そこには、いくつもの魂――人間風に言うなら――が、あった。

 もう、百年もそこに『居る』輝きもあれば、わずか数週間で枯れ行く儚い光もある。
 その中で、一際大きな、老いた優しい光を湛える『輝き』は、この森で一番の歴史を誇る。


 『彼女』は、人間の住む村の外れにいた。とはいえ、芽吹いた時から村の外れだったのではなく、ここ10年ほどで、ゆるやかに人が増え、村の方が、彼女の傍までやってきたのだ。

 近くには、彼女の『姉妹』達もいる。
 近く、と言っても、枝を伸ばして届く範囲ではない。晴れた日には、風に乗せて梢を揺らし、互いにざわめきを伝え合う。風当たりの強い斜面に立つ二番目と三番目の姉は、特におしゃべりだ。

 7本の姉妹達は、森で一番大きな輝きから分かれた光から生まれた光。つまり、正確に呼称するなら従姉妹同士である。


 村の外れに立つ『彼女』は、人間で言うところの六女である。
 彼女の近くには、よく、人間の子供達がやってきた。大人達は、仕事に向かう際に通り過ぎるばかりで、長く足を止める事はない。

 彼女に目はなかった。だけど、『聴く』ことはできた。だから、幹に止まる昆虫の羽音や、枝を走る栗鼠の足音だけでなく、人間の事を知っていたし、村の事も知っていた。
 若い彼女は、もっと知りたかった。
 彼女は目を持たない。けれど、知りたかった。見たかった。



 『彼女』はその朝、そっと起き出した。

『……おねぇちゃん?』

 下の妹が、彼女の静かな動きに気が付いて、半覚醒した。人間だったなら、寝ぼけ眼の幼い少女が、片手に抱いた縫いぐるみを引きずり、もう片方の小さな手で、目をこすっていたに違いない。

『まだ早いわ。寝ていなさい』
『? うん、おやすみ……』

 妹が眠りに入ると、彼女は決意と共に、ここと同じであって違う世界へと、足を踏み出した。





 村の外れのツキノキの下、するりと姿を現した少女は、とさりと草地に膝をついた。すぐには立ち上がらず、地の感触を確かめるように、何度も草地を掌でなぞる。
「…………!」
 初めて触れる『色』、『匂い』。新鮮な驚きに、息を飲んだ。



MEMORIAL STAGE her unrealized wish 〜祭りの夜の花〜



「つきの……木?」
 赤い瞳が、自分の頭より上にある、大きな白い蕾をつけた枝を見上げる。
「そ! 月の木! お兄ちゃん、そんな事も知んないの〜?」
「しょうがないでしょ! 旅人さんなんだもん。ね?」
「なぁなぁ! 祭りが終わるまで居るんだろ? そんで、その剣で、カピラを蹴散らすんだよなっ」
 ここタスタ村に着いたのは、今朝の事だ。宿泊所に荷物と防具を置き、剣だけを腰に下げたライアは、村の子供達に囲まれていた。その数6人。さして大きな村ではないので、赤ん坊を除けば、これで子供達全員の半数に届く。
 だが、その程度の村というのに、今のこの賑わいはどうしたものか。通りを行く人の流れは、ちょっとした都会の商業通りにも負けない。
「なー……ちょっとでいいから、その剣見してくんないかな?」
 目をキラキラさせる少年の憧れの眼差しに苦笑して、ライアはベルトから剣を外した。
「ほら。危ないから、抜いちゃ駄目だからな。重いぞ〜……?」
「へへんっ。とーちゃんが持ってる剣のほうがでっかいもんね。こん位なら、オレだってよゆ……ぅわっ!?」
 軽そうに見えたのは、一概に、シンプルな鞘のデザインと、全体のすっきりとしたフォルム故である。受け取った少年の手は、一瞬沈んだ。
「どーだ?」
 にーっと笑いながらライアが訊ねると、少年は背伸びして答えた。
「ふ、ふんっ! なんだ、大したことないじゃないかっ」
 しかし、子供らしく本物の剣を手にした高揚は隠せていない。喋りながらも、視線は食い入るように手の中の剣に集中している。
「こ、こんなの片手で充分だぜ。見てろよ――ふんっ!」
 調子に乗って片手で振り回した鞘付きの剣は、勢いで緩い弧を描き、終点で支えきれなくなる直前で、大きな片手に止められた。
「はい、そこまで。すごいね、君は力持ちだ」
 微笑んだ青年の瞳は空色。青年に肩車されてしがみつく幼児の手が、青年の短髪をくしゃりとつかんでいる。
「でもね、力が強くて、剣を思いっきり振れるだけじゃ駄目なんだ。木刀でいっぱい練習して、上手く剣が握れるようになれば、君は、お父さん達みたいな強い男になる」
 青年に言われて、少年は答えた。
「おう!! オレ、ぜぇったい村で一番強くなんだかんな!」
 少年に微笑み返し、青年は、ライアと目を合わせた。
 ライアが言う。
「そろそろ、行くか? 俺達も祭りの手伝い」
「そうだね。頃合だ」
 頭には、相変わらず幼児がしがみつき、ダークブロンドの髪をむしりとるかのように握っている。騎士殿の面倒見の良い一面が垣間見える、非常に微笑ましい光景なのだが。
「てか、それ痛くねえ?」
 アルドは温和に微笑んだ後で、ぽつりと言う。
「……痛いよ」
 ついでに言うと、多くの男性にとって、髪は繊細に扱って欲しい部分でもある。――今は若いから良いとしても。
 油断すると、10年後にこう思うのだ。『10年前、カムバック!』と。



