STAGE 10 agony 〜狂魔術師〜



「…………」
 何時間、そうしていた?
 もう、朝が来たっていいじゃないか。
 でも、外はまだ暗い。真夜中を過ぎた静けさが、音の無い重圧が、すべてをひっそりと支配している。
 実はまだ、あれから何分も経っていないんじゃないかな。だって、まだ、手はあったかいし。息だって、まだ――してる。大丈夫。
 夜が来て、それからずっとここに座ってた気がするけど、でもやっぱり、俺の気のせいで、ついさっき、座ったばかりだったかもしれない。よくわからない。おれのせいだ。あとは……よく、わからない。
 朝が来ない。遠い。来てほしくない。冷たくなっているのが怖い。遠すぎる。先が見えない。暗い。怖い。早く朝が来てほしい。
 お願いだ……もう嫌だよ。目ぇ開けてよ!!
 叫びたい。届いてほしい。届かない。――届かない。目は……ほら、開かない。
 泣いてたのは、自分?
 ……判らない。ただ、生暖かいものが頬を流れた。
 違う。俺には、泣く資格なんてない。だって――俺が、やったんだ……。



(くっそ、囲まれたっ……)
 黒いフードの少女を背に庇いながら、ライアは油断なく周りを見渡した。まだ離れてはいるが、四方に魔物の姿が見える。逃げ場はない。
 ほとんど人の立ち入らないその一帯は、まさに魔物の巣窟だった。取り分けて凶暴な魔物が潜んでいる訳ではなかったが、如何せん数が多い。騎馬でさえ、大群に取り付かれれば為す術がないため、馬での移動も倦厭されていた。
(俺が引き付けて、できる限り時間を稼ぐ。それしかなさそうだな――)
 ライアが行動を開始しようと前に体重をかけた瞬間、二人を囲むように突風が巻き起こり、接近していた数体の魔物を切り裂いた。
「!?」
「なっさけなーい! ほんとにそんなんで、フェリーナを守っていけるわけ!?」
「なっ、リーティス!?」
 リーティスは、魔物を剣で薙ぎ払いながら、すぐにライア達のところに走り込んだ。
「お前、残ったんじゃなかったのかよ!?」
「いいでしょー? やっぱ、私が付いてないと駄目みたいだし」
「! 話は後だ!!」
「おーけー! 後ろ、任せたからね? フェリーナは援護をお願い!」
「解りました!」
 連携によって程なくして窮地を切り抜けた3人は、魔物との遭遇と戦闘を何度か繰り返し、ようやく安全な場所を見つけて落ち着くことができた。
「ねぇ、わざわざこんな魔物の多いとこ突っ切って行く理由って……」
「……決まってんだろ?」
 疲れたように呟いた後で、もしかするとリーティスはこちらの事情を知らないかもしれない、とライアは思ったが、実際その心配は無用だった。
 意図してこのような悪路を行く理由、それは、フェリーナの身に起こった事と関係がある。何者かの手引きで脱獄したと言っても、相手は少女。それが徒歩で、しかも、魔物がうようよしている界隈を逃げようとは、誰も予想だにしない事だろう。
「ごめんなさい。私のせいで、お二人を――それに、リーティスにまで巻き込んでしまうなんて……」
 追手が目印にしているであろう、フェリーナの青い髪は、すっかりフードに覆われて、首元にわずかにのぞいているのみだった。
「え? その、違うの! ちょっと、お屋敷で上手くいかなくなっちゃって――だから、フェリーナが気にすることなんて全然ないんだって!」
 ライアですら、じゃあ何でここ通ってんだよと言いたげなジト目で見てきた辺り、フェリーナには当たり前のように看破されているだろう。
(うう……やっぱ、苦しい言い訳かも……)
「ライア、リーティス。……ありがとう」
 微笑みの中に、迷惑をかけているという心の重さが翳りとして表れていた。ここにはいない人間の事を尋ねようとしたリーティスは、フェリーナの心情を汲み、口を閉ざした。

「ごめんなさい。私、先に休みますね……」
「ああ。明日も相当歩くから、ゆっくり休んどいてくれよな」
「そうそう。気ぃ使う必要なんてないんだから。――おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
 フェリーナは、単に疲れていただけではなく、もしかすると、自分が起きていては二人が打ち明けた話をできない、と思ったのかも判らない。
 フェリーナが寝静まったのを見計らって、或いは、本当は起きていたかもしれないが、残された剣士二人は小声で話し始めた。お互い、訊きたいことは山とある。
「ねぇ、アルドって……」
 真っ先に尋ねたのはリーティスで、ライアはそれに頷いた。
「あっちは、フェリーナを逃がした犯人はアルドだって思ってる。俺はまだ、顔見られてねーんだ……そりゃ、最初っからそういう筋書きではあったけど――」
 ライアは複雑な顔をした。フェリーナ救出の具体的な流れを決めたのは恐らくアルドで、自分ばかり危険な立場に置こうとするその性格に、歯痒さを感じていたのだろう。
「てか、リーティス、一体どこまで知ってんだ? もしかして俺の話、ちんぷんかんぷんだったり?」
「馬鹿にしないでよ。人づてだけどね、だいたいの事情くらい、知ってる」
(じゃなきゃ、追いかけて来ないって――)
 何事も無ければ、あのまま屋敷に落ち着いたって一向に構わなかった。
「……そっか、ならいいや。説明する手間が省けた」
 ライアの表情は硬く、どうも調子の出ないリーティスは、夜空を見上げて言った。
「――聞いた時は、ほんと、びっくりしたんだから。逃走先の心当たりを尋ねられて、私、咄嗟に絶対行きそうにない嘘の行き先を教えちゃったの。だから――私も当分、都には戻れない」
 驚いて見返したライアを軽く睨みつつ、リーティスは、感謝してよね? と鼻につく調子で言った。実際感謝されたいとはこれっぽっちも思っていなかったが、相手が相手で、今は特に態度が気に食わなかったのだろう。
「……ああ。正直、扇動してくれなきゃ、隙を衝いて都出んのは大変だったと思う」
 存外真面目な返答に拍子抜けしてしまったリーティスは、それからこう尋ねた。
「で、これからどうすんの?」
「こっから、少し北西に落ち延びる。徒歩で3日くらいのその場所に、目立たない集落があるんだってさ。アルドは馬で逃げてっから、そう簡単には捕まんないだろうし、適当に追っ手を撒いて、集落で落ち合うことになってる」
 教えてしまった後で、ライアはしまった、と思った。もし、リーティスが自分たちを追う側の人間で、アルドの行方を探っていたのだとしたら……。
(んな訳ねーだろ)
 即行否定した。信じるか信じないかと訊かれれば、信じる。心が揺らいでいた前の時とは違って、今なら迷うことはない。
「そ。なら、私もそこまで一緒ってこと。言っとくけど、拒否権なんて無いからね」
「そーだな。どうせこの先、俺ひとりじゃ護衛キツそーだし。――頼んだぜ?」
「上等っ」
 家出仲間の腐れ縁は、まだしばらく続きそうだ。



