」
「人間じゃない」
「本人の承諾を得た、つったって、どうせ、親の特権で、巧みに誘導して、子供を頷かせちまった、ってやつなんだろう?」
「本当に、クズだ」
「酷い話ね……」
 けれども、それらは全て、勝手な憶測に過ぎなかった。『14歳のアリシア』は、自らの意志で、選択した。
 母親は、決して強要しなかった。
「自分で選びなさい。酷な話かもしれないけど――」
 子供でも、一人の人間として尊重してくれた母親に、アリシアは決意した。
「大丈夫。お母さんを、独りにしないから」
 そう言ってくれた優しい娘を、母親は、涙を流しながら抱きしめた。父親は、この研究が完成する以前に、不治の病で亡くなっていた。
「怖くないよ。だって、お母さんや、レイおじちゃんが研究してきた事でしょ?」
 本当は、少しの恐怖はあった。しかし、研究者としての母と叔父を信頼していたからこそ、アリシアは覚悟を決められた。

 アリシアが実験を受けてから十数年の間は、誕生日の度に、母親の研究仲間達が、そわそわと、彼女の様子を窺いに来ていた。
 成人していた他の被験者達とは異なって、一人だけ成長段階で時を止めたアリシアに、どのような影響が出るのかは、誰にも予測がつかなかった。
 しかし、30年も経ってみると、アリシアを壊れ物のように扱っていた大人達の態度も、すっかり薄れてしまった。
 今日では、忘れずに誕生日を祝ってくれるのは、叔父と母、そして、よく気のつくご近所さんくらいのものだ。

 大半の研究者やアリシア達一部の住民が選んだのとは別の道を歩んだ者達は、やがて土に還っていった。
 それからは、ほとんど変わる事のない日常。アリシアは、世界に朝と夜があって、天候があって、季節というものが存在して、本当によかったと、身に染みて感じていた。それらがなければ、自分という存在も、いつかは判らなくなってしまったのではないか。
 しかし、そんな繰り返しの日常の中にも、イレギュラーというものは必ず存在する。彼らの時間が止まろうとも、この谷が、動き続ける世界の一部であることに、変わりはないのだから。
 シーラ。彼女も、この谷にもたらされた、ささやかな変化の一つだった。