「――あなた最近、調子おかしいんじゃない?」
 ベッドに寝たまま窓の外を見る弟は、一向に答えない。表情も微動だにしなかった。
 徹底無視の方向だ。だから姉は、一方的に進める。
「いいけど。ただの体調不良にしたって、ちゃんと休みなさい? ただでさえ虚弱体質なんだから」
 そこで初めて、紫の瞳がギロリとこちらを見た。
「……はァ? 何気ぃ遣ってんの? こんなチンケな村で休息なんか取らなくたって、オレ、あの馬鹿とかよりはずっと役に立つかんね」
「そうでしょうよ」
 流されて、ウィルはむっとした表情を造る。今度はウィリアが、彼の方を見ていなかった。
「誰が、あなたの為に休息を取ったなんて言ったかしら。そんなんじゃないわ」
 そして、続ける。
「急がなくてはならない、そんなの十も承知よ。だけどね、こんな時期だからこそ、気を抜く時間って、必要なのよ。お祭りが終わるまで、あと三泊はここにいる。決定事項よ。アンタに決定権なんてないんだから、大人しくそこで寝てなさい」



 頭に白い小さな花を散りばめた輪を被り、春めいた薄い黄色い布の衣装をまとった明後日の主役が尋ねる。
「ねぇ、フェリーナ。おかしく……ない?」
「ちょっと待ってください」
 フェリーナが手を伸ばして金髪に触れ、花輪の位地を少しだけ修正した。
「はい、いいですよ。とっても素敵です」
 フェリーナに笑顔を向けられると、乙女ははにかんだ。
 頭の後ろで長い黒髪を一つに結んだ村の若い女性が、そこに言う。
「うん。これなら、服の直しはしなくて済みそだね。あとはほら――台本! これ、今晩までにしっかり予習しときなよ。『月の木を護る精霊さん』?」
(うぅ……、長ぃ〜……、……仕方ないか、主役だし……)
 村の祭りは今日が三日目。明後日の最終日には、宴の締め括りに相応しい伝統の劇が催される。その中で、月の木の乙女の役は、精霊界、つまりは外部から来た者という位置づけから、村の外部の者から選ばれる慣わしだ。
 今年は村の滞在者の中に若い女性が居なかったため、薬売りの行商の老婆をどう若く見せるかであれこれ談議していたところ、ライア達が通りかかり、リーティスに白羽の矢が立った。
『だいじょうぶだいじょうぶ! 3日もあれば行けるでしょ!』
 着付けを手伝ってくれた村の女性は言ったが、リーティスは不安だった。
 月の木の乙女の主な出番は終盤のクライマックスで、台詞自体はさほど多くない。しかし、村を襲う悪霊を鎮める祈りの言葉と、人々に清く正しい村人の在り方を説き、末代までの安寧を約束して姿を消すまでの台詞が、如何せん、長いのだ。