 4日目に辿り着いたのは、森に囲まれた小さな集落だった。規模にしては豊かな方で、見たところ、生活に不自由している様子はない。
「ん? ああ、ダークブロンドの、長身の騎士さんね。一昨日からおいでだよ。多分、そこの並びの3件目――あの宿屋じゃないかな」
「ありがとうございます」
 淀みのない発音で礼を言って、ライアは教えられた建物の方へ歩き出した。リーティスが後ろに続き、さらにその後に続いたフェリーナが軽く会釈をして通り過ぎると、情報を提供してくれた男性は目を見張った。
「(……なあ。こっち見てたぜ!? 大丈夫なのかよ、あれ?)」
「(何よ、ライアが言ってたみたいに、フード被ったままじゃ、逆に余計に怪しいじゃない!)」
 ひそひそと話し合う彼らの方が、フェリーナ当人より余程に不審者だ。因みに、言い合う時は、二人とも無意識に母国語を使っていることが多い。

 宿の場所を教えた男性は、しばらくそこに呆然と立ち尽くした。
(……好みだ。いや!! あの方こそ、まさしく地上に降り立った女神――!)
 彼自身、神の世界に昇ってしまうのではないかという勢いで猛烈に舞い上がっていた。



「よかった。2人とも無事で。……っと、リーティス?」
「あ……あはは、その、ちょっと訳ありで……」
「いいだろ? 成り行きだって。お陰で、俺も、フェリーナも、助かったし」
「うん……」
 アルドは考え込むような仕草をして、それから、何事も無かったように言った。
「実は、この集落で、ちょっと困った事になっているみたいなんだ。疲れていなければ、部屋を取った後に話そう」

 ちょっといいかな、と尋ねられ、リーティスは首を縦に振ってアルドに従った。
 ライア達が荷物を置きに行った部屋とは少し離れた階段の踊り場で、アルドは足を止めた。
「僕達のことを密告するつもりなら、諦めた方がいい。その方が、身のためだ」
(流石、ってとこ……?)
 アルドがこうして牽制して来ることは、リーティスも予想しなかった訳ではない。能天気なライアや、お人好しのフェリーナとは違って、自分やアルドは人より余計に、人の分まで、深読みして疑っておくのが役目でもあり、少し嫌な部分でもあると、リーティスは思っていた。
「私は、無断で屋敷を出たの。だから、ここにいるのは私の意志で、屋敷のみんなや、お城の騎士達とは何も関係無い。そう言って、信じてもらえる?」
 アルドは静かに首を振った。怒っているようには見えないが、いつもより無感情な感じはする。
「君を疑いたくはない。けれど、滞在していた場所が場所なんだ。シュトルーデルにいた間、そっちで何があったかも、僕達は知らない」
 とっても体育会系な日々を過ごして、ちょっとだけ苛めとかもあって、でも大半のみんなとはうまくやってて、自分の事で手一杯で、都の状況に目を向けている暇なんてありませんでした。――正直に話せばそうなるが、ライアならともかく、果たしてアルドがそれで納得するだろうか。
 リーティスは心なし遠い目で、筋肉痛と負けん気が9割を占める素敵な日々を回想した。
「……?」
 リーティスが珍しく微妙な顔つきで止まっていたので、アルドは怪訝そうだ。
 ため息を吐き(あの時の私、よく頑張った、うん)、リーティスは気持ちを切り替えると改めて問い質した。
「じゃあ、どうするつもり?」
 奇妙に穏やかで落ち着いた湿度を含むような空気の中、エメラルドグリーンの瞳とスカイブルーの瞳が交差した。
(ライアみたいに、こんな時、何の迷いもなく、人を信じることが出来たら、ね――……だけど、僕には、騎士としての使命が、それに、守りたいものがある。だから……!)
「今は、何もしない」
 真正面からリーティスを見据えて、アルドは言った。
「だけどもし、勝手にいなくなったり、誰かに密告するような気配があれば、僕は、君をシュトルーデル王の内通者と見做す。その時は、僕はあの二人の味方だ。それだけは言っておくよ」
 つまり、証拠をつかむまでは今まで通りということだったが、剣筋が冴えるだけでなく、頭も回り、経験も積んでいるアルドを敵に回すということは、それだけで脅しになった。
 そこへ、アルドを捜しに来たライアが、廊下の手すりから身を乗り出して上から呼んだ。
「おーい! 何やってんだよ? そこ。もうフェリーナも待ってんぞ?」
「ああ、すまない。今行くよ」