「おはようごさいます、おばさん」
「おぉや、シーラちゃんかい。待っててね。すぐに表に運んどくよ」
 豊かな黒髪を持つ妙齢のシーラは、魅惑的な体躯をしていた。しかし、品良くショールをまとっているために、いやらしさは感じない。言うならば、水商売を引退して、堅実な職を手にした女性、といったところか。
「あら、こんにちは。お元気?」
 おばさんが納屋へ引っ込んでいる間に、彼女は、居間にいたライアとアルドに気付いて微笑んだ。
「どう? ここの生活は。慣れないことが一杯で、大変でしょう?」
 彼女はノーゼ大陸の言葉を使うので、言葉が通じる。
 先に答えたのはアルドだった。
「ええ。でも、おかげ様で、大分慣れました。ここの住人の方々は、余所者の私達にも親切にしてくれるので、非常に助かっています」
「そう、よかったわ」
 シーラはにっこりと笑い、それから、アルドの脚の具合を尋ねた。最初に4人で町の入り口に着いた時の事を、覚えていたらしい。アルドが質問に答えて、それから二言三言交わすうちに、おばさんが戻って来た。
「待たせたねぇ。表の荷車に積んどいたよ」
「ありがとう、おばさん」
 家の前に停められた、背の低い馬つきの台車には、大きな小麦の袋が、幾つも重なっていた。首を傾げるライア達に、シーラは微笑みかけながら言った。
「私ね、パンを焼くのがお仕事なの」
「そうさ。シーラちゃんは、働き者のいいコでね。ほら、うちで今朝だしたパンも、シーラちゃんとこのだよ」
「そうだったんですか」
 ふと、重たそうな袋と細身のシーラを見比べて、ライアは申し出た。
「あの、俺、何か手伝いましょうか?」
「大丈夫よ。いつもやってることだから。でも――そうね、じゃあ、荷物降ろすのだけ、手伝ってもらっちゃおうかしら。私ね、実は、『上』から来た人間なの。よかったら、少しうちでお話しない? ――貴方も」
 ライアとアルドの両方に投げかけられた質問に、半々の答えが返った。ライアは頷いて、アルドを振り返った。
「行っておいで。すみません。私は、これから長老様のところをお訪ねする約束をしているもので」
「そう。あの方は、温和で良い方よ。長老様に、よろしくね。それじゃあ、行きましょうか。えぇと……」
「ライアです」
「ライア君。よろしくね。それじゃあ、おばさん、私、これで失礼します」
「あいよ。何かあったら、いつでもおばさんを頼っとくれ!」
 小型の馬が引く荷台の横を、シーラとライアは並んで歩きながら話した。
 工場(こうば)を兼ねた家に着くと、ライアは、袋運びを手伝い、それからお茶に招かれた。
 そこで、シーラは自らの過去を語った。
 シーラは、ノーゼの生まれで、酒場の踊り子をしていた。すらりと背の高い黒髪美人の彼女は、人気も高く、彼女に入れ込む男は後を絶たなかった。そんな中、シーラは将来を誓い合った相手を、不慮の事故により亡くした。
 悲嘆に暮れるシーラは、酒と、新しい恋人に依存して、悲しみを紛らわす日々を送っていた。
 だが、ある時、付き合っていた男に捨てられ、シーラは、死を決意する。彼女が身を投げた場所こそ、悪魔の爪痕、ことヴィータ渓谷だった。
 彼女を救ったのは、最愛の亡き恋人が、生前に、彼女に贈った品であった。風の魔法が込められたエメラルドの腕輪は、秘められたその効力を発揮して、シーラを護り、砕けた。
「彼に助けられた、って、そんな気がした。……でもね、この町に最初に来た時は、自暴自棄で――みんなには、大分迷惑をかけたわ」
 どうして貴方のもとに逝かせてくれないの、と、腕輪の贈り主を恨んだ事さえあった。そんな彼女を変えたのは、住民達の暖かい支援と、厳しい叱咤だった。
「どこの馬の骨とも知れない、私みたいないかがわしい出自の女を、実の娘みたいに叱ってくれる人もいた。だから、私は立ち直れた。――変わったのは、そのあとね。……腕輪が身代わりになったのも、彼の分も私に生きてくれ、っていう証に思えるようになった」
「だと、思いますよ。多分」
「ありがとう。そう言ってもらえると、気が楽になるわ」
 生きる気力を徐々に取り戻したシーラは、アルカディアでの生活にも、次第に溶け込んでいった。
 後になって、こんな話を自分が聞いてよかったのかと、ライアは恐る恐る尋ねた。
「――そうね。誰かに聞いてもらって、すっきりしたかったのかもしれない」
 遠い目をして言った後で、シーラは苦笑して詫びた。
「ごめんなさいね。昔、そんな女がいたって、思ってくれるだけでいい。それだけで、充分だから」
 話題を変えて、今度は、ライアが自分達の事を話す番だった。すると、そこで思わぬ手がかりが得られた。
「そういえば、地上に帰る方法が書かれた書物が、アルカディアにあるって聞いたわ。57年に1度、月の光のもとで行なわれる儀式。それによって、この地を発った人間がいるそうよ」
「本当ですか!?」
「ええ。詳しいお話は、長老様のところでお尋ねするといいわ。長老様のお宅には、古くからの文献も、数多く保管されているの」
「ええと……それなら、シーラさんもその時に……?」
 帰るつもりなのか、という続きを察して、シーラは微笑み、首を横に振った。そして、軽く目を伏せて言った。
「あのね、ライア君」
 婀娜っぽい黒い瞳が次に開かれた時には、思わぬ誠実さがそこに宿っていた。
「私は、この町が好きよ。だから、例え57年に1度のチャンスだったとしても、この土地を、離れたくない」
「――そうですか」
 確かにいい町だ、とライアも思っていた。決して、スロウディア城下のように賑やかで大きな街ではないが、平穏な空気に包まれていて、何より、住んでいる人達が温かい。
(でも、俺の居場所は、ここじゃないんだよな――……帰らないと)
 もうすぐお昼になろうかというところで、ライアは席を立った。
「今日は、ありがとうございました。お茶、うまかったです」
「いいえ、こちらこそ。また来てね。今度は、お友達も一緒に」
「はい。ぜひ、そうさせてもらいます」