「う〜……」
 夜までの長い休憩で、昼食にまで台本を持ち込んで頭を抱えていたリーティスだったが、彼女を野外へ引きずり出さんとする人間が、ここに一人。
「ちょ、ちょっと! 今日は無理。だって、これ覚えなきゃいけないし」
「鈍るぞ。降り出せば、いつ次の鍛錬ができるか判らんしな」
「や、だからその、今日は本気で勘弁――」
 腕を引かれて必死の抵抗を試みるも、
「リハーサルは晩か。その前には上がる。で、ライアはどこ行った」
 聞いちゃいませんね、はい。
 仕方ない。この師について行くと決めたのは、自分なのだから。
 リーティスはため息をついた。



「14、5歳の女の子? ああ、アリアちゃんかい? 昨日この村に来たんだよ。確かに変わったコさねぇ……あら、やだねぇ! 根はとびきりいい子だよ!」
 タスタ村で一番大きな宿屋を経営するアニー奥さんは、喋り出すと止まらない。
「最初は厠の行き方も知らないってのでたまげたけど――きっと、人里もない寂しい奥地で育ったんだろうね。それに、お芋の煮っ転がしを出したら、まるで生まれて初めて食べたみたいに感動していたんだよ、あの子」
 独りで照れながら、話し続ける。
「まぁ……お芋の煮っ転がしなんてあり触れてるけど、アタシが作るのは村で一番だもの。無理もないさねぇ」
 聞いてもいないのに、話は続く。
「明後日お迎えの人が来てしまうから、最後の夜までは居られないかもってので、乙女の役は辞退したんだけれどね。残念な話だよ。ウチでもっとゆっくりして行けばいいのに――」
 放っておいたら、このまま一日でも話し続けるのであろう。世の元気なおばさんほど、この世で強い者は、ない。



 少女は、背に一本に結わえた若草の髪を流し、濃い灰色の瞳で、吸い込まれるように空を見上げていた。雲の破れ目から、申し訳程度に青空が見える。
 少女の傍には、1人の少年が居た。目が大きく童顔だが、歳は、青年と言って良いかもしれない。
「……ねぇ、あれが――ほし?」
 唐突に、少女が口を開く。彼は、戸惑った。
「星??」
 少女の眼差しが、天から少年に移る。
「うん、ほし。お空にあって、白く光るのでしょう」
「いや、あれは――……」
 改めて視線を上にやるが、やはり星など無い。
「もしかして……雲の事言ってるのか?」
 少女は、さも不思議そうに首を傾げた。

「ごめんなさい……私、とても変な事を言ったわ」
 そう言って瞳を上げた少女の顔は理知的で、とても、先の発言がその口から飛び出したとは思えない。
「あれは、雨を降らせる雲なのね」
 教えずとも、彼女はそう言った。物事を知らないのではなく、よくよく聞くと、言葉と現物との認識の乖離が激しいのだ。
 その答えは、意外にも早く、彼女自身の口から伝えられた。

「生まれた時から、目が見えないの。あ、でも、暗いか明るいかは判るんだよ」
 聞いたとき、ライアは、ショックで声が出なかった。
「高名なお医者様にね、治療していただいたの。――だけど、完全に治すことはできなかった。多分、数日で、また私の目は閉ざされてしまう」
「そんな……」
 アリアは、力強く言った。
「だから、それまでにね、一度でいいから、星が見たいんだ」
 その目は、真っ直ぐに空に向けられている。
 これまで目が見えなかった彼女には分かるまいが、これは崩れる空模様だ。一度降り出せば、数日間は止まないかも知れない。
 それが判らないから悲しい顔をしないアリアが、ライアにとっては余計に悲痛だった。
 無邪気に、彼女は言う。
「私、嬉しいんだよ。見えなくなっちゃう事よりも、こうして一度でも見られた事の方が、ずっと嬉しいの。だって、今はこうやって、目の前の人の顔を見ながら、話ができる。見えなくなっても、声と、顔は、忘れない」
「アリア……」
 慰めなどではなく、自身の切な願いして、その言葉は出た。
「晴れると、いいな」
「うん!」