「本当は、もう少し都から離れておきたいところなんだけどね……。かと言って、放っておくことも出来そうにないんだ」
「私のことなら、どうかお気を使わずに」
「ありがとう。それで、本題に入ろうと思うんだけれど――」
 事のあらましは、こうだった。150年ほど前、この辺りに、比類なき力を持つ1人の魔術師がいた。彼は、生贄にする為に人々を連れ去っては、夜毎怪しげな実験と儀式に没頭していた。その狂魔術師が根城としていた北西の塔に、最近、にわかに主が戻ってきたという。調査の為に人をやってはみたものの、依然として、誰一人、帰らぬ状況だった。
「ひゃくごじゅう……ってそいつ、魔族なのか?」
 アルドは首を振った。
「いや、魔力が並外れていただけで、人間だったらしいよ。伝えられている限りではね。復活したのは、何らかの魔法による亡霊か、幻影か――もしくは、全くの別人だって考えた方がいいだろう」
 これ以上行方不明者を出したくないが、かと言って、このまま放っておいて良いものか――集落の人達が困り果てていたところへ、運良く騎士のアルドが通りかかり、今回の依頼に至ったのである。
「不気味ではあるけれど、何人かの人達が行方知れずになっている以外は、実害は出てないって話だ。だから、断ってもいいとは言われているんだけどね――……。僕はこの話、受けようと思っている」
 普段なら寄り道は避けるアルドだが、この件に関しては、どうもきな臭い、と彼の勘が告げていた。



(ピクニックじゃないんだけど……)
 アルドは、複雑な心境で、気合いだけなら自分より上かもしれない面々を見た。
 頼まれた当人である自分以外は、本当なら集落に残っていてほしかった。しかし、そう正直に告げたところ、思わぬ反撃に遭って現在に至る。彼らは、もしアルドがいない間に自分達がシュトルーデルに連行されたら、又は、1人で行ったりして、危機に陥ったらどうするつもりだと言って食い下がり、結局は全員で塔の調査に向かう事になった。
 依頼はあくまで調査であり、激しい戦闘が起きる可能性は低かったため、アルドは全身鎧を脱ぎ、普段着に小手と脛当だけを残して背に斜めに大剣を括りつけていた。フェリーナは青系統のワンピースに長袖のカーディガンという出で立ちで、腰に剣を差したライアとリーティスは、それぞれ金属製の胸当てと、ライアの方はそこに肩当てとマントを足した、いつもの服装だった。
 塔に向かう途中で遭遇した魔物を追い払い、その時にアルドが尋ねた。
「リーティス、その剣は?」
「ああ、これ? うん……なんか、お屋敷に変わったのがいて――その人が、屋敷を抜け出そうって時に、どういう訳か私にくれたの」
「何か、問題でもあんのか?」
 リーティスに代わって横から尋ねたライアに、アルドは返した。
「いや。いい剣だと思うよ。さっきの戦いを見ても、リーティスには合ってるみたいだ。ただ――」
「……ただ?」
 ライアが首を傾げ、アルドはむぅ、と唸った。
「僕がこれを言って、リーティスの負担にならないといいけど……それ、相当の価値があるものだよ。それこそ、位の高い貴族か、じゃなければ、王族が持つレベルの」
「ぇえ!? じゃあもしかして、これって、夫人の剣だったりして!?」
「その可能性も、大いにあり得るね」
 そうなると、一応はセーミズの王宮騎士であるリーティスにとっては仕えるべき主君、つまり現国王の、姉君の剣ということになる。
「ちょっとぉ〜、勘弁してよ!! くれたから貰っちゃったけど、どーしてこんな大層なもの、簡単にほいほい渡してくれちゃうのよっ!」
「いいんじゃないのか? くれたんなら」
「ちゃんと許可もらってるのか、不安じゃない!」
「……。そーいう奴だったのか?」
「そーいう奴だったの!!」
「あー、そう……」
 リーティスの力の篭った回答に、ライアはそれ以上深くは追求しなかった。
 郷に入っては郷に従え、ではないが、彼らは8割方、この地方の言語で喋るようになっている。急いでいる時や、どうしても出てこない単語がある時は別だが、できるだけこちらの言葉に慣れるよう努力はしている。
 アルドはもともと、エストでも大陸を巡る任に就いていたことがあるので、基礎的な語学力は身についていたし、ノーゼで医者を目指すつもりだったフェリーナも、当然勉強はしてきている。リーティスは家庭環境上、ライアは小さい時仲良くなった友人の関係で、こちらの言語をそれなりに話すことが出来た。全員が、エスト大陸東方の出身でありながらこちらの言語を喋れるというのは珍しく、このような状況下では幸いだった。

「ここか……」
 塔を見上げて、数秒間目を閉じると、アルドはくるりと後ろを振り返った。
「ここまで来て、外で待っててくれと言っても聞かないだろうね?」
「あ、バレバレ?」
「お邪魔に、ならなければ……」
「みんなで行った方が安全なんじゃない?」
 三種三様に、慎みの程度こそ違えど、同じ方向性の言葉を口にした。
「――解った。ただし、危険が迫った時には、まず何よりも、自分の身を一番に考えてくれ」
 その言葉、そっくり返したいけどな、とライアは心の中で呟いた。じわりと、胸の奥に苦い感情が滲む。
(俺が、王子なんかじゃなくって……それにもっと強かったら……アルドだって、きっとこんな風に振る舞ったり、しねぇんだろうな……)