 シーラの家を出て戻る途中、ライアは、今一番会いたくなかった人物と出くわしてしまった。
「あ、おでかけでしたか?」
「ああ、うん……」
 曇りない青い瞳で見上げてくる乙女に、ライアは、内心の気まずさを振り払うように、小さく首を振った。
「今日も、医院で講習だろ? ほんと、勉強熱心だよな」
「そうですか? 毎日色んなことが学べて、楽しいですよ」
 そっか、それじゃあまた後で、と言って離れようとしたところを、フェリーナの方から痛い話題を持ちかけられて、ライアは心臓が止まりそうになった。
「あ、リーティスも、変わりないです。まだ、眠っていますけど……気長に、待ちましょう」
「…………」
「ライア……?」
 フェリーナは、医院での講習がない日でも、欠かさずに見舞いに通っている。一方で、ライアは、まだ、アルドとの約束を守っていない。
「強いな、フェリーナは……」
「え?」
 それは、思わず出た本音だった。
「あ! いや、何でも、ない……」
 しどろもどろに言うライアを、じっ、とフェリーナが見詰めた。小動物のように愛らしく純真な瞳を前に、ライアは、更に気まずさが増した。
 その時、すっ、と、フェリーナがライアの手を取った。
(え!?)
 さっきとは別の意味でどきりとして、内心で慌てふためくライアに、フェリーナは優しく微笑みかけた。
「これから、午後の講習なんです。まだ、時間がありますから、一緒に行きましょう?」
「…………、っ!」
 思いがけず強く、フェリーナの腕を振り払ってしまった事に後悔しながらも、反射的に手を払い除けて一歩後ずさったライアは、辛うじて言葉を紡いだ。
「……ごめん、俺は、いい……」
 こんな態度では、さしもフェリーナでも、愛想を尽かすだろう。そう思って怖々目線を上げると、果たしてフェリーナは、怒っていなかった。そして、ライアが思ったように、怯えた目をしていたのでもなかった。
「何か、あったんですか? よかったら、力になりますよ」

 病室には入らなくていい、という条件付きで、ライアは結局、医院にまで連れて来られてしまった。
「怖い、んだ――」
 うつむいて、吶吶と語るライアの話を、フェリーナは急かさずに辛抱強く聞いた。
「あの時、触れるのが怖かった。もし、触って、その手が冷たかったら? それに、もし――息……してなかったら? ――解ってんだ、こんなの、ただのびびりだって。カッコ悪いよな、男なのに。けど、俺、フェリーナみたいに、今のあいつと、正面から向き合える自信、ねぇんだ……」
 正直言って、ここにいるだけでも落ち着かない。早く医院を離れたい気持ちに駆られる。
 フェリーナの前だから、どうにか見栄を張って、落ち着いてみせていられた。これがアルドの前だったら、問題を直視せずに、また逃げ出していたかもしれない。
 本当は、今だって、『あの場面』が呼び起こす恐怖心と、必死で戦っている。
「たっだいまぁー♪ あれ、もう戻ってたんだ、早いねっ」
 姉のところで昼食をとってきたレイモンドが、ひょいと現れた。
 常日頃から、医院に鍵はかかっていない。セキュリティ的にどうかという所だが、何でも、急患に気付かず眠っていても、叩き起こしてもらえるようにだとか。
 レイモンドは、ライアを見てにっこりと笑った。
「あー、もしかして、君も勉強会に参加するのかいっ? だーい歓迎だよっ!!」
「あ、いや俺は! これでおいとましますっ」
「あっ、そーぉ。ざぁんねん。じゃー、またねっ☆」
 ライアは、冴えない顔色に気付かれないように、そそくさと退散した。
 だが、医師としてのレイモンドの眼は鋭かった。
「うーん、あの子、大丈夫? なんかあったの?」
 くるりと首を回して尋ねたレイモンドに、フェリーナは、差し支えない程度に、事情を話した。
「……そおかぁ。ちみーっと過剰反応だけどね。でも、よっぽどあの子のこと大切なんだねぇ」
「ええ。あの二人は、誰よりも信頼し合ってますから。……ふふ、本人の前で言ったら、きっと二人に怒られちゃいますけどね」
「ああ。そーゆー仲。でも、いいじゃない。喧嘩するほどナントカー、ってねぇ? んじゃ、はりきって午後の講義いこっか〜!」
「はい。よろしくお願いします」