 その夜は、アリアも普通の少女達と同じように祭りを楽しんだ。お祭りの料理を食べながら、歳かさの女達から村の伝統を伝え聞いたり、村の少女に混じって恋占いの仕方を教えてもらったり、ライアやフェリーナと一緒に露店を回ったりもした。
 そして、ぽつぽつと雨粒が落ち始める頃、丁度、宴はお開きになった。


 アリア本人に口止めされたので、彼女の目の事は、誰にも話さなかった。
 ただ、もやもやした気持ちが募って、外を打つ雨の音が、ライアの気を滅入らせた。
 祭りは今日で4日目。今日は夜まで降り続きそうな気配だ。
 それでも祭りは中断しない。夜には盛大に火を焚き、雨ならば会場を屋内に移して肉や酒を振舞うため、調理班の女達は仕込みに大忙しだ。
 植物の葉や鳥の羽で飾った鎧兜を身につけた男達は、各々の武器を手に、談笑している。槍に手斧に弓と、武器の種類は様々だが、皆一様に、赤や緑や黄色の陽気な色彩で彩られていた。
 中には、早くも酒が入っている者もいるようだ。
 その中に混じって、村人とは違う目立たない服装の黒髪の剣士が、顔色一つ変えずに酒を啜っていたのを見た気がしたが、彼の場合、ザルなので放っておく。

 リーティスの芝居も、明日の本番を前に、だいぶ板についてきたようだ。
 2、3の細かい間違いを除いては、全ての台詞を空で言えるようになっていた。
「やるわねー」
「お疲れ様。邪魔するよ」
 訪ねて来た仲間の3人も、練習の最後の方を聞き、その前進ぶりを褒めた。
「明日の本番、頑張って下さいね。はい、差し入れです」
「ありがと」
 リーティスは、受け取ったバスケットの布を開いた。中からは端を餃子のように折ったパンのような物が出てきた。
「これ……なに?」
「ここでは、大きな行事の時に食べるんだそうです。炒めた葱と挽肉を、バターを使った生地で包んで焼いてあるんですよ」
「フェリーナお手製よ〜」
 因みに、このお姉様は何もしていない。いや、何もしていないから、食の安全的には太鼓判を押せるのだが。
「上手く、できてるといいんですが。あ、どうぞ召し上がって下さい」
「うん、いただきます」
 そうして、ランチを兼ねた休憩の途中で、アルドが言った。
「そうだ。リーティス、これ」
「えっ?」
 アルドが寄越したものが意外で、思わず呆けた返事をしてしまう。それ自体は見慣れすぎた自分の持ち物で、昨日もビゼスの強制特訓で振り回していたのだが。
 緊張感を和らげるように、アルドが微笑む。
「この季節、たまに凶暴な獣が紛れ込むって聞いてね。用心。」
 野猿か猪でも出るのだろうか。一人の時を考えると、剣くらい持っていて損はない。
 そこに、いきなり後ろからお姉さまが抱きつく。
「まぁ、何かあったらこの私が守ってあげるけど! んもー、可愛いんだからっ」
 どんだけ好きなんですか、あなた。
 ビゼスと言い、ウィリアといい、ふとした瞬間に、リーティスを小動物のように扱っている節がある。多分、気のせいではなかろう。
「や、やめて……」
 首が絞まりかけてリーティスが訴えるが、ウィリアは離さない。あまつさえ頬ずりまでしている。愛情表現が、完全に、幼子や犬猫に対するそれだ。
 余談だが、タスタ村は水資源も豊富で、祭事の期間くらいは風呂を焚く余裕もある。美と健康に余念のないウィリアは、良い匂いがした。
(ぅぅ……嫌じゃ、ないけど――ちょっと苦し……)
 ウィリアの乱入でうやむやになってしまったが、リーティスは、アルドが剣を持ってきたのには、意味があると信じていた。
 だから、夜になるまで、屋内で劇の稽古を続ける間も、ずっと傍らに剣を置いていた。