 『みんなで行った方が安全だ』、リーティスは早速、先の主張を撤回しなければならない場面に遭遇していた。
(も〜!! どうなってんのよ!? ここの造りは!)
 虚しく胸中で叫んでみたところで、辺りの静けさは動じない。周りに人がいないのだから、静かなのは当然だった。
 塔に踏み入って間もなく、仲間とははぐれてしまった。これなら外で待っていた方がマシだったかも、と思い始めたその矢先、柱の影に何かの気配を感じた。
「誰っ!?」
「おや、なかなかに鋭い――」
 リーティスの前に姿を現したのは、額にサークレットを嵌め、足元にまで届く、くすんだ浅黄色のローブを身にまとった三十半ばの男だった。
「誰……?」
 リーティスは警戒を込めてもう一度、訊き直した。すると、男の唇が微かに動いた。笑ったらしい。
「誰、か。それを言うなら、私の家に無断で立ち入った、君は一体誰なのかな?」
「――っ! 嘘……!?」
(まさ、か……そんな筈――!!)
 この男が、塔の主とでもいうのか。――そんなはずはない。仮に魔族であったとしても、150年といえば、人間でいう、70年に相当する。この男が150年前の狂魔術師ならば、かなりの老齢でなくては辻褄が合わない。
「実はですね、私は今、歴史に残る偉大なる第一歩を築いたところでして――」
 尋ねてもいないのに、男は喋り出す。
「実に気分が良いのです。勝手に立ち入った事に関しては、見逃してあげようじゃありませんか」
 親しげな口調で言いながら、ゆっくりと、男は歩みを進めた。反射的に、リーティスは追い詰められた野兎のように、どこかに逃げ道はないかと、瞬時に目を巡らせた。
「そうです……ああ、そうしましょう!! すばらしい事を思いつきましたよ! 君は知っていますか? 私が行なっているのは、不死の研究なのです」
「不、死……?」
 リーティスは、そんなものがある筈がない、と、また、あってはいけない、と思っていた。
「ええ。その為に、いろいろと犠牲も払ってきました。しかし、それらは皆、必要なことだったのです」
 胸を張って男が言うところの『犠牲』が何を指すのか理解して、リーティスは吐き気がした。
「その成果が、今私がここに立つ、まさにこの事なんですよ……」
 悪い冗談だ、と自分に言い聞かせながらも、リーティスは悪夢でも見ているようだった。
「次なる段階への儀式は済ませましたし、私は、再び眠りに就かなくては。150年では、まだまだ足りないのでね。次に目覚めるのは、上手く行けば150年後――そこでね、私は思ったのですよ。750年の時をかけ、大地の気と完全に同化した私が、完全なる不死の肉体を手に入れたその時――輝かしい功績の証言者が誰もいないというのは、寂しいものだとね」
 続く言葉を予想して、リーティスはぞっとした。
「君にも眠っていただきましょう。心配せずとも、ちゃあんと君のことも、私に150年遅れて不死にして差し上げます。……どうです、素晴しいでしょう!? 君は前人未到の偉業が成し遂げられるその瞬間の、立会人となれるのですよ!!」
 男が熱弁を振るいながら空中に描いていた平面の紋様が光り輝くと、リーティスはどさりとその場に倒れた。



「フェリーナ!?」
「あ。良かった。ご無事でしたか」
 この不可思議な建物の中を、彼女はどうやってここまで辿り着いたというのだろう?
「すまない。僕が、油断していたばかりに……」
 仲間が散り散りになったのは、何もアルドのせいではない。フェリーナは優しくそう否定し、それから、自分も最初はこの塔全体にかかっている魔法に気付けなかった、と告白した。魔力に鋭敏なはずのフェリーナでさえ気付けなかったという事実は、それだけで術者の力量の証明になった。
 未知の相手と、まだ合流できていない2人の事を思って、アルドは気を引き締めながら尋ねた。
「……フェリーナ。ここを脱出する方法、解るかい?」
 塔の内部は残存する術者の魔力によって視界や空間が歪められ、さながら迷宮であった。フェリーナは、どうにか見つけた魔力の綻びを辿ってここまで来たのだ。
 アルドの期待に、フェリーナは真摯な眼差しで応えた。
「はい。入り口に戻れるかは解りませんが、同じ場所を回らずに、前に進むことなら出来ると思います」
 同じ場所を巡らずに済むのなら、やがては入り口か最深部に辿り着く。最深部に着いてしまったら、引き返せば良い話だ。
このような場において、フェリーナの存在は非常に心強かった。

 その頃ライアは、どれだけ走って来たかも判らない、永久に続いていそうな廊下の半ばにいた。
「おーい!!」
 廊下はどこまでも続いて見えるのに、木霊は返って来ない。やはり、塔の内部では視覚が歪められている。
「アルドーっ! フェリーナぁ! ……ちぃっくしょ……。リーティス! いないのかぁー!?」
「ほう、ほう。今日はやけにお客様がお見えになる」
「な……っ!?」
 今しがた通って来たはずの後方に、忽然と男が立っていた。
「折角です、オヤスミの前に、何か面白い余興でも見せていただきましょうか――」
「ぁ――ァアアッ!?」
 男が詠唱を唱え、抗する間も無く、ライアの意識は闇に沈められた。

 ……くらいんだ。何も、見えナイ――。



 辿り着いた先は、入り口ではなく、最深部だった。
「くっくっく……ご到着ですか」
 ステージのように一段高くなったところに据え付けられた、大理石の椅子にゆったりと腰掛けた男が、2人を待ち受けていた。
「貴方は――」
 問いかけながら、アルドはフェリーナを庇うように前に出た。男は、立ち上がって仰々しく両腕を広げた。
「歓迎しましょう! 私は、この塔の主にして、不死を体現せんとする者――」
「……貴方は、ご自分が魔術師リィドだとおっしゃるつもりですか?」
 アルドは冷静だったが、魔力を感じ取れるフェリーナは、その後ろですっかり色を失っていた。
「いかにも。おや、私の言うことが信じられないようですね。構いません。信じないならそれまでと申しておきましょう……しかし私は、自らの肉体を150年の眠りに就かせ、ここに不死への第一歩を刻んだのです!!」
 その為に奪った命に罪の意識も持たず、それどころか男は誇らしげであった。
「貴方がもしリィドであるというなら、私は、騎士として見逃す訳には参りません」
「ほぅ、なぜだね?」
 嘲るように、リィドが尋ねる。
「貴方は150年前、罪無き人々を、私利私欲の為に犠牲にした……!」
「おや、人聞きの悪い。彼らは、不死という偉業の実現に必要不可欠な、尊い礎です。――そうそう、先日、のこのこやってきた人間達も、150年前の彼らと同じ末路を辿りましたよ。手間が省けて、私としては実に好都合でした」
 アルドの顔つきがはっきりと変わった。目の前の男がリィド本人であるしろ、ないにしろ、許せざる相手と認識した。
「これ以上、犠牲は出させません。都で大人しく刑に服すか、さもなくば……」
「ほう、ほう!! これは傑作です! 150年前は魂の欠片すら存在していなかった君が、私を裁くというのですか! ――面白い!」
 徹底抗戦の姿勢に、アルドは遂に、背中の大剣を引き抜いた。対するリィドは、薄笑いを浮かべて、背後の闇から一人の人間を呼び寄せた。
「どう、して……」
 フェリーナの声は震えていた。アルドは、声にならない怒りに歯軋りした。
「おや? どうしました。彼、あなた方のお知り合いではなかったのですか?」