 夕飯時、フェリーナがそれとなく焦点をぼかしてくれたお陰で、ライアが病室に立ち入らなかった点については、アルドにはばれずに済んだ。
 ライアは、後でこっそり、気を遣ってくれたフェリーナに礼をいった。
「ありがとな。もう少しして――ふんぎりついたら、今度こそ、リーティスんとこ、行こうと思ってっから」
「ええ、それでいいと思います。まだ、無理はしないで下さい」
「ん……」
 フェリーナの優しさに感謝しながら、ライアは、後で大事な話があるからと言っていたアルドの部屋に向かった。
(俺のほうも、話さなきゃいけない事、あるしな)
 それは、シーラが口にした、地上に戻る手がかりについてだ。
 部屋に着いてみると、戸は開いており、足音に気付いたアルドが、二人を迎え入れた。
「やあ、待っていたよ。二人とも、入って」
「失礼します」
 いつ何時も礼を欠かさないフェリーナだが、ライアの方は、入室するのにいちいち断ったりしない。
 メンバーが揃うと、アルドが説明を開始した。
「聞いて欲しい。帰る方法が、見つかりそうなんだ」
「本当ですか!」
「! 俺も、それ言おうと思ってて――そういや、アルド、長老さんとこ行くって、今朝言ってたもんな?」
「ライアも、何か聞いたのかい?」
「うん。シーラさんが、長老さんの書庫なら、文献が残ってるかもっつってて」
「そうか。なら、話は早い。僕は今日、長老様に、直接お話を伺ってきた。これが、お借りした資料だよ」
 そう言ってアルドは、古びた一冊の書を机に置いた。ライアとフェリーナが、それを興味深げに覗き込む。
「……げ。これ、何て書いてあんのか、全然わかんねぇ――」
「うん。この土地の言葉だからね。二人に見て欲しいのは、こっちの図なんだ」
 ぱらぱらとページをめくったアルドが、複雑な紋様の描かれたページを開いた。
「何かの……魔法陣、でしょうか……?」
「鋭いね。その通りなんだ。で、次のページのこの絵、ライア、何だか判る?」
「ん……?」
 上の方に、小さな丸い円が描かれており、文字が付け足されている。その文字は、ノーゼで使われているものと、どこか似ていた。
「つき――?」
 円の配置と文字の形から、何となく予想をつけたライアが答えると、アルドは微笑んだ。
「正解。この儀式は、満月の夜に行われるものらしいんだ。ただ、色々と条件があるらしくてね。ほら、『月』もそうなんだけど、数字も、ノーゼのに似てないかい? ここ、57って書いてあるんだけど、この一文は、57年に一度、っていう記述らしい。他にも色々細かい条件があってね。その辺は、今、町の人達に協力してもらって、調べてもらっている最中だ。流石に、僕も、この文字は読めないからね……」
「あの……」
 そこで、フェリーナが控えめに不安を口にした。
「それじゃあ、最長で57年待たなきゃいけない、ってことになりますよね――?」
 57年後、例え生きていたとしても、ライアは白髪でよぼよぼのお爺さんだ。
「だよなぁ。どうなんだ? アルド」
「うん。それはちゃんと調べてもらってる。長老様のところに残されていた文献によると、次にその儀式が行える日っていうのは――次の満月。およそ1ヵ月後だって話だ」
 それは、拍子抜けするほどの好条件だった。