 夜は、雷を伴う大粒の雨になった。



「おぉい、出たぞお!! 西だぁ!!」
 村の野太い中年男の声が、雨音に負けじと響く。屋根の下、雷鳴と競うように太鼓が轟いていた。――戦の太鼓だ。
「早く! こっちだ!」
 女や子供は、誘導されて村の家屋で一番広い集会所に避難する。
 冬も深まり、夜が一年で最も長くなるこの日。それを祭りと重ねたのは、偶然ではない。長年の知識から、カピラという野生動物の気性が荒くなり、人の村にまで押し入って来るのは、一年の中でも、この季節の、昼と夜が同じになる日とその前後数日と判っていた。
 ……そう、この祭りは、月の木の精霊を崇め、カピラから村を守護する祭りだ。
 だから夜通し火を焚き、男達は酒を飲み、祭りに興じて士気を上げ、女達は外部の手練を引き止めるため、着飾り、酒と馳走でもてなすのだ。
(くっそ……。本当に来ちまったのか――)
 ライアは、事前にアルドから祭りの裏の意味を聞いていた。だから村の中でも剣を手放さなかったし、必要以上に気を抜く事はしなかった。
 以前は毎年のように死傷者が出ていたが、最近は外部からの手も増え、武器も改良されたことから、軽いけが程度で済んでいる年もある。殊に、月の木の花が早咲きで満開になった年などは、月の木の花粉を倦厭するカピラは現れず、村人達は、月の木の精霊に感謝を捧げるのであった。
 一方で、月の木の開花が遅いと、多大な被害が出ることもあり、ここ十年の間で、一度だけ、死者が二桁に届いた年もあった。
 集会所に避難した、痩せた老婆が漏らす。
「今年は、西の川辺の若い木も、まだ蕾じゃったのぅ……」
 その横で、若い村娘が、膝を付き、両手を祈りの形に組み合わせた。
「ええ――どうか、皆が無事で戻りますように……」
 集会所の中では、戦いに赴いた男達に檄を飛ばす威勢の良い女も居れば、恐がる子供を抱く母親も居た。フェリーナは、不安を抱えた村人を励ましていた。そこに、リーティスやウィリアの姿はない。
 戸口では、雨を避けながら、15、6に見える少年が、冷たく目を細めている。
(クソ鬱陶しいっての。弱いガキも、女も、萎びたジジィババァも――この雨も……!!)
 紫の瞳が稲光を白く反射した瞬間、その手から雷光が走った。
 集会所のすぐ外、茂みの後ろを撃った後で、彼は低く呟く。
「くたばれ……」
 茂みの裏で、ドサリと小型のカピラが倒れた。
 大雨のせいで暴れ回れない鬱憤を晴らさんと、紫の瞳は、雷雨の屋外を睨み続けた。



「早く、中に!」
 アリアの背を押し、自らも室内に入る。
 雨が降り出すのと同時、カピラが村を襲い始めた。集会所とは対角の地域に居たライアは、腰が抜けてしまったアリアに手を貸しながら、その場の判断で、近くの家屋に逃げ込んだ。比較的頑丈な造りで、戸を閉めると雨風の音は遠くなった。
 遠くで、村の男達が団結する雄叫びが響く。
「…………」
 ひとまず安全を確保したところで、ライアは逡巡した。アリアがまともに走れるまで回復したら、雨とカピラの中を突っ切ってまで、集会所に避難すべきだろうか。ひょっとすると、ここで騒ぎが収まるのを待つ方が良策かもしれない。
 アリアは、色が抜け落ちてしまったような目をしていた。
「怖い――……」
 それまで、考えた事もなかった。樹は土に『還る』が、『死ぬ』事はない。
 はじめて、怖いと思った。人間は死に恐怖する生き物なのだと、感じた。
 目を閉じる。闇。今まで自分が居た世界。……いや、違う。何かが抜けている。――『魔力が嗅げない』。
(そう――人間は、目が見えるけど、魔力を嗅ぐことはできないのね……)
 自分自身を抱きしめるようにしていた腕を解き、すっ、とアリアは立ち上がった。
「――アリア?」
(人は死ぬ。死ぬのは怖い。一度失われたら、戻って来ない。――私は、花を咲かせなきゃ……だから――!)
「行かないと」
 ライアが、両手を広げて扉を阻む。
「な!? 駄目だ、今は、外に出ちゃ」
 アリアの濃い灰色の瞳が、ライアを見た。
「……聞いて、くれる? わたし、ずっと黙っていたけど――」
 現実感を伴わない、あまりにも透明な声が、別れの理由を告げた。