「くっ――! やめろ、ライア!!」
 リィドの合図で有無を言わさず斬りかかってきたライアに向かって、アルドは叫んだ。
 何度か激しく打ち合い、それからアルドが押し返して、2人の間に間合いが出来る。
「本物……なのか?」
「判りません。これも、幻術の一種か、あるいは」
「呑気にお喋りしている暇なんか、ありませんよ? ほら――」
 言いながら、リィドは掲げた右腕から、フェリーナとアルドの間を裂くように電撃を放った。同時に、ライアも動き出す。
「フェリーナ! 援護を!!」
 ライアを止めることが先と見て、アルドが指示を飛ばした。フェリーナが了解して魔力を溜めていると、そこにまたしてもリィドの邪魔が入る。
「2対1は、フェアじゃないですからね」
 リィドは目を細め、味方同士の斬り合いを心底、愉しんでいる様子だ。
「ライア! 僕が――判らないのか!?」
 衝突のさ中、アルドは幾度か呼びかけてみたが、反応は無い。どこを見ているのか判らない瞳のまま、ライアは致命傷を狙った攻撃ばかりを容赦なく繰り出してくる。
(この剣捌き――ライアのものでは、ない……)
 戦っている相手がライアでない可能性は強かったが、運動機能まで完全にリィドの支配下にあるために、本人でも他人のような動きをしている可能性があった。
 募る一方の焦りの中で、アルドは尚、迷いを捨て切れずにいた。アルドの実力であれば、勝つことは可能だったろう。しかしそれは、相手を殺す覚悟あっての話だった。
 攻防の様子を観戦しながら、一進一退の状態が続いているのを見て取ると、リィドは思った。
(そろそろ、飽きてきましたね――まずは余計な者から、黙っていただくとしますか……)
 リィドの腕から、数本の雷の矢が一斉にフェリーナ目がけて飛んだ。
「きゃあああ!!」
「フェリ――くうッ!!」
 思わず気を取られたアルドは、左の腿に鋭い痛みを感じた。間合いが近すぎて、大剣では防御しきれなかった。
 紅の瞳と視線が交錯した瞬間、アルドは息を飲んだ。一瞬時が止まったと感じたのは、自分が次に繰り出す一撃が、どのような結果を招くのか、瞬時に予測できたからであろう。体が動くままに反撃に出ていれば、間違いなく、目の前の首を刎ねていた。
 敵は、ライアであって、ライアではない。アルドの動揺につけこんで、ここぞとばかりに追撃を加えた。
「がはッ!!」
 脾腹を貫かれて膝をついたアルドは、持ち堪えて立ち上がるかのように見えたが、そのまま崩れ落ちた。最後に、自分を見下ろす友の名を呼んで。

 ヨバレタ? 急速に、光が戻ってくる。最初に見えたのは……ア、カ――?

「え……?」
 状況が、さっぱり分からない。いきなり違う時間と場所に放り込まれた感覚だ。
(……ふぅ、やはり、お仲間を手にかけたのは少々刺激が強すぎましたか。ですが、よしとしましょう。お楽しみはここからじゃないですか――)
「!! アルド? ――お前ぇっ!!」
「おやおや、そう恐い顔をなさらないで下さい」
 怒った紅い目に対し、リィドは殊更慇懃に応対した。
「君は誤解をなさっていますね。そこにいるお友達を刺したのは、君じゃなかったですか」
 リィドが指し示した自分の右手の延長線上を見て、ライアは絶句した。刃に、べっとりと赤いものが付着している。
 困惑、自嘲、そして不安。そんなはずがない。だけど、手に持ったそれは何だ?
「俺、が……?」
 逃げられない。恐怖。咽元に突きつけられた刃のように、明確な証拠がそこにある。
 頭の中が真っ白になった。血にまみれた剣を手に、敵へと突進する。
「うわぁあーっ!!」
 パニックを起こしながら、しかしまだ半分は正気で、その証拠に、リィドが魔法で出現させたそれを前に、ライアは攻撃を停止した。
「こ、のぉ……っ!!」
 その声には、この上ない憤りが籠められていた。
「どうしました? ははっ、もっと喜んでくださいよ! 捜していたお友達でしょう!?」
 リィドが、細い手首をつかみ、盾にしている人間。頭はぐったりと垂れ、前髪に隠れて顔がよく見えないが、この至近距離で見間違えたはずがない。
「てめっ! リーティスに、何を……!」
「ご安心下さい。ただ眠っていただいただけです。勝ち気な娘は嫌いではないのでね、側に置くのも悪くはないと思いまして……ああ、呼んだって無駄です。私の術に失敗の二文字は存在し得ないのですから。今後150年間は目を覚まし――ハッ!?」
 自信満々だったリィドの言葉を遮ったのは、一陣の風だった。
「リーティス!?」
「そんな、まさか、そんなはずが……!! ありえない!!」
 取り乱すリィドに、その手を逃れたリーティスが、剣を抜き放ちながら言った。
「いっくら大魔術師様でも、眠っている人間を『眠らせる』事は出来なかったみたいね――!」
(まさか――この娘、あの瞬間に、自らに催眠魔法をかけていたというのか……!?)
 リィドが目を剥いている間に、リーティスは周囲を見やってはっとした。
「フェリーナ……? アルド!! よくも……!」
「私に、当たらないでいただきたいですね」
 自尊心の傷からようやく復帰したリィドが、意地悪く微笑んだ。
「あちらのお嬢さんは違いますが、そこで血を流す彼なら、そちらのお友達が刺したのですよ」
「嘘? ライア……?」
 反論しないライアを、リーティスはまじまじと見詰めた。
「多分……あいつの言う、通り、だ……俺…が、アルドを――」
 リーティスは倒すべき敵を悟り、すっと剣の切先を向けた。
「リーティス……」
「なぜです!? 今の話を、聞いていなかったのですか!」
「そりゃあ――」
 真っ直ぐにリィドを睨むリーティスの声は、揺るぎなかった。
「やったのはライアかもしれない。でもこうなった原因は……貴方にありそうだしね!!」
「けど俺……っ、本当…に――」
 弱弱しく言ったライアに、リーティスが渇を入れる。
「しっかりしてよ! まだ死んでないんでしょ? だったら、早くあいつ倒すの! じゃないと、二人とも――ホントに死んじゃうじゃない!!」
(そ、だ……俺は……俺が今、しなきゃいけない事は――!!)
 赤い瞳に、炎が戻る。腹を決めた剣士二人を前に、リィドは失望を露にした。
「つくづく、君は私の筋書きを台無しにしてくれるようですね……」
 リーティスに2度も妨害を受けた事を、いたく根に持っているらしい。
「では、ここでさよならと行きましょうか……興が削がれました。もう、君達に用はないのでね……」
 リィドが指を鳴らすと闇から1つの影が現れ、入れ違いにリィドは奥へ下がって行く。
「私が眠りに就いている間、ガーディアンとして起動していた私の作品です。せいぜい、足掻くと良いでしょう……。クッ、ククッ」
「ま……待て!」
 まだ理性が麻痺していたライアは慌ててリィドを追おうとするが、リーティスにぐいと首根っこを引っ張られる。
「何だ? こいつ――」
 ライアの声は、僅かにかすれていた。見たことのない魔物だ。否、リィドが魔力で構成したそれは、正確に言うと魔物ではない。
 性質的に、魔物の類ではゴーレムが近いだろう。だがその全身は鉱物や土塊ではなく、金属的な鈍い光沢を持つ成長した水晶のような形のパーツが、青色をした丸い駆動部によって繋がれて、ヒトのような形を取っていた。
(俺達で、勝てんのかよ……? 違う、『勝つ』んだ!!)
 どのような攻撃が効くかも判らない敵を前に、ライアは気力を奮い起こすと、擬似ゴーレムを見据えながらリーティスに囁いた。
「……俺が向こう側に引き付けてみる。上手くいったら、その間に、止血だけでも――」
 ほんとにやれるの? と疑わしげに顔を見ながらも、リーティスは後ろに下がった。こんな時にあってさえ、憎まれ口を叩く事だけは忘れない。
「いいけど、これ以上けが人増やされたんじゃ、面倒看きれないからね!?」