 円形の広々とした部屋の壁際は、大きな窓と本棚とで占められていた。
 家の家主は、机に、紐で留められた黒い表紙のノートを置きながら尋ねた。
「レイモンド君。例の準備の方は、整っとるかね?」
 そう言って、六十近い白髪の男は、眼鏡の奥の小さな瞳を、若い学者に向けた。
「ばーっちりですよー、署長。ゴラン博士も、ひっさびさの見送り人役で、はりきってます!」
「そうだったな。あの術の責任者は、あやつだからの。ところで――」
 ため息をつきながら、署長と呼ばれた男は言った。
「……君も、いい加減、その子供のような喋り方をやめんかね?」
「やっだなー、署長! 僕がこれ、何年続けてるか、お判りでしょー?」
「むむぅ……」
 それは、二桁で収まる数字ではない。
「今更変えられませんって!」
 からからと笑う若い学者に、署長は、更に深いため息をついた。そこに追い討ちをかけるように、若い学者は、恥ずかしげもなく公言した。
「それになんったって、心は永遠の10代ですから!」
 10代の君の姪は、君よりよほどしっかりしているぞ、第一君は、体は20代後半じゃないか、という言葉を飲み込んで、署長はがっくりと肩を落とした。
「あれ? どうしましたー、署長? いえ、長老?」
「ええい、もうええわい! それより、抜かりなく準備するのじゃぞ。失敗してお客人を変な所に飛ばしては、我ら頭脳集団の沽券に関る!」
 変な所とは、地底国だとか、異星人のいる惑星だとか、どこぞの異世界なんかだろうか。それはそれで面白いかもしれない、と不謹慎な事を考えていた彼は、目の前で、血管が浮き出そうな勢いで凝視してくる署長に、にっこりと笑って見せた。
「お任せを」



 齢58にして、自らの時間を止めた、当時の研究所署長、エドワード=モントンは、来るべき未来について、こう予言した。
「いつか、我々の中から、自殺者が出ることだろう」
 進化を止めた生物は、いつか滅びの道を辿る。
 研究者の多くは、探究心に抗えずに、この研究を完成させた。結果そのものを求めていた者は、ごく少数だったと言える。そのため、多くの者は、研究の成果がもたらす未来を、決して楽観視してはいなかった。エドワードもまた、その一人である。
 かくして、予言どおりに、2人が命を断った。
『そろそろ疲れた。休ませてくれ』
『私は、もう、充分に生きた』
 ……と、そう言って。

 葬儀は、風の強い、晴れの日に行なわれた。
 命の終わりというものに、久しく立ち会っていなかった住民達の中には、戸惑う者もあったが、それでも、町のほどんどの人間が、葬儀に参加した。
 黒い喪服姿で、本来なら、とっくに棺おけの中に入っていい年齢のアリシアは、14歳の姿のまま、母に連れられて、死者を弔った。
「ふぅ……」
 納骨の後、ひと気のある場所から少し離れて、アリシアは肩の力を抜いた。入学式、卒業式、冠婚葬祭、いずれにしろ、式典と名のつくものは、大抵堅苦さが付き纏うもので、妙な気疲れをする。
 草地に立って休息していたアリシアの所に、一つの影が近づいた。
「先生」
 彼女からすれば叔父であるが、もともと生命工学系の学者であり、町医者を兼ねるレイモンドを、アリシアは、周りに倣って先生と呼ぶことが多い。
「ひと休みかい? 疲れるもんねぇ」
 うーん、と伸びをしながら言ったレイモンドは、しっかり者のアリシアより、やはりどこか子供のように見えてしまう。
「うん。あのさ……」
 アリシアは、地面を見ながら、しんみりと言った。
「命って、重いんだね。こんな風に生きてる私達でも、やっぱりそれって、同じなのかな?」
「んん?」
 軽めの相槌が返され、アリシアは、それでも実は色々考えているはずの、いや、血が繋がっている者としてそう願いたい、叔父の横顔を見上げた。
 彼は、諦めたような、満足したような、不思議な笑顔で午後の風に吹かれていた。
「アルカディア(桃源郷)なんて、嘘っぱち。結局は、生身のヒトの住まう町なんだから、さ」
 真意を窺うようにじっと見詰めてくるアリシアの視線に、彼は、悪戯っぽく、にぱ、と笑った。
「気楽にいこーよー。人生長いんだからっ。ほら、この僕を見習ってっ!」
「ううん……それもどうかなーって……」
 えー? と不満を洩らしつつも、レイモンドは笑顔のまま、言った。
「あんまりお母さんに似て、考え方固いと、早々に老けちゃうよー?」
「よ、余計なお世話ですっ」
 アリシアは赤くなってむくれたが、気持ちは随分と軽くなっていた。