「人間じゃ、ない……? 信じられるかよ、そんな……」
「村の西に、月の木があったでしょう? お祭りが見たいばっかりに、あの木の精霊であるわたしが、抜けちゃったから。だから、まだ、ああやって花が咲かないの」
 どちらにしろ、人間の姿で居られるのはあと一日くらいだった、とアリアは言う。
「待てよ……」
 俯いたまま、低くライアが言う。
「まだ見てねぇだろ? 星――……アリア、星空が見たいって言ってたじゃないか……っ」
「うん――。でも、それはわたしの我侭。見られなかったのは残念だけど、わたしはあの木の精霊として、生まれた時から近くにあるこの村を――まもりたい」
 どうしようもなかった。彼女の意志は固い。おまけに、この雨で花粉が遠くに飛ばない事情もあって、このまま放っておけば、カピラに襲われて犠牲者が出る可能性は高い。
 自分は結局、アリアに星を見せてやることができなかった。『晴れるといいな』……そんな、無責任な言葉を投げておいて。
「ごめ――いや、」
 俯いたまま言いかけて、ライアは顔を上げた。
「「 ありがとう 」」
 お互い、重なった声にきょとんとして、それから、小さく笑を立てて笑った。
 ライアが別れの握手に手を伸ばし、アリアも腕を伸ばしてその手に触れる。
 灰色と紅色の瞳が交わった。
「お願い。私と一緒に、村を――」

 まもって

 そう聞こえたと思った瞬間、アリアの姿はかき消え、大きな白い花びらが一枚、床の上に残されていた。

 戸口を開け放ち、ライアは雨の中を西へ走った。村の入り口では、まだ男達が奮戦している。
「――!!」
 ライアは見た。雷雨の中、白く浮かび上がった満開の月の木の花を。

 アリアとの約束を果たすため、ライアは剣を振るった。ワイスデールに程近いこの場所は、雪こそ降らないものの、打ち付ける雨は体力を奪う。けれども、途中で相棒とも合流し、負ける気はしなかった。……月の木の乙女たる娘が、剣を振り回すのは如何なものかという話は、さて置いて。
 戦士の中でも一部の精鋭は、月の木の開花にカピラが怯むのに乗じて、陽動作戦に出ていた。
 アルドなどは、単騎、森の中で殺気立った獣達をかき回している。
 カピラを何体か鎮めたところで、別の男とかち合った。
「伊達男が、水浸しだな」
 からかうようなその声を無視して、アルドは背中合わせに大剣を構えて問う。
「どう? そっちも、随分やったみたいだけど?」
 後ろから、余裕の声が返される。
「は。私は、ただ酒の分は働くが?」
 言いながら瞬時に跳ねた体は、茂みから飛び出したカピラを両断した。



 祭り5日目。昨日の土砂降りが嘘のように、綺麗な青空が広がった。

 ライアが月の木の下に佇んでいると、フェリーナが小走りにやってきた。
「あの……ライア。アリアちゃん知りませんか? 朝から姿が見えなくって――」
「ああ、アリアは――」
 枝を見上げると、青い空を背景に、白い花が揺れている。
 清清しく、ライアは言った。
「帰ったよ。朝一番で家の人が迎えに来て。皆にもよろしくって、言ってた」
「そう、だったんですか……」
 残念そうに言うフェリーナの手には、小さな硝子球を幾つもあしらった、青いリボンが握られていた。
「? なんだ? それ」
「あの……、お祭りの最後の日は、女性達がこれを髪に付けるんです。これなら、アリアちゃんに似合うと思ったんですけど……」
 フェリーナの髪には、緑の縁取りの萌黄色のリボンが結ばれている。こちらは硝子球ではなく、組み合わせた細い枝が飾られていた。
「その年に作ったものは、その年にしか使わないそうなので、少し、もったいないですね……」
 少し考えて、ライアは言った。
「なあ――それ、この木の枝に結んどかないか? あと一日いられたら、ここから祭りを見たいって、アリアが言ってたんだ」
 フェリーナが少しだけ不思議そうな顔をして、青いリボンを手渡した。
 手を伸ばしてリボンを低いところの枝に結びつけ、見つめていた時間が長すぎたのだろう。あるいは、物思いに耽る顔が原因だったのか。
 フェリーナが、心配してライアの顔を覗き込んでいた。
「あの……まさか、アリアちゃんは、昨日の襲撃で――……」
 悲痛な表情で口ごもったフェリーナに、ライアは弁解する。
「違うんだ。違うん、だけど……。言っても、信じてもらえないよな――こんな話」