 リィドは、血の匂いのする地下室へと伸びた、薄暗い階段を下っていた。
「…………」
 一歩一歩を噛み締めながら、その頬は興奮と情熱でうっすら上気している。
 不老不死、それは、古より魔術師達の目指してきた、究極の高みと言える。誰も成し得なかった偉業達成への道を、彼は今、着実に歩んでいる。しかも、誰からの支援も受けずに、たったひとりの力で。
(750年を費やす大地との同化が終わりを迎えた時、私は――ふは、ふはははっ!!)

 ギィンッ!
「くっ……」
 自分に引き付ける事は成功したものの、擬似ゴーレムの硬質な体は剣を弾いた。
(――けど……どうしたって、ここだけは――越えなきゃいけねぇんだよっ!!)
 ライアは退かなかった。ここが正念場だ。今気絶している仲間の方に行かれては、全てが水泡に帰す。
 擬似ゴーレムの様子に変化があり、鈍い金属光沢の体表を青白い火花が駆け巡った。
「? うわぁあーーっ!」
 擬似ゴーレムの腕から、直線的に電撃の束が伸びてライアを襲った。
「ライアっ!?」
 ちょうどそこへ、慣れない手で懸命の処置を終えたリーティスが走り込んで、擬似ゴーレムの注意を逸らした。
(くそっ……身体が、痺れて……――待てよ?? この感じ、どこかで――)

『所詮、………に勝ち目……て、ない……って』

 小生意気な少年の勝ち誇った声。あれは、何の魔法だった?
 しかし、記憶の断片に気を取られている暇などなく、ライアは剣を構え直した。若干痺れが残っているが、休んではいられない。
「え――っ?」
「な、なんだっ!?」
 突然、周囲の床や壁が地震のように揺れだした。それに伴って、擬似ゴーレムの動きもおかしくなる。
「崩れる……?」
 切先を下ろして呆然と呟いたライアを、リーティスが叱咤する。
「早く!」
 塔全体にかかっていた魔法が解け始め、そこには、今まで見えなかった塔の出入り口が出現していた。擬似ゴーレムは、断続的に体表に電流を走らせながら、壊れたロボットのようにぎこちない動作をするばかりで、もはやその機能を果たしていなかった。
(フェリーナ……ごめんね!!)
 リーティスは気絶しているフェリーナの脇の下から手を回すと、渾身の力で引きずった。アルドの方はライアが引き受ける。重い全身鎧をつけていなかったのが今ばかりは幸いした。
 彼らが脱出した瞬間、背後で、狂魔術師の塔は崩れ去った。



「ちょ、ちょっと、それって、それじゃアルドは……!?」
 リーティスの声は、動揺でいつもより一段高かった。
 集落でたった一人の眼鏡の医者は、遣り切れない様子で事情を説明した。
「薬を切らすなんて、本来なら医師失格です……しかし、あの薬草は希少で、しかも採れる時期が短く、危険を冒して森の奥地に入らなくては、手に入りません」
 それは謂わば、私の手には負えない、という降参宣言だった。
「どこにあるんですか」
「ライア――」
 医師は最初、戸惑ったらしいが、真剣な真紅の瞳に、彼もまた、決断するような表情になると、頷いた。

「リーティスはここにいてくれ。多分、俺ひとりのが速い」
 フェリーナは集落に戻って来るまでの間、意識朦朧で、医師の治療を受けた今は眠っている。アルドは辛うじて一命を取り留めたものの、出血性のショックで危険な状態が続いている。驚異的な回復力を促す幻の薬草を用いたとしても、助かるかどうかは五分五分という所だ。医師はその旨をはっきりと伝えなかったが、勘の良いリーティスは、何となしに察していた。だからであろう、リーティスは、出掛けのライアにこう返した。
「ん。……気をつけて。心配しなくても、ダメだったら、私が代わりに思いっきり殴ってあげるから」
「ああ」
 ライアは、振り返らずに答えた。お前のせいじゃない、と誰からも許されてしまうよりは、殴られた方がよほどにマシな気がしていた。