 例え、神の掟に背いて生きる者だとしても。
 人として生きていることには、変わりはない。



 その人は、言った。
 桃源郷はなんて、名ばかりだと。
 空があって、大地があって。人がいて、それぞれの生活がある。
 桃源郷なんかじゃない。なぜなら、雨は降るし、夜になれば日は沈んで、厳しい冬だって到来する。
『だけどね、雨だっていつかは止むし、明けない夜はない。冬の後には、必ず春が来るものさ』
 ――それが、アリシアが、密かに母と同じくらいに尊敬している人の言葉だった。
 最も、本人の前では口が裂けても言えない。……あの人は、絶対に茶化すに決まっているから。

 今、目の前で眠っているその子も、いつかは変わって行くのだろう。雨が上がり、夜が明け、春が訪れるように。それが例え、老いの先にある、死だったとしても。
 変化は必ず、訪れる。
(触って、いいかな……)
 医院の留守番を頼まれていたアリシアは、そっと、眠っている少女の金髪に手を伸ばした。体に触れたくらいでは、生命維持に影響が無い事は、アリシアも承知している。要は、少女の体に繋がれた、いくつかの線に触れなければ問題はない。
「…………」
 少女の髪に触れ、アリシアは、少しだけ悲しくなった。自分は、生まれつき茶髪だ。染める事は出来ても、こんな風に、お人形さんのような金髪には、なれっこない。
 一人っ子だったアリシアは、小さい頃は、物語を考えたり、絵を描くのが好きだった。時には空想を膨らませて、自分がその物語の主人公になる。その中で、アリシアは、金色の美しい髪と、青い澄んだ目をしたお姫様になって、まだ見ぬ王子様を探しにいくのだった。
 リーティスの時は止まっていない。魔力がぎりぎりまで低下した状態でも、生命を維持できる術を施したにとどまっている。
 この先目覚めることがなければ、いつかは老いて死んでいく。
 自分達と同じにして、若いまま目覚めを待つ事は可能だったが、そこには倫理的な問題が生じる。
「本人の許可がなきゃ、できないじゃない?」
 母は、叔父と同じ事を言った。研究者にも様々なタイプがいるが、目線としては、この二人は近いものがある。
 『上』から4人の訪問者があって、一週間が過ぎようとしている。そろそろ、大人達が、戻る方法を教えていていい頃合いだ。
 運のいいことに、『その日』は、すぐそこに迫っている。地上から来た3人は、意志さえあれば、無事、帰りつけるだろう。
 しかし、この少女は?
 ――『地上』に、このままの状態の彼女を生き長らえさせる技術があるとは、とても思えない。目覚めなければ、ずっとこの谷に居ることになるだろう。そうなった時、本人の許可が無いとしても、自分達と同じにするのは、やはり罪だろうか。そう尋ねたところ、レイモンドからは、明確な答えが返ってきた。
「無理でしょ? 本人が望まない限り、ねっ」
 だが、このまま何もしないで、金髪が白髪となり、少女が変わり果てていく姿を想像して、いたたまれなくなったアリシアは、同行人達が許可しても駄目なのか、と食い下がった。
「あー、それもダメ。例え親御さんが許可したって、本人の意思がなければ、それはできない!!」
 珍しくカッコよく決めたかと思うと、途端に気の抜けた発言をする。
「って、『あの術』主任のオー博士なら言うねぇ?」
(……嘘つき)
 それがレイモンド自身の言葉である事を、アリシアは知っている。しかし、ひょうきんで恥ずかしがり屋のこの男は、そうやってすぐ、真面目な言葉は人に押し付けてしまうのだった。

 ……そういえば、一度だけ、この叔父を困らせた事がある。
 それはまだ、アリシアの誕生日のロウソクが、ケーキに立てられる本数だった頃の話。
 何が欲しいか、と尋ねられて、少し考えた後、アリシアは、弟、と答えた。アリシアの父は既にこの世を去っていたので、従兄弟でいい、と彼女は言った。
 結局それは叶わなかったのだが、アリシアは、後になって、その訳を知る。
 時を止めた者達は、男も女も例外なく、子ができない体になっていた。それは、実験から何年も経って判明した事実だ。

 もし、この世に神がいるのなら。
 それこそが、神が彼らに下した天罰だったのだろう。



(……うん。やっぱり、このままの姿で目覚められるのがいいなんて、勝手な幸せを押し付けるのは、私達のエゴだよね)
 部屋を出たアリシアは、慈しむように少女を見詰めながら、静かに病室の戸を閉めた。


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