「――そうですか」
 全てを聞いたフェリーナの声は落ち着いていた。ライアはそれを、錯乱している自分に対する医者としての冷静さと受け取ったが、違っていた。
「……信じます」
「……え?」
 目の前でアリアが消えたライア自身ですら、信じられないような話なのだ。ライアは耳を疑った。
 フェリーナの、海の色をした澄んだ瞳が、こちらを見ていた。
「何となく、解るんです。その人が持っている魔力の感じ……――アリアちゃんは、今まで会ったどんな人とも、違う感じがしました。ずっと不思議だったんですけど――アリアちゃんは、この木の精霊さんだったんですね」
「…………うん」
 二人は並んで、風に揺られる月の木を見た。



 陽が沈む頃に始まった劇の公演は、盛況のうちに幕を閉じた。不幸にも、カピラの襲撃の最中に持病が原因で亡くなった老人が一人いるが、今年はそれ以外の被害は出ていない。昨夜の一件で、勇ましく戦うリーティスの姿に惚れたファンも多く、公演終了後、着替えを済ませて出てきたリーティスの周りには、ちょっとした人だかりができていた。
 また、別の一角では、酒宴にウィリアを誘って口説こうとする猛者もいた。

 宴の席を抜け出し、村の外れにひとり立ったライアは、星空に向かって両手をかざした。手の内には、アリアが消えた時に残した、白い花びらが載っていた。
「見えるか……? アリア……」
 手が届きそうな、幾千の星屑。昨日の襲撃がなければ、自分の隣に、アリアはいたのだろうか。
 もしかすると、何事もなくとも、夜になる前に消えてしまったかもしれない。人為らざる彼女は、もとより、人の姿を長く保つ事はできなかった。
 水資源の豊富なスロウディアならともかく、内陸の人間には罰当たりと評されるその言葉を、ライアは誰にともなく吐いた。
「雨の、ばか野郎――」
 カサリ。
 草を踏む音に振り返ると、そこに居た人間と目が合った。
 開口一番、不機嫌そうに言う。
「ちゃんと見た? あれ、全部覚えるの大変だったんだからね??」
「え、ぁ、何? ――ああ、あれか。見た」
 身も蓋もない返事をすると、非難するようにぼやく。
「……やっぱり、ろくに見てなかったんでしょ。……いーけど」
 全然良くないオーラを醸しながら、拳を握っている。
(ぅわ、怒ってんじゃねーか。見たっつってるのに!)
「――行かないの? 今日で最後だけど」
 宴の方を見ながらかけた言葉に、星を見上げつつ、ライアは返す。
「ずっと騒がしかったからな。ちょっと休んでただけだ」
「あっそ」
「!?」
 服の端を引かれた感触があって、見ると金色のビーズを縫い付けた細いオレンジのリボンを結ばれていた。
「なんだよ……」
 猫じゃないんだから。そんなもん付けられても。
「……別に。頭に付けとくの邪魔だから。要らないならそこの川にでも捨てればいいでしょ!」
「はぁ??」
 しかし、リーティスはそのまま勝手に一人で祭りの輪の中に帰ってしまった。
(あいつ時々意味わかんねーよな……)
 しばらく星を眺めた後、月の木の根元にそっと花びらを置き、アリアに別れの挨拶を済ませると、ライアは、宴も酣の会場に足を運んだ。