 落ち葉を踏み分け、ライアは走った。途中、何度か魔物と遭遇したことも、その時に負った傷のことも、頭には無い。思考を占めるのは、医師に聞いた幻の薬草の特徴と生育場所、それに、自分が殺しかけた幼馴染の無事だけだった。
 もう、時期が過ぎているので見つからないかもしれないよ、そうであっても気を落とさないでくれ、と医師からは念を押されていたが、どうしたって、諦める気にはなれない。
 自分を責めるのも、後悔するのも、傷の処置でさえ、今は全部、後回しだ。いや、本当は、胸の内ではずっと自分を罵り、当たり続けている。それらを押し込め、ライアは走った。
 木漏れ日の差し込む、少し開けた場所に出ると、そこには聞いていた特長と一致する草が群生していた。しかし、それらは皆、やがて訪れる冬の息吹を前に、枯れ果てていた。
「っ……」
 ライアは、泥に膝をつき、泣きたい気持ちで必死に無事な薬草を捜した。
 あった。たった1つだけ、弱りかけてはいるが、まだ青い薬草が。
 立ち止まっている暇は無い。ライアは、アルドの無事を祈りながら、医師とリーティスの待つ集落へ引き返した。
 途中、木陰から、小さな子供が飛び出してきた。
「っと! 大丈夫か?」
 ぶつかってきた小さな体を受け止めて、ライアは尋ねた。どうやら、この森の子らしい。
「気をつけろよ」
 急ぐ余りに、ライアは子供の凝視していた視線と、一瞬の行動に気付かなかった。それからすぐ、ライアは、薬草が無いのに気が付いて蒼白になった。
(落とした……!? いや、ちょっと待て)
 ライアは、例の子供を捜した。幼い子の足で、そうそう早くは立ち去れまい。案の定、すぐに見付かった後ろ姿を追うと、子供は、森の中にぽつんと建つ小屋に入って行くところだった。
 いきなり戸を破って侵入する訳にもいかず、窓から様子を覗うと、中年の男性の声がした。
「おお! それは……!!」
「パパ! これだよね。これが、ずっとずっと言ってた、まほーの草だよね?」
「ああ、その通りだ、その通りだよ……」
 感極まった声に続いて、嗚咽のようなものが聞こえた。
「パパ……? ねえ、どうしたの? これでママ、帰って来るんでしょ!」
「ああ……坊や、ママはね、少しだけ……少しだけ、遠いところに行ってしまったんだよ――」
 ライアは唐突に、家の外に建ててあった石の意味を理解した。同時に、時間が残されていない事を思い出し、意を決して小屋の戸を叩いた。
 何も知らない父親と、ライアの顔を見てさっと青ざめる小さな子供を相手に、ライアは、『返してくれ』の一言が、どうしても言えなかった。
「すみません、さっきそこでお見かけしたのですが、お子さんが持っていた草――あれは、幻の薬草ではありませんか?」
 足にしがみ付いて、怯えながら精一杯威嚇するような我が子の姿に目をやって、父親はその頭をしっかりと自分に引き寄せながら言った。
「そうですが」
「お願いです、それを譲って下さい! 俺の親友が……死にそうなんです」
 深刻な顔で俯くその少年は、手の爪や膝を土で汚し、自身の傷や疲労には全くの無頓着な様子だった。それで、父親は全てを理解したらしかった。
 父親に名を呼ばれると、子供はびくりと身を震わせた。
「このお兄ちゃんに謝りなさい」
「ヤダ!! 何もわるいことなんてしてないっ」
「――謝りなさい」
 強い口調で諭されると、子供は、半泣きになってもごもごと口を開いた。
「ごめん……なさい……」
「すみません、息子が、とんだご迷惑を」
「い、いえ……その――」
「急ぐのだろう。余計な手間を取らせて、本当に申し訳ない」
 ばれる嘘を吐いた自分に若干のきまりの悪さを感じながら、ライアは小さく会釈して小屋を後にした。後ろで子供の大泣きする声が聞こえたが、決して振り返らなかった。

 ぱたりと扉を閉め、廊下でリーティスと対面した医師は、こう告げた。
「出来る限りの事はしました。――今夜が、峠でしょう。お嬢さんの方は心配ないと思いますが、何かあった時にはすぐ呼んで下さい。急いで駆けつけますから」
 リーティスが礼を言って頭を下げると、医師は、じゃあ、と言って次の患者のところへ向かった。助手はいても、正式な医者は彼一人きりのため、休んでいる暇はないのだ。
 リーティスは、扉の向こうに、今も落ち込んだままベッドと向かい合って座っているであろう仲間の事を思って、下を向いた。

 ただじっと、待ち続けた。遠い朝を。
 もう一度目を開けてくれるのなら、他には何も、望まなかった。


 朝日に身じろぎ、半分開かれた瞳が唐突に焦点を結んで、がばりと上体を起こす勢いに、下ろした金髪が乱れて顔にかかった。寝起きの悪い彼女の異例の目覚めは、やはり気にかかっていた事の重大さが関係していた。
 隣室のライアは、きっと寝ていない。それを思うと、事態を気にかけながらも寝てしまった自分が、急に憎らしくなる。
「あの……おはようごさいます、リーティス……」
 はっと顔を上げると、先に起きていたフェリーナが、どこかそわそわと、不安そうな様子でいた。
 昨夜、一時的に意識が戻ったフェリーナにライアとアルドの安否を尋ねられ、どう言えば良いか判らずに、リーティスは、心配しないで、とだけ、やっとの思いで口にした。フェリーナは、そこから何かを感じ取っていたはずだ。
「――ライアは、それに、アルドは……」
 フェリーナがその一言を発するのにどれだけの気力を要したかは、胸に押し当てた拳の白さを見なくとも、想像はつく。
 リーティスが答えようとしたその時、壁一枚を挟んだ隣から、ライアの慟哭が聞こえた。
 とてつもなく嫌な予感に、二人は途方に暮れた顔を見合わせた。



 泣かないで。
 ――いつ、だったっけ? ずっと、昔。
 ほんとに、ちょっとした事だったと思うんだ。ちょっとあの子に、イラっときて。家族の前では背伸びしていても、僕もまだ、子供だったしね。
 何だったかな。本当に、思い出せないほど些細な事が原因だったと思うけど、僕はあの子を一度だけ、泣かせた。
 大人気なかったね。いくら男の子っていっても、5つも下の子に、ムキになって。
 最初はいい気味だって思った。でも、あんまり泣くものだから、そのうち逆にムカムカしてきて。もう泣くなって言っても、あの子は泣いた。
 記憶にある内では、決して泣き虫じゃなかったと思うんだけど。でも、どういう訳か、その時は泣き止んでくれなかった。……ああ、そっか。遊びに行った先で、たまたま、周りに大人とか他の子達がいなかったんだ。人前ならぐっと堪えたところなんだろうけど、僕しか見てないのをいい事に、おかまいなしに、わあわあ泣いた。
 ――そう、あの子が泣いてたんだ。静かに。……たった独りで。どうして? 君はもう、弱い子なんかじゃない。
 泣かないで。
 あの子が誰だったか、思い出せない。でも、そんなところで泣いてちゃ駄目なんだ。
 立って。君はもう、一人だって歩いて行ける。



 夢から覚めて、何とか身を起こしたところへ、肩にがつん!と頭突きを喰らった。
「つぁっ!」
 小さく悲鳴を上げ、脾腹に響いた痛みに顔をしかめながら怒ろうとして、ぶつかった赤毛の頭が細かに震えていた事に気付く。
「ごめん……ほんと、俺……っ、……ごめん……!!」
 自分が気絶する前に何があったかを思い出し、気絶した後に何が起きたかを推測して、彼は頭の中で簡単に状況をまとめた。
「ね。顔、上げて」
 しっかりとした口調で言われて額を押されても、ライアは顔を上げられずに泣きじゃくった。アルドが時折何か言っても、激しく首を振るばかりだ。
(はぁ。重傷だな……これは。僕なんかよりずっと、ね……)
 こうなった責任の半分は、卑劣なリィドの策に対応しきれなかった自分にある、とアルドは感じていた。刺された傷は、やがて癒えるだろう。しかし、ライアの精神的な傷は、下手をすれば一生引きずり兼ねない。それを知っていたからこそ、アルドは物の言い方ひとつにも慎重になった。
「もう、いいよ。油断していた僕もいけなかったんだ」
「いいわけ……っ、ない、だろ……っ! …ろす、とこだったんだっ……」
 むせて閊えながら言うライアに、アルドは落ち着いて応じた。
「――うん。でもね、ほら、ちゃんと見て。僕は生きてるよ」
 結果論であろうと何だろうと、アルドは反論の余地を与えずに続けた。
「ライアはもし、逆の立場だったら、僕のこと怒ってた?」
「んな訳、ないっ……。けど、アルドだったらできた……止められただろ本当は!?」
 そう、殺してでも。――その覚悟さえ、あれば。
 手加減さえしなければ、アルドが負けたはずがない、少なくともライアはそう思っている。本気を出せなかった理由は、ともだちだったからか、それとも、『次期国王』に死なれる訳にいかなかったからか。
 それまでとは一転して、ライアは歯を食い縛って上目遣いにアルドを睨んでいた。
 アルドには怒る権利がある。しかし、それをしなかった。なぜ怒らないんだという苛立ちと、幼馴染の優しさと立場をよく弁えている自分。その板ばさみから生じる、やり場の無い怒り。
「ライア」
 静かな呼びかけに、ライアは睨みながらもたじろいだ。
「……僕、怪我人なんだけど?」
 紅い目が一瞬点になり、それから、間の抜けた声が洩れた。
「え……う、あ……ごめんっ!! 俺、さっきからめちゃくちゃ喋らせてっし!?」
 つい、いつものペースで謝ったライアに、アルドの方も表情を緩めながら言った。
「言いたい事なら、たくさんあると思う。それは、僕だって同じだ。でも、それはお互い、もうちょっと落ち着いてからにしよう。ね」
 ライアも気持ちに整理が付き、アルドの傷が癒えた頃に。
 ライアに反対する理由はなかった。
「……これじゃ、思い切り怒れないしね」
 アルドは、冗談めかして困った顔で片目を瞑りながら、腹に巻かれた包帯を示した。

 寝間着を着替えて、そろそろと隣室の扉の前に集まったフェリーナとリーティスは、ライアではない声を聞くと、途端に肩の力を抜いた。
「今は、そっとしておいてあげましょう」
「……うん。てゆーか、泣くから紛らわしいの、あの馬鹿っ!!」



 数日後、ライア達は集落を発つ前に、シュトルーデル王の心を悩ます1つの存在について、こんな噂を耳にした。
「ああ、よおぉく知っているよぉ。氷の美貌を持つ、絶世の美女で、じゃがその正体は、おとめの生き血をすすって若さを保つ、血のように紅い眼をした、怖ろしげな外見をした老婆なんじゃああ!」
 かく言う女性も、かなりのご高齢であった。子供に怪談を語って聞かせるような口ぶりは、年季もあいまって、何とも言えない凄みがある。
「お前さん達も、よぉく、よぉぉくお気をつけなせぇ。特に、そこの若いべっぴんさん達は要注意じゃあ。しっかり守ってあげねばならんぞぉ、若いの」

「あぁらそぅ♪ 面白い噂じゃない」
「あー、でもぉ、数十年後にはホントそーなってんじゃ? ――イテッ! んにゃろ!! やるかぁっ!?」
「どーしてこの子はこう、血の気が多いのかしらね?」
「オレに原因があるんじゃなくって、ど・こ・か・の、性根悪の魔女が原因だと存じますがぁ?」
「フン――言ってくれるじゃない……誰に向かって」
「……。何をしている」
 やってきた黒髪の青年が、呆れて言った。
「ええ。ちょっと、反抗期の弟の更生を」
「ざけんな」
「――……どうでもいいが、ウィル、上から召集がかかっているぞ。――遅れるな」
「はーい、りょうかーい」
 そして、魔女はぽつりと呟く。
「……どうして私の言うことは、ああいう風に素直に聞けないのかしらね?」


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