「――あら? 貴女リボンは渡せたの?」
 席に戻ったリーティスから村の男共を引き剥がし、尋ねたウィリアの髪には、先程までしていた蝶を思わせる黒い艶やかなリボンが無い。
 妙に両肩に力が入ったまま、リーティスは、真っ赤になって地面に視線をやった。
「かっ……川に捨てた――」
「ちょっと!? 冗談でしょうッ?」
 ウィリアにしては珍しい、頓狂な声。
「どうかしてるわよ!? 酔ってないでしょうねえ!? 祭りは楽しむものなのよ!! 若さを謳歌しないでどーするのっっ」
 ウィリアの力説。彼女の方が、よほど性質の悪い酔っ払いに見える。いや、実は全く酔っていないが。
 長机の端では、テーブルに肩肘を突き、開いた片目でそちらを盗み見ながら、ビゼスがそっちの方面では進歩の無い弟子を、やれやれと眺めていた。

 ライアが戻ると、締めに近づく祭りの広場は、人で犇めくダンス会場と化していた。若者から中年を中心に、夫婦やら、彼氏彼女、友達同士やらで、男女でペアを作って踊っている。無論、村の外の人間も参加可能で、ちゃっかりどこぞの村娘と踊っているビゼスを見つけた時、ライアは青ざめて、かなり必死にウィリアの姿を探した。
 何か、とてつもなく恐ろしい事が起きる気がしたのだ。
(村娘、祭りの夜に氷漬けの謎の変死! なんて洒落になんねーーーーっ!!)
 だが、お姉様はお姉様で、軟派してきた男達の中からイケメンを選りすぐって踊っていた。案外、そこのところは割り切っているらしい。ライアはどっと疲れた気分だった。
「ナニやってんの〜?」
 踊りなんて興味ありませーん、な態度全開の生意気少年を反射で睨み、ライアは返す。
「お前……こんな時まで冷めてんな」
「そうそう、どこかの誰かさんと違って、オレ大人だし。祭りくらいではしゃいだりしねーっての」
「それ、お前んとこのねーさんに言ってやれ。ぜひ」
 『祭りは、私という美の女神を求めているのね!』という謎のテンションで参加している彼女である。
 そこで、ライアはぐいと腕を捕まれた。
「――はい?」
 振り返ると、禿頭の筋肉男が、ライアの腕をつかんで人の好い笑みを浮かべていた。親指で広場を指しながら言う。
「ほらあんちゃん! 早く混じりなって」
「いや俺はいいです踊れないんで!」
 かなり嘘だが、誰も、ライアを王宮の舞踏会に放り込んでも一目置かれるレベルだとは見抜けまい。
 アリアにでも誘われたなら否はないところだったが、相手もいない。
「またまたぁ! そのリボンくれた嬢ちゃんとこ、早く行ってきな! ん、それとも相手が熟女ガールで困ってんのかい? はっはっは」
「げほっ」
 背中をバシバシ叩かれて、ライアはむせた。
「……?」
 男が去ってしまい、怪訝な表情のライアは、ウィルと目が合った。
 ウィルが、表情を変えずにぽつりと言う。
「それ、踊ってほしいヒトに渡すんだってさ?」



「なっ、なんで捨ててないの!?」
 相当に慌てふためくリーティス相手に、ひとまずぼやく。
「捨てろ、とは言わなかったじゃねーか……」
 片手で赤い髪をかきながら、もう片方の手でリーティスの手を引き、連行する。
「あーほら。行くぞ。知らないけど、そーいう決まりらしいし」
 うしろでぎゃーぎゃー喚かれようが、耳には入れない。何と言うか、手を引いているこの状況は、普通に自分の方が気恥ずかしい。
 会場に着いてしまうと大人しくなったリーティスが、上目遣いに緑の瞳で睨んだ。
「ちゃんと、リードしなさいよ……?」



 祭りの楽曲が遠く聞こえる村の端。
 澄んだ月の光に照らされて、花をつけた、ほっそりした木が、風と戯れ、少女のくすくす笑いのように、揺れた。

〜追記〜
 後で読み返して自分で“なんじゃこりゃぁああ!!”って、あるものですね。
 春分の日にしちゃうと時期的に矛盾するので(もとからワイスデール前後の話として書いてたはずなのに……)、筆者特権!とばかりに加筆訂正しました。

(2017/1/15 徒然に。 翠【SuI】) 
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